第三話 黒豹の住処

__イス皇国モアクイツ市ウェルミー5番通り新月の黒豹倶楽部__7月21日昼過ぎ



「ねえ、オト。ジュジュはいつ頃戻って来るの?」


「昼過ぎって言ってたからそろそろじゃない?」


 ふうん、とわたしは逸る気持ちを抑えつつ息を吐いた。新月の黒豹倶楽部は交霊用麻薬の在庫を持っているわけではないらしく、ジュジュが「買ってくるわ」と出ていったのは朝食のすぐ後。わたしはしばらく外出禁止で、暇つぶしがてらオトに建物内を案内してもらった。正午をまわってもジュジュが帰ってくる気配はなく、小腹がすいて砂糖をまぶした甘いパンを食べた。イモゥトゥが食欲旺盛なのは知っていたけど、まさかそれを実感することになるなんて。


「あっ、そうだ。ユフィ。夕方になったら店の従業員たちが出勤してくるから、下に降りるときは気をつけてね。姿を見られていいのはイモゥトゥだけ」


「うん、わかってる」


 ここにいるイモゥトゥはジュジュとオト、昨日店の前にいた少年給仕二人の計四人らしい。ハンチング帽がティム、もう一人がディック。二人の部屋はこの隣だ。さっき一緒にパンを食べたあと、「さあ、働くか」と、一階のミュージック・ホールの掃除に降りていった。


「ダーシャは窮屈な暮しをしてたのね」


 わたしが言うと、「まさか」とオトが吹き出す。


「いつもこっそり抜け出すからみんなヒヤヒヤしてたよ。ジュジュが叱るとしばらく大人しくしてるんだけど、懲りずにまた抜け出すんだ。まあ、タルコット侯爵家から脱走したくらいだから、こんなところ簡単に脱獄できるよ。それでぼくが監視係になった。ここ一週間くらい症状が酷くて彼女も自重してたけど、それで油断したら昨日突然いなくなったんだ。新生を予感したんだろうね。それであのディドリーに会いに行ったんだよ」


 二階にあるダーシャの部屋の窓からは、ウェルミー五番通りの様子は見えなかった。背の低い粗末な家屋が密集したその区域は朝眺めたときは薄暗く陰気な印象を受けたけれど、今は入り組んだ路地が陽光に晒され、居住者の生活水準を露わにしている。壊れた板塀はそのまま放ったらかし、はためく洗濯物は着古して剥げた色。その細い路地を、背を丸めた人影が時おりコソコソと通っていった。


「ユフィが外に出る機会はそうないと思うけど、五番裏を通るときは注意してね」


 わたしが窓の外を見ているのに気づいてオトが忠告してきた。


「危ないの?」


「危ないよ。ウェルミー五番が危険って言われるのは地下商売のこともあるけど、五番裏のせいでもあるんだ。旅行者ふうの身なりをしてるとスリにあうよ」


「五番通りと比べたらどっちが危ない?」


「五番通り」と、オトは笑い混じりの声で即答する。


 わたしは窓辺で椅子に座り、彼は背後に立っていた。テーブルに置かれた木桶から香油を混ぜた水をすくって髪を濡らし、短い左腕を器用に使いながら、ひと束ずつ揉み洗いして布で拭き取っていく。優雅な午後。


「五番裏に住んでるのはほとんどが日雇い労働者だよ。朝早くに港に行って、仕事がなかったら戻って来る。五番通りの店から仕事を受けるやつもいる。命が危険に晒されるような仕事だけど、借金してたら断れないんだ。港の日雇いで生きていける人はマシな方だよ」


「オト。あそこの白壁の建物あたりまでが五番裏?」


「正解。あれはウェルミー六番通り沿いの建物。五番裏の労働者はだいたい六番側から出入りしてる。五番通りをうろついて目をつけられたら怖いから。ね、ユフィ?」


 昨夜のわたしの格好のことを皮肉っているのだろう。


「夜だから目立たなかったはずよ。それに、昨日は夾竹桃祭りだからみんな酔っ払って忘れてるわ」


「だといいけどね。ところで、ユフィは夾竹桃祭りの夜にイモゥトゥに憑依したことをどう思ってるの? リーリナ神の呪いだって考えてる?」


「まさか! あり得ないわ」


 ムキになって言い返したわたしとは対照的に、オトは「そっか」とたいして興味もなさそうに相づちをうった。わたしの肩にかけてあった大判の浴布で髪を包み、「あとは自分で拭いて」と木桶を手に部屋を出ていく。


 わたしは部屋の隅にある姿見の前に立ち、改めて自分の姿をながめた。煉瓦のような黄褐色の長い髪。瞳はセラフィア・エイツよりも淡い青。カモシカのような洗練された筋肉質の手足。地味なブラウスにスカートという服装はエイツ家の使用人をしていたときと同じで、髪をまとめて白いエプロンをつければわたしの知っているユーフェミア・アッシュフィールドそのものだった。髪を洗うまえにオトがしてくれた化粧は、二十歳と言い張ればなんとかそれで通るくらいの仕上がりになっている。

 

「なんとか見られるようになったわね。痒みはもう治ったでしょう?」


 ぼんやりしていたせいか、ジュジュが部屋に入ってきたのにも気づかなかった。朝食後にはあった二の腕の虫刺されの赤みが、今はもう跡形もなく消えている。


「治ってるわ。イモゥトゥの体って不思議ね」


「研究者が今さら何いってるのよ」

 

 ジュジュの背後で階段を駆け上がる足音がし、オトが半開きの扉の隙間から顔を出した。手に持っているのは厚手の浴布らしく、「はい」とわたしに差し出してくる。


「放っておけば乾くと思うけど、使うといいよ」


 渡されたのはタオルだった。東クローナ南部の手織り物で値は張るが、一般的な浴布とは比べ物にならないくらい吸水性に優れている。


「客用のタオルの使い古しよ。贅沢品とはいえ、うちでは消耗品みたいなものだからもう少し安くなるといいんだけど」


 ミュージック・ホールの客がタオルを使うはずないから、地下商売の方の客用だろう。わたしはその客についてこれ以上考えるのはやめておいた。


「たぶん、タオルはあと何年かしたら廉価なものが販売されるわ。じきにザッカルングで工場生産が始まるから庶民にも広まるはずだって、わたしの父が言っていたの」


「父って敏腕事業家のエイツ男爵よね。それもエイツ家がやってるの?」


「違うけどまったく関連がないわけでもないの。ケイ公爵家の五男がうちに養子に入ったのは知ってる?」


 ジュジュがどの程度の情報を持っているのか確かめたくて試すような言い方をしたが、彼女は「知ってるわ」とあっさり答えた。


「ダーシャに言われてあなたのまわりのことは一応調べたのよ。当然、エイツ男爵家のこともね。あなたの弟になったクゥヤっていう子がエイツ家の事業を継ぐんでしょう? 話の流れからするとケイ家がそのタオル工場に出資してるって感じかしら?」


「そうだけど……、わたしを調べたのは接触してくるつもりだった?」


「さすが、わかってるわね。イモゥトゥ保護を謳っているソトラッカ研究所が信用に足る施設なのか、ダーシャの知人で研究所員のセラフィア・エイツに確認するつもりだった。まさか、こんなことになるなんて思わなかったけど」


 ジュジュが手に持っていた巾着袋をテーブルに置くと、ブリキ缶でも入っているのかガシャと金属音がした。


「オト。下からミルクとココアパウダー持ってきて。メープルシロップとブランデーも」


 オトが「うえっ」と眉をしかめて部屋を出ていったところを見ると、何か不味い代物がこのあとジュジュの手で作られるのだろう。ジュジュはオトの反応など気にもせず、椅子に腰掛け巾着袋を開けた。紅茶でも入っていそうな円筒形のブリキ缶が現れ、その蓋を開けると「これよ」とわたしの鼻先に近づける。中身はクリーム色をした粉で、プンと香ってきたのは――


「キノコ?」


「そうよ。幻覚キノコ。イモゥトゥが交霊させられる時はだいたいオピウムを使うんだけど、あれは違法麻薬。これは合法の嗜好品。ナータン教徒はお酒は禁じられてるけどキノコで酔うのは許されてるから、この国では比較的手に入りやすいのよ。特別な日には神の声を聞くために幻覚キノコを食べるんですって」


「新月の黒豹倶楽部では普段からキノコで交霊をしてるの?」


「ここに来てからはそうね。たまにオピウムや大麻。ウェルミー五番では他の店の地下商売に手を出さないって暗黙のルールがあるから、うちが麻薬販売してると思われるような量は仕入れられないのよ。その点、キノコは問題ない。これをココアパウダーと一緒にミルクで溶いて飲むの。別に水でもいいんだけど、どうせなら美味しいほうがいいじゃない?」


 研究所のイモゥトゥたちから聞いたのとはずいぶん違う〝麻薬〟だった。メープルシロップとブランデーをたっぷり入れて、ジュースのようにゴクゴクと薬物接種するジュジュの姿が目に浮かぶ。


「キノコのことはそれくらいにして、オトが戻る前にさっきの話の続きをしましょう」


 ジュジュは隣の椅子を引いてわたしを座らせた。少し西に傾いた陽光がウェルミー六番通り沿いの白壁に反射し、夏の午後独特の、世界から切り離されたような切迫感がふと胸をかすめた。

 

「新月の黒豹倶楽部はここだけじゃないの。クローナ大陸に全部で四カ所。ここの他には、まずロアナ王国の首都にあるハサ駅裏通り。ザッカルング共和国のミノ州エイルマ市にあるルルッカス二番街、最後はヨスニル共和国ダンスル郡コラール市のツリズ通り」


「ツリズ通りって」


 わたしの声が裏返り、ジュジュはニコッと微笑んだ。


「そうよ。エイツ男爵家から歩いて十分もかからないわ。と言っても、別にあなたを調べるためにそこにしたわけじゃないの。ソトラッカ研究所がイモゥトゥ保護を公言したあとに準備を始めて以来何箇所か点々として、今はそこってだけ。ヨスニルで動いてる仲間は今のところ一人しかいないから、こんなふうに看板を出して店を構えてるわけじゃないのよ」


「どうしてソトラッカ研究所の近くじゃなくてコラール市に?」


「拠点は離れたところがいいと判断したの。研究所に目をつけてるのはやつらも同じだし、安易に近づくのは危険だから。それに、本格的に店を構えるならクローナ横断鉄道沿いにある要衝の街が良かった。いざというとき逃げる手段は複数あった方がいいもの」


 ジュジュがコツコツと指先でテーブルを鳴らし、「実はね」と上目遣いにわたしの顔をのぞき込んできた。


「さっきコラールにいる子に電報を打っておいたわ。セラフィア・エイツが死んだか確認してほしいって。遅くても明日には返事があるはずよ」


 何と答えてよいかわからず、「そう」とだけ返したら蚊の鳴くような声になった。かぶったタオル越しに、ジュジュがわたしの頭をなでる。


「ルーカスがあなたの死体を隠してたら、しばらくは表沙汰にならないかもしれないわ。あなたの恋人のことも調べる必要がありそうだし、何より気になるのは、ルーカスがやつら・・・とどう関わってるかってことよ」


「やつらってダーシャを襲った相手よね。ジュジュはどの程度把握してるの?」


 わたしが問いかけると返ってきたのは苦笑。


「ほとんどわかってないのよ。ねえ」


 ジュジュはちょうど戻ってきたオトに話を振った。


「厄介なやつらだよね。捕まえたイモゥトゥに交霊させてるかもしれないから、いくらやつらの情報が欲しくても慎重にならざるを得ないんだ。まあでも、やつらの大本営はロアナ王国にあるんじゃないかと思うよ。そうそう、タルコット侯爵家はイモゥトゥだけじゃなく、イモゥトゥの血液も売ってたみたいなんだ」


「血?」


「ティムが交霊で売買交渉を見たらしいんだ。戦時中のことだからかなり前になるけど、『イモゥトゥの血はいくらでも採れるのに、タルコット侯爵がぼったくってる』っていうような会話だったみたいだよ」


「血を何に使うのかしら?」


「そこまではわからないけど、ディドル大陸の吸血鬼を思い出さない? 吸血鬼に血を吸われた生者は死んで吸血鬼になるけど、イモゥトゥの血を飲んだらイモゥトゥになるとか」 


 完全に冗談を言うときの口調だった。オトは手に持っていたミルクピッチャーをテーブルに置くと、お尻をジュジュに突き出してポケットに入ったスキットルを抜き取らせる。中身はブランデーのようだ。


「オト。ココアパウダーとシロップは?」


「持てないからミルクに混ぜてきた」


 ピッチャーをのぞき込むとたしかにココア色の液体。鼻を近づけると甘い匂いがする。


「ユフィも飲む? これだけならおいしいココアだよ」とオト。


「あら、キノコとブランデーも入れたらいいじゃない」


 ジュジュの提案にオトは「えっ」と否定的な声をあげたけど、その隣でわたしは「飲むわ」と即答していた。言ったあとで「まただ」とうんざりする。


「ユフィの体に憑依したせいか、時々考えなしに答えてしまうみたい」


「嫌ならやめておく?」


 半笑いのジュジュに反発心が首をもたげた。そのときどきの感情をユフィのものかセラフィアのものかと考えるのも嫌だったけれど、これはユフィでもセラフィアでもきっと同じ反応をする。


「飲むわよ。イモゥトゥの体がどの程度の薬物耐性があるのか興味があるし、交霊も聞くのと体験するのはまったく違うもの」


「じゃあ決まりね。幻覚キノコは効き始めるまでに時間がかかるから、とりあえず乾杯しましょう」


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