下らない世界と、下らない私。

智槻杏瑠

My Nocturne in Tokyo

 軋んで閉まった扉の音。閉め切ったカーテンの向こうで日は落ちていた。

 灯りが落ちた部屋の中。もう音はしないし光もない。退廃的な生温い匂いが空気中を漂っている。

床に落ちた布団。皺が寄ったシーツに染み込んだ汗の湿気。シミになった所に触れる気などさらさら起きなかった。

 アイツはもう帰って行った。私のヒップにヒリヒリした痛みを残して。全てが無になった感覚の中で、その痛みだけが妙に際立つ。

 アイツ、私には目もくれないで去って行きやがった。マチアプは本当にピンキリだよ。実社会で人間関係作るの煩わしくてネットの世界に逃げ込んでる私も人の事全く言えないけど。

 股の間を伝う感覚が不快でしょうがない。でもそれを拭いたくてもティッシュに手を伸ばすと言う動作に使う気力が起きないの。零れて垂れてシーツをいくら汚しても、私は身動き一つせず、両手両足を開いて天井を見上げている。

 大学に入って、一人暮らしして、もう一年近くが過ぎた。

 地元の友達とかの人間関係全部切って東京に出てきた私を迎えてくれたのはコロナだった。それまで当たり前にあったものが急に全部消えて、一日に一度も人の顔を見ない事が普通の日々の中で、私は環境を変えようとか置かれた場所で咲こうなんて思えなかった。

 一般受験で頑張ったのに、その頑張った果実はどこかに消えて行った。因果応報って言うのなら、私の頑張った分の債権はどこに飛んで行ったんだ。

 私は遠くを見るのをやめた。未来に期待を持った分だけ、失望が大きくなるのだから。

 書店のバイトで年上の先輩に対して真っ当な人付き合いをしようとも思わない。みんな話は大して面白くもないし、漫画と参考書くらいしか読んだ事ないくせに面接では本が好きとか適当な事言って入ってくる。そう言う奴に限って趣味を聞かれたらゲームとしか答えられないんだ。

 マスクって言うのは実に都合の良い隠れ蓑で、私は表情を取り繕う事をやめた。ウィルスだけじゃなくて、人間の発する“気”みたいなものも遮断してくれてとっても楽だった。バイトでも一度も行ったことのない学校でも人間関係が作れないから、私はネットに逃げ込んだ。

 人との繋がりが欲しかった。大した家具もないワンルームの中だけが私の知る世界で、私だけがこの世界の住民だった。例え股の繋がりでも、私の世界を埋めてくれる人がほしかった。

 大して大きくもない胸を晒せば五百円。通話してあげれば千円。家でさせてあげたらホ別じゃない分二万円。そうして詰み上がっていくPayPayの取引履歴が承認欲求のために私が私を大安売りしてきた記録だった。

 歌舞伎町に入り浸らないだけの賢明さは持ち合わせていたけど、身体を叩き売りしている私は沼ってる女たちを全く非難できたものじゃない。もし実家からの仕送りが無きゃ私は今頃トー横の住人だっただろう。

 真っ暗な部屋の中でスマホが鳴って画面の光が天井に反射した。不思議なもので、スマホを触るためなら人は無限の気力が湧き起こるのである。スマホを手に取るための寝返りで股の間でぐちょっとしたものが動いた。

 通知はLINEからのものだった。クーポンのために登録したどうでも良いお店のどうでも良い通知。それをスワイプで流した次に目に入ったのはTwitterのリプだった。

 画面が映し出すその文字を見る。私の冷め切った胸郭の内側に急にお風呂のお湯くらいの温もりが注がれた感覚がした。

 反射的に起き上がって返信を打とうとするとまたべちょべちょした感覚が私の神経を苛立たせた。冷めた男の残し物って本当に気色悪く感じる。もっともそれに無感動に股を開いていた私には何も非難する資格などないんだけど。

 今度はすぐにティッシュに手が伸びた。べとべとのティッシュ三枚をゴミ箱に投げ込むと、このワンルームの空気の吐き気を催す退廃ぶりが嫌になって、シーツを丸めて洗濯機に突っ込み、窓を開けた。

 昼夜を逆転させるような煌々とした建物の明りと、行き交う車と人の音。時々それに遠いサイレンの音が響く。急激に私の世界が拡張されたような錯覚を抱く。部屋の外は確かに息づいていた。

 汚いものにいっぱい触った手を洗い、再び私はスマホにかじりついた。

 フォロワー六二人の方の垢で通知している小説投稿のツイートへのリプが、裏垢に群がってくる数千人の人々の形ばかりの誉め言葉より何千倍も嬉しい。

 その人は私の語彙力と人物描写の立体感を賞賛してくれていた。自分でもそれを意識して描いたものをそう褒めてくれるなんて最高。裏垢よりずっと承認欲求が満たされる。

 結局いくら裸売ってリツイートされようが細い身体を褒められようが何も響かない物がコメント一つで手に入る。それを知っててなお裏垢を消せないのは承認欲のせいか怠惰のせいか分からないけど。

 彼氏が欲しいのかもなぁ。程良く話せて、そこまで重くない奴。まーそんな奴ネット漁ってもいなさそうだけど。

 こういう実体験ベースの小説って、やっぱ立体感あるのか伸びるのかなぁ。そのために身体を売ってると思えば悪い話じゃないのかも。いや良くないか。

 『そういう感想マジ嬉しいです!!!!!ありがとうございます!!!!!(土下座姿勢)』

 七割くらいの本気でリプしてスマホをシーツが抜かれたベッドに放り投げると、喉が渇いた事に気付いた。

 洗濯機を回すついでに冷蔵庫のオレンジジュースをプラのグラスに注いで口に含む。嚥下しようとした途端に数十分前を思い出して流しに吐き出した。

 自分が汚らわしい。この狭い部屋の世界の殻に閉じこもってるのが気持ち悪い。もっとキラキラした大学生になってると思ってたんだけどな。

 全部コロナのせいだって言い訳して逃げてるだけって、自分では分かってる。けど心の置き場所をすべて破壊された大学生に、誰かが何かしてくれたって言うの。

 世界に希望は見えなくて、ネットは人の嫌な面ばかり見せつけて来る。でもその世界に頼らないと私は人間の息遣いを感じられない。身体を売って得られる承認が、辛うじて私の心を保ってる——

 「あっ」

 反射的に声が出た。明日までのレポート全く手付けてなかった。

 ノーパソに向かおうとしたけど、ここにいたくない。

こんな場所から出て行こう。嘘みたいに素早くジーンズに足を通す。適当なシャツとジャンパー。マスクがあればすっぴんでも大丈夫。AirPodsとモバイルバッテリーは必需品。

 コロナが無かったら表参道でDiorの靴でも買ってたのかな。買いなおす気も起きず履き潰したボロいスニーカーに足を通しながら思う。扉を開けた向こうの空気は地元よりはずっと汚くて、それでも私の世界よりはずっと澄んでいた。

 高田馬場の駅前は沢山の人が行き交って、マスクとキャップで顔を隠した陰気な女一人なんか誰も気にかけない。そのおかげで誰の目も気にしないでいられる。まるで透明人間になったみたい。東京は冷たいけど自由な世界だった。

 皆に使い潰されて今やブランド価値が無くなったスタバ。前を通ればマスク姿のJKやそれが共通ファッションみたいに皆グレーか紺のジャケットを羽織ったベンチャーの人。私はそんなにキラキラできないから、扉の前で二秒足を止めてやっぱり歩き出す。

 だからって星野珈琲に足を踏み入れるのもおかしな話なのだけどもね。綺麗な身なりじゃないのに、随分身の丈に合わない事をしているなとは思っている。まぁお金はあるんだから別に良いでしょ。

 珈琲一杯とスフレパンケーキ。不健全な運動のせいで空いた腹にはちょうど良い。ここでのパソコン作業は、何故か知らないけど他のどこよりも集中できるんだ。

 心のどこかにぽっかり空いた穴を埋める栓を探すように、でも探す気が起きないまま怠惰に逃げるように私は今日も生きている。環境のせいにして逃げる私を、でも何もしてくれなかった世界の誰が非難できるって言うんだ。

 2000字のレポートはさほど難しくはない。ただZoomをゲームしながら聞き流した授業のpdfを見ながら内容を要約して落とし込んでいくだけだ。幸い小説を書く身なら、文章にいちいち思い悩む必要だってない。

 一段落が書き終わって冷めてきたコーヒーに口を付け、辺りを見渡してみる。同じ制服を纏った私より二、三歳若い男女が向かい合って、スマホ片手に談笑中。ノーメイクの私に目を付けて来るような人間なんか一人もいない。

 あー、私の事理解してくれる彼氏欲しいなー。って思ってるだけじゃ絶対捕まんないだろうけど。

 変わらない世界と変わらない私のアネクドートってね。あーバカみたい私。

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