世界が藍色に染まるとき

増瀬司

世界が藍色に染まるとき

そのとき彼は、まだ17歳だった。

 少年は郊外の町にある高校に通っていた。彼は剣道部に所属していて、いつも学校を五時過ぎに出ていた。

 少年は畑のわきの、舗装された道を歩いていた。その道のそばには、小さな用水路が流れている。

 周囲は畑と荒地だらけで、遠くのほうに住宅街が見える。それがグレーのシルエットのようになっている。

 少年はいつも、帰りは一人だった。剣道部の友人や先輩たちとは、帰り道が逆方向だった。


15分ほど歩くと、バス停にたどり着く。

 古いバス停で、小屋のような造りになっている。屋根の下にはベンチが置かれている。

 そのバス停は少し奥まったところにあり、手前は小さな広場のようになっている。地面はアスファルトで固められている。

 バス停の裏には、雑木林がある。その林から吹いてくる風は、夏でもどことなく涼しげだった。

 少年は、そのバス停のベンチに腰を下ろした。バスはとうぶんのあいだ来ない。ここでいう「とうぶん」というのは、4、50分ほどだ。都会とは違い、15分おき20分おきに来るというわけではなかった。

 少年はそのとき手持ちぶさただった。携帯電話は当時、すでに普及していたが、彼はまだそれを持っていなかった。なんとなく携帯を持つことに抵抗を覚えたし、なくても特に不便はなかったからだ (少年の友人たちは、そのことで不満を漏らしていたが。連絡が取りづらいという理由で) 。

 少年は遠くの景色をぼんやりと眺めていた。遠くには山々の尾根が、霞がかって見えた。青とグレーを混ぜたような色合いだった。

 彼は、近くの小売店の自動販売機で買った暖かいカフェオレを飲んでいた。



その少女と少年が出会ったのは、六月に入ってまもなくしてからだった。

 梅雨入りが始まったらしく、毎日のように雨が降っていた。

 少年は部活動を終えたあと、五時過ぎに学校を出て、いつものバス停へと向かった。傘を差し、畑のわきの道を通って。


例の小屋のようなバス停には、少女が一人座っていた。

 その少女は、少年の通う高校の制服を着ていた。紺色のブレザーだった。

 少年は、その少女を学校で見かけたことがなかった。違う学年の生徒なのかもしれない。同じ学年である可能性も充分あった。少年はふだん、同学年の生徒たちとすれ違う機会があまりなかったからだ。少年のクラスと、ほかのクラスは教室棟が違ったのだ。

 少女は屋根の下で、なにかの文庫本を読んでいた。

 少年は傘を閉じて彼女の隣に腰を下ろした。

 少女は彼のほうを一瞥したが、すぐにその文庫本に目を落とした。

 雨は降り続き、屋根をひたすら叩いていた。バス停の軒先からは、滴がポツリポツリと垂れていた。湿った冷たい風が、微かに吹いた。

 「なにを読んでるの?」と少年は、少女にたずねた。

 少女は顔を上げ、少年のほうを見た。

 彼女は目を大きくし、彼のほうを見ていた。透き通った瞳が、微かに震えていた。

 少し驚きすぎでは、と少年はやや戸惑った。

 少年はふだん、見知らぬだれかに (それも異性に対して) 話しかけることがほとんどなかった。しかしそのとき彼は、自分の直感に素直に従った。なにかが少年の背中をそっと押したのだ。

 「『風の歌を聴け』」と少女は答えた。

 「だれの本?」と少年はたずねた。

 村上春樹、と彼女は答えた。

 「好きなんだ?」と彼はきいた。

 「そうだね」と彼女は答えた。少しだけ警戒しているようなフシがあった。

 「どんなところが?」と彼は続けた。

 少女は少し考えたあとで、「他人になったような気分になれるところ」と答えた。「違う世界に行ったような気分になれるところ」

 「それはほかの作家の小説でも、条件は同じなんじゃないの?」と彼はきいてみた。その質問は、純粋な好奇心からだった。

 「どこか無機質なの。この人の小説の登場人物たちは」と少女は言った。「まるで生者じゃないみたいにね」

 そこが好きなの、と彼女は続けた。

 「ふうん」と少年は言った。「わからないな」

 しばらくするとバスがやってきて、バス停の前に停まった。少年はそのバスに乗った。少女の乗るバスは、どうやら別方面のようだった。

 いちばん後ろの座席に少年が座ると、バスはゆっくりと走り出した。バスのなかは二割ほどしか乗客で埋まっていなかった。そのほとんどは老人たちだった。

 少年は車窓から外の景色を眺めた。自分の横顔が窓に映っていて、雨水がそこをつぎつぎと伝っていった。

 町並みは、藍色に染まっていた。その景色は、少年の胸を少しだけ締めつけた。そして微かな痛みを感じさせた。彼にはそれがなぜなのか、わからなかった。

 少年はその景色をぼんやりと眺めながら、あの少女に対して少し好意のようなものを抱いていることに気がついた。

 彼はそのことをなるべく意識しないように努めた。しかしそれは、無駄な努力というものだった。



その日も雨が降っていた。

 少年は放課後、いつものバス停へと向かった。傘を差して校門を出て、畑のわきの道を通って。

 あの日の少女は、バス停の屋根の下にいた。やはり文庫本を読んでいた。

 少年が彼女の近くまで寄ると、少女は彼に気がついた。文庫本から顔を上げ、彼のほうを見た。


二人は、バス停のベンチに並んで座っていた。相変わらず雨が、バス停の屋根を叩いていた。

 少女は以前と同じように、村上春樹の小説を読んでいた。このまえ読んでいた作品とは違っていた。

 「落ち着くの」と少女は答えた。「この本を読んでいると」

 「どんなところが?」と少年はたずねた。

 「たとえば、雨の日の喫茶店の描写とか」と少女は答えた。「読んでいると本当に雨の匂いがしてくるのよ」

 ほかにも、深夜三時にアパートの外で鳴いている秋の虫の音だとか、部屋の窓から射し込む日曜日の冬の陽射しだとか、と彼女は続けた。

 「わからないな」と少年は答えた。

 「一度、読んでみなよ」と少女は言った。「わたし説明下手だし。それに文脈ってものもあるでしょう?」

 しばらくするとバスがやってきた。少年は少女に別れを告げて、バスに乗った。



あの少女に言われたから、というわけではなかったが、少年は部活動のない日の放課後、学校の図書室に立ち寄り、本を何冊か借りた。村上春樹の小説だった。彼女との話題が欲しかったのだ。

 少年は図書室で借りたそれらの本を、帰りのバスや自宅の自室で少しずつ読んだ。

 村上春樹のドライな文体が少年には心地よかった。個人主義的な主人公や物語にそれはあっていた (なにかにカテゴライズされるのを厭うような) 。そしてスラスラと頭に入ってくる。

 少年はあまり国語が得意ではなく、現代文を読むのがどちらかといえば苦手だったが、「この人の書く文章ならいくらでも読めるな」と思った。そして心の隅のほうで「こういう文章を自分でも書いてみたい」と思った。

 一方で、アメリカ・ナイズされたところが、少年には少し鼻に突いた。しかしそれを取り去ったら (否定してしまったら) 、きっと村上春樹の作品ではなくなってしまうのだろう、とも思った。それが彼の作品の (そして彼の) のアイデンティティの一部なのだろう。太宰治の小説から鬱々としたものを取り去ったら、太宰の作品ではなくなってしまうように (彼は教科書でしか太宰の小説を読んだことがなかったが……) 。



少年と少女は、いつものバス停にいた。

 雨はやはり降り続いていた。雨はバス停のまえのアスファルトの広場に降り注ぎ、そしてバス停の屋根を叩いていた。

 世界はやはり藍色に染まっていた。

 「村上春樹の小説以外にはなにか読まないの?」と少年は少女に尋ねた。

 「読むよ」と少女は答えた。そしてほかの作家の名前を挙げていった。ほとんど外国の作家だった。

 「日本の作家のは読まない?」

 少女は首を振った。「あまりね」

 「でも、村上春樹の小説は読む?」

 「あの人の小説は半分、外国文学だからね」と少女は言った。「なにかの記事で、『春樹の小説は技術的には外国文学的だけど、内容的には日本文学的』って書いてあったな」

 「君が外国文学を読むのも、『他人になれたような気分になれる』から?」と少年は彼女にきいた。「『違う世界に行けたような気分になれる』から?』」

 「そうだね」と少女は答えた。「同じような理由で外国の映画も見るね。なるべく古いのを」

 「君はたぶん、遠くに行きたいんだね」と少年は言った。「ここじゃないどこかに。あるいは過去に」

 少女は黙っていた。

 「そして君は、自分のことがあまり好きじゃない」

 少女は彼の目をジッと見つめた。少女の透き通った瞳がかすかに震えたように、彼には見えた。

 「そうだね……」と少女は言った。「きっとそういうことだね」そして小さく微笑んだ。

 しばらくするとバスがやってきて、バス停の前に停まった。少年は彼女に別れを告げてバスに乗った。



その後も少年は、バス停で少女と会って話しをした。

 少年は少女と会うことを日々の楽しみとしていた。変わり映えのしない日々のなかで、彼女と会って話しをする時間だけが、彼にとっての特別なそれだったからだ。

 少年は部活動のない日は、学校の図書室に寄り、休日は近所の図書館へとでかけた。村上春樹の小説ではなく、外国の小説を借りることもあった。

 夜、少年は、自室で本を読むことにくたびれると、イスの背にもたれ、正面の天井と壁をぼんやりと眺めた。

 少しして少年は立ち上がり、窓際まで歩いていった。厚いカーテンを開き、窓を開けた。

 雨はまだ降り続いていた。少年は雨の冷たく澄んだ空気を吸い込んだ。

 少年は、夜の町並みを眺めた。窓からは自動販売機の灯りが見えた。少し離れたところに、庭がライト・アップされた家があり、その灯りが草木を照らしていた。

 彼は、あの少女のことを考えた。

 不意になにかが、少年の脳裏をかすめた。違和感を覚えた。しかし彼には、それがなにかがわからなかった。



六月が終わりかけていた。

 雨はまだ降り続いていて、少年と少女は屋根の下のバス停でやはりバスを待っていた。

 「月並みな話だけれど」と少女は前置きをしてから言った。「自己肯定ができないの」

 少年は黙っていた。

 「自己受容はしているの。『これがわたしなんだ、どうしようもないんだ』ってね。ある種の諦めというか……」と少女は続けた。「だけど、肯定まではできない」

 「それはなんでだろう?」と少年は言った。

 「そういう価値観の世界で生きてきたからだね。首まで浸かって」と少女は答えた。「その価値基準が、心と身体に染みついてるの」

 雨はやはり降り続いていた。それは永遠に降り続けるかのように少年には思えた。あるいは少女にも……。

 「それでも僕は、君のことが好きだよ」と少年は彼女に言いたかった。だけど、それを言うことはできない。それはまだ早すぎる。きっと。

 少年はまだ、人と人との別れが不意に (そして無慈悲に) やってくることに慣れていなかった。そのような後悔をした経験があまりにも少なかった。少年はまだ若すぎた。頭ではわかっていても、心や身体のレベルでそれを認識できなかった。

 少しして少年の乗るバスが、バス停の前に停まった。

 「それじゃあ、また」と少年は言った。

 「さようなら」と少女は言った。


少年はいちばん後ろの席でバスに揺られていた。

 車窓の外を見た。自分の横顔が窓に反射し、雨水がそこを伝っていった。

 もう彼女には会えないのかもしれない、と少年はふいに思った。直感だった。

 


七月に入ると空は晴れ渡り、初夏の陽射しが、地上と人々に照りつけた。連日の雨が嘘だったかのように。

 少年は部活動を終えると、バス停へと向かった。いつもの畑のわきの道を通って。

 空は塗り込めたように青く、くっきりとした白い雲が浮いていた。木々の緑が青々と生い茂っていた。用水路を流れる水は、太陽の光を受けてキラキラと光っていた。そのなかを名前の知らない魚が泳いでいた。


少女の姿はバス停にはなかった。

 少年は近くの小売店の自動販売機で冷たいカフェオレを買い、バス停のベンチで飲んだ。

 少女の現れる気配はなかった。

 バスがやってくると、少年はそれに乗った。


翌日も少女は現れなかった。

 少年はバス停で一人バスを待っていた。

 夕方の六時近くだったが、空はまだ青く、巨大な入道雲が、山々の尾根の向こうに聳えていた。

 セミの声が辺りから聞こえていた。もう、梅雨の季節は終わったのだ。



少年は夏休み、剣道の部活動中に、ある話を友人から聞いた。

 あのバス停の裏の雑木林で、数年前にこの学校の女子生徒が死んだのだ、と。それは自殺だった、と。

 少年はその理由をその友人にたずねたが、彼はそれ以上のことはなにも知らなかった。

 「ただの噂だよ」その友人はそう言って、水筒の水をあおった。そして、黄色いタオルで額の汗を拭った。なんでそんなことを追及する?とでも言いたげな表情だった。

 少年がまだなにかを言いかけようとしたとき、体育館の隅のほうに置かれたスポーツ・カウンターが、休憩を終えるけたたましい音を館内に響かせた。


少年はあの少女のことを思った。彼女がバスに乗る姿を、一度も見たことがなかったことを。そして彼女が、いつも傘を持っていなかったことを……。

 《君はたぶん、遠くに行きたいんだね》と少年は言った。《ここじゃないどこかに。あるいは過去に》

 《そして君は、自分のことがあまり好きじゃない》と彼は続けた。

 《そうだね……》と少女は言った。《きっとそういうことだね》そして小さく微笑んだ。



季節が秋となり、枯れ葉が木々から舞い落ちるころ、少年はいつものようにバス停へと歩いて向かった。

 畑のわきの道にも、枯れ葉がところどころに落ちていて、少年がそれを踏むたびにクシャッと乾いた音を鳴らした。

 畑のとなりの荒地で、農家の人が焚き火をしていた。集めた枯れ葉を燃やしているのだろう。白い煙が、北風によって遠くのほうへと流されていった。

 少年はバス停のベンチで、バスが来るのを待っていた。

 バス停のまえのアスファルトの広場にも、枯れ葉が落ちていて、それがときおり吹く冷たい風によって舞った。

 少年は本を読んでいた。ほかにすることがなかったからだ。遠くの山々の尾根はもう見飽きてしまったし、相変わらず携帯電話は持っていなかった。持とうとも思わなかった。ほとんど頑に。 (友人たちがそのことについて不満を口にしても、少年としてはどこ吹く風だった) 。

 少女との話題を作るために読書をしていたのに、いつの間にかそれが彼の習慣となっていた。


秋の冷たい雨が降ると、少年は少女とまた会えるのではないかと期待した。彼女はきっと雨の日に現れるのだ。

 しかし少女はもう、彼の前に姿を見せなかった。

 もう会えないんだ、と少年は雨の降るバス停で思った。もう会えない。


夜。月が蒼白く光り、その明かりが流れる雲を照らすようなとき、少年はよく散歩にでかけた。両親や兄弟を起こさないように。そういうとき彼は、居ても立っても居られなくなった。

 少年は誰もいない夜の町を歩いた。遠くからは、幹線道路を走るクルマの走行音が、遠い海鳴りのように聞こえていた。風の音に混じって。

 少年は、あの少女のことを思った。そのあとで、胸にかすかな痛みを覚えた。締めつけられるような。たまらなく悲しい気持ちになった。

 それでも少年は彼女のことを考えずにはいられなかった。一人で夜の町を歩かずにはいられなかった。その理由を、少年は (仮に誰かに説明する機会があったとして) 誰にも説明できなかった。自分自身にさえも。

 強いてあげるのなら、そのときだけは彼女をそばに感じることができたからかもしれない。

 そんなとき、夜の町並みはとても美しくみえた。街灯の灯りも、自動販売機の灯りも、遠くのマンションの灯りも、すべて……。

 もう会えないんだ、と少年はふたたび思った。もう会えない……。



青年は目を覚ました。

 バス停のベンチでうたた寝をしていた。

 そこは、学生時代に通ったあのバス停ではなかった。会社のそばにあるバス停留所だった。とても普通の。どこにでもあるような。

 会社から出たとき、霧のような小雨が降っていたが、それはまだ降り続いていた。バス停には屋根がついているので濡れずには済んでいた。

 青年は腕時計に目をやった。夜の11時過ぎだった。駅へと向かう最終のバスが、そろそろ来る頃合いだった。

 そのバス停から少し離れたところに高速道路の高架が走り、そこからクルマの走行音が聞こえていた。ゴオッ、と遮音壁によってこもった音が。

 町はすでに寝静まっていた。人の姿はどこにも見あたらなかった。ときどき彼の前を、クルマが横切っていくだけだ。


青年は少しして目を見開いた。遠くに人影を認めたからだ。

 そしてその人影は、あのときの少女に見えた。

 しかしその姿は、すぐに消えてしまった。

 疲れているんだ、と青年は思った。そして肩をすくめ、小さく吐息をついた。

 しかし彼女は微笑んでいた。その微笑はとても綺麗だった。とてもやさしかった。

 それだけでいい、と青年は思った。それだけでいい。

 世界は、また美しさを取り戻した。そのバス停の向かいにあるビルの照明も、道路に沿って並ぶ街灯の灯りも、遠くにある自動販売機の灯りも。まるで宝石のように。色取りどりの。

 やがて、最終バスのヘッド・ライトが遠くの暗やみに見えてきた。

 青年は文庫本をカバンに入れ、そのバス停のベンチから立ち上がった。

 そのバスが青年のまえに停まると、彼は乗車口からそれに乗った。

 彼がいちばん後ろの座席に座ると、バスはゆっくりと発進し始めた。

 青年はバスに揺られながら、少しのあいだだけ眠った。なにか短い夢を見た。

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