第三話 イヴォンの姿絵
__ヨスニル共和国サゥスホウ郡ドンクルート市__555年8月21日22時ごろ
ドンクルートは馬車での峠越えを待つ人々の宿場町だ。とりたてて珍しいものはないが、サホウ連峰西端にあたるこの地の雄大な景観に価値を見出し、避暑地として利用する貴族もあるようだった。そのおかげで近年豪華ホテルがいくつか開業し、わたしが今夜泊まるのはそのひとつウィルズマリー・ホテル。ウィルビー公爵家がオーナーということもあり、首都に住むレナードとソトラッカに住むアカツキは中間地点にあるこのホテルで落ち合って狩りを楽しんだりしているようだった。
革命後、元王族であるウィルビー公爵家がサホウ半島の突端に追いやられたのは、ソトラッカ郡を含む半島北部がサホウ連峰に阻まれて陸の孤島となっているから。トンネル工事はずいぶん前に着工済みだが、開通するのは二十年先と言われている。
したがって、ドンクルートからソトラッカに行くのは馬車で峠越えをしてソトラッカ鉄道に乗るのが一般的だ。しかし、それ以外の方法がないわけではなかった。ここから三十キロほど西にあるモルマ港とソトラッカ港の間を商用帆船が行き来しているのだ。とはいえ船内を飛び交うのは柄の悪い言葉と下卑た笑い声ばかり。帆船だから揺れがひどく、好んで船を選ぶ貴族はいなかった。
ただ、ひとつだけ例外がある。ここドンクルート市が避暑地となったことで、ヨスニル共和国とザッカルング共和国の間を行き来している客船プリンセス・オリアンヌ号がモルマ港に寄港するようになったのだ。しかし、貴族向け客船は運賃もそれなりに豪華な上に、モルマ港発ソトラッカ行きの便は一ヶ月に数本しかない。
「プリンセス・オリアンヌ号か」
ドンクルート駅の待合所で壁に貼られた運行表を眺めていたら、隣に座るアカツキが「乗りたいんですか?」とからかい半分に聞いてきた。
「乗せてもらえるなら」
「では、今度チェサに行くときはソトラッカからその船で行きましょう」
「ご冗談を」
プリンセス・オリアンヌ号には一度だけ乗ったことがあった。貴族学校に通っていた頃のことで、父に「船上パーティーに招待されたから一緒に行こう」と誘われたのだ。
コラール港から乗船し、ザッカルング共和国のエイルマ港に向かい、そこでパーティーを楽しんだ。ヨスニル国内の社交界とは異なる顔ぶれで、貴族の集まりにしては楽しく過ごせた記憶がある。あの時はケイ公爵夫妻も出席しており、翌日の新聞では『革命以来、初の公式訪問』と大きく報道されていた。
「アカツキ・ケイ様。準備ができましたのでご案内いたします」
待合所に入ってきた若いポーターがヒョイと帽子の鍔をあげ、わたしたちが立ち上がると、「お待たせしました。どうぞ」と先に立って歩き出す。
急行列車を降りてすぐは待合所も混み合っていたが、あれから三十分ほど待っただろうか。混雑を避けて荷物の受取所に最後に行ったせいで、駅を出るのもわたしたちが一番最後になってしまった。すでに改札口は閉じられ、ほうきで掃除をする駅員の姿がある。
「おや、オールソン卿もまだ駅にいたようですね」
アカツキが指さしたのは駅舎入口の郵便局だった。オールソン卿は旅行鞄を足元に置き、何か記入しているのは電報依頼書だろう。
「あちらの馬車です」
足を止めたわたしたちを促すように、ポーターが声をかけた。駅舎から出ると路端に停まった馬車の傍で御者がペコリと頭を下げる。この暑い真夏にきちんとした身なりで、辻馬車ではなくホテル所有の送迎馬車のようだった。
荷物はすでに車内に積まれており、ポーターはアカツキからチップを受け取ると駅舎へ駆け戻っていく。入れ違いに旅行鞄を提げたオールソン卿が出てきたが、眼鏡をかけておらずわたしたちには気づいていないようだった。
「オールソン卿!」
アカツキが手を振ると、彼は夜道に明かりを見つけたようにパッと顔を輝かせた。
「ケイ卿、今夜はどちらにご宿泊の予定ですか?」
「ウィルズマリー・ホテルです。オールソン卿はどちらに?」
「実は、ずれ込んだ予定を取り戻そうと慌てて列車に乗ったものですから、宿はこれから探さないといけないんです。馬車でニ、三件回ればどこか空いてるでしょうが、お二人の泊まるホテルはまだ空きがありそうですか?」
ウィルズマリー・ホテルはそこらへんの宿屋とは価格に大きな差がある。アカツキが一瞬返答を躊躇ったのはそのせいだろう。しかし、身なりを見る限りオールソン卿がウィルズマリー・ホテルの宿泊代を出せないことはなさそうだった。あの古式ゆかしきロアナ王国の伯爵令息が従者の一人もつけていないのは意外だが、ヨスニルの自由な風に感化されたのかもしれない。
「オールソン卿、もしご迷惑でなければわたしと相部屋というのはどうでしょう?」
「わたしは大歓迎ですが、しかし、ケイ卿は良いのですか?」
オールソン卿はわたしをチラリと横目で見た。表情からは冗談なのか本気なのかわからない。
「オールソン卿は変な勘違いをされてるみたいですが、わたしとケイ卿はそんな関係ではありません」
「そうですよ。出会ったばかりの若い令嬢と同室なんてできません。ユーフェミア嬢の部屋は別にとってあります」
「では、お二人の関係はこれからということですね」
今度は明らかにからかい口調だった。
「オールソン卿はそんな軽口も叩くんですね。研究所では真面目一辺倒な方だと思っていました」
「研究所配属志望なのに、不真面目な態度は見せられないでしょう?」
オールソン卿は冗談めかしたが、研究所に来るたび生真面目な顔をしていたのはルーカスからの頼まれごと(命令?)があったからだろう。記憶共有についてルーカスに漏らしたのは彼のようだし、ルーカスから逃れたがっていることを踏まえても二人が主従関係にあるのはほぼ間違いなさそうだ。
御者がオールソン卿の荷物を積み、三人で馬車に乗り込むとすぐにドンクルート駅を出発したが、急行列車の到着からはすでに五十分が経っていた。
馬車は駅周辺にある宿屋街の緩やかな坂を上っていく。こじんまりした街は黒々とした針葉樹の森に囲われ、月明かりに照らされて聳えるのは〝白神の峰〟。夏でも山頂の雪が溶けることのない未踏峰だが、神といってもクローナ神話とは関係ないサホウ半島北部に伝わる土着の神だ。
「あっ、ケイ卿は今日付けのチェサタイムスを見られましたか? 行方不明のイモゥトゥの姿絵が載ってるんです」
揺れる馬車の中でわたしはついうとうとしていたが、オールソン卿の言葉で目が覚めた。彼が鞄を開けると新聞紙がチラと見え、アカツキが身を乗り出す。
「急行の出発時刻には店になくて買えなかったのですが、オールソン卿はどこで新聞を?」
「列車の隣席に座った老紳士がくれたんです。読み終えたからやると。途中の駅で乗って来たので、そこでは売っていたのでしょう」
これです、と渡された紙面には五センチ四方くらいのイヴォンの姿絵が載っていた。大きな目と意志の強そうな太い眉は、ルーカスに見せられた姿絵の少女と同一人物に間違いない。アカツキはその記事を穴が空きそうなほどまじまじとながめた。
「暴力行為があったとイヴォンが証言した場合は謝礼金は支払わないと注意書きが加わってます。イモゥトゥ探しが加熱してるせいでしょう」
「ケイ卿、イヴォンは研究所にはいないのですよね?」
オールソン卿が遠慮がちに尋ねた。
「まあ、オールソン卿には教えても問題ないでしょう。この少女は研究所にはいません。このように大々的に捜索されて、もし研究所にいたなら神殿に報告しないわけにはいきませんよ」
「神殿はイヴォンの逃げ場をなくそうとしているのかもしれませんね」
わたしの発言に二人とも驚いたようだった。
「アッシュフィールド嬢、それはどういう意味です?」
「これだけ見つからないということは、イヴォン自ら神殿から逃げ出した可能性があると思います。でも、神殿がこのような記事を出しては誰を頼っても連れ戻されるだけです。だって七千万クランですから」
アカツキは窓枠に頬杖をつき、改めて新聞に目を落とす。
「たしかに、新生前症状で徘徊して行方不明になったのなら中央クローナまで捜索範囲を広げるのはやりすぎな気がします。イモゥトゥとはいえ馬車か鉄道を利用しないとロアナを出ることは難しいでしょうし、もしそういった交通手段を使ったのなら目撃者はいるはず。それに、新生前症状が出ている状態で馬車や鉄道に怪しまれず乗れるかどうか」
「ケイ卿もアッシュフィールド嬢もラァラ神殿が嘘をついていると?」
オールソン卿は気分を害したようだったが、神殿には前科がある。
「ラァラ神殿はイモゥトゥがいることを隠していましたよね。そういえば、オールソン卿はロアナ出身とおっしゃっていましたがラァラ派なのですか?」
「ええ、まあ」
煮えきらない反応に、わたしは少し挑発してみることにした。
「それならラァラ神殿に行かれたこともあるのでしょう? 神殿はこの少女だけでなく複数のイモゥトゥを隠していたようですが、ラァラ派の一般信者は何も気づかなかったのですか? もしそうだとすれば、保護というよりも監禁状態にあるとは考えられませんか?」
オールソン卿は明らかに動揺した様子で、「何を隠してるんです?」とアカツキが詰め寄ると観念したらしく吐息を漏らした。
「先に言っておきますが、わたしは何も気づかなかったですし、他の多くの信者もそうだと思います。ただ……、ルーカスはイヴォンと会ったことがあるようでした。自分で描いた姿絵をわたしに見せて、この人を見たことはないかと聞いてきました。知らないと答えましたが、ソトラッカに越してからのことなのでそう前ではありません。実は、今日の新聞を見てあの絵の少女がイヴォンだと知り驚いているところなんです」
アカツキは平静を装っていたが、片手で耳たぶをいじっているのは動揺している証拠だった。きっと、わたしが鉄道記念館で話したことを思い出したのだろう。
――ルーカスがセラフィアお嬢さまに近づいたのはイモゥトゥの情報を手に入れるため。そして、イヴォンを探すため――あの時、はっきりそう伝えたのだ。
わたしたちが黙ったままでいるとオールソン卿は居心地悪そうに愛想笑いを浮かべ、慎重に、言葉を選ぶように話を続けた。
「わたしが知っている情報を考え合わせると、ルーカスはずっと前から神殿にイモゥトゥがいることを知っていたのかもしれません。最初の記事が出たとき、わたしは友人のヴィンセント・フォルブスに手紙を送り、事情を尋ねたのです」
「フォルブスというと、ラァラ神殿のある?」
アカツキが興味を引かれた様子でくいと顎をあげると、オールソン卿は「ええ」とうなずく。
「ヴィンセントはフォルブス男爵家の正式な後継者で、わたしとは同い年です。ちなみに、ルーカスは小さい頃にサザラン伯爵家から追い出されてフォルブス男爵家の居城であるウチヒスル城に部屋をもらっていました。人けのないひっそりとした場所にあり、サザラン伯爵家としてはルーカスの存在を隠す意図があったのだと思いますが、そこはラァラ神殿の裏門のすぐ傍なのです」
「サザラン卿はそこでたまたまイヴォンと会ったと?」
「そうではないかと思います。ヴィンセントの話ではイモゥトゥは下位聖職者として神殿に仕えているらしく、イヴォンは祀花守らしいです。あそこの神殿の祀花守は神殿だけでなくウチヒスル城内の夾竹桃とサルビアも世話をしていますから」
「それでよくイモゥトゥだということを隠せていましたね」
「ケイ卿はラァラ派の祭服をご覧になったことは?」
オールソン卿の質問に、アカツキは納得した様子で「ああ」と漏らした。
「基本はジチ正派と同じだったと思いますが、たしかフードとフェイスベールが付いていましたね。あれで誤魔化していたわけですか」
「そのようです。神殿の一角にイモゥトゥの居住区を設け、人目につく場所では常に顔を隠すようにしていたと。隔離すると余計な疑いを持たれるからという理由でそのようにしたみたいでした。イヴォンをいつ保護したのかはわかりませんが、行方不明になったのは二年前だそうです」
「二年?」
思わず声が裏返った。アカツキも信じられないというように苦笑している。
「わたしもヴィンセントからの手紙を読んで驚きましたが、それと同時に腑に落ちたことがあります。ルーカスがわたしにヨスニル大学を勧めてきたのは、ちょうどイヴォンがいなくなった時期と重なります。あれはイヴォンが研究所に行くと予想してのことだったのかもしれません。どうせ聞いても答えてはくれないので本人に聞く気はありませんけどね」
「それなら、セラフィアのことも彼は利用しようとしたんじゃないですか?」
アカツキが語気を強め、オールソン卿は若干怯んだようだった。
「そこまではわかりません。けれど、恋人関係になったのはセラフィアさんに純粋に好意を抱いたのだと思います。あのルーカスから恋の悩みを打ち明けられて、天変地異でも起こるのではと思ったのですから」
もしオールソン卿が事実を話しているのだとしたら、ルーカスは内心笑いながら恋煩いの演技をしていたのだろう。
「でも、サザラン卿はこのイヴォンという女性を探していたんでしょう? それは彼にとってこの女性が特別だからじゃないですか?」
「特別な女性だからではなくイモゥトゥだからではないでしょうか。彼は自分が病弱なせいか、不老の上に回復の早いイモゥトゥという存在にかなり興味を抱いていましたから。ルーカスの口から出る女性の名前はセラフィアさんくらいです」
「この少女との関係をサザラン卿に尋ねてみる気はありませんか?」
アカツキは真剣だったが、オールソン卿は「勘弁してください」とうんざりした顔で首を振った。
「首を突っ込んだら最後、今度はわたしにイヴォンを探せと言いかねません。神殿が動いているのに、ルーカスの我儘につきあって神殿に睨まれるようなことはしたくありません」
「オールソン卿。それはつまり、サザラン卿と神殿は別々にイヴォンを探しているということですか?」
「そうだと思います。ルーカスがいくらサザラン侯爵家の生まれで、神殿のそばに暮らしていたとはいえ、彼はロアナ王国では存在しないも同然なんです。わたしも彼がソトラッカに来ることになって初めてサザラン家の生まれだと聞かされたくらいですから」
馬車がガタンと一度大きく揺れ、何気なく窓に目をやると林の奥に光がチラついている。どうやらウィルズマリー・ホテルはもうすぐそこらしく、アカツキもそれに気づいたのか早口でこう言った。
「オールソン卿。荒唐無稽な話かもしれませんが、わたしはルーカス・サザランとエリオット・サザランが同一人物ではないかと考えているんです。セラフィアの恋人だったルーカスはイモゥトゥで、二百年前はエリオット・サザランとして生きていたのではないかと」
「まさか」
オールソン卿は吹き出したが、アカツキが大真面目なのを見てスッと笑いを引っ込めた。
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