42nd st

@Deckey

第1話 潜在意識

成田国際空港出発ロビーは珍しく空いていた。空いているとなんとなく不安になる。混んでいれば混んでいたで焦る。健太は大きく息をはいた。行き先であるニューヨークケネディ空港行きのチェックインカウンターGまでバッゲージを引きながら、携帯電話にメモしてある予約番号を確認する。遅い朝食を食べたきり何も食べていないことに気づき空腹を覚えた。

 荷物を預け空港内をぶらぶら歩く。健太はこの時間が好きだ。開放感に満たされまだ日本ではあるが気持ちはすでにニューヨークに行っている。

 ファストフードでサンドイッチとコーヒーを注文する。正面の大きなガラス窓からは飛び立って行く飛行機が見える。

 普段からものの考え方がどちらかというとネガティヴな健太はそれを隠すためにわざととぼけたものに動じないふりをしているが心の中ではいつも後悔ばかりしている。考え出すと悪い方悪い方に考えてしまう。そんな自分を取り繕おうと表面的には元気で明るく演じていても気持ちはついていかない。

 そんなストレスが溜まりに溜まると表面的にも演じきれなくなり逃げ出してしまいたくなるがそんな勇気はなく、余計に大変な思いをして休む言い訳をいくつも考え仕事の振り分けで本当の神経性胃炎になる。

 今回はたまっていた有休に加え上司のはからいもあり10日間の休みをもらえたが、実のところ今の仕事をやめようかと悩んでいた。この旅行中に素直に考えてみようと思っていた。とはいえ人生初めてのロングバケーションである。とにかく思い切り楽しもうと決めた。

 行き先はハワイのようなサマーリゾートは1人では寂しいし、ヨーロッパの数カ所を周るような観光ツアーはせわしない。国内観光も考えたがなんとなく何処も気が進まなかった。

 結局1度仕事で行ったことのあるニューヨークを冒険場所に決めた。決めてからもずっと仕事仲間に気兼ねしている自分がまた嫌になる。一体俺はいつが良い気分になれる時なんだと腹立たしくもなり情けなくもなる。

 やっと久しぶりに訪れた開放感。

健太は空港のターミナルロビーが好きだ。色々な国の人がのんびりと歩いている免税店のブランドショップやレストラン、コーヒーカウンター、バーカウンターと一人で落ち着ける場所がいくつもある。おまけにトイレもたくさんあるのがいい。

 食事を済ませ歩きまわっていると空港では健太は必ずトイレに寄る。綺麗で大きいトイレは最高だ。鏡も大きく汚れがなければなお良い。おまけに今日は空いていた。自分の顔や髪をチェックする。自分の顔は嫌いではないが時折眉間にしわを寄せて険しい目になる癖があり、最近は鏡を見なくても眉間にシワが寄っていることに気づくことがある。決まって不安なことを考えている。

 髪質は癖があり自然と少しカールしていて色はややブラウン。普段からきちんとセットする方ではないが櫛は入れて寝癖などは水をつけて直す程度だ。今日は珍しく良い感じに整っている。

 個室は全て洋式であるのもいい。便座が清潔な比較的ロビーの端の方のあまり人が来ないトイレを選ぶ。念入りに自分で便座を拭き、さらにペーパーを敷く。便座に座るとよく昔のことを考える。

 中学時代はしょっちゅうトイレ掃除をさせられたなぁ。なんでだっけ? そうだ笹野のせいだ。あいつがいつも俺を巻き込むんだ。他のクラスの給食の揚げパンを3時間目の終わりに給食室の前の廊下に並べられている食器台から取ってきて食べちゃう。3回目に同じようにメロンをやった時にバレた。なんでバレたんだか今だにわからない。

 先生に怒られたなぁ。先生が職員室で「お前たちは自分さえよければいいのか」と言った言葉がかなりショックだったのを覚えている。それからは笹野と他人に優しくしようを心がけてはきたが、全然守れてはいない。

 あいつが持ってきたラジカセで授業中こっそり二人で聴いたニルヴァーナの曲がイヤフォンが抜けて爆音が教室中に響いたっけ。

 そんなことばかりやってるからクラス一可愛いい深田香に嫌われるんだ。

 清楚で頭も良くて優等生、スタイルも良い。  

深田と付き合えるような男になりたいと思いながら、あいつの嫌いなことばかりをしていた気がする。

 深田と付き合えてたら人生変わってただろうなぁ。でも深田はたぶんエリートサラリーマンかなんかと結婚してるだろう。

 あの時キスしちゃえばよかったんだと、またそれを考えだした。あれは万に一つの奇跡のチャンスだったのに。びびった。

 あーあーあーあー俺はなんでいつも肝心な時に弱いんだ。

 あれは授業後の掃除の時間。俺と笹野、そして女子は深田ともう二人の女子。5人で男女の更衣室の掃除をしていた。笹野は足が速くいつもリレーの選手に選ばれ、俺はだいたい補欠だった。1週間後の運動会に向けてその日の放課後もリレーの練習があった。

 掃除を適当にあとは頼むと深田に言うと深田が珍しく怒り出した。笹野は先輩に呼ばれてすでに先に行ってしまっていた。他の二人の女子は女子更衣室の方にいた。

「まだ時間があるじゃない、このロッカーの中を拭いてから行ってよ」そう深田に言われて俺は素直に従った。

「早瀬くん(俺のこと)はいつも笹野くんのいいなりなのね。たまには自分でちゃんと物事を決めたら」確かにそうだけど認めたくない。ちょっと深田を睨みつけたが、そのままロッカーに頭を突っ込んで中を拭き続けた。深田はイライラしている様子だった。

「弱くて優柔不断な男の子大っ嫌い」今度は拭くのをやめて強めに睨んだ。

「早瀬くんは足の速いお猿さんよ。猿真似の猿」

「うるせー豚野郎。」沈黙…… あれ! 誰? 俺が言ったの?

 気がつくと深田は目を見開きびっくりして俺を見ていた。

「何よ、豚野郎って」

いや、あれ、怒ってる、結構気強いな。

「何よ、豚野郎って。猿に豚なんて言われたくない」

 深田が思い切り俺の横向きの肩を押すから俺は開いてるロッカーの戸に鼻をぶつけた。実際鼻血が出ると思って鼻に指を入れたら鼻水だった。

 可愛いい深田の顔が一瞬ブタに見えてきて「本物の豚なんだよお前は。ブーブー言うんじゃねー。白豚」と言ってしまった。俺にそんなこと言える強さがあったのか。だんだん深田の目が悲しげになり涙まで溢れてきた。

「豚野郎とか白豚とか言われたの初めてよ。ひどい」実際、深田は肌の色が白い。それを本人は気にしていたのだ。

 あれ、何これ、またまた嫌われた。それにめんどくさいこの状況。逃げるわけにもいかない。

 目の前で顔を抑えてしくしく泣きはじめた。なんか他にも嫌なことがあったのかなぁ。可愛いいいつもの深田に戻っている。

「あのさ、ごめん、深田が豚なわけないだろう。猿野郎なんて言うから、ちょっと言い返しちゃっただけ。ごめん」深田はそっと顔を上げて「猿野郎なんて言ってない。猿真似の猿って言ったの」あれ~涙に濡れた可愛い目が俺を見つめてる。えっえっまだ見てる、えっえっ。

 もしかして、もしかしてキスってこんなタイミングですることもあるのかな~、できるかな~。ドキドキした。俺は凍りついた。深田もハッとして下を向いた。「ごめんなさい」そう言って更衣室から出て行ってしまった。

 あ~あの時に戻って深田を抱きしめたい。深田に会いたい。思い返せばやり直したい過去がいくつもある。もちろんそんなことは無理に決まってる。                

                                           



2



トイレに人が入ってきたので我に返り現実に戻った。腕時計を見ると搭乗時間まではまだ余裕があった。トイレを出るとバーカウンターに行きドラフトビールを注文した。カウンターにはハンチング帽を被ったイギリス人風の老紳士がギネスビールを飲んでいた。近くのテーブルでは白人のゲイのカップルが見つめあっている。

 思う別れ思わぬに添う か。本当に好きな人とは結婚できないのか。30年間の人生で恋愛と呼べるかどうかわからないが、付き合った相手はいた。可愛い、大好き、の始まりではなかったが、「誰でも始まりはそんなもんだよ。徐々に相手を理解して好きになっていく」

 仲の良い先輩はそう言ってくれた。衝撃的な出会いではなくても徐々に好きになる方が自然だ。一生を共に暮らしていくって我慢することの方が多いのかなぁ。でもそれじゃ窮屈で楽しくないし、大好きで気があう人、なんでも言える人がいい。いないものかなぁ。今はまだ一人の方がいいかぁ。仕事も軌道に乗らないと結婚も難しいぜ。

 健太は音楽制作会社で働いている。この業界では名の通った会社である。仕事の内容は主にテレビや映画音楽、ウェブサイトのコマーシャル音楽等の制作であるが、イベントの企画制作なども行う。健太はここ数年デパート内の催事場の企画制作スタッフとして動いている。美空ひばり特別展、越路吹雪特別展、石原裕次郎特別展のように昭和の大スターの映像や写真等を展示するものや、カメラマンの個展のような企画、そして地方の物産展もやる。

 この期間中休みなしである。イベントの企画は規模にもよるが1年以上前からプランを立てるものと、旬のもので突発的に入るものとがある。企画はトップダウンばかりでなく自ら立案し企画し制作することも要求される。

 1度だけ健太自らが立案し制作したこともある。5年前、たまたま入った中目黒のタイ料理屋が気に入ってよく行くようになった。親しくなったそこのママさんが、タイ料理の美味しさをもっと知ってもらいたいという話から、タイの家庭料理展を食材販売から催事場に実際に屋台風のタイ料理店を作ってタイカレーの販売を企画した。 

 そのママさんの人脈でタイ人のスタッフも呼び、常連のお客さんたちの応援もあり、なんとか2週間盛況で終わった。今回の休みをOKしてくれた上司は喜んでくれた。しかしいつも思う。自分には情熱が足りない。

      


       3 

 

 好きだよ、と囁く白人のゲイのカップルがハイネケンのお代わりを注文した。あれっ日本語だったなぁ。それも日本人の話す日本語だ。彼は日本で育ったに違いない。

 イギリス人風の老紳士も日本人の日本語で甘納豆を注文した。甘納豆? 空港のバーカウンターには甘納豆があるのか。それに今の老紳士の言葉は江戸っ子が話す日本語だぜ。家の父親やおじさんたちが喋るイントネーションだよ。ひが微妙にしで、しが微妙にひになる。

 ここは江戸っ子の外人の溜まり場か? 不思議な思いでビールを飲み干し、健太もお代わりを注文した。

『The  same  please?』  あれっ? 俺が言ったの? なんか変だ。グラスに入ったドラフトビールが目の前に置かれた。『Thanks』えっ意思に反して英語がでる。ものすごく発音がいい。何? 何が起こったの? えっえっえっ。

 気持ちを落ち着けて一口ビールを飲んだ。1杯で酔ったのか。疲れのせいか。しかし今日は疲れもストレスも吹き飛んで、いたって気分がいいんだ。

 あれっ 橋幸夫の潮来の伊太郎を歌いながら入ってきたのは金髪の白人の美女じゃねーか。何、おかしいよこの店。

 「excuse me(すみません) あれっ」「May I order?(注文してもいいですか?)」日本人のウエイターが「sure(もちろん)」と言いながらメニューを持ってきてくれた。

 いやいやいやおかしいおかしい。なんでなんで。なんで思ったことが英語になってるの。そういう仕掛けがある店? とにかく落ち着け、落ち着け。軽く深呼吸してメニューを見た。特に食べたいものがなかったというより食欲自体なくなっていることにきづいた。頭を冷やそう。

 「I.m sorry. it.s time for a flight.I have to go.Check please.(ごめんなさい、出発する時間になってしまった。お勘定をお願いします。)」

「OK.Thank you very much.Good luck flight(ありがとうございます。良い旅を。)」

 なんなんだよ。なんなんだよ。

 

 先ほどのトイレに早足で行き、鏡の前でゆっくりと深呼吸した。よし間違えなく俺だ。そしてゆっくりと鏡に向かって、

「Hello Kenta Hayase」

『Hello Kenta Hayase』はっ? 鏡の中の俺も英語で話している。

「Who are you」

『Who are you』

「What?」

『What?』なんで英語に自然となっちゃうんだよ。

 汗が出てきた。なんかおかしくなりそうだ。もう俺はおかしくなったのか? 

 トイレから走り出て周りを見渡した。いつもと変わらぬ空港内の風景だ。俺どうしちゃったんだよ。身体中の汗が冷たくなった。携帯電話をズボンのポケットから取り出し、実家に電話をかけた。

「はい、もしもし早瀬です。」

のんびりしたお袋の声でホッとした。

「Hello mama.this is me.」

「もしもし早瀬ですけど。」

「This is kennta.it.s me」

「もしもし、早瀬ですけどどちらにおかけですか? (なんか外人の人の間違え電話みたい。お父さん、ちょっと変わってくださいよ)」

「Hey it.s me」

「ハロハロ ユウ ミステイク ノウセンキュウ」

 何がノウセンキュウだよ、俺だよ親父。気づいてくれよ。俺だって。「Hello Hello」 電話は切れた。電話じゃ誰も俺だって信じるわけないよ。会いに行くしかない。この状況を見せるしかない。

 何か脳に突然障害が起きたのか。何かの突然疾患か。この近くに病院はないのか、案内カウンターで聞いてみよう。かなりパニックになりながら空港インフォメーションカウンターに向かった。

 向かいながらどう説明すればいいんだと思い、立ち止まってしまった。突然日本語が喋れなくなりました、喋ろうとすると全て英語になってしまいますって言って、信じてくれるか? ふざけてるか、頭がおかしいと思われるよ。どうすることが今、最善の方法かを冷静に考えよう。近くの椅子にひとまず座った。

 考えろ考えろ。確かに英語は好きで働きはじめてからも独学で時々テレビやラジオのテキストで学んではいた。映画を観て勉強もした。しかし言おうとしたことがこんなにスラスラ英語になって出てくるほどの語学力ではないことは、自分が一番よく知っている。おまけに意思に反して日本語が出てこない。おいちょっと待て、これは夢か? いやこの覚醒感は完全に現実だ。とにかくこうなってしまったことは現実だ。 

 出発時間まであと1時間20分。出発ロビーに30分前には行くとしても、あと50分はある。ん? ん? この状況でニューヨークに行くのか? どうする? キャンセルして実家に行くか? 今からキャンセル? どうする? 冷静に考えろ。

『焦るな、焦るな。』昔飼っていた亀の亀吉がそう囁いた。いつの頃からか、究極に困っていると亀吉が心の奥の方で囁いてくれる。実際に亀吉を飼っていた小学校の頃もなぜか亀吉と話すと落ち着いた。もちろん勝手に話しかけて、勝手に自問自答していたのかもしれない。そしてなぜか亀吉が死んだ後も心の中で話しかけていた。その亀吉の囁きがあったのは1人暮らしを始めてからだ。

 いつも冷静な答えが返ってくる。亀吉、この状況どうしたらいい? 

『何、わけない。予定どおり』とまた亀吉の囁きが聞こえた。 

 予定どおり? ニューヨークに行くのか?『英語が話せるんだ、楽しんでこい』呑気なやつだなぁ。この妙な状況で楽しめるわけないだろう。

『状況なんてまた変わる。楽しめばいいんだ。楽しめば自然と状況は好転する』

 健太はスッと汗がひき、気持ちが落ち着いてくるのがわかった。そうか。そうだな。このまま実家に行っても両親を心配させるだけだ。医者だってこの症状はおそらく前例があるかどうかはわからないが、検査や治療に相当時間がかかるだろう。もしかしたらニューヨークにいる間にこの症状は普通に戻るかもしれない。逆にこの状態はありえない凄い奇跡なのかもしれない。とにかく英語で会話ができるんだ、この旅行は予定通り行こう。そう思うと気持ちも晴れてきた。サンキュー亀吉。

 

      

      4

 

 出国手続きを済ませ、出発ロビーに向かった。動く歩道を降りてゆっくりと歩き、出発待合いロビーの椅子に腰掛けると、その前を機内に向かう客室乗務員が数人、健太の前を通り過ぎた。

 一番後ろを歩いていた客室乗務員が笑顔で「早瀬くん?」と驚きを飲み込んで静かに声をかけてきた。一瞬また何かが起こったのかとドキッとしてその女性の顔を見た。とても綺麗な女性で誰だかわからず口をぽけーっと開けて座ったまま見上げた。

「深田香です。」と告げる女性に、おーと言ったまま、健太は全く言葉も出なかった。

「やっぱりそうだ。ニューヨークへ?」という彼女は頷くだけの健太に

「ビックリー、じゃ後ほど」と笑顔を残して機内へと入って行った。

 なにこれー。さっき思い出していた深田香が目の前に現れた。そして同じニューヨークへ? なんていう展開。どうなっちゃってんだ。俺はあの空港トイレの個室で生まれ変わったのか。大変な思いをして掴み取った初のロングバケーションで人生が大展開するのか。

 機内への案内の放送があり、いつもは混雑が過ぎてからゆっくり立ち上がるのだが、今日の健太は真っ先に立ち上がり航空券チェックカウンター入り口に進み、機内への通路を渡った。機内に入ると座席番号を確認しながら深田香を探した。頭の中は先ほどのパニックは吹き飛び、深田香でいっぱいになっていた。機内を前方から後方へと通路を進みながら自分の座席番号を探した。深田香より先に座席が見つかり、あたりを見回してから座った。

 あれも幻想だったのか? いや、そんなはずはない。もし幻覚で深田香を見たのなら、もう相当重症だ。また少し気分が悪くなってきた。このまま飛行機を降りて医者に診てもらった方がいいかもしれない。そう思い直し立ち上がろうとした時、「おひさしぶり~ほんとにびっくりした。早瀬くんぜんぜん変わってない」と深田香は横に立ち、満面の笑顔で少し声を抑えて言った。

 俺は嬉しさで、おどけて「Long time no see.you've become a cabin attendant, I'm surprised to see you.How.s it going?(久しぶり~キャビンアテンダントになったんだね、びっくりしたよ。どう、元気?)」とアメリカンな感じで言った。

 深田香も声を出して笑いながら

「I.m very fine.How about you.(元気よ。あなたは?)」と英語で返してくれた。「Sure fine.(もちろん元気だよ)」と笑顔で答えた。

 深田香はちょっと周りを見回して「See you soon.(また後でね)」と俺の肩を軽く叩いて仕事に戻って行った。

 やったぜ。上出来じゃねーか俺。こんな上出来なスタートは初めてだぜ。どうだ亀吉?『舞い上がってないで彼女に今の状態を伝えた方がいいんじゃないか』確かにそうだ。いつまでもこの調子で英会話っていうわけにはいかないからな。

 どうやって伝えたらいいだろう。彼女に真剣に伝えるか。英語で。彼女が英語ができてよかった。でもすぐに信じてくれるだろうか? そんなにゆっくり機内で話せるだろうか。仕事の迷惑になるだろうな。それに彼女はこの近くのサービスじゃなさそうだ。

 離陸するとシートベルトのサインが消え、乗務員たちは飲み物のサービスの準備に追われていた。やっぱり機内ではゆっくり話すことは難しいな、内容が内容だけに。

 飲み物のサービスが回ってきたのでビールをもらった。とりあえずリラックスして考えよう。機内放送プログラムや上映映画のリストが載っている冊子をめくると、クロスワードパズルが出てきた。久しぶりにワードを考え、それを埋めているとテガミという言葉が当てはまった。

 そうだ、手紙だよ、手紙で伝えよう。一気にビールを飲み干し、冊子と一緒に挟んであった便箋に深田香宛の手紙を書くことにした。これならばニューヨークに着くまでの13時間の間に十分説明ができそうだ。早速、今日空港に着いてからの出来事をなるべくそのまま事細かに書いていった。書き始めて気づいた。文章は日本語だ。

 あの妙な外国人たちがいたバーから始まったんだ。特別なことは何もしてない。最初に生ビールを注文した時は日本語で注文した気がする。ってことは生ビールを飲んでから…… そしてビールについてきた小皿のピスタチオをつまんで…… あれは本当にピスタチオだったのか? 原因はわからない。今もまたビールにナッツを食べている。周りを見回すと、前の方から食事が配られ始めている。

 書いた文章を読み返してみると、中学生の日記のようだった。こんな不思議なことがありました。なんとなく人ごとのようで全然せっぱ詰まった様子もヘルプしてる感じも出ていない。こんな文章で深田香に理解してもらえるだろうか。書き直そうと思ったが、体が重だるくとりあえず書いた便箋を冊子に挟みテーブルの下のポケットに入れた。ひとまず食事をしよう。先ほどまでなかった食欲が戻っていた。肉か魚? 肉を選んで赤ワインをたのみ、楽しんで食べた。

 隣の窓側の席のスーツ姿の男性は離陸直後からずっと眠り続けている。アジア系の顔立ちだが日本人ではないようだ。斜め後ろの男性と知り合いらしく座席に着く時の会話はおそらくタイ語だった。この前のタイ料理のイベントで何人かのタイ人と知り合いタイ語での挨拶だけは教えてもらったのだ。どこの国の会社員も休まず働いてるんだなぁ。お疲れ様。

 食事のテーブルが片付けられ、コーヒーを飲みながら上映映画のプログラムを見ていると、横に腰を落として微笑みながら「ニューヨークにはどのくらいいるの?」と深田香が日本語で聞いた。一瞬戸惑ったが人差し指をたて「1 Weeks」といった後、思い切って先ほど書いた便箋を渡した。俺の目を見て何かを感じたらしく、その便箋をしゃがみ込んだまま自分のペンライトで照らし、その場で読んだ。

 読み終わるとまた俺の目を見て、「また後で来る」と俺の肩にそっと手を触れてから、その場を離れていった。

 伝わっただろうか。少し気になったが、さっきの深田香の目は信じてくれていると、かなり確信が持てた。なぜだかわからないが、そう感じた。 

 急にビールとワインの酔いが回ってきたのか眠気がやってきたと同時に眠りに落ちた。シートの背もたれに吸い込まれてしまいそうな重く深い眠りの中に入り込んだ。


 5

 

「早瀬、また岩井が2組の前田たちにやられてるぞ。行こう」笹野が呼びにきた。またかよ、お前はいいよ強いから。俺は喧嘩になると必ず何故か鼻血が出る。鼻血が出るとたとえ勝っても負けたと思われる。それが嫌だった。岩井は小学校の時から前田にわけもなく殴られてた。女の子のような顔をしてる岩井はいつもニコニコしていて、何を言ってもニコニコしているので相手をイライラさせるのだ。殴られて、ズボンを脱がされて、ズボンを裏庭の花壇の傍にある水たまりに投げられても泣きながらニコニコしていた。

「前田てめー又岩井に何してんだ。」笹野のこの怒鳴り声から始まる。向こうは4、5人でこっちはいつも野次馬含めて7、8人はいるが実際に喧嘩するのは笹野と俺だ。笹野は体格もいいし腕力があるからいつも2人相手でも優勢で終わるが、俺はつかみ合ったまま、もみくちゃになり鼻血を出して止められて終わる。止めるならお前らも加われよと同じクラスの奴らに言うと「次はやるよ。」と言ってごまかす。

 あれは確か給食を食べ終わった昼休み、前田たち4、5人が俺たちの教室にやって来た。「早瀬、俺と対マン張ろうぜ。」と前田がみんなに聞こえるように言った。

笹野が「俺とやろうぜ」というと、「お前とは今度だ。まず早瀬とやる」と前田が頑として言った。笹野がどうする?という顔で俺を見た。

嫌だって言えるかー

 売られた喧嘩をクラスのみんなの前で断れるわけないだろう。学級委員の石川くみが「早瀬くんやめなさいよ」と願ってもない言葉をかけてくれた。その隣で深田香が可愛いい優しい目で頷いてくれた。にもかかわらず、バカでかっこつけの俺は「いつだよ。」とニヒルなアヒルの声で言ってしまった。「今日の放課後だよ。体育館の裏な。」そう言って前田たちは行ってしまった。

 えっ今日かよーときっと情けない顔をしていた俺に「行っちゃダメだよ」と女子たちから声が飛んだ。

 5時間目開始のチャイムが鳴り席に着いた。そして後悔していた。なんで行くようなことを言ってしまったんだ。あいつ(前田)は結構強いぞ。いくらでも言い訳はできたのに。でも言い訳は結局は言い訳だ。逃げることになるし、この次又やる時がくる。それに深田香には逃げるような態度は絶対に見せたくなかった。

 右斜め前の席に深田香が座っている。後ろから見ても可愛いい女は可愛いい。振り向くと幸せをくれる。裏切られない。街では後ろ姿によく裏切られることがあるが。そんなことを考えていると、後ろの席からメモが回って来た。笹野からだ。(俺も一緒に行く)と書いてある。振り向かず頭の後ろでピースサインを送った。

 放課後、笹野といつもの野次馬5、6人が体育館まで付いて来た。すでに前田たちも5、6人で来ていたが、ワルの先輩たちが体育館横でタムロしていて前田たちをからかいながらも、親しそうに話していた。前田は俺を見ると先輩に何かを告げた。先輩は俺を呼び「俺が見ててやるからな。先公が見回りに来るから5分以内で終われ」と言うと何人かで周りを囲んだ。先輩たちの囲みの中で、俺と前田はにらみ合いつかみあった。

 腕力はむしろ俺の方があった。壁に押し当て頭を壁に打ち付け横に倒した。その瞬間思い切り急所を蹴り上げられた。俺は呻きながらうずくまったところに、顔面を殴られて鼻血が吹き飛んだ。そこで先輩は止めた。鼻血が出て涙目になっている俺は負けたのだ。喧嘩は腕力じゃない。

 ここにいた奴しか知らないことが、次の日は学年中が知っていた。早瀬は前田と喧嘩して負けた。

 当然、深田香も知っただろう。笹野が「早瀬は負けてない、前田をぶっ倒したぞ」と言ってくれても噂は千里を走る。最終的に喧嘩の強い前田に早瀬は負けたんだと。急所を押さえて鼻血を出して泣いて前田に謝ったと尾ひれがつく。

 あー深田香、俺は無様に負けたんだ。お前のことが好きだなんて言えない。鼻血を出して惨めに負けたんだ。好きだなんて絶対言えない。言えない。言えない。



      6

 

 「You ok?(大丈夫?)」

 俺はどこにいるんだ?夢か?

「Would you like me to call the crew(客室スタッフを呼ぼうか」

 隣のタイ人が心配そうに聞いている。深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。「ありがとう。でも大丈夫。」 声が枯れてなのか全く音になってない。掠れた空気音だけが漏れているだけだ。親指で大丈夫と合図した。

「You had a naightmare.relax.easy easy.(うなされてたよ。落ち着いて)」と真剣な目で言ってくれた。そのまま彼はまた眠りに入っていった。

 静かに深呼吸しながら少しづつ目が覚めてきた。ん? 声は出てなかったけど今、日本語だった? 

 完全に目が覚めて、便箋を出し『寝て嫌な夢を見て起きたら完全に声が枯れてる状態で声が出ない。でも日本語で発してる』と書き、席を立って後ろの方にいるはずの深田香を探した。トイレを通り過ぎ一番後ろまで機体の揺れに揺られながら歩いた。深田香の姿はどこにも見当たらない。最後尾のスペースを回り込んで反対側の通路を元の方に戻りかけたところで深田香が前から歩いてきた。  

 深田香を最後尾のスペースに手招きし、そこで便箋を渡した。彼女はペンライトを照らし便箋のメモを読むと「席に戻ってて、何か飲み物を持って行くから。アルコールはやめた方がいいわ。水と暖かいコーヒーでいい?」俺は頷いて自分の席に戻った。

 声は枯れていて出ていないが、日本語になっていた。これで妙な現象から解放されるのか。間も無くするとエプロンをした深田香が暖かいコーヒーと水をテーブルに乗せ運んできてくれた。

「もうすぐ食事よ。食べられる?」

頷く俺に深田香はにっこり笑い、前の方に戻って行った。彼女の担当エリアは前の方だったのかと思いながら、水を一気に飲み干し、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。なんだったんだろう。どうなってるんだ。夢はまるでバックトゥザフューチャーだぜ。

『皆さま、おはようございます。只今アラスカ上空、高度33000フィート約10000メートル上空を飛行中でございます。ニューヨークの気温27度快晴。ジョンFケネディ国際空港到着時刻は現地時間午後5時30分頃を予定しております。引き続き空の旅を楽しんでお寛ぎくださいますよう、宜しくお願い申し上げます』

 あーあと数時間でニューヨークだ。頭を切り替えて思い切り楽しもう。

 食事が終わりコーヒーを飲みながらもう一度深田香に手紙を書いた。

 ~深田香様。 久しぶりに会ったのに変な心配をかけてしまってごめん。仕事中迷惑をかけてしまったよね。でも空港で名前を呼ばれた時は本当にびっくりした。ニューヨークには何日滞在できるの? もし時間があれば会えますか? さっき昔のことが夢に出てきたよ~ 

 このあと書くことが思いつかず、滞在先のホテルの名前と電話番号を書いた。席を立ちトイレに行った。鏡の中の自分を見てびっくりした。若い、まるで中学時代の顔でおまけに殴られた後のように鼻が腫れていた。鼻血が出たあともある。深田はさっき何も言ってなかったなぁ。機内は暗くて気がつかなかったのか。なんだよこれ。どういうことなんだ。顔を洗って鼻血のあとを洗い流した。別に腫れてる鼻を触っても痛みはない。触っている手の方は腫れてる感じがない。

 トイレから出て席に戻り心の中で亀吉にヘルプした。少し沈黙の後『潜在意識コンプレクス』と亀吉が囁いた。なんだよそれ? 『心に眠ってたコンプレックスだよ。鼻血が出て負けたこと。もう忘れちゃいな』急に情けない気持ちが逆に蘇った。亀吉、どうすれば忘れられるんだよ? しばらく待ったが返事はなかった。 落ち着け落ち着け。自分に言い聞かせて深田香への手紙を持って通路を前の方に歩いて行った。かなり前まで探したが深田香の姿はどこにもなかった。

 座席に戻ると気持ちを落ち着かせるためヘッドフォンをして音楽を聴いた。目を閉じて聞いていると懐かしいニルヴァーナのスメルズライクティーンスピリットが流れ出した。この曲を授業中に聞いていて、イヤフォンが抜けてでかい音が教室中に響いたっけなぁ。あれも笹野がわざと抜いた気がするなぁ。みんなびっくりしてたなぁ。深田香の驚いた顔、目をまん丸にして可愛かったなぁ。

 目を開けて顔を上げると、本物の深田香が立っていた。俺はびっくりして思わず立ち上がってしまった。ヘッドフォンが外れた。

 にっこり笑いながら「どうしたの、座って。喉の調子はどう?」と聞いた。「まだ掠れてるけど大丈夫そうだよ」と掠れてはいるが、深田香には聞こえたようだった。

「これを渡しておくよ」先ほど書いた手紙を渡した。

「到着まであと1時間よ。何か飲む?」

「じゃコーヒー。向こうで少し会う時間ないかな?」

「いいわ。今夜は会議と食事会があるから明日はどう?」

「もちろんOK、ここにホテルの電話番号を書いたから明日の朝電話して」

 熱いコーヒーを運んできてくれた深田香は俺にメモを渡して別の接客に向かった。



 

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