第9話 菊幢丸の新たな一日(朝の部)

  次の日から菊幢丸の日常は変わった。

 まず、剣術は当初の予定通りに塚原卜伝に習う事になっている。

 卜伝の修行方法を聞いて、精神修練にも有効と判断したキサラは菊幢丸の肉体と精神面を鍛えるのを彼に任せる事にした。

 その間にキサラが何をしてるかというと、朽木谷城の書庫にこもって勉強中である。

 彼女の翻訳魔法は便利だが、魔法である以上魔力を使う。それは勿体ないと、独力でこの国の言葉をマスターしようとしているのだ。

 翻訳魔法を併用しての勉強は効率がいいらしい。教師要らずだそうだ。


「良いか、若君。敵は外にあるだけではないぞ。常に内に向けて意識を持たれよ。焦りや恐怖、苛立ち、様々な感情が溢れ出る中、常に平常心を持たねば、そこを突かれ敗北を喫するであろう」


 現在、卜伝は木刀を構え菊幢丸を威圧していた。

 ただ、突っ立ているだけなのに、今卜伝が言葉にした感情が生まれ、菊幢丸を苛める。

 これが剣聖か。

 いや、剣聖の称号は後の世に付けられたって聞いた気もする。

 けれど、幾多の死合いで無敗を誇った人物の放つ気配はそれだけで他を圧倒する。

 菊幢丸は気が付いていないが、昨日までの彼なら威圧されることはなかっただろう。

 良くも悪くもキサラと契約した事でそう言った常人には感じ取りづらい物を明確に把握できるようになっていたのだ。

 はっきり言えば、それだけで何年分もの剣術訓練をしてきた成果を獲得しているともいえる。

 その結果が道場の床にできた汗の水溜まりだ。


「これくらいで良かろう。正直申せば驚きを通り過ぎたわい。若君くらいの年の者であれば、血気盛んに一太刀、二太刀浴びせようと挑みかかってくるものなんじゃがのう」


「恐縮です」


「神童とは聞いておったが、これは将来が楽しみなようで恐ろしくもある」


 頭を下げる菊幢丸に卜伝の声が掛る。

 これに興奮を覚える。

 今は何も出来なかった。

 だが、この人に今の段階でここまで言わせることが出来たともいう。

 このまま強くなっていけば、もしかすると歴史上最高の剣の達人になれるかもしれない。

 三好三人衆なにするものぞ、と意気込みを見せる。

 ただ、悲しいかな。場の雰囲気、自分の妄想に塗れて、今の環境のまま永禄の変が起こっては人生として負け組だというのに残念ながら気づいていなかった。


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「これが文字か? どう見てもミミズがのたくったようにしかみえないな」


 城の書庫にキサラの呟きがした。

 どうやら草書体と呼ばれる形式で元はもっと見やすい楷書体なる文字を崩して書いたものらしい。


「何故、わざわざ、読みにくくするんだろうな? あれか、時間がなくて早く書かなきゃならないからとかか?」


 どの様な文字でも人が書けば癖字になって形は崩れるが、それでもな、と思うキサラ。

 どうするか。

 読み比べ表でもあれば簡単に覚えられる自信はあるが、ここにそれはない。解読魔法で文字を解読していくしかないか?

 それでもトータルでかかる魔力コストはそれなりになるか?


「さて、どう手を付けるべきか……」


 何気なく手に取った本を開く、そして、気づく。この文字はさっきの本にもあった文字だ。

 当然である。どんな書物も同じ文字を使わないで書けるわけがないのだから。


「そうだ。それならば、だ」


 キサラは先ず、解読魔法を本にかける。

 普通は自身にかけて、どんな言語も理解する魔法だが、少し改良すれば本を読む人間全てがその内容を理解できる仕様になるのだ。

 書かれてる文字はそのままに意味だけが理解できる。

 それから、またキサラは魔法を使う。


「我、この書の内容を欲する。その全てを我が脳裏に刻み込め」


 するとその本の文字が全文そのままキサラの記憶に転写された。


「よし、これでこの本は文字ごと理解できた。次はこの本を見てみるか……」


 適当にとった本を開いて読んでみると、ところどころに虫食いがあるような感じだが読むことが出来た。


「こんなものか。あとは虫食いを埋めるだけの労力ですむな」


 現代の考古学者や史書家が発狂しそうな魔法であった。

 こうして朽木谷城の書庫の書物を諳んじられるまでに文字に精通するまで菊幢丸の朝の剣術稽古が済むまでに終わらせるキサラであった。

 なお、その書物の中に明国の書物までも混じっていたのはキサラも知らない事実だった。


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 早朝の剣術の鍛錬が終われば朝餉の時間だ。

 菊幢丸は、父義晴と母慶寿院と供に食事を取る。

 普段はこの三人だけなのだが、今日は別にもう一人いる。

 そうキサラだ。

 もっとも、彼女の前に膳はなく、菊幢丸の隣に座っているだけである。

 そして、いつもと違う事がもう一つ。

 3人の前に置かれた膳から湯気が立ち上っていることである。


「よし、菊幢丸。解析の魔法を使ってみろ」


 なお、キサラと慶寿院は初対面で、挨拶こそ済ましたが、それ以上ではない。

 将軍家嫡男に対しての傍仕えの態度でないことに眉根を顰めるが、もとより将軍に対しても姿勢を変えなかったキサラは、その奥方が相手でも態度を変えることはなかった。


「わかった。”解析”……うん、全員の御膳に毒物は入ってないよ」


 そう言われても、と戸惑う両親に菊幢丸が説明する。

 ここに来る前に、トリカブトの毒を入れた椀を一つ用意して、それを九つの無毒の椀と混ぜ合わせ、その中から毒入りの椀を当てた事。それを都合10回繰り返して全て正解させたことを語って聞かせた。


「なんと。そうであったか」


「さあ、父上、母上せっかくです。冷めないうちに頂きましょう」


 さて、ここからは家族団欒の場。自分は早々に姿を消そうとキサラは席を立った。

 去り際に「ゆっくり食べると良い」とだけぶっきら棒に言い放って。


「ああ、うむ。うむ。飯とは温かいうちに食べるとここまで旨いものであったのか」


「ええ。そうですわね……」


「菊幢丸には感謝せねばならぬな」


 義晴は一端、箸を置く。

 それを見た菊幢丸はすかさずに動いた。


「父上、この度の仕儀、実はキサラに申された事なのです」


「ん? キサラ殿に、どういうことか?」


「旨い物を旨いままに食べられないのは人生の半分を損している。なれば、菊幢丸よ、お前は新しく得たその力で親孝行してやりなさい、と」


「なんと、あのキサラ殿がその様なことを……」


「はい」


 神妙に頷く菊幢丸。

 だが、しかし、大嘘であった。

 いや、セリフの前の部分は確かに口の端に上った。ただ、親孝行の下りは菊幢丸の完全な創作である。

 キサラはあの態度と言動を崩さない。故に要らぬ敵を作ることも十分に考えられる。

 だから菊幢丸はそれを少しでも緩和させようと一計を案じたのだ。

 

「ふむ……人の為人は普段の言動でだけで判断するものではないようだな」


 上手くいった。内心でガッツポーズ。

 食事の件の真相は、「キサラはいいよね、温かいうちにご飯が食べられて」「当たり前だろう。誰が好んで冷めた物を食べるものか。冷製料理ならともかくな」「いや、僕たちは毒見が済むのを待つからね」「ああ、そうか魔法がない世界だと毒を食えばそれで御終いだったな。なら、料理に解析の魔法を掛けて毒の有無を確認すればいい」という流れがあっただけである。

 つまり菊幢丸としても冷めた味気のない料理が嫌だから愚痴った、ただそれだけなのだが、上手く印象操作に利用できたので大満足であった。

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 細川万吉。後の細川藤孝は、突然現れた異国の女に興味を抱いていた。警戒していると本人は申し立てているが明らかに好奇心丸出しでキサラに詰め寄っていた。


「貴女は祖国では何をしておられたのでしょうか?」


 魔法使いだとは聞いている。

 魔法とは摩訶不思議な力だとも教わっている。

 であれば、その魔法で何をなしていたのか、それを知りたかった。

 丁度朝餉を終え、菊幢丸の食事が終わるまでの待機時間。同室にいた金髪碧眼の女に尋ねてみた。


「う~ん、万吉だったっけ? そんな事知ってどうするのさ?」


「いえ、将来将軍になられる菊幢丸様に共にお仕えすることになった者同士です。互いの事を知りたいと少々、思ったまで」


「自己紹介で言ってたね、アンタは菊幢丸の近習として幼いころから一緒に励んできたって」


「はい。ですので、私は貴女の事をもっと知りたいのです。菊幢丸様の魔法とやらの師を勤め、警護の任にも就くというあなたの事が」


「はぁ、生真面目なことで。そうだな……簡単に言うなら、ご飯を食べて、適当に遊びついでにふらついて、お風呂入って寝てた、だな」


 特に表情も変えずに宣うキサラに一瞬呆気にとられた万吉。

 だが、すぐに顔を紅潮させて思わず大声を上げてしまう。


「ふざけないでください! そんな言葉遊びのような事が聞きたいのではありません!」


「いや、ふざけてなんかいないさ。アタシの人生なんて所詮はその程度のこと。それより、万吉、アンタ、少し無礼じゃないか? 人の事を良く知りもしないくせに頭からアタシの言葉を否定するってのは?」


「貴女に言われたくありません!」


 そう言って、二人は悪い空気のまま押し黙ってしまい、それは菊幢丸がやってくるまで続いたのであった。

 そして、その時の事をキサラがいない場所で菊幢丸に憤慨しながら万吉は報告していた。告げ口ともいう。


「ほーん、そんな事がね」


 話を聞いた菊幢丸が顎に手をやって何やら考えている。

 この神童は、あの女の事をどう見ているのか、その評価が万吉は気になった。


「昨日、今日であまり僕も詳しくないけど、無暗な嘘や冗談を口にするタイ……人物じゃないと思うな。キサラが言うなら、その通りなんだろうと思うよ」


 その返答に万吉は顎が外れるのではと思うほどに驚いていた。


「菊幢丸様ともあろうお方があの女の言葉を鵜吞みにしてしまうのですか!?」


「まあ、聞きなよ、万吉。彼女はああ見えて……容姿は神懸ってるけど言動はちょっとあれなんだけどさ、実は凄い人なんだよ。何がどう凄いのかというと、言葉にするのは難しいんだけどね、キサラが事を成そうと動くときはとんでもない出来事が起きた時なんだ。僕らでもわかる例えなら、ここに三好軍が数万で攻めてきた場合とかでさ」


「な!? それは一大事どころではない話になりますぞ!」


「そうだね。そういう状況になって、彼女は本気で動いてくれるわけだ。だから、日がな遊び歩いているのは実はいいことなんだよ。その程度の事でキサラに対してムキになって突っかかっても掌で踊らされるだけさ」


 それに、キサラの遊び歩きが何なのかはわからないよね?

 菊幢丸は思った。

 何処かのご隠居様が漫遊している旅路の物語を。

 




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