第2話 奇跡の歌
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出発からいろいろあったが、ジョンFケネディ国際空港から滞在先のマンハッタンのミッドタウン42nd Stにあるグランドハイアットニューヨークに向かうタクシーの中で予想を超えた何か不思議な力がこの旅行にはあると感じた。自分の中の今まで発することのなかった能力。潜在意識の中には凄い能力とコンプレックスとが混在しているのか。もう一度、深田香がくれたメモを見た。
~早瀬くんの中の潜在意識が働いている~
何かそういう能力について彼女は知っているのか。それを早く聞きたい。俺の中の潜在意識が働いている。亀吉も言っていた潜在意識。もちろんそのことだけではなく、彼女に会うのは楽しくわくわくする。まさかのニューヨークで再会する2人。やばいぜこの展開。
俺の人生ようやくついてきたのかもしれない。
マンハッタンの夕闇は素晴らしかった。煌びやかなネオンライト。見上げれば巨大なビルの谷にいるような自分が可笑しかった。
ホテルのドア前でタクシーが止まり、ポーターがタクシーからキャスター付きバッグをおろし、フロントまで運んでくれた。チェックインすると、先ほどのポーターが24階の部屋まで案内しバッグを運び込んでくれた。ラテン系の顔立ちで笑顔が優しい彼にチップを渡すと、日本語で「アリガトゴザマシタ」と丁寧にお辞儀をしてくれた。やはりどんな職業も笑顔が一番だと思いながら、ひとまずシャワーを浴びた。
シャワーを浴び終えてバスローブをはおりベッドに腰掛けると、ものすごい眠気がおそってきた。ここで寝てしまうと時差ボケにやられてしまう気がして、身支度をした。界隈を歩きつつ、ついでに夕食を済ませてこようと決めた。
フロントのセーフティボックスに貴重品を預けホテルを出た。42nd stをブロードウェイに向かって歩いた。グランドセントラル駅入り口前のホットドッグスタンドからいい匂いがした。ホットドッグを一つ買い、通りを渡りブライアントパークの中を歩きながらホットドッグを食べた。南側にはエンパイアビルがそびえ立つ。今夜は青と赤に電飾されている1931年竣工のこのビルは、102階の高さで今も威厳に満ち溢れ、一段と輝いて見えた。
6月のニューヨークは爽やかだ。公園にもカップルやスケートボードに乗った少年の姿もある。ブロードウェイに出ると右に曲がりタイムズスクエアーに向かってみる。3年前、仕事の取材で上司のアシスタントという肩書きで連れてきてもらった。おもに機材運びとインタビューの録音担当だったが、この街のパワーに圧倒されっぱなしだった。今同じ街の通りを1人で歩いている。不思議な気持ちとともに、身体中で感動していた。東京から飛行機で13時間の街。
店に入って食事をする気分ではなくなり途中にあったバーガーショップでハンバーガーとサラダとコーヒーを買い、タイムズスクェアのNewYork Police Dept前の赤いテーブル&ベンチに座って食べた。まだ着いたばかりの異国の夜の空気を思い切り吸い込み、摩天楼の谷間から空を見上げた。月が見えた。日本で見る月と同じだった。当たり前のことが不思議に感じた。
帰りは少し早足で42nd St
をパークアベニューに向かって歩いてみた。マンハッタンは碁盤の目のようにStreetとAvenueが交差していて、道がわかりやすい。頭の中にマンハッタンの地図をイメージして方向さえ間違えなければ目的の場所はわかりやすい。
歩きながら強いお酒が飲みたくなった。ホテルに着くとフロントには行かずにバーに立ち寄った。カウンターに座りギムレットをオーダしてみた。もちろん初めてだ。『ギムレットには早すぎる』チャンドラーの小説[長いお別れ]の中で探偵フィリップマーロウに対して友人テリーレノックスがいうセリフだ。ジンベースのカクテルではマティーニを以前飲んだことがあった。強いお酒だ。
バーテンダーが作ってくれたギムレットにひとくち口をつけた。これは、これから先ニューヨークの味になる。そう思いながら少しづつ飲んだ。口の中でライムの香りが広がる。ジンが熱く喉の奥を通り過ぎる心地よい苦味。
他にカウンターにはスーツ姿のビジネスマン風の2人が今日の仕事の成果を喜び合いながらオールドパーのロックを飲んでいる。自分が思うより緊張していたのか、お酒が入り体の力が抜けていくのがわかった。明日は深田香と会う。どこで会うのがいいだろう。部屋にある観光用の本で調べてみよう。でも多分、彼女の方が詳しいだろうから、ここは素直に聞いてしまおう。
ポケットから深田香にもらったメモを取り出した。
~早瀬くんの中の潜在意識が働いている~
今まで眠っていた自分の能力。あるきっかけでむっくり起きだす。10数年、自分で束縛してきた自分から解放された。空港というある種の非日常の空間で。そしてそこに何か奇妙な偶然が重なり合う。本来もっと自由であるべき思考が閉鎖的な範囲の中だけで何年も回り続けていた。その囲いの壁の一部に穴が空いて開放される。強烈な刺激によって開放される。当然未知の思考空間なだけに自分でコントロール不能になる。未知の思考空間に放り込んであった、莫大な知的記憶が目を覚ます。
お酒の酔いも後押しして、自分にはなんでもできる気がした。
部屋に戻る前にフロントに寄りセーフティボックスから貴重品を出した。フロント係はメッセージがあることを告げ、深田香からの電話があったことを伝えた。また後ほどかけるとのことだった。
部屋に戻りバスルームに入りシャワーを浴びて出てくると部屋の電話がなっていた。深田香からだった。
「Hello. How about a night in Newyork(もしもし、ニューヨークの夜はどう?)」発音が良かった。
「最高だよ。ワクワクしてる」
「よかった。明日のことなんだけど、ティファニーで待ち合わせてプラザホテルでランチしてセントラルパークでお散歩しましょう。」深田香は少し酔っているようだった。
「素敵じゃない? 夜は早瀬くんのホテルの近くのオイスターバーで食事しましょうよ」
「僕も全く同じことを考えていた」
「ほんと?すごい」
「最後にこのホテルのバーでギムレットを飲む。ここのギムレットはとても美味しい。そして」「そして?」「そしてその続きは明日のお楽しみ」
今夜の深田香と同じテンションで話していると、本当にワクワクしてテンションがハイになってきた。「ギムレットには早すぎる。誰かのセリフよね」
「レイモンドチャンドラーの小説、ロンググッバイの中に出てくるセリフ」
「ふ~ん、読んだことはないけどそのセリフなぜか知ってる」
「深田の潜在意識が働いた」そう不意に言ってみた。少し沈黙があった後。急に深田が笑い出した。いささか大げさな笑い方だった。
「私、すごい能力を持っているの。きっと早瀬くんもよ」また少し沈黙した。「明日話すわ。じゃ十一時にティファニーで。おやすみなさい」「おやすみ」気持ちがハイなまま電話が切られた。自分だけが取り残された気がした。窓からの景色。この街はどこを切り取っても圧倒的な存在感だ。
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翌朝はこれ以上ないほど晴れわたった空。少し早めにホテルを出て5番街を北に歩いた。途中デリに寄りコーヒーとクロワッサンを買いロックフェラーセンター前のベンチに座って食べた。まさか映画じゃあるまいし、ティファニーのウインドーを覗きながら食べるわけにはいかない。
通りを見渡し、車の往来を見ていると、日本車が多いことに気づいた。嬉しいような寂しいような気がした。車王国アメリカの象徴。映画の中で見たキャデラック、リンカーン、コルベット。大型セダンはもう見かけない。イエローキャブも小型化している。バスだけは大型2車両連結で迫力があった。前に来た時は歩きタバコの人を多く見かけたが、今はいない。
再び5番街に戻りセントパトリック大聖堂を通り過ぎトランプタワーを目印にティファニーに向かった。アメリカ国旗が見える。うわーここか。クロワッサンとコーヒーはやはりここで食べるべきだった。
冷めたコーヒーを片手に中をのぞいているとドアマンがHelloと声をかけてくれた。
「Hello.just looking.I’m meeting my girlfriend here.(こんにちは。ちょっと見てるだけです。彼女とここで待ち合わせているので)」と答える。
「it is great.She is beautiful.(それは素晴らしい。彼女は美しい)」とにっこり笑ってくれた。後ろに深田香がいた。
インディゴブルーのノースリーブのワンピースとおしゃれなサンダルヒール。キャンバス地の手提げバッグを手に、にっこり笑っていた。
「また英語しか話せなくなった? そして素敵な彼女と待ち合わせ?」
「maybe.」
「偶然ね。私も掃除をすぐサボるリレーの選手と待ち合わせ」
「リレーの選手じゃなくて補欠だよ。もしかして猿に似てる?」お互い吹き出した。なぜか自然に腕を組んで歩き出した。
「更衣室の掃除よね。あの時あなたに豚って言われた。」深田はわざとむくれた顔をして腕を離した。「すごい、覚えてたの?」
「ブタって言われたのあれが最初、そして最後。」離れたまま彼女は髪を手で分けながら笑った。
「先に深田が猿って言ったんだよ。そして思い切り押されてロッカーの戸に鼻をぶつけた。」「え~まさか、嘘でしょ?」「そしてあの後鼻血がでた。」「嘘でしょ?嘘だ~」
「あれから鼻血垂れちゃう病ってのにかかって人生暗かった。」
深田から腕を組んで来た。「変わってないね」と言って歩き出した。
59th stに出て5番街を渡る信号を待っていると観光用の馬車がセントラルパーク側を通りすぎて行った。
「ニューヨークだからかなぁ。こんな近くに感じるの」
「何が?」
「早瀬くん。日本で再会したら、わ~久しぶり~ってなるけど、またなぁって感じじゃない。明日また会おうよって感じにはならないと思う」「そうかなぁ。俺はまた会いたいと思う」「嘘ばっかり」そう言って優しく笑った。この笑顔だよ、この笑顔。キュンとくるぜ。ずっと会いたかったんだ。やばい深呼吸 深呼吸。
「どうしたの?」
「いやニューヨークの空気をたくさん吸っておこうと思って。深田みたいにちょくちょく来れないから」
プラザホテルは素敵だった。地下のフードホールはちょうど団体さんが出ていくところだった。通路は混んでいたが、食べ物の良い匂いがした。「10数店舗有名なグルメ店が入ってるんですって。色々選べるの。見てみよう。早瀬くん何を食べたい気分?」
「うん、なんでもいいよ」
「なんでもいいはダメ。決めて」
「だって優柔不断なお猿さんだから」
「もういいから。ねぇ、すごく良い天気だしテイクアウトしてセントラルパークで食べましょうよ?」
結局深田お薦めのロブスターロールとシュリンプロール、そしてフライドポテト、フライドチキンを買った。ロブスターロールはロブスターの肉が山盛り入ったホットドッグのようなものでシュリンプロールはえびがたくさん入っていた。
セントラルパークはいきなり巨大な公園だった。そしてたくさんの木々が茂りその間を遊歩道がつづき、湖のような大きな池がある。その前に広い芝生の広場があり、常設のテーブルとベンチがある。彼女がテーブルに買ってきた食べ物を広げている間に近くの露店でコーヒーを買ってきた。
「あ~気持ちが良いわねぇ。幸せ~。たべましょ。いただきまーす」
「うん。いただきま~す」
俺にとっては幸せの爆弾だよ。粉々になりそうだぜ。こんなシナリオ一昨日まで誰が想像できる? 運命はアクションで変わるのか?
「早瀬くんは優柔不断じゃないわ。優柔不断な人は一人でニューヨークには来ないもの。ここにきた一番の目的は何?」
「ん~こういうこと」
「えっ どういうこと?」 深田はあの優しい笑顔になって聞いた。
「ん~たぶん、こういう解放された自分になること。そして深田に会うこと」そう言ってみたら深田からは思わぬ反応が返ってきた。
「私も今回のフライトは何かが違う感じがしていて、それはすごく良い予感がしてたの。私今回交代要員なの。だから2日間休めるのよ」
まじか~やったぜ~と心が思い切り叫んでた。心から漏れそうなほどの大きさだ。
「2ヶ月前あることがあって。とても働ける状態じゃなかったから仲の良いキャビンアテンダントに代わってもらってたの」そう言って下を向いた。
えーっ何があったの?
「ねぇ、心で喋ってないで声に出して」
「えっ 聞こえてるの?」
「聞こえてる。わかりやすく全部」
「まじ?」
「ほんと」
そう言って笑顔に戻った。
「私も早瀬くんのさりげなく見せる笑顔が好きよ」
「えー、俺が思ってることがわかっちゃうの?」「そうよ。昨日電話で言った私のすごい能力その1」
「全部?」「そうよ」
「すごいな~なんなんだよ。じゃ、、、、その、、、、俺がずっと言い出せなかったことも?」
「そうよ。」そう言って深田は珍しくいたずらな子供のように笑った。
「そうなんだ。いつからその能力を持ったの?」
「小学校5年生」
「えーじゃ、ずーっとわかってたの? 」
「何を?」
「だから、俺が、その、深田を好きだったこと、、、」
「えっ、、、、、、」
なんだよこの沈黙。あっこの目。あの時の更衣室。
「ごめんなさい。心がわかるってのは、、、ホントは大げさで、全部じゃないの。早瀬くんの表情があまりにもわかりやすいから。ごめんなさい」
ふざけんなよ。なんだよ言っちゃったじゃねぇか。
「ふざけんなよ、豚」
「ぶた? 子供みたい。それも変わってない」なんか無性に腹が立ってきた。
「怒った?」俺はむしゃむしゃチキンを食べ続けた。
「ごめんなさい」そう言って深田は寂しそうな顔をした。
「2ヶ月前、何があったんだよ」俺はものすごく優しくない、いや、むしろ最大に嫌な感じで、意地悪く仕返しのつもりで聞いてみた。
「話したくない」
突然、見たことのない深田の暗い顔になった。唇を噛んで悲しい目で俺を見た。世界の全てが静かになった気がした。
そしてやがて全てが止まった。深田の涙だけが少しづつ溢れだした。
俺は生まれて初めて何も気にせず、誰も恐れず人を全身全霊で包みたいと思った。
深田の肩を抱きしめていた。「守ってやる」そう彼女の耳元で囁いていた。
「ありがとう、、、」深田の唇が俺の耳に触れた。
ゆっくりと体を離すと目と目が合った。深田はまだ泣いていた。そっと唇にキスをした。お互い目と唇で何かを探し確かめるように。
ほんの少し微笑み唇を離して手を繋ぐ2人に、時折風が吹いて揺れる木漏れ日が踊った。
「大人になったね私たち。 ねぇ、聞きたい?」俺はドキドキしていた。
「えっ、」
「先月私に起こったこと」俺はなんとなく、それには答えずに、
「ねぇ、深田の能力その2を聞きたい」
深田の優しい笑顔に戻って「ありがとう」と言った。
「私ね、小学校の頃親しい友達ができなかったの。というより3年生の終わりからは自分で決まった親友を作らないようにしてた。父は転勤が多くて。3回よ。それも1年生の秋と3年生の秋と5年生の秋。悲しすぎるわよ。3年生の転校は本当に今でも人生で私の3大悲劇の一つだわ。1年生の秋に転校した群馬の高崎というところはとにかく家から学校まで歩いて40分もかかるの。越した秋から冬になる頃はもう地獄に来たと思ったわ。風の強い吹きさらしの田んぼのあぜ道をよ」深田は両手でカップを包むようにコーヒーを飲んだ。
「それでも同じ通学路だった風美ちゃんと仲良しになって、学校でもいつも一緒にいるようになったの。2年生でも同じクラスになってますます仲良しになったわ。2年生の夏休みはほとんど毎日一緒に遊んでた。川に行ったり、森を探検したり。私たちふたりとも身体が大きかったから男の子にも負けなかったわ」彼女は昔を俺の目の中に見つけたようにじっと見つめた。
「3年生になって新しく入って来た音楽の若宮先生を2人で好きになったの。私と彼女の初恋。本当に毎日が楽しかったなぁ。こんな話、つまらなくない?」
「いや、俺まで楽しくなるよ」
セントラルパークの木々の上から高層ビルがいくつも見えていた。ここはニューヨークなんだ。
「よかった。3年生の夏休み若宮先生に会いたくて2人で若宮先生のお家まで行ったのよ。そしたら綺麗な女の人が出て来て」
深田は声を出して笑い出した。
「風美ちゃんが突然、どちら様ですか?だって。逆でしょう。私たちが尋ねて行ったのよ」
俺も思わず笑ってしまった。
「奥から先生が出て来て、おーお前たちか、どうした、上がれ上がれって。そしたらまた風美ちゃん、先生何か用? だって」
深田も俺も大声で笑った。
「先生はポカーンとしてたわ。でも私たちは真剣だったの。そのまま上がらずに末長く御幸せにって言って。帰りは2人で早足で泣きながら帰ったわ」
笑って涙が出た。こんなに清々しく笑ったのも久しぶりの気がした。
「その夏休みの終わりにまた父の転勤が決まったの。父は出世街道まっしぐらよ。私はどん底へ真っ逆さま。我が家はまた引っ越すことになり。私の意思とは御構い無しに転校することになったわ。それから引っ越すまでの二ヶ月、毎日泣いてた。風美ちゃんも泣いてた。東京に戻ったけど、もう友達は出来なかった。そして心の自分と話ができるようになっていったの」
亀吉が頭に浮かんだ。
「心の自分というのは自問自答する意思と同じこと?」俺は亀吉のことは言わず当たり前の質問をしてみた。
「それもあるんだけど。端的に言えば自分の中にもう一人の自分がいるの。はっきりと意思を持っている。ただ言葉を発したりはしないわ。想念の会話」
深田は自分に確認するように話し続けた。
「潜在意識、潜在能力を取り出して、というより潜在意識そのものが語りかけてくるの。現在の今の私には記憶にもないから、まるで突如知らない誰かが話しかけてくる感じ。ただ私の場合すごく寂しい時とヘルプした時だけだけれど。精神内科の先生が聞いら精神障害だと言うわね」
深田は困ったという顔をした。まるで俺にとっての亀吉だった。
「ビートルズの歌で[僕が悩みに陥った時、マザーマリアが現れて囁いてくれるんだ。]っていうのあったじゃない?」
「 “Let it be ” 」
「そう、 “Let it be ” あるがままにって。まさにあの感じなの。風美ちゃんと会えなくなって寂しくて寂しくて耐えきれなくなくなった時、ソックスが現れたの。ああ勝手にソックスって呼んでるの。昔飼ってたマルチーズの名前。母が女子高生が履くルーズソックスみたいだってつけたの。私が小学校に上がる前に死んじゃったけど」
まるで亀吉じゃねーか。
「また。心で言わないで声に出して」
「ああ、後でまとめて話すから深田の話を続けて」
「ソックスは頭がいいの。見かけは可愛いの。もちろん私の中で勝手に作ったイメージだけど。
ソックスは私の生まれる前のことも知ってるみたいなの。私の前世なのかなぁ」
「例えばどんなこと?」
「東京に戻って来て、ひと月ほど経ったクリスマスの頃、あまりにも私が毎日めそめそ泣いてばかりいたから、お父さんが好きなものを買ってくれるって家族で銀座のデパートに買い物と食事に出かけたの。私はローラーの付いたシューズとミッキーマウスのデイバッグを買ってもらって美味しいケーキのデザート付きの食事をしたわ。その帰りに賑やかな銀座の人混みの中に出たの。父も母もワインで酔って、いつになくよく喋っていたわ。
私はデパートのショウウィンドウの中の外国の写真。たぶんこのニューヨークのどこかの街の写真。それに見入ったの。懐かしい気持ちで。もちろん行ったことない街よ。そうしたらソックスが、昔住んでたよ。って囁くの。びっくりしたわ。私アメリカ人だったのかなぁ。それで振り向いたら父も母もいなくなってて、またびっくり。でも全然怖くはなかった。ソックスどっちに行けばいいの?って聞いたら、そこ右、そこ左、って感じで交番まで教えてくれたわ。初めて行った銀座の人混みの中をよ。早瀬くんこの話信じてくれる?」
「もちろん信じるよ」
「ありがとう。それでね。何年もソックスは出てこなくなってたから、もういなくなってしまったのかなと思ってた。この前辛いことがあった時、ソックスにヘルプしてみたの」
「そしたら囁いてくれたんだね」俺は嬉しくなって、思い切り笑顔だったきがする。ところが返って来た答えは意外だった。
「ソックスは出てこなかったわ。なぜだかはわからない。だってそのことに関して私コントロールできないもの。でもね、その代わり何か全身で感じたの。これを乗り越えればものすごく良いことがあるって。確信してた。それでさっきも言ったけど、今回のフライトでそれが始まるって感じがしたわ」
「それでどうだった? 当たってた?」
「早瀬くんに会えた」
やった~ときめくぜ~
「それ態度に現して。」そう言って深田は俺の目を見つめた。今度はかなりドキドキした。まさにあの時の更衣室の瞬間が戻ってきた。そっと深田にキスをした。甘い香りがした。
「東京の空港でね。他の乗務員の人たちと機内に向かっている時に、ヘルプもしてないのに久しぶりにソックスが囁いたの」
「なんて?」
「始まるよって」
「それだけ?」
「それだけ」目と目をぽかんと見つめ合いながら、変な沈黙があった。不意に深田が俺の首に手を回して抱きついた。顔と顔は息がかかる位置で、しばらくそのまま深田は俺の目の中に何かを探しているようだった。不意に手を離すと深田は静かな声で「早瀬くん、シングル?」と聞いてきた。
「ん? 独身ってこと?」深田は頷いた。
「独身で恋人もいないよ。」なんとなくぶっきらぼうな言い方だった。
「ごめんね。私そういうことから、、、もちろん私は独身よ」 過去に傷ついたことがあった。そう聞こえて来た。
どこかから誰かがトランペットを吹いているのが聞こえてきた。
「私の能力その2は以上です。少し歩きましょう」2人できれいにテーブルの上を片付けて遊歩道を、トランペットの音の方向へ歩いた。
「あっ早瀬くんにもソックスみたいなこがいるでしょう?」 亀吉って名前にしたことを後悔した。
「同じかどうかわからないけど、そういう存在はある」
「やっぱりー。私は早瀬くんがそういう能力の強い人だって感じたの。それに英語しか出てこなくなるような現象は、おそらく潜在意識の特別な能力回路につながったのね。毎日の積み重なったストレスから解放されたいっていう強い思いが、ニューヨークに行くというアクションで脳に刺激を与えて、別の言語、すなわち英語を話すということで、日本での仕事の忘れられないしがらみから解放させた。驚くような荒療治で」そう言って彼女は腕組みをし、難しい顔になった。
「なんてわかったようなことを言っちゃった。もっと早瀬くんのこと聞きたいな」
「でもあれは本当にびっくりしたよ。脳がどうにかなっちゃったかと思った。確かに仕事のことでのストレスはあった。でも全部自分の弱さから来てるんだ。いざという時に押しが弱くて我慢する。でも表面は明るくしようと振る舞う。でもそれを演じきれていない自分にうんざりする。昔からそうなんだ。周りに気ばっかり使ってヘトヘトになる。何をやっても普通の成績止まり。頑張ってと言われても、俺なりに頑張ってるんだよ。頑張っても補欠の人生なんだよ」
背の高い黒人の男がトランペットでオネスティをサビの部分から吹き始めた。その隣でピエロの悲しい顔をしたバレリーナが踊る。2人のパフォーマンスはとても美しかった。周りに数人の男女がみていた。だんだんと観客が増えてきた。
誠実、なんて寂しい言葉だろう。誰もがそうではないから。誠実なんてもう聞かなくなった。そして最も僕があなたから必要なものなんだ。そんな歌詞だった気がする。ピエロの動きを見ているうちに、まるでこれは俺だと思った。表面は明るく繕っていても繕いきれない悲しさ弱さ。
人には、早瀬さんは優しいと言われる。でもそれは優しさなんかじゃない弱さなんだ。
「このメロディ。哀愁というより、影の部分を感じるの。この街の裏通り。冬のマンホールから吹き出る湯気。言葉にならない切なさ、悲しさ。音楽ってすごいわね。」彼女はパフォーマンスを見つめながらそう言った。
「なぁ」
「何?」
「俺今までずっと弱かったんだ」
突然涙がこみ上げてきてどうしようもなかった。前を向いたまま深田に気づかれないように、組んでいる腕と反対の手で咳を抑えるふりをして涙を指で拭った。彼女は腕にぎゅっと力を入れ体をくっつけた。俺の止まらない涙を前を向いたまま気づかないふりをしてくれている深田の、暖かい本当の優しさに触れている気がした。涙なんか出たのは何年振りだろう。セントラルパークの空を白い鳩が舞っていた。
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グランドセントラル駅の地下通路にあるオイスターバーは入口を入ると左にテーブル席と右に気軽に食事ができるカウンター席とに分かれていた。予約していたテーブル席側に入ると、深田は顔見知りらしいミスタービーンに似た店員と明るく挨拶を交わした。席に案内され丁寧にメニューを渡してくれた。
「この店はよく来るの? 」
「ニューヨークに滞在すると必ず来てるわ。生牡蠣や生ハマグリ、ロブスター、シーフード料理が盛りだくさん」
「生のハマグリ?」
「そう。マンハッタンは海に囲まれてるから貝も新鮮で美味しいの。地元ロングアイランド産もあるから。クラムチャウダーはトマトベースとクリームベースで好みだけど、私はクリームベースのニューイングランドクラムチャウダーが好き。」
本日のおすすめも含めて料理をオーダーしてシャブリで乾杯した。
「ねえ、早瀬くんのこともっと聞きたい」
「面白くないよ。都内の1DKに一人暮らし。仕事は音楽制作会社に勤めていて、ほとんど決まった休みもなく、たまの休みは寝てるか健康ランドで風呂に浸かってぼけ~としてる。サウナで思い切り汗をかいて、湯上り生ビールを飲んで明日からも頑張れるように自分を騙し励まして生きてる。そして寝る前に祈る。明日の朝起きたらどこかの国の石油王か大スターの人生と入れ替わってますようにって」
深田はクラムチャウダーをスプーンで口に運びながら目を細め声を出さずに笑った。
「お金持ちになりたいの? それとも有名になりたいの?」
「二者択一? 」
「任せるわ」
「ん~そう言われると迷うなぁ。大スターは毎日忙しいだろうから、石油王かな。」
「石油王も忙しいわよ。掘削事業のあれこれ、交渉ごと、顧客の接待。とか」
「でもそれはお金持ちであるが故の忙しさであって、常に衣服、装身具、調度品なんかも豪華で贅沢。運転手付きのリムジンや自家用飛行機。それらに囲まれてわくわくするよ。今の俺はどんなに働いても忙しくても車もない1DKのアパート生活だ」
「でもニューヨークに来られてるわ」
「誰だって10年も働いてればニューヨーク旅行ぐらいできるよ」
俺はレモンを絞った生牡蠣を食べシャブリを飲み干し別の白ワインを頼んだ。
「でもそういうお金持ちは孤独で冷たい人になるのよ」彼女はシーフードのサラダを二つの皿に盛り付ける手を止めて、そう言った。いきなりどうしたのと思ったが、なんだかこの話題は変えたほうがいいような気がして運ばれてきたワインを一口飲んだ。先に彼女がナプキンで口を拭ってから言った。
「素敵じゃない。健康ランドでお風呂に浸かってゆっくりして。サウナで汗をかいて、湯上り生ビールを飲んで。明日からも頑張れるように自分を騙し励まして生きてるって。素敵じゃない。10年一生懸命働いて、お金貯めて、やっと取れた休みでニューヨークに旅行できてる。ねえ最高じゃない。素敵よ」彼女はワインを飲み干して静かなため息をついた。
しばらく何も話さずに運ばれてきた食事を食べた。深田といるとなぜか沈黙が平気だった。時折、微笑みかけて来る彼女の目に心が安らいだ。彼女は綺麗だった。きっとずっと綺麗だったんだ。恋愛もしてきただろうな。それは悔しくなるから絶対聞かないことにしょう。あれっ、今は心が読み取られてないのかなぁ。深田がなに?という目をした。
「何?」
「えっ何?」
「えっいや深田はいつ東京に戻っちゃうの?」
「明後日の午後の便。明日のお昼に人と会う約束があるけど、それ以降はフリー。早瀬くんは?」
「俺は行きたいところに行く気ままな旅行だから何時でもフリー。帰る前日にヤンキーススタジアムでヤンキース対レッドソックスの試合を見ることくらいだよ。グランドゼロとアポロシアターには行きたいと思ってる」
「それじゃ明日、一緒に行きましょう。アポロシアターは明日は何かしら? 水曜日ね。わーアマチュアナイトよ。ぜひ行きましょう」
「嬉しいけど、いいの?」
「もちろんよ。あとで待ち合わせる場所をメモして渡すね」
「ありがとう」
店内はかなり混みあってきた。深田と顔見知りの店員も、休む間も無く動き回っていた。近くを通り過ぎると、笑いかけながら日本語で「タノシンデマスカ?」「オイシイデスカ?」
と声をかけてくれた。ミスタービーンは陽気でこっちも嬉しくなる。
ワインの酔いがまわってきて、まわりをぐるりと見渡すと、ここはニューヨークで目の前に深田香がいる。なんだか夢のように感じる。深田もほおをほんのり赤くして目が会うたびうに笑顔を見せた。
「あそこの奥のトイレに行く手前に、昔の映画に出てきそうなバーがあるのよ」とカウンター席側を指して深田が言った。そう言われてバーを見たくなり、ついでにトイレに立った。
カウンター席側からさらに奥の扉の向こうは別の世界だった。まさにアクション映画に出てきそうなバーがあった。アルパチーノがカウンターでウイスキーを飲んでいてもおかしくない。デニーロが葉巻をくわえていてもいい。トムウェイツの歌があれば尚良かった。
席に戻ると交代で深田がトイレに立った。深田の姿が見えなくなると、今更ながら明後日の夜からは一人で夕食をすることに寂しさを感じてきた。さらに、ものすごい睡魔が襲ってきた。休暇前日までの仕事の疲れと睡眠不足。時差ボケもある。危うく椅子から落ちるところだった。深田が戻ってきた。
「疲れたでしょう。時差ボケもあるから眠いはずよ。そろそろ出ましょうか」親しい店員にチェックをお願いした。その間深田は手帳とペンをだし、何かを書き込んだ。
「これ明日の待ち合わせ場所よ。ねえここは私に払わせて。お昼もご馳走になっちゃったし。早瀬くんはまだこれから旅行が続くんだから。それにここはそんなに高くないの。」深田はそう言ってお金を払いチップをテーブルに置いた。
グランドセントラル駅の構内を歩いて42nd St
沿いにでた。腕を組みながらまだ帰りたくない気持ちを素直に伝えた。
「ギムレットは明日にするわ。ホントは私、今日はすごく緊張してたの。本当に楽しい素敵な日だったわ。早瀬くんと再会できて良かった。あとはまた明日に楽しみをとっておきたい。ギムレットにはまだ早い」そう言って俺の手を握った。
「じゃ送るよ」
「大丈夫近いから。タクシーですぐなの」
「危なくない?」
「人通りも多くて明るいところだから大丈夫。ありがとう。また明日」そう言って、来たタクシーを止めて乗り込むと、優しいあの微笑みを残して42nd St.を西の方向に走り去った。
10
翌日、フルトンストリート駅からワールドトレードセンターメモリアル&ミュージアムまではすぐだった。
2001年9月11日、ここローワーマンハッタンにそびえ立っていたワールドトレードセンターツインタワーにテロ組織によりハイジャックされた旅客機が北棟南棟に突入し爆発炎上した。その後南棟が崩壊し北棟も崩壊した。2千7百人以上もの犠牲者を出した。テロの犠牲になった人の名前が石碑に刻まれていた。
深田と俺は目を閉じ、しばらく手を合わせた。「恨みによってまた恨みが生まれる。報復して報復して。弱肉強食の太古の時代より残酷な時代。人間同士の争いは永遠に終わらない。ねぇ、神様はいると思う?」
「神様という存在かどうかはわからないけど、自然というものの凄さは感じる。例えば森羅万象の生成化育、自然淘汰、そもそもこの世界が作られたこと。人間を作ったこと。人間の知能、人間の身体。人間は凄い生き物だと思う。」
「じゃその自然というものは人間の争いを制御できないの?」
「わからない。何年か先にそういう世界ができることを望む」
「でも今はできないのね?」
「そうだね」
俺たちはしばらく無言で歩いた。その後、地下鉄のAトレインでハーレムに向かった。不意に亀吉を思い出した。亀吉が俺に囁いてくれる知恵は俺が生まれる前、前世からのものなのか? だとするとどれくらい前からのことなんだろう。深田の中にいるソックスはどのくらい前から存在してたのだろう。そのことを深田に聞いてみた。
「肉体が滅んでも輪廻転生、魂は生き変わり死に変わりして生き続けるという宗教的、あるいは哲学的概念を信じるとしたらの話になるけど、その潜在意識は計り知れないものなのかもしれないわ。ただそれがいつから始まっているかなんて誰にもわからないと思う。もちろん霊感のものすごい強さを持つ人がいれば別かもしれないけれど」
「確かに亀吉はそのことに関して言ったことはなかったなぁ」俺はなんとなく地下鉄の窓に映る俺たち2人を、恋人同士に見えるかなぁと、おぼろげに見ていた。
「亀吉?」
「えっ、あ~俺の中のあれ、」何も考えずに言っちまったぜ。
「かわいい~」
「いや、昔飼ってたカメの名前」
「なんか早瀬くんっぽい。すごくリラックスしちゃう」と言って笑った。その時、地下鉄の中を歩いて来た身体中タトゥだらけの2人が通りすがりに俺に侮辱的な言葉、深田に汚くいやらしい言葉を投げて行った。俺は深田の手を握ったまま、睨みつけていた。1人が戻って来て俺の目を睨みつけ「What.s up?」と威嚇的に言ってきた。深田はすぐに「nono.nothing.sorry.」と言って俺の腕を引いて人の多い方へ歩いた。相手はまだこっちを見ていたが、もう1人に促されて行ってしまった。
「私を守るって昨日言ったじゃない。もしピストルを持っていたらどうするのよ。あんな睨み方して」
「亀吉が勝てるって囁いた」と俺は嘘をついた。
「そうなの?でもすごく怖かったわ。もうやめてね絶対。お願い」
「うん、わかってる。ごめん」なぜか不思議に俺は怖くはなかった。それに深田に怖い思いをさせてしまったことも後悔していない。むしろ何か余裕で楽しんでいた。
おい亀吉?本当はどうだったんだ。亀吉? 応答はなかった。でもあいつ1人には負ける気がしなかった。もう1人が加勢したらどうなっただろう。
「まだ震えてるわ。帰りはタクシーにしましょうね」と体を寄せてきた。昨日は緊張していたせいか、気にしなかったのに今は深田の胸が当たるたびドキドキした。おまけにエッチな自分が顔を出す。それをごまかし、そして深田の怖い思いを払拭するためわざとキザに言った「今夜はギムレットが必要だぜ」
ようやく彼女が笑った。
11
125丁目で地下鉄を降りてアポロシアターに向かった。歴史のあるライヴシアターだ。マイケル・ジャクソンもスティービー・ワンダーもこのステージに立っている。今夜はアマチュアナイト。司会は思った通りのエンターテイナーだ。それにしても世界から来る出場者たちは、皆すごい。技術もすごいしキャラクターも個性的だ。日本人のパントマイム&ダンスが強烈にウケていて、とても嬉しくそして感動した。日本人のアーティストが世界で活躍している姿を目の当たりにした。
黒人の少女の歌声には思わず驚きのため息が出た。深田も地下鉄の中の出来事を忘れたように手を叩き喜んでいた。
俺の未来はいったい何が待ってるのだろう。いや、俺はどこに向かってるのだろう。今の仕事の中で自分自身を感動させ、誰かを感動させることができるのだろうか。そもそも今の自分に何か取り柄があるのだろうか。特別なものは何もなかった。努力もしていないことに改めて気づいた。
亀吉、俺はこのままでいいのか? いいわけないよなぁ。亀吉なんで返事してくれないんだ? 潜在意識にも見放されたのか? しばらく虚無の中でステージを見つめていた。最後のアーティストが登場した。
彼は普通の東洋系の顔をした青年だった。普通がどういう定義なのかはわからないが、特別に何かを感じることのないという意味で普通だった。司会者とのトークも、司会者を困らせるほど普通だった。司会者の意地でほんの少しだけ笑う場面を作ったに過ぎなかった。
歌を歌うらしい。ただ歌うだけなのか。それも普通だった。衣装も、それが衣装と呼べるのか微妙だが、これまでのアーティストが華やか過ぎたのに比べて普段着に近いものだった。あまりにも期待できないその風貌に、最後の優勝者を決定する時間を待っているから早く終わらせてくれよという囁き声さえ聞こえた。このイベントの審査は観客なのだ。観客の歓声が1番多いアーティストが優勝になる。
優勝者は年間の優勝を決める大会に進めるのだ。おそらく彼はブーイングを浴びるだけじゃないか? そう思ってしまう。
歌はミュージカル『キャッツ』の中で歌われる名曲『メモリー』。彼は歌い出した。そして俺は動けなくなった。
会場にいる誰もが動けなくなった。ただ彼を見つめ彼の歌に吸い込まれた。そのたった3分に俺の中にあるすべての悲しみ、あるいは苦しみを取り出して包み込み、『もう大丈夫、心配なんてすることはないよ、だって幸せになるために生まれてきたんだから。ぜったいに最後は笑えるよ。ゆっくりそのまま前に進もう。』そう言ってくれた気がした。
これは今本当にあの青年が歌ったのだろうか。人の歌う歌がこれほどまでに人を感涙させるのだろうか。気がつくと深田の触れている体が震えて泣いていた。俺は自分の涙を拭うことも忘れ彼女の背中を抱いた。観客は皆呆然とし、感動し、涙を流していた。そして魂が歓喜した嵐のような拍手が沸き起こった。司会者もまさに狐につままれたまま出遅れ、その青年は観客に丁寧に頭を下げていた。
いつも饒舌のはずの司会者のコメントはまるで時間のかかったピザ屋が遅れた理由を言い訳しているようだった。まだこの余韻にひたっていたいと誰もがそう感じていただろう。優勝は結果を待つまでもない。おそらく今夜の彼の歌は、この会場に居合わせた人たちの一生涯、忘れられない奇跡の歌になろう。
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