第二章:意識の転送

 エイダ・チャンの研究室では、壮大な実験の準備が進められていた。彼女の数式から導き出された「生命のエコー」という概念は、科学界に衝撃を与えた。だがエイダは、その発見を実証するため、さらなる一歩を踏み出そうとしていた。


「リン、準備はいいかしら?」


 エイダが静かな声で尋ねた。彼女の目は決意に満ちていた。


「はい、先生。すべてのチェックリストに目を通しました。装置も正常に稼働しています」


 リンはそう答えつつも、心の中で不安を抱えていた。


 エイダは、意識を数式で定義された次元に転送する装置の前に立った。この装置は、彼女の渾身の作品であり、生命の本質に迫る最先端のテクノロジーの結晶だった。彼女の理論によれば、この装置を使って自身の意識を、物質を超越した純粋な情報の流れとして、宇宙の深淵に送り込むことができるのだ。


 エイダは深呼吸をし、装置の中心に位置する椅子に腰を下ろした。リンと他の研究チームは、緊張した面持ちで彼女を見守っていた。


「始めます」


 エイダの厳かな声が響くと、リンは装置のスイッチを入れた。


 室内の空気が振動し始め、装置からは青白い光が放たれた。エイダの体は徐々に透明になり、やがてその姿を完全に消失させた。彼女は、数式が描く未知の次元へと旅立ったのだ。


 装置が静まり返り、リンはエイダが座っていた椅子を見つめた。そこにはもはや彼女の姿はなく、ただ静寂が広がるだけだった。リンは、彼女がこの世界に戻ってくることを信じて待ち続けた。


 一方、エイダは全く異なる世界を体験していた。彼女は肉体を持たない状態で、時間や空間が存在しない次元を漂っていた。ここでは、すべてが純粋な情報として存在し、彼女の意識もまた、その一部となっていた。


 彼女は理解した。


 人間が生まれるのは、物質的な宇宙における情報の流れの一部としてであり、生きることは、その情報を経験し、加工し、そして伝播させる過程なのだと。


 そして死は、その情報が新たな形で宇宙に戻ることを意味していると。


 エイダはこの次元で、生命のエコーを感じ取った。それは生物が死んだ後も残る、微細ながらも確かな情報の波紋だった。彼女はその波紋に触れ、自らの発見を物質世界に伝える方法を探った。


 しかし、エイダはやがて自分がもはや物質世界に戻ることができないことに気づいた。彼女の意識は、宇宙全体と融合してしまっていたからだ。彼女の知識と発見は、彼女の「死」とともに宇宙に広がっていく運命にあったのだ。


 研究室では、リンがエイダの体を見つめていた。エイダの体は、まるで長い旅から戻ってきたかのように、平穏な表情で横たわっていた。息はもうなかったが、彼女の発見は数式という形で残され、次の世代へと引き継がれるメッセージとなっていた。


 エイダの体が冷たくなる中で、リンは涙を流した。しかし、彼女はエイダの意志を継ぎ、生命の真の意味を問い直すきっかけを世界に示す決意を新たにした。エイダ・チャンの発見は、生命だけでなく、宇宙に対する我々の理解をも変えていくのだった。

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