他人との関係という胎盤

@syamagami

第1話

【作品タイトル】

他人との関係という胎盤


【ペンネーム】

山上鐘鶴(やまがみ しょうかく)


【あらすじ】

ある日、三藤商事に勤める竹内友哉三十二歳は電車の中で相澤佳奈十八歳と出会う。それは偶然の邂逅ではなかった。佳奈は友哉を電車の中で見かけるようになって一方的に好意を抱いたのだったが、それには理由があった。そのころ佳奈は歳の近い中垣洋介と付き合っていたのだが、妊娠したにもかかわらず勤めにも出ない洋介に愛想をつかし、また洋介には暴力的な一面もあったために洋介と別れて友哉に頼ろうとしたのだった。そんな折り、佳奈は流産し、流れた未分化な塊をマヨネーズの瓶に詰めて形の定まらない遺児を葬ることにした。この未分化な塊は他人との関係が具象化したものであり、友哉はその未分化な塊を実際に手に取って、他人を受け入れていくことにした。そのころ三藤商事では社内カンパニーを二社起ち上げる計画が持ち上がり、その一方を大学時代から付き合いのある同僚の仲根弘樹が担当し、もう一方を直属上司の松木部長が担当して、それぞれに社内カンパニーを特徴づける事業計画書を提出させ、競わせることにした。友哉は両者からチームに加わるよう誘われたが、考慮の末に松木の誘いを断り、仲根のチームに加わることにした。これに松木は激怒し、友哉にパワーハラスメントを加えるようになった。一方、この両者に対しては対立する派閥がそれぞれの社内カンパニーを支援していたのだが、仲根が属する社長派の野川常務の画策で、松木と友哉の反目を利用して松木たち専務派が追い落とされていく。この過程で、仲根は会社が意外にも友哉の能力を高く評価していたことを知り、友哉をライバル視するようになる。ライバルは蹴落とすのが常道である。時を同じくして、佳奈も友人たちとの関係が壊れていった。ある日、友人の小山厚子が自殺して、佳奈と洋介たちとの交友関係が終焉を迎えることになり、これを契機に佳奈は友哉と別れる決心をし、仲根と洋介も友哉の部屋に一堂に会して決死の宴を催すことになった。










     一



 八月が終わりを迎えるころ、電車の中には初秋の朝の匂いが詰まっていた。

 柑橘系の香水の甘くただれた匂いが鼻に刺さり、隣に立つ若い男の体からもライムの匂いが漂ってくる。前に立っている上背のある女の濡れたように光る髪の毛が背中に重たげにぶら下がり、毛先から湯の香りが立っているようだ。車内にはつらつとごった返す他人の匂いのあぶくが、なんの感慨もなく友哉の鼻先で次々に破裂していく。

 電車はいつものように二分ほど単調なリズムで軒の低い住宅街を走り抜け、二棟の空色の中層マンションにさしかかるところで小さく蛇行して次の駅に入る。ふだんならスピードを落として曲がって行くのだが、今日は混雑のために定刻より二分ほど遅れていたからか、スピードをほとんど落とさずに曲がって行った。もみあうようにして立っている乗客の体がうねりながら外側に倒れ、黄金色に実った稲穂が大風にあおられたように深く波打つ。乗客の華やいだ悲鳴を聞きながら、足を開いて踏ん張ろうとした拍子に爪先に突き刺さるような痛みが走り、友哉がうんっ、とうめいたのと、濡れた髪の女の隣に立っていたやや細身の髪の短い女が、あっ、と叫んでこちらを向いたのと同時だった。鋭い痛みをかばうひまもなく揺られながら踏ん張っていると、痛みはすぐに疼痛となり、振り向いた若い女を目つき鋭く見やれば、女もこちらを向いたまま電車のリズムに合わせられないのか、顔をこわばらせて手を前に出しながらもう一度のけぞった。こいつか。友哉が何度か電車の中で見かけていた女だった。遠くに離れていても、どういうわけかこちらを見つめる他人の視線は感じ取ることができ、見られていることに気づくものである。そうしてそのことに気がつくと、いつとはなしに視線を送る相手を意識するようになっていく。今日はその視線の先が近いところにあった。

 吊り革はどこもふさがっており、友哉が何気なく手を差し出すと、女は思いがけず友哉の手をしっかり握って体を支えた。強弱を繰り返して薄れていく痛みを気にしながら、友哉は女の手のやわらかさに打たれた。やわらかく温かくすべらかな手だった。友哉は大学生の時に二年ほど付き合った恋人と別れて以来、女の肌に直に触れる機会を持たなかったから、新鮮な驚きを覚えるとともに、自分のごつごつとした肌触りとは異なる温かくやわらかくなめらかな感触を、異質ではあるがなつかしい感触として瞬く間に脳の内側に取り込んでいた。

 いくつくらいだろうか。顔にまだあどけなさが残っているところを見ると二十二、三というところか。女は顔を心持ち赤らめて、「すみません。」と、つかんでいた手を離して友哉の足元を見やりながら、うわずってはいたがしゃがれ声でぶっきらぼうに言った。友哉が黙ってうなずくと、女はうつむいてこちらに体を向けたまま電車に揺られ続けた。真新しい半袖の白いTシャツにブルージーンズをはいた女は、片手でバッグの紐をつかみ、片手をだらりと垂らして、今度は体をうまく電車の振動に合わせて立っている。長い指がふっくらとしていて、中指にはめたハート形の銀の指輪がふと差し込んだ朝の光を受けて光ったかと思うと、その光も人の影にたちどころに消されてしまった。時折中指がぴくりぴくりと動いて、手持ちぶさたを見せつけているように思え、気がつくといつの間にか足の痛みも消えていた。

 警笛を鳴らしながら電車が次の駅の構内に入り、思わずまた足を踏ん張ると、それでも人の圧力は厚い石壁のように重く、減速した拍子に体が耐えきれずに横に大きくかしいだ。女も押されてのけぞり、自然に手が前に伸びてまた友哉の腕をつかみかけ、反射的に友哉も女の腕に触れないように手を前に出していた。女は黙ったまま初めてまともに友哉の顔を見上げ、友哉は前に出した手を引っ込めることもできずそのまま吊り革の上部をつかむと、すぐさまそっと離して体の横に下ろした。ドアが開き、新たに乗り込んで来た乗客に背中を押されて、女は友哉の肩にぶつかりながら反対側のドアに押しつけられ、友哉もなだれ込んで一緒にドアに押しつけられた。女は窓の外を見つめ、友哉はまだこちらに体を向けている女の顔をながめた。電車の中で遠目に何回か見かけたことはあったのだが、こんなに間近に見るのは初めてだった。女の背丈は一八〇センチメートルある友哉の鼻先に頭頂が見えるので、一六〇センチくらいである。女はマスクをしていなかった。目は大きく輪郭がはっきりしていて、鼻筋が通り、肌理が細かく白く、あごはややとがり気味で、肩のあたりでゆるやかにカールしている短めの細くつやのある髪に、太い眉が気の強さを表に出しているような気がしたが、嫌いな顔立ではなかった。

 電車が再び動き始めると、人の体の揺れに自分の体をあずけ、友哉はふっくらとした手をまた垣間見た。体が上下に揺れ、下りの電車とすれ違いざまにガラス窓が激しい音を立てて揺れる。まだ中指がぴくりぴくりと動いている。友哉は一定のリズムを刻んで走る電車の振動に揺られながら、誘うようなおぼつかなくふしだらな指に触れてみたくなった。痴漢と騒がれるかもしれない。友哉は頭の中で女の手をそっと握ってみた。ちょっと、何すんのよ。痴漢よ、この人痴漢よ。その後いったいどういう騒ぎになるのだろう。友哉は恐れをなして笑いを噛み殺しながら窓の外に目を移した。白塗りの中層マンションや線路間際まで突き出ているクリーム色や空色のペンキを塗った二階建の一軒家が目に飛び込んだとたんに、住宅街が少しの間途切れ、空間が開けて通り沿いの銀杏並木がゆるやかに流れて行く。

 ふとまた、車体が大きく内側に曲がり、女が華やいだ叫び声に呑み込まれてしまうほど小さく、低く、短かく、あっ、と言って手を前に伸ばすと、友哉も反射的に手を差し出したが、手はそれて女の指を二、三本つかんでいた。女はどういうわけか、前屈みになりながら指をからませ、友哉の顔を見上げて目の下の筋肉を小刻みに震わせて微笑んだ。女のやわらかいつるりとした指の感触に打たれながら、この意外な反応に友哉はとまどいを覚えた。女にやんわりととがめられている気もする。何をしているんだ、おれは……。指をはずすと女の顔をまともに見ることができず、いたたまれない。友哉は窮屈に体をのけぞらせて頭の中で今日の予定をざっと確認し、それから時計を見て秒針を見つめた。この電車には二年ほど乗っているので途中駅の到着時刻と発車時刻は大体覚えている。少し遅れてはいるものの、ほぼいつも通りの通過時刻である。一本後の電車で行っても会社には間に合うか……。友哉は次の駅で降りることにした。


 友哉が降りると女も一緒に電車を降りた。偶然だろうか。友哉は女の前を進んでそのまま改札を出ることにした。女も友哉の後について改札を出たようだった。ここで降りるのか……。友哉は仕方なく駅舎を出て通い慣れた道を歩くかのようにまっすぐバス停に向かった。少し間を置いて後ろを振り返ると、女は十メートルほど離れてなおも友哉の跡をつけて来る。偶然なのだろうか……。時間が気になったが、友哉は面白くなって、駅前のロータリーを突っ切り、シャッターを下ろした店が並ぶ商店街に入った。女はまだ跡をつけて来る。どういうつもりなのだろうか。もう少し様子を見ることにしよう。友哉は会社には後で電話を入れることに決めて、このまま歩き続けることにした。もう、面白さはふっつりと消えていた。

 商店街を抜けるころには、人通りも少なくなり、友哉の跡をつけて来る女を気遣いながら、首筋にたまった汗を拭って友哉は歩き続けた。銀杏並木が続く通りを足早に歩くと、女はふと見やった友哉の目をまっすぐ見返しながら脇目もふらずに追いかけて来る。こんなことがあるのだろうか、そう思いながら住宅街につながる路地に入り、女が跡をつけて来られるようにゆっくりとそこを通り抜け、大きな家が立ち並ぶ住宅街に入って、四つ角にあった電信柱の影に隠れて見ていると、女はあたりを見回しながら小走りにこちらにやって来た。女が電信柱にさしかかった時、友哉はやにわに陰から飛び出して、あっ、と叫んで目を大きく剥いて息を弾ませている女の肩をきつくつかんだ。

「いったい、なんのまねなんだ、人の跡なんかつけて。」

と、おどすようにわざと声を低めて言ったが、慣れないせいかついしゃがれ声になった。

「道が違ってるじゃない。それにあたしの手に触ったし。あなた、あたしに気があるんでしょ。」

 女は口を開けてせわしげに息をしながら、落ち着いた声でそう言うと、目を細めてにやりと笑った。顔立に似ず低い声である。友哉は一瞬緊張した。

「道が違う? だから跡をつけて来たのか?」

 女は上体をそらして深呼吸をしながら、うんとうなずいた。「道が違う」とはどういうことだろう。若い女だからといってへたに侮ってはいけない。うわべや見てくれほど信用できないものはないのだ、と今ごろ気がついたように思った。友哉は営業マンという職業柄このことはよく知っているつもりだった。友哉が女の肩をつかんだまま電信柱に押しつけると、女はいきなり大声を上げた。

「何すんのよ。」

「大声を出すな。道が違うって、いったいどういうことだ。」

「へんなことしようとしたら、大声上げるわよ。」

「ばか、へんなことしてるのはお前のほうだろう。それに、大声上げたってこの住宅街だ、誰も出てこないよ。なんならここで試してみようか。」

「あほう。幻滅するようなこと言うなよ。」

「幻滅?」

「そうよ。あんたもうちょっとましかと思ってた。」

「ましって、それは悪かったね。」

「竹内友哉、三藤商事、国内商品部第三課主任。」

 友哉は一瞬あっけにとられて、つかんでいた手も自然と女の体から離れて棒立になっていた。女には電車の中でしか会ったことがないと思っていたが、どこかで会ったことがあったのだろうか。友哉のあごあたりにある女の強い目を見返しながら、こんなかわいい女に会ってそのことを忘れるなどということがあるだろうか。女のこめかみから流れ落ちる汗が首筋を伝ってTシャツを濡らしていく。その薄黒いしみが少しずつ大きな輪になって胸元に張りついた。この女は何者だろう。よく見ればまだ子どものようにも見える。信用できない。女から少し体を離してそんなことをぼんやり考えていると、女はふんと顎を上げて得意気な表情を見せてから、電信柱から体をおもむろに離すと、

「びっくりしたでしょう。あたし、あなたの家だってどこにあるか知ってるよ。会社の電話番号とあなたの携帯の番号もね。……驚いた? へへ。へんなことできないね。……なんかさあ、突拍子もない出会いになったね。でも、出会ったことに変わりはないわ。あなたと初めて話もできたことだし、あたし今日はこれで帰る。じゃ、さよなら。」

 女はそう言うとバッグの紐に片手を掛けて、来た道を走って戻って行った。曲り角にさしかかった時、立ち止まって、

「また会おうね。バイバイ。」

と、体を曲げ、口に両手を添えてどなるようにそう言ってから、手を振って女は去って行き、友哉は案山子になったような気分を味わいながら呆然と女の後ろ姿を見送った。女が道を曲がって姿が見えなくなると、「道が違うじゃない。」と言う女の低い声が友哉の頭の片隅で何度もこだましていた。



    二



 九月に入り、ひさしぶりに快晴の日曜日、湿って薄くなった布団をベランダの手すりに掛けた後で、秩父の山並を見ると、今日は夏空が戻ったせいで光がはじけ、くすんで見える。大通りに面したビルの五階にある友哉の部屋からは、秋が深まり始めるころから秩父連山がよく見えた。明け方は朝日を浴びて黄金色に染まり、昼になるともやがかかって灰色にくすみ、夕方には稜線をオレンジ色に染めながら深緑色に変わり、しかも山肌の凹凸に合わせてそれぞれに濃淡がつき、山が重なり合えば、色合もまた変わった。このでんとした山並の佇まいを見ていると気持が落ち着くようで、見あきるということがなかった。

 こんな時、ふと、天の配剤でこの世に生を享け、これから自分が何をしようとしているのかわからなくなることがある。営業マンの暮らしに不服があるわけではない。システムキッチンの契約率は部内随一で、多額の特別報奨金をもらったこともある。だが実は自分にふさわしい職業、人生を賭してなすべきことはほかにあるのではないかとも思える。それが何なのかわからないから、心の奥底ではいつも自分が宙ぶらりんでいるような気がしてならなかった。いったいおれは何を待っているのだろうか。待った後に何が現れるのだろうか。その疑問は将来に対する漠然とした期待と言うよりも不安のほうがまさっているのだが、だからと言って、ことさら真剣に悩んでいるわけでもなく、この山並を見ると思い出す感慨のようなものだ、そう自嘲気味に思いながら、友哉は熱気のこもったベランダを離れた。


 友哉は社内では行動力に富み、仕事もでき、人望も厚く、将来を嘱望された営業マンで通っていたが、休日は取り立ててこれと言う趣味もなかったから、一日中家にいることが多かった。一日家に閉じこもっていて暇を持て余しているかと言うと、そうではない。洗濯をしたり、本を読んだり、画集を眺めたり、音楽を聴いたり、ギターを弾いたり、テレビを見たり、外をつくねんと眺めたり、たまに掃除をしたり、食事を作ったりでけっこうあわただしいものである。時には誰かしら訪ねて来る者もいて、退屈することもなかった。そうして日はつれづれを愛しむ者にも、とどまることなく早瀬のように流れて行く。

 トーストとインスタントラーメンをブランチがわりにし、いつもどおりの自堕落を決めているところに呼び鈴が鳴った。たぶん時折姿を見せる大学時代の旧友の仲根だろうと思ってドアホンも確認せずにドアを開けると、玄関先に立っていたのは先日のあの女だった。女はにっこり微笑んで、「こんにちは。」とぶっきらぼうに言った。友哉は面食らってどうしていいのかわからずに、ドアの取っ手をつかんだまま今度も呆然と女の顔を見つめるばかりだった。「あたし、あなたの家だって知ってるよ。」と女が言ったのは本当だった。ドアの外に立つ女は、このあいだの女に似ているようで、どことなく違うような気もする。こんなに幼な顔だったろうか。電信柱に押しつけて間近に見た女の顔を思い出そうとしたが、目の前にいる女の顔が幅を利かせて影まで消していく。それでいてあの時と同じブルージーンズに白無地のTシャツは、やや細身のこの女によく似合うとも感じていた。白は汚れも目立ち、着こなしによっては不潔に見えるのだが、女のTシャツは白さが際立って見え、清楚な印象を与えた。

「入ってもいい?」

 ピンクの口紅をべったりとつけてきた女が、はにかむように目をしばたたかせて聞くと、友哉は、先日の威勢のよさもすっかり影を潜め、かすれ声で、「ああ、どうぞ」、と小声で言うのが精一杯だった。普段ならば闖入者に対して第一級の警戒心を持つところなのだが、この時強い警戒心を抱かなかったのは女の幼な顔のせいかもしれない。女はふさがれて狭くなった入口を、身をこごめて友哉の体に触れないようにして入ると、バッグをテーブルの上に無造作に投げ出してその奥の壁側に据えたベッド兼用のソファーに腰掛けた。女はマニキュアもつやのあるピンクだった。ピンクの口紅にピンクのマニキュアか。この女はピンクが好きなのかもしれないと友哉は思った。ピンクという言葉は下品な感じがすると思い、その日本語を思い出そうとしたら、女が先に声を掛けた。

「わりときれいに使ってるのね。」

 聞き覚えのある低い声で、玄関にぼんやり立っている友哉をちゃかすように女が笑顔を作って言った。

「余計なお世話だ。いったい何の用だ。」

 友哉がそう言ってソファーに座ろうとすると、女は思わず体を横にずらして、テーブルに移った。そうか……。友哉は澱のように残っている女への警戒心を完全には解かず、パンくずがちらかり、オーブントースターと食パンとジャムとバター、ラーメンの汁が残るどんぶりが載ったガラステーブルの椅子を引いて、ふすまを背にして女の真向かいに座った。「あたしに気があるんでしょ。」という言葉を不意に思い出し、苦笑を抑えながら、コーヒーでも入れてやるかと立ち上がると、

「ねぇ、映画にでも行かない? あたし、今日は一人なんだ。」

と、女がうつむいて体を丸く縮めながら唐突に言った。ガラステーブルに載せて組んだ腕の薄いうぶ毛が陽を受けて透き通りはねるように光っている。細く白い腕がたおやかに目を打って、まばゆく見えた。その時に、淡紅色だ、とピンクの日本語を思い出したが、この言葉には実感が伴わないなと思いながら、女に断りの返事をしていた。

「かってに行けばいいだろう。おれはね、今日は忙しいんだ。」

「仕事?」

 女は友哉を見上げながら、まぶしいものでも見るかのように目を細めている。肩までの長さの髪は細くつやがあり、目鼻立ちの整ったかわいい子だ、と友哉は改めてそう思った。わずかしか時間が経っていないのに、こうして二人だけで話しているうちにあきれるほど場になじんでくる。女はもはや他人とは呼べない存在に変わっていた。

「……いや、でもやることがたくさんあるんだよ。」

 実は「そう。」と言いかけたのだが、今日が日曜日であることを思い出した。

「ふうん。そっか。」

 友哉が流しに行こうとすると、女はそうつぶやくなりやにわに立ち上がって先に流しに行き、コーヒーを見つけると、わざとらしく声を弾ませて友哉に尋ねた。

「インスタントじゃないんだね。ねぇ、このコーヒー飲んでもいい? あたし、飲物がないとパン食べられないんだ。」

 友哉は、ああ、と返事しながらさっき座った椅子に座り直して女の後ろ姿を見つめた。この部屋に女が一人きりで入ったのは初めてだった。腰の線の丸みが女であることを教えている。確か膝のところに裂け目があった。後ろから見ても質のよさそうなジーンズであることがわかった。魔法瓶の中に湯が入っていなかったのか、女は水を入れてプラグをコンセントに差し込んだ。

「でも、よくここがわかったね。」

 友哉は、「あたし、あなたの家だって知ってるよ。」と言った女の言葉を思い出しながら、聞くとはなしに聞いてみた。

「あたしね、前からあなたに興味があったの。だから、あなたの名刺を拾った翌日、学校が終わって夕方新宿のあなたの会社に行ったの。それからあなたが出てくるのずうっと待ってたのよ。一時間くらい待ったかな、あなたしょぼくれた顔して出てきたわ。それから喫茶店に入って女の人と話し始めたの。あたし、ばかみたい、帰ろうかなって思ってたら、あなた三十分もしないうちに一人で戻って来たから、あたしあなたの家までついて来ちゃったのよ。ぜえんぜん知らなかったでしょ。」

「名刺を拾った? 女? いつの話?」

「そう、二か月くらい前かな。気が向いて、あなたに気づかれないようにそっとあなたの近くに立ったのね。そうしたら、電車の中であなたが上着のポケットからハンカチを取り出して汗を拭いたのよ。その時、どういうわけか、名刺が一枚落ちたの。あなたも気がつかなかったみたいだし、まわりの人も誰も気がつかなかったから、あたしそれを拾ってそのまましまっちゃったわけ。でも、もしかするとほかの人の名刺ってこともあるじゃない。だから、それを確かめようと思って会社までついて行ったの。いけない子だよね。」

「どうしてそんなことしたの?」

「わかんない。片想いに恋するって言うか、でも名刺が突然落ちて、そうでもないのかなって……。とにかく、その時はそうしたかったからよ。理由なんて別にないわ。」

「だけど、なぜ、おれなの? お前よりもだいぶ年上に思えるし、電車の中には他の男だって大勢乗ってるじゃない。」

「そこよね。何て言うんだろうね、女の直感よ。この人だって、ひらめきがあったの。当たってるかどうかはまだわからないけどね。」

「そう。女の直感ね。」

 女は背中を丸めたまま歯切れよく思いつくままにしゃべった。女の直感は的を射抜いたかもしれない、と友哉は思った。おれに恋人がいたら、このような展開にはならなかっただろう。そう思いつつ、女が女ではなく少女だと確信してもいた。そうこうするうちに湯が沸き、フィルターを使ってコーヒーを二人分入れると、一つを友哉の前に置き、もう一つをその向かいに置いて砂糖を二つ入れ、クリームを二個分入れて椅子の上に胡坐をかいて座った。それからテーブルの上に出しっぱなしにしてあった食パンを袋から一枚取り出してオーブントースターに入れると、友哉の顔を見上げてにっこり微笑んだ。屈託のない自然な笑顔で、よこしまな思いをまったく感じさせなかった。コーヒーカップをつかんでいる指が長くふっくらとしていて女の手を実感させる。友哉があの日のようにその手に触れようとすると、少女はすばやく手を引っ込め、

「あたしに触っちゃだめ。」

と叫び、兎のような目をして友哉を見つめた。そんな怯えたような顔をするくらいならなぜ来たんだ、そう思いながらも、友哉は苦笑しながら手を引っ込めた。実は警戒心を持って緊張していたのは女も同じようだった。同時に、女に何か魂胆があり、友哉をたぶらかそうとしているわけではないことも感じて、女に対する警戒心を解いた。友哉は女が入れたコーヒーを一口飲んだ。自分で入れるコーヒーよりも薄く、他人の味だ、と思った。

「それで、おれに何をしてほしいんだ? からかってるのか?」

「だから、一緒に映画に行ってほしいの。それだけ。」

「まるで、それじゃ保護者だな。断るよ。」

 また、振り出しに戻った。そう思いながら、一方でこの奇妙な会話を楽しんでもいた。二か月前、女に会いに喫茶店に入り、三十分で出てきた記憶などなかった。おそらくはうそだろう。まったく一方的に押しつけられたつながり。ほとんど押売と同じである。違うところと言えば商品に形がなく、相手の思いのたけをなるべく高く買えと言っているところだろうか。だが、こんな押売ならば悪くない。

「どうしても、だめ? ……じゃ、手だけだったら触ってもいいわ。でも、手だけよ。」

 思い余って声が一段と高くなった。それから少女はテーブルの上におずおずと手の甲を上にして友哉の前に差し出した。その時だった。突然、テーブルの上に置いてあったオーブントースターがチンという音を鳴らすと、少女は「きゃっ。」と一声上げて手をあわてて胸元に引っ込めた。友哉は天井を見ながら大笑いをした。こんなに大笑いをするのは久しぶりのことだった。顔の表情や言い方などは大人ぶっていても、することなすこと子供じみていて、その秤の釣り合いがあまりに取れていないところがおかしかった。

「そんなにおかしい?」

「ああ、おかしいよ。変わってるね、お前は。そうだな……よし、わかった、行こう。」

「ほんと? よかった。」

 少女は手を下ろして、トースターからパンを取り出し、ジャムをつけて食べ始めた。

「ところで、まだ名前も聞いてないんだけど。」

「相澤佳奈。」

「いくつ?」

「十八よ。」

 佳奈はパンを口にほおばったまま答えた。先刻の緊張ももうすっかり取れたようだった。

「十八か。何を考えてるのかわからない年頃だよな。」

「最初だけよ。すぐにわかるようになるわ。……ねえ、ここにギターがあるけど、これ飾りじゃないよね?」

 佳奈が飾り棚と奥の壁の間に立て掛けてあったギターに目を止めて聞いた。

「違う、気が向いた時にたまに弾くことがある。」

「じゃあ、何か弾いてくれない?」

「今度な。今はいい。」

 友哉はめんどうだが出かけることにした。このまま部屋にいてもうっとうしくなるだけである。窓を閉め、トースターを台所の戸棚に戻し、ガス栓を閉じて佳奈を見ると、佳奈は部屋の真ん中に突っ立ったまま、片手をバッグの紐に掛けて友哉をぼんやりした眼差で見つめている。友哉は佳奈の肩をつかんでそのまま飾り棚とふすまの間の壁に押しつけた。ぼんやりした目からさらに力が抜け、佳奈の視線がそぞろに宙をさまよい始めた。

「男が一人暮らしをしてる部屋にいるんだよ。わかってるの?」

「……この間、電信柱に押し付けられて、Tシャツの背中が汚れちゃった。クリーニングに出したのよ。」

「えっ、……それは悪かったね。」

「いいのよ。……あたし、わかってないかもしれない。でも、あなたあたしの手に触ったでしょ。あれは偶然なんかじゃない。だからあたし来たのよ。じゃなかったら来なかったわ。あたし、もう待つことにあきちゃったの。もう待つのは、いやなの。自分のほうから出かけて行かなくちゃ何も変わらない、何も前に進んで行かないってことが、あたしやっとわかったのよ。……放して。肩が痛い。」

 佳奈は頬を紅潮させて行間を読めとばかりにつぶやくように言った。息遣いが荒くなり、黙って友哉のすることを見ているようである。「あたし、待つことにあきちゃったの。」というつぶやきが友哉の耳の奥に静かに響く。声が肉をつけて弾みながら、額にかかる前髪の間に張り付いた。こいつもか。おれも待つことにあきてきた人間だ。それにしてもおれは何を待っているのだろうか。十八か。友哉はそっと手の力を抜いて、「行こう。」と言うと、タンスからお気に入りの水色のポロシャツを取り出し黒のジーンズを合わせて隣室で着替えた。佳奈は肩のあたりをさっと手で払い、汚れていないことを確認すると、テーブルの上に置いていた黒皮のショルダーバッグを肩に掛けた。友哉は部屋の鍵を掛け、エレベーターではなく階段を下りていった。いつもなら乾いて薄っぺらな音が、今日はしずくがこだまするかのように背後からも上がり、尾を引いていった。



 銀座を気ままに散策し、洋服店でジーンズやらセーターやらネクタイを見て回り、三越のレストラン街で中華を食べ、午後四時ごろ映画館に入った。行動を起こしたとたんに背景のほうがかってに回り出し、時間が水が谷底に落ちるように流れて行った。映画を見終わった後近くの喫茶店に入り、友哉はビールを注文し、佳奈はチョコレートパフェを頼んだ。佳奈が見たいと言ったその作品は友哉には退屈で、二日もすればタイトルも忘れてしまいそうな凡庸な作品だったが、佳奈には面白かったようで、「あたしもさあ、透明人間になれたらいいな。」とか、「大人になってもあんなかわいい女の子になれるんだったらいいだろうね。」などと、グラスの底に残っている、溶けて薄茶色になったアイスクリームを匙でせっせとすくいながら、たわいもない感想を述べた。

 友哉はそれには返事をしないで窓の外を歩いて行く大勢の通行人を眺めていた。うつむき加減にとぼとぼと歩く初老の男、友人と何やら話しながら上を向いてはじけるような笑顔を見せている中年の女たち、商品の詰まった手提げ袋を提げてさっそうと歩いて行く若い女、無関係な男と女が何の脈絡もなく目の前に飛び込んで来てはあぶくのように無言で視界から消えていく。他人の群れ。その他人の群れを目で追うともなく見やりながら、友哉は佳奈がチョコレートパフェを食べるのを見て、佳奈が見たという喫茶店で会っていた女のことを思い出していた。そうだ、江里子に会っていたんだ。なぜあの時思い出せなかったのだろう。窓の外をぼんやり見つめながら友哉は考えるともなく考えていた。壬生江里子。課は違っていたが、同じ国内商品部に所属し、ひそかに思いを寄せていた女だった。二年ほど前から付き合い始め、二、三度食事に行き、一度だけ同僚の仲根も誘って秩父の三峰神社にハイキングに出かけたことがあるだけの淡い間柄であった。そのため、江里子が仲根に思いを寄せていると人づてに聞くと、交際をあきらめることにしたのだった。だが、友哉のひたむきな気持はやはり通じていたと見えて、あの日の夕方に、江里子のほうから友哉を会社の近くにある喫茶店に呼び出し、「あたしは仲根さんと結婚するつもりよ。」と、わざわざ知らせに来た。友哉はひとしずく膝にこぼれたコーヒーをハンカチで拭きながら、「お幸せに。」と言うべきところを、「お大事に。」と言って別れて来たのだった。佳奈が言ったとおり、梅雨が明け夏が始まろうとした二か月くらい前のことである。できるだけ江里子のことを忘れようと努力もし、同じ国内商品部でありながら、席が離れていたこともあって、しだいに脳裏から消えかかっていた名前であった。江里子か、最近見かけないが、今はどうしているだろうか……。

 あまりに友哉がぼんやりした顔をしていたからだろうか、小さな女の子が一人、風船をつけた紐を持って窓ガラスに額をつけてしばらく友哉の顔を見ていたかと思うと、やにわにアッカンベーをして親の元に走って行った。友哉はふと我に返ってテーブルに置いたビールの飲み残しをすすった。佳奈が少し怒ったような顔をして友哉を見つめていた。

「ねぇ、あたしのこと子供っぽいと思ってるんでしょ。」

「えっ? どうして。」

「だって、チョコレートパフェなんて食べてるから。」

「そんなことないよ。おれだって、年が気にならなければ、たまに食べたいと思うことがある。」

「じゃ、食べてみる? あのね、あなたがぜえんぜんあたしのこと見てくれないから、あたし、もう一つ頼んじゃったんだ。」

「チョコレートパフェをか?」

「ううん、今度はバナナパフェにした。」

 そう言って佳奈は首をすぼめてにっこり笑った。

「同じようなもんだな。」

「子供だと思ってるんでしょ。」

「ああ、思ってるよ。」

「やっぱり。……でもいいわ。背伸びしてみても始まらないし、バナナパフェほんとに食べたいんだもん。」

「じゃ、それ食べたら帰ろうか。」

「もう帰るの? まだ八時よ。」

「あんまり遅くなるとお母さんにしかられるぞ。」

「何よ、あたし子供じゃないわ。」

 佳奈は頬をぷっとふくらませて、低声で口早に言った。それからショルダーバッグの中からたばこの箱を取り出し、中から一本つまみあげると、火をつけてくゆらせた。吐き出すたびに煙がいちどきにもうもうと上がって佳奈の顔を隠した。

「なんだ、それは。顔でも隠したつもりでいるんだろう。」

「そんなんじゃないわ。もう子供なんかじゃないってことよ。……あたし、大人なんだよ。」

 佳奈は眉間に皴を刻み、目を小さく細めて、友哉の目の奥をにらむように見つめながら三口ほどふかすと、そのたびにしかめっ面が隠れてはすぐに現れ、吸差を灰皿に置いて水を飲んだ。そこに店員がつんとすました顔でバナナパフェを運んできて、そろりとテーブルの真ん中に置いた。

「お客様、ここは電子タバコのみ喫煙可です。喫煙は喫煙所でお願いします。」

佳奈はあわてて吸差を消して座り直し、両手を膝に載せてバナナパフェを見つめた。テーブルの真中でバナナパフェが腕を広げて空を見上げる人のように誇らしげに立っている。佳奈はその誇りを掻き込むように、また忙しげにスプーンを口に運んだ。

「ねえ、あなたも一口食べてみない? おいしいよ。」

と言って、佳奈は目をしばたたかせながら、スプーンにクリームをいっぱいに載せて友哉の口の前に運んだ。友哉はまた大声で笑った。なんと言行のちぐはぐなことか。だが、このちぐはぐさは誰しもが持ち合わせているもので、それが正直に表に出てくることで友哉は初めて佳奈に親しみを覚えた。友哉は差し出されたスプーンを自分の手に取って口の中に入れた。冷たい甘さが口の中に広がり、おいしいと思った。

「おいしいでしょ。」

「うん、おいしいよ。」

「そう、よかった。」

 佳奈はスプーンを受け取ってそう言うと、いったん水の入ったコップの中でスプーンをすすぎ、安心したようにまた忙しげにクリームを山盛りに載せたスプーンを口に運ぶと、あっと言う間もなく平らげてしまった。


「佳奈、いつの間に、そんなおじさんを引っ掛けたの?」

 ふと顔を上げると、一人の少女がそばにやってきてにやにやしながら佳奈に黄色い声をかけた。その隣にバックパックを背負ったもう一人の少女が立っていた。友哉が佳奈に声を掛けた、髪が長く、目のくりっとしたやせた少女を見ると、少女は真顔になって友哉にちょこんと頭を下げ、そのそばに立っているショートヘアで小太りの少女は子供特有の威嚇するような鋭い目つきで友哉をにらみつけ、見知らぬ男への警戒心をあらわにしていた。二人とも上背があり、やせた少女は若草色のパンツに薄い青色の半そでのブラウスをうまく着こなし、雑誌のモデルでもしているのではないだろうかと思えたほどだった。佳奈はわずかに顔を赤らめて、まぶしいものでも見るかのように目を細めて聞いた。

「あら、アッコに早紀ちゃん、こんなところで何してるの?」

「うん、映画見た帰りでさ、お茶でも飲んで帰ろうかな、なんて思って、今来たところなの。そしたら、佳奈がいるんだもん。びっくりしたよ。」

「ええ、そうなんだ。じゃ、あたしと同じじゃない。そうか、まずいとこ見られちゃったな。」

「ねえ、早く行こうよ。」

 小太りの少女が、アッコと呼ばれた目の大きな少女の腕を引っ張りながら小声で言った。アッコは小太りの少女の顔を見ながら、「うん。」と言って、

「じゃましちゃ悪いから、行くね。そうだ、洋介が会いたがってるよ。寂しがってるみたいだよ。じゃあね。」

 少女はそう言うとそのまま二人連れだって店を出て行った。佳奈はうつむいて茶杓のようなスプーンを手に取り、コップに半分ほど入った水をうつろな表情で掻き回した。クリームの白い膜がゆっくりと渦を巻きながら水中に沈んで溶けて行く。グラスの外側から、底にたまった乳白色の水滴が脚を伝ってすっと流れ落ち、テーブルクロスに染み透って行った。ヨースケか。触っちゃいや、と言ったのも実はそういう男がいたからなのだろう。ばかばかしい。友哉はこんな少女に翻弄されている自分が情けなく思えた。

「そろそろ帰るか。」

「うん、そうする。」

 そう言ったものの、友哉が席を立っても佳奈は椅子に座ったまま両手を膝の上にそろえて動こうとしなかった。

「さあ、もう帰ろう。」

「いや、やっぱり帰りたくない。もっと一緒にいたいの。あと三十分でいいから。……ねっ?」

 佳奈は友哉のほうを見ずに声を落としてささやくように言った。目の縁に寂しげな陰が落ちていた。

「おれはまだしなくちゃいけない仕事が残っているから、先に帰るぞ。」

「帰っちゃ、いや。……あたし、今日泊まっていってもいい?」

 佳奈の声が大きかったせいか、まわりにいた客が会話をいっせいにやめて友哉の顔を見つめた。男たちは嘲笑の笑みを浮かべて二人を見るともなしに見つめ、女たちは非難の眼差で友哉を見つめている。友哉には女たちが土偶の群れのように見えた。はたから見れば、いい大人が少女をかどわかしているように見えるのかもしれない。それにしても、どうしてどいつもこいつも同じような顔をしておれを見てるんだ。他人の群れの何とうっとうしいことか。友哉は腹立たしくなり何も言わずに伝票をつかむと、足早に店を出て、佳奈を置いて地下鉄銀座駅方面に歩いて行った。


 こんなことなら出て来るんじゃなかった、と後悔しながらまっすぐ家路につこうかと思ったが、空腹を覚えて大通りから外れて一本裏通りに入り、近くにあった居酒屋に入った。ビールを注文し、二杯立て続けにあおり、ふうっと太い息を吐き出すと、気持ちも落ち着き、一日の仕事の疲れが取れたような気さえした。場所が変わり、人が変わり、気持が変わり、友哉は独りであることを実感した。このなじみのあるざわめきの中に溶け込んでいる雰囲気こそ自分にふさわしい。ビールをもう一杯あおると、さっきからずうっとここにいて、こっけいな夢を見ていたかのようにも思えてきた。確かに起こったこと、現実にあったことであるはずなのになんの手応えもなく、つかみどころもなく、空虚であった。だが、不思議な面白さだけは残った。この心の片隅に余韻を残しながらいすわる面白さ、おかしさはいったい何だろう。現実のかさぶたみたいなものだろうか。怒りはすでに解けて、しんみりとその余韻を味わうこともひさしぶりで、なぜだかわからないが、安堵感さえ覚えている。佳奈か。あたしに触っちゃだめ、という佳奈の声が頭の中にいっとき響いたが、すぐに聞き慣れた自分の声が混じり、佳奈の声ではなくなった。こんなもんだ。ふっと笑いが口から漏れ出た。つまみを頼み、酒を一本注文した。ちびりちびり酒を飲んでいるうちに考えがとぎれ、腹が温まり、酒は微醺を帯びるほどがよい、と言う元内閣総理大臣の言葉を思い出しながら、佳奈の顔が崩れ、高揚が鎮まり、雑多な思いが出入りし、時間がいたずらに流れて行った。


 ほどよく酔いがまわったところで、友哉は居酒屋を出ると銀座駅から新宿駅に出て西武新宿線に乗り換え、四十分ほど電車に揺られて自宅マンションに戻った。ふらふらと階段を上がって来ると、部屋の前にこごまった黒い影が洞のように小さな穴を開けている。錯覚だろうか、と思ってはみたが、酔った頭でも錯覚などではないことはすぐにわかった。佳奈に違いないこともわかっていたのだが、佳奈のほうから声を掛けるのを待った。

「お帰りなさい。友哉さん、いったいどこに寄り道してたの? あたし待ちくたびれちゃったじゃない。」

 階段に腰掛けて顎を両手に載せたまま、佳奈がなじるように、待ちくたびれちゃった、という言葉を甲高い調子で体を揺らしながらゆっくりと言った。

「泊まっていくのはかってだけど、どうなっても知らないぞ。おれはお前の保護者じゃないからな。」

 友哉がそう言いながら鍵を開けているうちに、佳奈はゆっくりと階段を二、三段下りて、

「ううん、気が変わったから、やっぱり今日は帰る。近いうちにまた来るよ。じゃあね。」

そう大声で言って、佳奈は今日もショルダーバッグに片手を掛け、あいた手を肩越しに左右に振って帰って行った。



     三



 それから二週間ほど佳奈は姿を見せなかった。電車の中で姿を見かけることもなくなった。人には帰属先というものがある。佳奈は友哉の帰属先を知っているのに、友哉は佳奈のことは何一つ知らなかった。住所も、電話番号も、大学も、佳奈が友哉を知っている範囲のことでさえ友哉は知らない。いいさ、またいつか会うこともあるだろう。友哉は待つことにした。

 

あてもなく待つということは、時間に溶け込むことである。

 いつの間にかまた仕事が忙しくなり、忙しさにかまけているうちに日が嵐の中の風車のように目くるめく流れ始め、あわただしく一日、二日と過ぎて行き、いつの間にか暦の上ではもう晩秋だというのにいまだに夏の残滓が感じられるこのごろだが、それもつかのま、季節は秋風が冷たく感じられるころから、秋と冬が加速と減速を繰り返しながら爛熟して行く。


 日はさらに流れた。

 十月中旬の終わりころ、所沢駅を出て西口の商店街を歩き始めたとたん、雲間からぽつりとしずくが眼鏡にかかったかと思うと、いきなり大粒の雨が地面に叩きつけるように降り始めた。あわてて駅ビルに逃げ込み、空を見上げると、一団の黒い雲が一帯を制圧するかのようにゆっくりと西から東に流れて行くのが見えた。友哉は傘の用意をして来なかったから、雲を見ながらタクシーで帰るか、近くで一杯ひっかけていくか迷ったが、この激しさでは雨はしばらく止みそうになく、友哉は走って駅前のタクシー乗場に戻り、そのままタクシーに乗って帰ることにした。

 友哉のマンションは駅からタクシーで五分くらいのところにある。タクシーを降りてふと部屋を見ると明かりがついている。消し忘れたのだろうか。いや、そんなはずはない。火事を恐れるあまり友哉は点検には度がすぎるほど几帳面だった。まさか……。大金は置いていない。そのことをとっさに確かめ、エレベーターに乗り込もうとしたが、エレベーターは七階に停まっていて、一階まで降りて来るのに時間がかかる。急いで階段を駆け上がり、息を弾ませながら鍵を鍵穴に差し込んで右に回すと、鍵は動かなかった。静かに取っ手を回し、ドアを開けてみると、思いがけず玄関口に立っていたのは佳奈だった。

「お帰りなさい。雨……大丈夫だったみたいね。」

 佳奈はピンクと白の縦縞のエプロンをつけ、おたまを持ったまま友哉を上から下に見下ろしながら笑って出迎えた。シチューだろうか、トマトとスープの匂いが鼻をくすぐった。

「お前、こんなところで何してるんだ?」

 どうやって部屋の中に入ったのだろう、そう思いながら眉間に皺を刻んですごんでみせたが、挨拶のようなもので、この時をひそかに待っていたことを改めて思い出しながら、佳奈であることを瞬く間に確認すると、あどけない顔が可憐で、ほっとさせ、なつかしささえ覚えていた。

「一緒にごはん食べようと思って来ちゃった。ビーフシチューもうすぐできるからね。おなかすいたでしょ。」

「ごはん食べるって、いったいどうやって入ったんだよ。」

「うん、このあいだ鍵持って帰ったから。」

「持って帰った? いつ?」

「このあいだここを出る時にね、この下駄箱の上にあったのを一つだけ持って来ちゃったの。あなた不用心なのはよくないわ。……だけど日が経つのって早いね、あれからもう一か月以上経つんだね。元気してた、友哉さん?」

「鍵持っていっていいなんて言ってないぞ。」

「後でちゃんと返しとくわ。ねえ、どうでもいいけど、いつまでそこに立ってるつもりなの、早く入ったら。」

「ばか、ここはおれの家だ。」

 怒鳴ってはみたものの、拍子抜けするくらいに落ち着いてそう言われると緊張も解けた。このおいしそうな匂いには勝てない。問責する勢いがにぶり、靴を脱いで上がりこんだ時には、だらしなく笑みさえもれていた。

「しょうがないなあ、ここにやって来るやつは、どいつもこいつもおれの都合なんかにおかまいなしなんだから。」

 友哉は誰に向かって言うともなくつぶやきながら、上着をハンガーにかけて鴨居につるし、ネクタイをはずしてソファーに座ると、リモコンのスイッチを押してテレビをつけたが、音量は心持ち小さくした。それからやおら立ち上がって飾り棚の引き出しを開けて、預金通帳ともしもの時に使えるように置いてある現金があるのを確かめて引き出しを元に戻すと、またソファーに座ってテレビを見るともなしに見た。

 そうか、十月もそろそろ下旬になるのか、佳奈が跡をつけてきたあの日からもう二か月近くが経つのか。こうして台所にジーンズ姿で立つ佳奈を見ていると、この二か月は暦の上の数字でしかないように思えた。過ぎ去った一月は一呼吸で振り返ることができる。二月にしても同じである。この時でさえ時は流れて行くのだが、流れに身を委ねているうちに時は透明人間であるかのように消えて行く。今は佳奈と共有している時間が殊の外温かくおおらかで、二人で時間を紡ぎ出しているのではないかと思えるほどだった。

 しかし、いいもんだな、このにぎやかさは。友哉は普段一人でいる時には感じたことのないくつろぎを覚えていた。鍋の底でぐつぐつと煮えたぎる音を聞くのは久しぶりのことで、時折佳奈の鼻歌がもれてくる。厚地のオレンジ色のTシャツが大きめなのか、佳奈のきれいに切りそろえられた髪の毛の下から背中の白い肌がのぞいている。心なしか少し痩せたように思えた。突然、トマトを切り分けていた佳奈がこちらを振り返り、そうだ、と言いながら冷蔵庫から瓶ビールを取り出してきて、グラスと一緒にソファーの前のガラステーブルに置きながら、瞳の奥を一瞬きらりと輝やかせ、声を弾ませて言った。

「ねぇ、こういうのも、通い妻って言うのかな。なんか、面白いね。そう思わない?」

「通い妻?……そういう交渉もないのにか? そうだな、少なくとも出前じゃないよな。」

「出前? 出張コックさんか。そういう商売ってありそうだね。けっこう繁盛するんじゃないかなあ。」

「実際している人もいるみたいだぞ。どこに行っても喜んでもらえそうな商売だよな。」

「そうね。うれしい、楽しい、待ち遠しい。」

 佳奈は友哉の顔付を確認するかのようにじっと見てから上体を起こし、右手を肩のあたりでくるくる回すと、おどけた口調で歌うようにそう言いながらまた流しに立った。

「しばらく見なかったけど、どうしてたの?」

「えっ? うん、模試があったからその勉強してたの。」

「ふうん、模試ねぇ。」

 模試などという言葉はすっかり忘れていた言葉だった。十八歳だったな。浪人生か。友哉はビールの栓を抜いてコップに注ぐと一息にあおった。

「お前も飲むか?」

それとなく伺いを立ててみると佳奈は、

「いい、私ビール嫌いなんだ。」

と言って断った。

 テレビドラマを見るとはなしに見ながら、ビールを二本飲み終わるころ、「できたわよ。」と言いながらビーフシチューとポテトサラダと胡瓜のピクルスがテーブルに並べられ、友哉はしかつめ顔をして照れくささと一緒にコップに残っていたビールを一気に飲み込んだ。エプロンをはずして時折こちらを見る佳奈がまぶしく見えた。

ビーフシチューはかなりのできだった。どこで覚えたのか、やや大きめのごろんとした牛肉が柔らかく、ソースと絡んで味がしみこんでおいしかった。ご飯は炊かなかったらしく、友哉は台所の戸棚から食パンを一枚取り出し、軽くトーストしてシチューに浸しながら食べた。

 ここしばらく味わったことのない和気のひと時に浸りながら、食事のあいまに予備校の授業の話、進学の話、友人たちのたわいのない話などを聞いた。他人の身の上話を聞くのも楽しく、大学には苦労しても行ったほうがいいなどと、この時ばかりは友哉も先輩風を吹かせて、得意顔で言って聞かせたつもりだったが、佳奈は「そうね。」と言って軽くあしらい、好みの俳優や歌手のことなどをとりとめもなくしゃべった。そうこうするうちに食事も終わり、話も尽きたのか、佳奈はそそくさと後片づけに取りかかった。聞こえよがしにガチャガチャと大きな音を立てて茶碗や皿を洗い桶にまとめて入れると、勢いよく水を出した。

「よく働くね。お前、いい嫁さんになれるよ。」

「あたし、食べるの得意だけど、茶碗洗うのはどうも苦手なんだ。手が荒れるし。」

「みんなそうだよ。」

「あなた、全然手伝ってくれないんだね。」

「そこへ置いとけよ、後で洗うから。」

「うん。」

 佳奈はそう言いながら茶碗を洗うでもなく、水を流しっぱなしにしてなかなか止めようとしない。じゃーじゃーと音を立てて流れる水の音がうるさく耳に響いた。

「もういいかげんに水を止めたらどう?」

「うん、……これ面白いね。どんどん水が流れて行く。水がかってにどんどん流れて行くのって、見てるだけでほんとに面白いよ。濁ってた水がどんどんきれいになってくの。でも水だけなのかな。流れるものや変わるものってたくさんあるのに、いつまでたってもきれいになっていかないのよね。流れて、変わって、風化して行くだけ。寂しいよね。」

「どういうこと? 何か意味ありげだね。」

「意味なんて何もないわ。そういうことよ。ねえ、救いっていう字だけどさ、求めるっていう字を使うのは、なんか訳ありで面白いと思わない。」

「えっ、救い?」

 言っている意味がよくつかめず、ソファーにもたれて、ものうげに聞くと、佳奈は同意を求めたわけではないらしく、水を止め、友哉を振り返って、「あたし、もう帰るね。」と言った。時計を見ると十時だった。こういう時こそ時間が経つのがすこぶる早い、と思いながら、泊まっていけとも言えず、もう少しいてほしいと思いながらも、「そうだな。」と返事をしていた。口調は威勢がよかったが、気持は正直に顔に出たらしく、

「また来てごはん作ってあげるからさ。」

と、佳奈は友哉の顔をのぞきこみながら笑って言った。

「ばか、いいよ。そうだ、鍵は置いてけよ。」

「鍵? うん、置いてくけど、また来るよ。合鍵作ったから。」

「合鍵?」

「そう、だからまた来るね。そうだ。今度来た時はギターを弾いてね。それを楽しみにしてるわ。」

 そう言うと佳奈は玄関脇のハンガーに掛けてあったダークグリーンのジャケットを着込んで、代わりにエプロンを掛け、いつものショルダーバッグを肩に掛けると、鍵を下駄箱の上に置いて、「じゃあね。」と、肩のところで右手を左右に振って帰って行った。


 黒く底が突き抜けたような山並の稜線を見つめながら、友哉はぼんやりと佳奈のことを思い出していた。十月も下旬近くになるとこうして窓を開けると冷気がさっと入り込み、足元から這い上がって来るのだが、佳奈との邂逅の余韻に浸っている友哉にはかえって気持ちのいい冷たさだった。流れて、変わって、風化して行くだけ、か。佳奈がどのような環境にいて、身の上に何が起こったのかは知る由もないが、自分か、相手か、まわりが、流れて、変わって、風化するのを見てきたようである。風化か。十八にしては知るのが早すぎるような気がした。佳奈は「救い」という言葉も口にした。どういうことだろうと一瞬思ったが、考えてもわかるはずもなかった。ふと、「手だけだったら触ってもいい。」と言った時の佳奈の観念した顔付を、低いしゃがれ声と一緒に思いだそうとしたが、顔立がはっきりせずにすぐに崩れてしまう。短かめの黒髪だけが黒子のように脳裏に浮かび上がった。こんどはいつ会えるのだろうか。こちらから出かけて行くこともならず、佳奈の気まぐれを待つばかりである。やはりおれは翻弄されているのか、友哉は苦笑しながら窓を閉めた。


 しばらくして、いきなり呼び鈴が二回続けざまに鳴った。佳奈が戻って来たのだろうか。ころがるように玄関に行き、急いで戸を開けると、そこに立っていたのは赤ら顔をした仲根だった。てっきり佳奈だとばかり思っていたから、仲根だと気づくのに手間どったほどである。仲根は酒をかなり飲んでいるらしく、ワイシャツの襟元が大きく広げられ、ネクタイがよじれていて目の焦点が定まらなかった。仲根の後ろにベージュ色の薄手のコートを羽織った髪の長い大柄な女がうなだれながら立っていた。

「用事があってこの近くまで来たからちょっと寄ってみたんだ。入ってもいいか。」

「ああ、お前らしくないじゃないか、遠慮するなんて。」

 なんとなく人恋しかったから、友哉はいやな感じがしたのを抑えつけて二人を部屋に通した。仲根は今は輸出入部に在籍して銅製品の輸出に携わっており、友哉とは部が違っているが同期入社で、大学も同じだった。もう十年来の付き合いになる。少々女癖の悪いところがあったが、仕事はよくでき、輸出入部のエースとして社内の評価は高かった。入社して一、二年ほど二人でよく新宿や池袋、飯田橋界隈を飲み歩いたが、部が替わってからは三か月に一度くらい、思い出したように友哉の家に遊びに来たのだった。

「相変わらずこぎれいにしてるな。……おい、有美子、お前も遠慮しないで上がれよ。」

 仲根は靴を脱ぎ捨てるようにしてよろよろと上がり込むと、玄関先に立っていた女に怒鳴るように声を掛けた。会社にいる時はどちらかというと穏やかな声で、筋の通った話をもの静かにしゃべる仲根が、酒が入り、仲間内だけになると豹変して、言葉が乱暴になり、素行がだらしなくなったが、そのことを知っているのは会社ではたぶん友哉だけだった。有美子は仲根に声を掛けられるとにっこり笑って仲根のほうばかり見ながら上がり込んだ。目がうつろで有美子のほうも相当酒が入っているようである。足付がおぼつかなく、テーブルに片手を突きながらコートの前を開けたまま崩れるように床に座りこむと、コートが押しつぶされてくしゃっと小さな音を立て、その後から小声でつぶやくように言った。言葉付きは呂律も回り、まだしっかりしていた。

「あたしやっぱり人を見る目がないんだね。うちに来て、英文の資料を読んでいるあんた見てたら、やさしくってさ、きっと思いやりがある男なんだろうなって思ってたけど、父の家でしこたま飲んだ帰りに、さんざん酔っぱらった女をこんなところに連れて来るんだから、あんたよっぽどいいかげんな男なんだよ。……学校で、こんな歌習ったの。ただ人には 馴れまじものぢゃ 馴れての後に 離るるるるるるるるが 大事ぢゃるもの。……ねぇ、お水一杯くれない。喉が乾いて仕方ないの。」

 有美子はとろんとした目つきから打って変わったように友哉の顔をにらむように見ると、命令するかのような口調で水を持って来るように頼んだ。

「はあああ? 閑吟集だな。閑吟集で一番有名な歌って知ってるか? 何せうぞ くすんで一期は夢よ ただ狂へ、って言うんだ。ただ狂え、面白いよな。それが答えさ。」

 仲根にはこんなことまで口にできる博識な一面があった。だが大学では政治学を学んでいて、卒論は大正デモクラシーであった。仲根はいったんはソファーに座っていたが、よろよろと歩いて冷蔵庫に行き、ビールを取り出して来て有美子の隣に座り直した。有美子を見ると長い髪が乱れて左の頬を被い、焦点の定まらない大きな目が女の色気を見せつけている。こんなところとはどういう意味かと問い詰めたかったが、酔っぱらい相手に口論してみても始まらないと思い直し、友哉は言われるままに水を持って来てやった。テーブルに水を置くと、有美子はうなだれながらテーブルに片手を突いてよろよろと立ち上がり、水をしばらく見ていたかと思うと、いきなり友哉の手をつかみ、まどろむかのように友哉の顔を見つめたかと思うと、まばたきをゆっくりと一つして、酒くさい息を吐きかけながらねっとりした口調で言った。

「ねぇ、あんたさ、女にひどいしうちはできませんって顔に書いてあるわよ。あんたみたいなのがほんとはいいのかもね。」

と言いながら椅子を引いて腰掛けると、水を一口だけ口に含ませ、それからおもむろにすべてを口の中に流し込んだ。

「そうかな。」

と、初見の若い女にあんた呼ばわりされた不快さを押し込めながら、有美子を見た。瓜実顔に不似合なほど目が大きく、右目の目尻の脇にある小さなほくろが淫猥な感じを与えている。それから視線を移して仲根を見ると、いつの間にか窓辺に寄って窓を開け、下框に腰掛けて、下を見つめていた。

 三か月ほど前、あの日も酔っ払った勢いで友哉のうちにやって来ると、蒸し暑さを打ち払うように窓を開け、

「そうだ、友哉、面白い遊びをしよう。この窓框からぶら下がるんだ。まずは隗より始めよだ。三分でいいよ、三分経ったら教えてくれ、上がって来るから。」

そう言うとやにわに窓框から身を乗り出し、下框に手をかけて、ぶら下がった。何が面白くてぶら下がったのかはわからなかったが、仲根にはこれを面白い遊びと捉える感性があった。腕力に自信のない友哉は、お前もやってみろという誘いを言下に断った。

 仲根は顔を元に戻し、部屋の中をじろじろと見回していたが、ふと斜向かいに立っている友哉の顔とその真向かいに座り込んだ有美子の顔をかわるがわる見つめてにやりと笑うと、ついでに顔の前に垂れた前髪を後ろに掻き上げて、

「別に、寝たっていいんだぜ。」

と言った。また始まったと友哉は思った。酔っぱらうと顔をのぞかせる酒癖の悪さであった。

「悪いが、そんなつもりはない。弘樹、いったいお前何しに来たんだよ。」

 友哉はソファーに座り直し、背もたれに手を伸ばして横向きになって足組をしてから仲根に聞いた。仲根はぷいと顔をそむけて、もう一度窓の外を眺めてから友哉に顔を向けると小声で言った。

「何しにってほどのことはないよ。ちょっとこの近くまで来たから寄ってみただけだ。」

「弘樹、寒いから窓を閉めてくれないか? そうだな、わざわざおいでいただいたわけだから、それじゃ歓待しなくちゃな。……お前、江里子さんと婚約したんじゃなかったのか。」

 江里子が三か月ほど前に友哉にすまなそうに「あたし仲根さんと結婚するつもりなの。もうあなたとはあまり会わないほうがいいと思うのよ。」と言った言葉を思い出しながら仲根に尋ねると、仲根は窓框から飛び降りて友哉と有美子の間に割って入るように椅子に腰掛け、有美子の右手に仲根の左手を重ね、その手を握って言った。

「江里子? ああ、あいつとはとっくの昔に別れたよ。婚約もしていない。なんて言うのかな、肌が合わないって言うか、そりが合わないと言うのかな。しっくりこなかったな、あいつとは。あいつお前に気があったんじゃないのかな。お前の悪口言うと怒るんだ。……それにしても、お前の部屋はいつ来ても色気がねえよな。本だって一冊もないじゃないか。どこに行っても本の一冊くらいは飾りで置いてあるぜ。」

と仲根が言うと、有美子は薄ら笑いを浮かべて、部屋の中を見回した。友哉は部屋に小説の類の本は置いていないが、飾り棚の中に画集はそろえていた。友哉は絵を見ることが好きだった。

「悪かったな。おれは本は読んだら捨てちゃうんだよ。あんなものじゃまなだけだ。」

「じゃまか。まったく営業だよな。知性も何もねえんだ。要するに口先だけの商売なんだよ。まっ、おれもあまり偉そうなことは言えないよな。同じ穴の狢だからな。」

「酒が入るとずいぶん本音が出てくるんだな。だが、物を客に売りつけるのがおれの商売だし、アメニティ・オブ・ライフを追求するのはまちがったことじゃない。だいたい良質の商品をより安く消費者に提供し続けることが肝腎なんで、これはおれに与えられた仕事だし、使命とも思ってこなしてるんだ。おれは営業に誇りを持ってるよ。」

 先輩や上司がいたるところで吹き込んできた訓話を仲根にまで言えるようになっていたとは、と友哉自身言った後で驚いた。色に染まるということはたやすいことである。友哉は下を向いて笑いを噛み殺した。仲根はふんといった面持ちでコップにビールを注いで一口飲み、有美子にもビールを注いだ。仲根が有美子に気を遣っていることが見て取れた。

「そうか、実に見上げたもんだよ。何にも疑うものがねえんだ、お前は。もっともそれくらいじゃなきゃ、営業で一番の成績は取れないよな。」

「弘樹、何かあったのか? 営業が向かないと思ったらさっさと辞表書いて辞めちゃえよ。仕事なんかほかにいくらでもある。営業なんてお前みたいな気難しいやつがいつまでもやってる仕事じゃないかもな。」

「余計なお世話だ。輸出は面白いんだよ。」

 仲根は怒ったらしく、頬を二度三度痙攣させて、流しに立って水を飲み、また冷蔵庫を開けた。冷蔵庫には一本も入っていなかったらしく、台所の奥に置いてあるビールケースから新たに最後に残った一本を取り出してテーブルに置き、栓を抜いてから窓框の横壁に背中をつけると、なぜかにやにやしながら友哉を見つめた。目尻が下がり、顎のとがった細面の顔が笑うとだらしなく見えてくるのだが、目の奥にひそむ勁さが酷薄な印象を与える。友哉はいやなものを見た思いがして思わず顔をそむけた。

「二人とも何ごちゃごちゃ言ってんのよ。」

 有美子がいらいらした様子でそう言うと、椅子からふらふらと立ち上がり、明かりを消してから仲根のほうを向いて、鼻にかかった甘え声で、

「ねぇ、ここで寝ようよ。」

と言いながら仲根に近づいて抱きついた。つけっぱなしになっていた台所の明かりが、スポットライトのようにからまる二人を映し出す。仲根は窓框から離れて有美子を抱き上げると、友哉の顔を見ながら首筋にキスをして、それから丸太でも転がすように乱暴に有美子を友哉のほうに放り投げた。「あっ。」という甲高い緊張した声が鼓膜を裏側からなでていく。有美子は長い髪を踊らせながら前のめりになってソファーに手を突き、椅子をはねのけて、スローモーションでも見るかのように横様に泳ぐようにテーブルとの間に腹這いに倒れ込むと、すぐに仰向けになった。有美子の体がガラステーブルにぶつかった拍子にビール瓶が倒れ、がちゃんという大きな音を立てた後、ビールの茶褐色の液体がテーブルの端から流れ落ち、ぽたぽたという音が室内に響いた。ベージュ色のコートが闇をまとって白い光を投げ返し、有美子の豊かな髪の毛が友哉の足元に広がって闇の中に漆黒の穴を開けている。有美子は大きな目をいっそう丸くして傲然と天井を見つめ、白い首に巻きついている細い金のネックレスが影を湿らせてにぶく光っている。見えない縄を手繰るかのように仲根の両手が胸のあたりでひくひくと動いていた。思いがけなく、ふたをチンチンと踊らす蒸気のようななまめかしさが、静けさの中でゆるゆると凝固していく。アッハッハッ。とうもろこしが宙に暴走し始めたように有美子が腹を揺すりながら笑い声を上げた。それから片膝を折って足を立てると、あらわになった太股が、薄明かりの中でぼんやりと白く浮かび上がった。

「おい、いいかげんにしろよ、人の家で。」

 友哉があわてて怒鳴り声を上げる間に、仲根は顔を上げて、

「お前、先にこいつと寝ろよ。そうしたら一緒に寝てやるよ。いいだろ?」

と、いったん友哉の隣に座った仲根がまた立ち上がり、有美子のそばに行くと、顔近くにしゃがみこんで暗がりをまとったグレーのスーツの上から胸をもみしだきながら、ささやくように言った。

「何言ってんのよ、やあよ、そんなの。」

 有美子は太股を左右に揺らしながら、甘えるような声を出して言った。

「それじゃあ、三人で一緒に寝よう。」

「三人でえ?」

 有美子の声が震えている。予想もつかない始まりへの怖れ。仲根は背中にほの暗い光を浴びながら有美子を居丈高に見つめた。まばたきひとつせず、酷薄な目が有美子の顔に張り付き、有美子は胸の上に仲根の影を刻みながら、腕枕をして真顔になって食ってかかるように見つめ返した。ややあって、有美子の白い顔が崩れてにやりと笑ったように見えた。息遣いの荒さが、静けさが凍りついた室内に重たく響く。ふと、なぜだかわからないが、このかんかんとした軽薄な響きの中でこの二人は無心になってじゃれ合っているように友哉には思えた。ぶつかりながら、なれあい認め合っているのではないだろうか。おれだ、あたしよ、そう肌に爪を立てながらお互いを確認し合っているのである。だが、それは目、鼻、口、耳がついているというだけの仮面のような他人を確認しているのと同じで、乾いてひからびてしまった冷たさを友哉は感じていた。仲根は女にあきているのかもしれない、と友哉は思った。

「……ええ、いいわよ。」

 馬鹿野郎、友哉は胸の中でつぶやきながら、立って明かりをつけると、有美子もめんどくさそうにゆっくりと起き上がり、目をつぶって友哉に大仰に抱きつこうとした。ふいにコートの湿ったような冷たさが首筋にまとわりついた。

「ばか。ふざけるな。帰れ。弘樹、お前もだ。もう二度と来るな。早く出て行け。」

 友哉はあわてたように怒鳴った。その声に気圧されたのか、有美子は体をぴくりとさせて離れると、目を剥いて友哉の顔を見つめ、あははと笑い始めた。大声を上げて笑い続けるうちにうなされたように腹を押さえ、身をよじり、痛みをこらえるような姿勢で有美子は笑い続けた。

「なんなの、この人。頭おかしいんじゃないの。やだよ、あたし、やだよ、こんな人。」

「弘樹……。」

「つまらないやつだな、お前は。お前とはどこまで行ってもほんとの友達にはなれそうにねえよ。人には添うてみよ、と言うじゃねえか。胸襟を開くようじゃないとほんとの友達にはなれねえぞ。……有美子、冗談だよ、冗談。お前を試してみただけだ。本気にするやつがあるか。もういい、タクシーを拾って帰ろう。」

「……いいわ、わかった、一緒に寝ようよ、面白そう。でも、ここじゃ三人で寝るとこなんてないじゃない。」

「その襖の奥の和室に決まってるだろ。」

「だめだ。和室は僕だ。君達はここで寝ろ。」

「それじゃ三人で寝られないだろ。」

「寝るわけないだろ。親子じゃあるまいし。」

「あんたさ、そんなつれないこと言わずに、寝てあげたら。この人強がってるけど、内実はね赤ちゃんなの。かわいいかわいいしてあげないとだめなの。……きっとあんたのこと気に入ってんのよ。」

 そう言うと有美子は仲根の顔を見つめながらさっさとコートを脱ぎ、服を脱いでテーブルの上に畳んで置き、上体をそらして背中を掻きながらまた明かりを消すと、仲根にも服を脱ぐように迫り、返事を聞く前に台所の明かりも消した。そのとたんに窓から漏れてくる薄明かりを浴びて有美子の体一つが、ふくらむように薄暗がりにほの白く浮かび上がった。細く見えた太股が、裸になると、肉付きのいい丸みを帯びた腰からすんなり伸びて、形よく見える。友哉は感嘆の声が吹き出てきそうになるのをやっとのことで押さえ、見惚れたように有美子の裸を眺めた。画集で見慣れた女の裸ではあったが、本物の裸体はまわりを威圧してふくよかで輝きを放ち、圧倒的な存在感を漂わせていた。

「ねえ、お布団はどこにあるの、寒いじゃない。」

 そう言われて友哉はあわてて和室の押入からいつも使っている布団を取り出し、客人用にとっておいたもう一組の布団も取り出して、布団を二人分敷いてから、台所からタオルを二枚取り出してテーブルと床にこぼれたビールを拭きとったものの、劣情は拭い去ることができず、胸をときめかせながら下劣な見物人のような顔をしてソファーに座った。

「しかし、お前もやっぱり男だよな。女の裸を見たとたんにせっせと布団を敷くんだからな。ばか、帰れ、弘樹、お前もだ、か。笑わせるよ。ヒャッヒャッヒャッ。」

 仲根は体を思いきりこごめてソファーに座っている友哉の顔めがけていきなり携帯の強い光を照らしつけながら、またヒャッヒャッヒャッと顔をのけぞらせて笑った。友哉も、じっと瞳を凝らし、顎を引いて凍結している自分の四角い顔を一瞬だけだったが脳裏にはっきりと見たような気がした。ちぢこまった劣情を耿耿と写し出されたような思いがして、友哉は恥ずかしかった。同時に女の裸に見惚れて美を感得したと思っていたその根っ子にあるものをあぶりだされ、己の真情を汚された気がした。恥ずかしさを怒りに変えて友哉は怒鳴った。

「そういうことか。やっぱり帰れ。」

「馬鹿野郎、いまさら帰れねえよ。」

「うるさい、帰れ。お前もだ。」

 友哉は明かりをつけ、テーブルの上に畳んであった有美子の服をわしづかみにして投げつけ、玄関に行くと、ドアを蹴とばすようにして開けた。有美子があわてたように下着を胸にばかり押し当て、仲根はよろよろと歩いて友哉に近づくと胸倉をつかんだが、にやりと笑って、「帰ってやるよ。」と言うと、有美子を置いてさっさと出て行ってしまった。

「待ってよ、こんなところに置いてかないで。」

 有美子もそう金切り声を上げるとあわてて下着を着け玄関先に散らばった服をかき集めて急いで着ると、バッグを小脇に挟んで一度きょろきょろと部屋の中を見回し、走るように外に飛び出して行った。ドアが閉まり、階段を下りて行ったふぞろいの二つの足音が消えると、友哉は不愉快さに無性に腹が立ち、部屋の中を獰猛に見回してみたが、八つ当たりする物が見当たらない。爪先が奇妙なほど冷たく、顔が火照った。ビール瓶が二本転がっているガラステーブルや、青い格子縞の一つ一つに鶴をあしらった掛布団が目に入り、二つ並べた枕が己の仕業のこっけいさを見せつけているように思えた。

 ふと、この見慣れない光景に、他人の家にいるのではないかと思えた。なぜ三人で寝なかったのだろう。諒解があれば共有できるのだ。なぜ自分にこだわるのか。偽りの他人ばかりを見てきたからだ、と友哉は自分に向かって言った。相手の顔色をうかがい、商品を買わせるというただ一つの目的に向かって相手を誘導することには友哉は長けていた。だが、そこでは他人の素顔に接することはなく、その必要もなかった。他人は仮面をつけた動く木偶の棒である。同様に他人から見れば、友哉もただの木偶の棒である。お互いに木偶の棒とわかっているから、自分しか知らない無垢な自分がいることを確信し、それが自分の支えになっている。だがそれも見栄のようなものだということに友哉は気がついている。おれはまだ他人というのがどのような存在なのかを真には理解していない。だからいつまでも他人を心底から受け入れることができないでいる。そのことを思い出させた仲根に新たな怒りを覚えた。だからこそ自分にこだわるのだ、と友哉は小さく怒鳴るようにつぶやいた。

 ゆくりなくも、流しの前の柱に掛けた鏡の中に怒りをあらわにしている自分の四角い顔が見えた。重たい実像である。目がつり上がり、目の奥が強い光を放っている。しかし友哉は知っている。実像と見れば見るほどに自分から遠いのだ。鏡に映る自分はまた他人であり、他人に写る自分が一番自分に近いのである。他人の、自分には御しがたい思いがけなさがわずらわしくもあり、時には他人が自分とは似て非なるものを主張し始めるのが恐ろしくさえ思えてくることもあるのだが、その非なるものの中にさえ自分が見えてくるのである。非を非として捉えるのは己である。そしてなお他人は他人のままであり、こちらの思惑にとんちゃくなく自分を主張し続ける。だが、反面、他人は自分を映し出す鏡なのだ、とも思える。他人が写し出す自分は自分にさえ冷たい仮面をかぶっている。友哉はいつの間にか他人をまっとうに見つめることをやめていた自分に気がついた。他人との関わりの中でしか自分を見ることができないというのに……。

 心の中で叫べば叫ぶほど喉が乾いた。食器棚に置かれた、以前仲根と飲んだオールドパー十八年はもう空で、飾りでしかなかった。その空瓶をごみ箱に捨てて、冷蔵庫を開け、ビールを探してみたが、一本も残っていない。仕方なくコップに水と氷を入れて一口飲んでから、小銭を持って近くのコンビニに缶ビールを買いに出ると、仲根と有美子がちょうどタクシーに乗り込むところだった。仲根の後から乗り込もうとした有美子が友哉に気づいて、手を小さく振って、「おやすみ、また来るね、グッナイ。」と上機嫌で叫んで乗り込み、車はすぐに白い排気ガスを撒き散らして薄暗がりに消えて行った。

 有美子か、あの女どうしてあんなに陽気でいられるのだろうか。馴れての後に離るるるるるるるるが大事ぢゃるもの、と女は歌った。別れることがそれほどにもたいへんだと訴えているのだろうが、そのくせ仲根に丸太のように放り投げられても平気でいられる。友哉にはその心理が理解できなかった。仲根も有美子も感情だけで動いているのではないだろうか、とふと友哉は思った。感情は意志と異なる内部から突き動かす力で、好き・嫌いという二者択一の選択形式しか持ち合わせない衝動である。心の中に巣食う未分化な固りみたいなものでもある。感情は常に己の心の中で己を支配しようと巧みに根を張り、いったん心が感情に支配されてしまうと、それは外部に出てきて他人までも自分に都合よく支配しようとするのだ。会社ではむだを嫌い合理性を追求してきた仲根だったが、心だけは原始的な未分化の状態に戻ろうとしているように友哉には思えた。そして有美子もきっと同じ性質(たち)なのではないだろうか。じゃれあいながら睦び合っている。仲根と有美子の波長が合い、気が合い、お互いがよく理解できるのだろう。客と店の波長が合えば店は繁盛すると言う。何のことはない、実は気心が通じ合った似合いのカップルではないか。

 友哉が何気なくタクシーを見送っていると、向こうで酔漢が二人肩を組みながら仲根たちが乗ったタクシーに向かってさかんにおだを上げている。バカヤローと怒鳴った狂暴な声もすぐに力なくか細くなり、いつしか静寂に呑み込まれていった。



    四



 それから二日後の金曜日、千葉県美浜市に新たに造成された集合住宅でシステムキッチンを一括採用する話が二か月ほど前に舞い込んでいたのだが、何回かの打ち合わせを経て、ようやく話がまとまるところまでこぎつけ、久々の大型商談で気合を入れて残業をして、来週火曜日の顧客との詰めの打ち合わせ用の資料などを準備していた時、一本のショートメールが届いた。仲根からだった。「明日の土曜日一緒にドライブに行かないか。伊豆の下田まで行くつもりだ。」と書いてあった。先日の夜の怒りはすっかり収まっていた。友哉はあまり根に持たない性質であった。ここしばらくどこにも出かけていなかったから、海を見たい、そう思って、招待を受けることにした。電話をすればすむ話なのに、と思いながらも、「わかった、行くよ。」と返信すると、すぐさま折り返しがあり「八時に迎えに行く。」と言ってきた。「わかった。」と返事を書いて携帯を切った。


 この二日、佳奈は現れず、社用で外出することの多い友哉は予定に追われながら日を過ごせば、秋の日のつるべ落とし、一日はあっという間に過ぎて行く。金曜の夜、夜九時のニュースを聞くとはなしに聞きながら、明日は久しぶりのドライブかと楽しみに思いながらビールを飲んでいるところに突然佳奈がやって来た。佳奈は部屋に入るなり、空色のウールのコートも脱がずに友哉の両腕をつかんで言った。

「今晩泊まって行ってもいい?」

「いや、それが、……明日は会社の友人とドライブに出かける約束があるから、悪いけど今日は泊められないんだ。ごめん。」

こう言って佳奈の頼みを断った代わりに、散歩がてら所沢の駅前まで一緒に歩いて行き、食堂に入ってサンマ定食を二つ注文して待っていると、佳奈がうつむき加減にぼそりと言った。

「あたし怖いんだ。」

「えっ、怖い? 何が?」

「何がって。……怖いって言うより、何かさあ、不安なのかもしれない。」

「だから、何が?」 

「えっ……もういいよ。ご飯食べたら、あたし帰るね。」

「そう、佳奈の携帯の番号を教えてくれない?」

「ううん、今はいい。」

「そうか、わかった。」

 二人がしばらく沈黙しているところにサンマ定食が出来上がり、味気なく掻き込むように食べ終わって店を出ると、佳奈は走ってどこかに行ってしまった。友哉は後味の悪さを感じながら、仕方がない、と自分に言い聞かせて自宅に戻った。



 明くる土曜日は快晴だった。

小春日和の暖かさで友哉は秋物のやや厚手の群青色のセーターに薄青色のジーンズを合わせて朝食を済ませると、仲根が迎えに来るのを待った。八時十分ほど前にやって来たのは仲根ではなく有美子だった。有美子は微笑みを浮かべながら「おはよう」と照れるような顔であいさつをすると部屋の中には入ろうとせず、玄関先で友哉が出て来るのを待った。先日は酔っていたこともあるが、今日は落ち着いた様子で、別人のような印象を受けた。

「じゃあ、出かけよう。」

と言うと、明るい黄色のパンツに紫色のモヘアという出で立ちで立っていた有美子はさっと踵を返して先にエレベーター乗り場に立った。一度顔を合わせているし裸まで見た仲だから、すでに見知らぬ赤の他人ということではなく、よくは知らない同僚の女として友哉は有美子を捉えている。そうか、有美子も行くのか、と友哉は思った。仲根と二人きりで行くよりもそのほうが楽しそうだ。すぐにエレベーターが到着し、有美子が先に乗り込んで一階のボタンを押し、「仲根は?」と聞くと、「車の中で待ってるわ。」と友哉の顔を見ずに答えた。有美子は上背があり、佳奈よりも五、六センチほど高く見える。下に降りると、仲根は焦げ茶色のカーデガンに白色のパンツを合わせて着込み、楕円のレンズのサングラスを掛けて待っていた。仲根も先日の夜の騒ぎには一言も触れず、普段接するような態度で「じゃあ出かけようか。」と言うなり運転席に座った。

「今日は後ろの部長席に座ってくれ。前には有美子が座るから。」

「部長を乗せて走ることもあるのか?」

 車に乗り込みながら聞くと仲根は「ゴルフで部長の運転手をたまにな。」と返事をし、「仲がいいんだよ、武藤部長とは。」と付け足した。

 車は途中、渋滞らしい渋滞にも遭わず、快調に走り続けた。仲根の車は黒のシーマで、後ろの座席は座り心地がよかった。これなら二、三時間乗っていても疲れないだろうと、走り出した車に揺られながら友哉は思った。友哉は車の免許は持っていなかったが、電車や車に乗るのは好きだった。友哉の住んでいる所沢は東京に行き来するのも比較的短時間に行け、都内に入ればバスや地下鉄を使えば行きたいところにどこにでも出られ、独り身ゆえの気楽さで、車を運転しない不便は感じたことがなかった。

 友哉は所沢インターから関越自動車道に入ったところで、それとなく思っていた疑問を仲根にぶつけてみた。

「弘樹、有美子さんとはどこで知り合ったの?」

「有美子は仕事の関係で知り合った社長の令嬢だ。この先長い付き合いになるかもしれないから、よろしく頼む。」

「挨拶が遅れましたが、本庄有美子と言います。先日は弘樹さんに無理やりお酒を大量に飲まされてしまい、先日の出来事のことはまるで覚えていないんですが、あたしはあけっぴろげな性格で、そこが長所でもあり欠点だと自認しています。」

 自認などという言葉をさりげなく使うのに少し驚きながら、友哉も先日のことには触れないことにしようと決めた。誰しもがたまさか見せるはしゃぎにすぎないのだ。取り立ててあげつらう必要などなかった。


 車は関越自動車道を下りて東名自動車道に向かった。仲根は普段車に乗らない友哉のために、今日のルートを簡単に説明した。所沢インターから関越自動車道に入り、練馬インターでいったん下りて笹目通りから環八通りを南下し、東名自動車道に入って秦野中井インターで下り、県道秦野二宮線を南下して西湘バイパスから国道一三五号線を通って伊豆に入ると言う。友哉は車に乗らないから、伊豆には何度か行ったことはあるものの伊豆急を利用して訪れるせいで、自動車道の説明は聞いてもよくわからなかった。

「西湘バイパスから見る海の景色がとてもいいんだよ。」

「私、サンドイッチを竹内さんの分も含めて三人分作ってきたから、おなかが空いたら言ってね。」

 仲根の言葉と重ねるように有美子が後ろ向きになって友哉に言った。しらふの時の有美子は、顎がややとがっているものの目鼻立ちがはっきりした知的な顔立ちで、はた目にも美人だと思えた。友哉は「ああ、それはありがとう。」と礼を言いながら、薄暗がりに浮かび上がった有美子の白い裸体と、なぜかベラスケスの「鏡のヴィーナス」を思い出していた。

「楽しみだな。久しぶりに海が見られるんだな。ありがとう、誘ってくれて。」 

「ありがとうか、お前はそういうふうに何の衒いもなく人に礼が言えるんだな。お前の得意先の評判がいいのは、そういうところにもあるのかもな。」

「竹内さんはきっと育ちがいいのよ。そこはあなたと違うところね。でもあなたも野蛮というわけではないわ。しらふの時のあなたはずいぶんすてきよ。」

 仲根は有美子の言葉には答えず、まっすぐ前を向いて運転を続けた。今日は快晴で、ドライブ日和だと、友哉は流れ過ぎる都会の街並を見ながら思った。友哉は大学時代に友人の車に乗せてもらって何度か都会を走ったことがあったが、その時に友人が「道は途切れることがなく、必ずどこかに通じていくんだ。」と言った言葉をよく覚えていて、こうして走っていると、そういった気持ちが少しだけ理解できたように思った。


 車は順調に関越自動車道を抜け、途中環八通りが混雑していたものの、四十分ほどで東名自動車道に入り、秦野中井インターで下りて秦野二宮線を南下した。

「秦野二宮線は県道なんだが、道幅も広く、車も混雑していないので、走りやすく、ドライブしていることを実感できるから、おれの好きな道なんだ。」

と仲根が言った。仲根の運転は安定していて、揺れも少なく、乗っていて心地よかった。仲根はあまり話に加わらず、静かに運転に集中しているようだった。

「よくこのあたりはドライブに来るの? 道もすっかり頭に入っているようじゃないか。」

「今日で六回目よ。ドライブがてら二人でよく下田の海に来るの。下田の駅近くに雑貨店という触れ込みの瀬戸物屋さんがあるんだけど、そこで買い物するのが毎回のお楽しみなのよ。」

 有美子が体をこちらに向けて友哉にサンドイッチを渡しながら少しばかり自慢気に言った。何だ、うれしそうに話すじゃないか。あんたよっぽどいいかげんな男なんだよ、そう言って有美子は仲根を責めた。離るるるるるるるるが大事ぢゃるもの、うなだれながらつぶやくようにそうも付け加えた。今はそんなことはすっかり忘れているのだろう、ドライブを楽しんでいる様子が明るい声からも見て取れた。

「さあ、西湘バイパスだ。海が見えるぞ。今日は天気がいいから、最高だな。」

 仲根がサングラスをはずしてセーターの首に掛けながら声を掛けた。友哉は久しぶりに青く水面が輝く海を見た。空気が乾燥しているせいもあり、海に奥行きがあり、透明で明るい空が海につながり、かもめが飛び、日の光をいっぱいに受けてきらめく海は美しかった。三人とも言葉が喉につかえてしまい、声を上げる者はいなかった。防壁に遮られて途切れ途切れに見える海だったが、途切れても一体感は失われず、海は広がりを持って続いていた。

 

 車は快調に走り続け、早川インターを降りて国道一三五号線に入った。途中渋滞にもつかまらず、山肌を右手に見ながら海沿いをしばらく走ると、正面に電車からも見慣れた熱海の街の景色が見えてきたところで、仲根がこのあたりで少し休もうと言って、熱海で休憩することにした。山の中腹や山上にも高層のホテルが建つ熱海の景色は独特で、車中から見てもすぐにそれとわかった。市内を車で走ったことのない友哉は、「あれが尾崎紅葉で有名な寛一お宮の像だ。」という仲根の言葉に左手を見たものの、どこに像があるのかはわからなかった。だが、温泉街で有名な熱海の市街地を抜けていることは、どてら姿の宿泊客が行き来する光景でわかった。時計を見ると十一時を少し回っていた。すでに出発してから三時間近くが経ったのだが、車に乗り、景色を見ながら走っていると、時間を遡行しているような錯覚にとらわれ、時間を忘れてしまう。


 三人は熱海で下車して山道に入る手前にあるレストランに入り、店の中央の席に陣取ると、早めのランチとコーヒーを頼んだ。海の近くにあるレストランだが、海は見えない。料理ができあがるのを待っていると、仲根がふいに上体を前に倒して友哉に聞いた。瞳の奥で目が光るのを友哉は見たように思った。

「実は、輸出入部で新たに社内カンパニーを起ち上げる計画があって、資本金に二億円を出すと言うんだが、そこの社長におれを起用するという話なんだよ。武藤部長が先週おれを別室に呼んで、ざっと説明した後、仮の貸借対照表を付けた事業計画書を来月末までに提出しろ、と言うんだ。」

そう言うと仲根は姿勢を元に戻し、テーブルに両手を突いて友哉の顔を見た。友哉の反応を窺っている様子が、目を左右に忙しく動かす様子から見て取れた。

「社内カンパニーか、なんだかよくわからないけど、すごいじゃないか。まだ三十二歳で資本金二億円の会社社長に収まれるんだったら超ラッキーだよ。受けるんだろ、その話? 企画案は固まったの?」

「まだだ、アイデアがないわけじゃあないんだが、そもそも受けるかどうか迷っているんだ。もしも失敗したら、戻って来られるかどうかわからないし、もしそうなったら元の木阿弥じゃねえか。」

「なんだか仲根らしくないなあ。そんな心配をするなんて。それに、そもそもこれまで一度も失敗していないし。社内の評判も上々で、昇り竜じゃないか。」

「お前一緒にやらないか? 何人かは引き連れて行っていいっていう許可が下りてるんだ。お前なら気心も知れてるし、営業の腕も確かだし、安心だよ。」

「いい話じゃないの。受けるんでしょ? 先日の父との相談も話が進んでるみたいだし。年収はいくらになるの? 今よりも多くなるんでしょ、社長だし。」

ふいに有美子が体を前に倒し左手を仲根の右腕に添えながら、抑揚を抑えた低めの声で聞いた。口元は笑っているように見えるが、目つきは真剣だった。離れるのがことのほか大変でも、本音では離れたくないという気持ちがその左手に表れている。

「そうだな、考えとくよ。」

 仲根とうまくやっていく自信は友哉にはなかった。いつになるかはわからないが、早晩仲たがいするのは目に見えているような気もした。仲根自身も「お前とはどこまで行っても友達にはなれそうにねえよ。」と言っていたではないか。仲根もわかっているのだ。わかっていてあえて聞いているのに違いない。もしかしたら、仲根はこのことを伝えようとして先日やって来たのかもしれない、ふとそう思えた。そうかもしれないが、しらふで来るようじゃないと真剣には考えられない。

「ああ、考えといてくれ。だがな、いつまでもじゃないぞ、そうだな、一週間だ。一週間で返事をくれ。おれにも期日があってな、そうのんびりはしてられねえんだ。」

「わかった。」

 そう言っているところにハンバーグにサラダとコーヒーが運ばれ、食べ終わったころには十二時を回っていた。下田まではここからあと五十キロほどあるということを聞かされ、買い物もあるのですぐに出かけることにした。「道が混んでいなければ一時間半程度で下田に着く。」、仲根は再びサングラスを掛けるとそう言って先に店を出た。


 この日、国道一三五号線はあいにく渋滞していた。

 どこかで工事でもしているのだろうか、渋滞にはまってしまい、一時間が過ぎてもなかなか車列は進まなかった。仲根は、こんなことではいつ下田に到着するかわからないので、一三五号線を下りて伊豆スカイラインを南下し、修善寺に出て下田街道に入り下田に向かうと説明してくれた。伊豆の道を知り尽くしているかのように地名を次々に挙げてくるのだが、友哉にはどういうルートになるのか皆目見当がつかなかった。仲根はそのほうが少し遠回りだが、道は空いているから二時間もあれば下田に着くと自信のある様子で話した。弘樹はおれと違って自分の能力と判断力に自信があるのだ、と友哉は改めて思った。この能力は組織のリーダーには欠かせない資質で、それが備わっていることに、友哉は仲根をうらやましく思うこともあった。

 一三五号線は日がたっぷり差し込み、明るい南国のイメージだったが、伊豆スカイラインに合流する道は山道のためか、日が差さず湿ったようにじとりと暗く、初冬のため日が傾き出すのも早く、確かに道は空いていたものの、陰気な印象を与えた。ここまで五時間以上ずっと車に揺られていて、友哉は少し疲れを覚え始めた。だがそれは仲根も有美子も同じなので口には出さなかった。

「買い物行けるかなあ。三か月前に買った瀬戸物の湯飲み茶碗は瀬戸焼の瀬戸物で、重厚でそれでいておしゃれで、父がずいぶん喜んだわ。この間来た時は父に美濃焼のパン皿を買ったんだけど、ここの瀬戸物屋のご主人は目が確かで、信用できるから、この次は何焼きでもいいから絵皿の大皿があったら一枚買って来てくれと頼まれているのよ。あのね、父は弘樹さんとのことも認めてくれてるのよ。来年私が学校を出たら、一緒になっていいって言ってるわ。うれしい?」

 有美子はしばらく黙って景色を眺めていたが、山道を抜け出すころに突然しゃべり出した。その屈託のない話しぶりが育ちの良さを感じさせた。人はたとえ二度目でも直接会って話すと初対面の時の印象とはまったく違った印象を与えることがある。特にこのような状況ではその人となりが如実に現れ、有美子に対する軽薄な印象もずいぶん矯正された。有美子はあくせくしたところがなく、実はどこかおっとりしている人なんだな、と友哉は思った。

 仲根は山道に入って初めてナビに頼りながら、木立が道の両側からせり出している小暗い山道を、車をくねらせながら注意深く走らせていたのだが、有美子の「うれしい?」という質問が耳に届いたのか、有美子の顔を見て、ぼそぼそとぶっきらぼうに答えた。

「ああ、今度改めて菓子折り持ってあいさつに行くよ。」

「ほんと? うれしい。」

 有美子は両手でほほを覆いながら上気したような目つきで仲根を見つめた。仲根に惚れているんだ、友哉は部屋の中で「あたしに触っちゃだめ。」と叫び、兎のような目をして友哉を見つめた佳奈の顔を思い出しながらそう思った。有美子は仲根のどこに惚れたのだろう。自信に満ちあふれ男気の強いところかもしれない。仲根が友哉の知らないところで独自に活動している。それは他人の世界に起こった自分とは何の脈絡も持たない話ではあるのだが、その脈絡とともに突然自分の前に現れてくるものだから、藪から棒でいながら何とはなしに気になるではないか。自分に自分独自の時間が流れるように、他人には他人の自分とは隔絶した独自の時間が流れている。それは例えるならば、この山道を走るがごとき小暗い他人の世界なのだ。


 三十分ほど車を走らせると、伊豆スカイラインに出た。山頂に向かって走って行くのだが、途中霧が立ち込め始め、視界が悪くカーブも多いせいか、友哉は少し気分が悪くなった。その時だった。車がガガガッと大きな音を立てて突如停車し、有美子がきゃあああっと叫びながら前に倒れ、仲根がうめき声を上げた。車は左に大きく傾き、エンジンがシューシューとあえぐような異常な音を立て、友哉は前のめりになりながら、額をしたたか車のセンターピラーにぶつけた。車輪が空回りしているのか、ぶるぶると震えている。幸い、山道を走行していたためにスピードを出さずに運転していたこともあって、けがをした者は誰もいなかった。仲根がもっそりと上体を起こし、有美子も何ともなかったようで、仲根に続いて額を押さえながら上体を起こし、お互いの顔を見合わせてから、友哉のほうを見た。仲根は額に手を当てている友哉に向かって、

「側溝にはまったようだ。」

と、エンジンを切りながら言い訳らしからぬことをつぶやくと、ドアを開けて車外に出た。友哉も体をずらしながら車外に出ると、やはり左の前輪が側溝に落ちていた。

「まいったなあ、こんなところで。ジャッキはあいにく持って来てないんだ。三人で力を合わせれば持ち上がるかな。」

 仲根は前方左手の土手に回り、必然的に友哉が右手の前方に回って車体の下に手を入れ、後から続いて左手から下りてきた有美子が注意深く側溝を跳び越えて右手に回り、車体の下から手を入れて三人で車体を持ち上げようとしたが、シーマの重い車体はいっかな動かなかった。

「やはり二トン近くあると持ち上がらねえな。」

 仲根はそう言って一度携帯で調べた後で改めて携帯に電話番号を打ち込んだ。白い冷気が足元から這い上がってくる。やはり山頂は思いのほか寒かった。有美子が両の手を胸の前で交差させながら足踏みし、体をこごめるようにしてつぶやいた。モヘアのセーターの毛が立っていた。

「寒いわ。いったいどうなるの、これから、私たち?」

有美子が俳句でもつぶやくように言うと、仲根は車に戻ってエンジンをかけ、ハンドルを右にいっぱいに切ってアクセルをふかしてみたが、車体をこするばかりで、完全に右の車輪が落ちていて車輪は縁石には乗り上げなかった。仲根は再びエンジンを切って観念したように左手の土手に立ち、携帯を耳に当てては何回か電話番号を押してみるのだが、間の悪い時は思うようにいかず、なかなかつながらないようである。あまりの寒さに皆で車の中に戻って再びエンジンをかけてヒーターをつけ、有美子が友哉の隣に座ると、車はギイイッという不気味な音を立てて左側に沈み込んだ。

 仲根が新たにJAFのアプリをダウンロードし、画面の指示に従ってタップしていき、それから電話を掛けると、今度はつながり、電話の相手に事故を告げ、レッカー車を手配してもらいたいと言って現地の場所を大雑把に告げると、相手から現在位置の確認が取れたという声が漏れ聞こえた。ただあいにく今日は事故が多く車が出払っており、三、四時間しないとそちらに行けないということだった。時計を見るともう午後二時を少し回っていた。三人は仕方なく車の中でJAFの到着を待つことにした。仲根が好きなジャズの音量をわずかに上げて車内に流したが、ジャズの物憂げなメロディーは、かえって気を滅入らせた。有美子が曲を止めてくれと言うと、仲根は素直に求めに応じて曲を止め、社内にはいっそう重たい沈黙が白い冷気のごとく漂った。

 

 霧はいつの間にか晴れたものの、十月も下旬になると日が暮れるのが早く、特に山頂では日暮れとともにばったりと夜が訪れ、あたりはすっかり暗がりに覆われた。JAFのトラックが到着したのは午後五時を回っていて、中年の男が手慣れた様子で、アームに車の前部を引っ掛けてものの十分で車体は側溝から出た。男は側溝から車体を出すと、そのまま体をこごめて足回りを携帯の明かりでざっと点検した。

「油漏れもないし、ロアアームも折れていないようですから、まだ走れますよ。不幸中の幸いでしたね。」

と言って、五万円の請求書を仲根に渡し、仲根がカードで支払いを済ませると、男は来た道を戻って行った。暗がりの中に取り残され、これからどうしようか三人で相談すると、有美子が、ふもとの煌々とした明かりを見つめながら、

「やっぱりこのまま下田に行こうよ。父から頼まれた買い物もしたいし。それになんだかお腹も空いたから、今日は三人で下田に泊まろう。もう少しなんでしょ、下田は、ここから。それに明日は日曜日で休みだしね。」

と仲根の肩につかまりながら、陽気な声を上げ、このような場面を楽しむかのような口調で提案した。こういう時は女性の発言が一番重視されるものである。仲根もそれを聞いてうれしそうに「そうするか。」と言った。友哉も思いがけない事態を楽しむ気持ちが芽生え、一泊すると決めたとたんに冷気がまたぞろ足元から這い上がって来る。車も元に戻り、少しほっとした気持ちになって早く下田に到着したかった。


 今夜は車中で有美子が手配してくれた旅館に泊まることになった。幸い部屋は空いているということで、続きになる部屋を二つ取った。

「ここは今回で二回目なんだけど、女性用露天風呂があってね、そこから港の景色も見えていい感じなの。」

 ほの暗い道を小一時間ほど揺られて来たが、旅館には予定通り七時に到着した。三階の部屋に通され、布団はすでに二つ敷かれてあった。お連れ様のお布団はお隣の部屋にご用意しておりますとのことだった。

 座椅子に腰掛け、有美子がお茶を入れ、仲根が有美子の隣でテレビのリモコンのスイッチを入れると、高齢の男性ドライバーが病院の正面玄関に突っ込み、二人の高齢女性が門柱にはさまれて死亡が確認された、というニュースを流していた。高齢のドライバーの事故だとしょうがないのかなと思えてくることもあるのだが、有美子は許せないらしく、手に持った茶碗を震わせて、茶をこぼしながら「どうしようもないぼけ老人よね、二人も殺して。」と興奮した甲高い口付でその高齢のドライバーを悪しざまに責めた。

 しばらくして、仲居が一人部屋に入って来て、

「お料理のお支度が整いました。地下一階のお食事処でお願いいたします。」

と言う。三人でその食事処に向かうと、テーブルにはすでに突き出し、野菜の炒め物、魚料理、肉料理、貝料理、刺身など都合二十品近い料理が手際よく並べられ、ビールが三本添えられていた。

「おいしそうね。早くいただきましょう。」

そうは言ったが、先に箸をつけることはせず、正座して両の手を足の上に置き、仲根が「さあ、食べよう。」と言うのを待った。仲根が友哉にビールを注ぎ、友哉が仲根と有美子にビールを注ぐと、仲根が早速友哉に話しかけた。

「友哉、会社で、というより、輸出入部で社内カンパニーの話が持ち上がっているのはさっき話したとおりなんだが、お前、この話本当に聞いたことはないのか。けっこう社内でうわさになってると思っていたんだが。」

 仲根はお昼の続きをもう一度話そうとした。説明し足りないところがあるのかもしれないと友哉は思った。

「いや聞いたことはない。初耳だよ。たまに同僚と飲みに出かけることはあるけど、そんな話は一度も聞いたことがない。ところで社内カンパニーって何だ。何をやる会社なんだ?」

「基本的には会社の子会社で組織的には別会社となるんだが、独立採算制で、端(はな)から始めるので、成功も失敗もその社長の腕次第、というやつさ。その社内カンパニーをおれに任せたい、と武藤が言うんだ。何をやるかの構想はほぼ固まっているんだが、お前の返事を聞いていない以上は今は詳しくは話せない。」

 仲根は熱海のレストランでは「受けるかどうかまだわからない。」と言っていたが、腹の底ではこの話を受けるつもりだということがわかった。

「だけど、それはすごい話じゃないか。成功したら本社の部長以上、いや取締役は確実だな。でも、弘樹は才能があるから、きっとうまくいくよ。」

 仲根はそう言われるとにっこり笑って、まんざらでもないという顔付で刺身を豪快に頬張った。同期入社の仲根だったが、いつの間にか出世競争ではすっかり追い越されてしまっていたんだな、と友哉は思った。だが、それを悔しいとも思わなかった。友哉は今のところ出世などには頓着していなかった。「そうか、そう思ってくれるか。」とうれしそうにつぶやく仲根の言葉を肴にしながら、友哉も焼き魚から手を付け、貝、刺身と箸を運んで、手酌でビールをあおった。

 仲根は問題を一人で抱え込むのはかえってよくないと思っているのかもしれない、と友哉は少しほっとした様子を垣間見せている仲根の顔を見ながらふと思った。他人に問題を打ち明け、共有することで解決の糸口が見えることはよくあることだ。仲根はコップに残っていたビールを一息にあおり、さらに注ぎ足して、またぐいっと飲んで、ふうっと長い息を吐いた。

「さっきも聞いたけど、どうだ、おれと一緒にやらないか。社員を何人か引き連れて行っていいという内諾ももらっているんだよ。お前となら安心して一緒にやれる。」

「そうだなあ。」

と言いながら、ドライブに誘ったのも実はこの話がしたかったのだ、と思った。だが、このような突拍子もない相談をされるとは少しも思っていなかったから、改めて尋ねられても考えるだけの材料もなく、考えがすぐにはまとまらず、愛想笑いをしながら仲根にこう言った。

「すまないが、今すぐには返事ができない。やはりもう少しだけ考えさせてくれないか。おれだってこの会社に残ってやり過ごしていれば、管理職くらいにはなれると思っているし、今のところはそれで十分だと思っている。わかってくれるよな? 何も今から賭けに出る必要はおれにはないんだよ。それに失敗したらどうなるんだ? 元に戻れるのか?」

「戻れはするけど、能力のなさが露呈するわけだから、出世街道からははずれて、場合によっては、窓際に追いやられて飼い殺しってことになるかもな。いずれにせよ、失敗したら長い間冷や飯を食うことになるだろう。まあ、おれたちの場合はそうはならないと信じてるがな。……さっきも言ったけど、一週間くらいで返事を聞かせてくれ。おれはな、お前は、たぶんお前が自分のことを考えているより多才だと思っているんだ。友哉、才能は花開かせるためにあるんだからな。」

 話はそこでいったん終わり、ビールの飲み残しを一気に喉に流し込むと、その後誰を引き連れて行くか仲根の頭にある同僚を五、六人ほど挙げてそれぞれの品定めに及ぶと話は弾み、日本酒に切り替えて、いっそう場がなごみ、陽気が踊り出し、酔いが回り、饒舌が跳ね回り、食事を楽しんだ。すると食事処の周囲の楽しげな大声が膜を破ったように飛び込んで来た。男と女の屈託のない笑い声が鼓膜に響く。そのにぎやかな喚き声や艶めいた声が肉をまとって旅を実感させ、解放感に浸りながら、こうやってたまに旅行するのも気分が変わりいいもんだと友哉は思った。

 有美子はこの話はすでに聞かされているらしく、華やかな笑顔を作って二人をかわるがわる見ながら、少しも口をはさまずに静かに酒を飲んだ。どうやら余計な口出しはするなとしつけられているようだった。このように分をわきまえたところも仲根の気に入っている性格の一つなのかもしれないと友哉は思った。有美子は三人で寝ようと仲根が言うと従順に従った。したたかに酔いながらも面白そうだと思ったのは間違いない。一方で、離るるるるるるるるが大事ぢゃるもの、とも歌う。心の片隅では浮浪雲と呼ばれる漫画の主人公のような気まぐれな男とは縁を切りたいと思っているのだろうか。有美子は、仲根の楽しそうに笑う顔を見ているのがうれしいのか、よく笑い、体を弾ませながら、仲根の肩に顔をうずめたりもした。そうではない。裏腹なのだ。なんと似合いのカップルではないか。似た者同士、相手がよく理解できるのだ。友哉はそう思い直し、空になったお猪口に甘めの酒を注ぎ直してぐっと喉に流し込むと、熱いものが腹の中を流れ落ちて行った。


 食事が済んで部屋に戻るころには、すでに仲根も友哉も千鳥足になっていて、部屋に戻るなり、仲根がまだまだ飲み足りないとばかりに、熱燗を十本持ってくるように電話を入れると、すぐに仲居がお酒を運んできた。仲根は三人のコップになみなみと酒を注ぎ、一つを取って喉に流し込むように飲んだ。仲根は酒は強いのだが、今日は荒々しい飲み方で、友哉はそれほど酒が強いわけではなく、帰宅途中で食堂に入りビールを二本も飲めばそれで十分いい気持ちになった。これ以上飲んだらつぶれるな、友哉はそう思ってちびりちびり酒をすすった。

「さっきの話の続きをしようぜ。続きだぞ。実を言うと、そうじゃないんだ。わかっているんだ、あいつの魂胆はな。……」

 仲根は突然、顔の前で右手を左右に振りながら、もう一度「わかっているんだ。」と言って後を続けた。

「実はな、武藤部長はおれを切ろうとしているのさ。おれが気づいていないと思ってるらしいんだが、ちゃんと気づいているさ、おれは。あいつは内実は自己保身が激しいやつで、抜け目がないんだ。だいたいなぜこんなことになったかわかるか、おれがしくじっちまったからさ。銅の先物で大穴を開けちゃったんだよ、上層部があっと驚くような大穴をな。銅っていうのは主に米ドルで決済するんだが、ここのところ銅製品の売れ行きが好調だったから、弊社の輸出量を大幅に増やす計画が持ち上がったのさ。ところが銅が大量に不足するといううわさが出回ってな、銅の価格が急上昇し、いつもより多めに買い注文を入れていたところにもってきて、先だっての円の暴落も手伝って、損失が一気に膨らんじまったのさ。単発の取引で十億だからな、始末書もんだったのよ。あいつは、それこそ大あわてになって、頭を抱えて、それをおれ一人のせいにして、独断でおれがやったと上に言いふらしてるんだよ。ちゃんとその場その場で相談してきたのに、顔を青くして社内を飛び回り、まったく調子のいい野郎だよ。」

「それはいつの話なの? そんな話は聞いたことがないぞ。」

「三か月くらい前のことだ。同じ会社とは言っても、輸出入部と国内商品部は部が違うから、話も行かないのだろう。」

 仲根は社内カンパニーの話で頭がいっぱいらしく、だいぶ酔っているはずなのになおもこの話を続けたがった。しかし、今の話でそれもうなずけた。会社としては十億の穴は問責どころか懲罰に値する。しかし、反面、十億もの穴を開けてもしおれることなくおだを上げる仲根をうらやましいとも思った。仲根がくだを巻きながら友哉の肩に腕を回して、力強く自分の体に引き寄せながら、頭をがくりと落としてから、すぐにまた顔を上げた時に、その顔につばを吐きかけるように有美子が真顔で叫んだ。

「弘樹さん、あなた、そんなこと私には一言も言ってなかったじゃない。運が向いてきたって言ってたじゃない。父にもそう言ってあるのよ。自信のある社内カンパニーだから絶対成功するって。だから、これから出世するって。父だってあなたに成功してほしいのよ。だからあなたに協力するんだからね。」

「うるさい、お前は黙ってろ、男の話に口をはさむな。おれの会社は成功させてみせる。見返してやるんだ。武藤はおれには仲根君は立身出世のとば口に立ったなんて言っているが、体よく、お払い箱にしたかったのさ。おれも後で聞かされたんだけど、実は同じような業態の社内カンパニーをもう一つ作って競わせようとしてるんだ。どちらかはつぶれることになるんだよ。つい最近そのことをある人から告げられたんだ。驚いたよ。失敗したらそれまでのことで、元のさやには戻れないそうだ。だが、おれはそのことでいっそうやる気になったんだ。火が付いたんだよ、おれの気持ちに、逆にな。わかるか。」

 有美子の言葉は仲根を焚きつけたらしく、コップ酒をもう一杯煽るように喉に流し込み、友哉のコップにも酒を注ぎ足して、仲根はさらに雄弁に声高に気炎を吐いた。「何なの、それ。」そう言うと有美子は「お風呂に入ってくる。」と言うなり風呂場に向かっていった。かなり怒っていることがツンと顔を上げてドンドンと音を立てて歩いて行く様子に見て取れた。友哉はそのような事情を聞かされて、仲根とは逆に気が萎えた。そんな危ない橋をいったい誰が渡ることができようか。酔いが一時に醒めた。

「もう失礼して部屋に戻るよ。」

と友哉がよろよろと立ち上がると、仲根が友哉の腕をつかんで、先日のことを思い出したように言った。

「まだ、行くな。まだ宵の口だ。そうだ、三人で寝よう。何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ。くすむというのはまじめくさった顔をして、という意味だ。狂え、とはひたむきに生きろ、という意味だ。わかるか、おれの気持ちが。まあ、座れ。」

 仲根は思い切り友哉の腕を引っ張り、友哉は思わずよろけて仲根の肩につかまり、体を泳がせて銚子を何本か倒して元の場所に座った。仲根はすっかり気分が高揚していたが、心労もあるらしくそこでおとなしくなり、卓袱台に両腕を載せてうたた寝を始めたようだった。静寂が戻り、酒が卓袱台のわきからぽたぽたと垂れる音が、地面を打つ雨音のようにこだました。友哉はこのすきに自室に戻ろうとしたが、ふいに友哉も睡魔に襲われ、つられたようにそのまま寝込んでしまった。


 ばたんという音がして、目が覚めた。

 有美子が風呂から戻って来た音だった。湯につかって怒気が取れたらしく、さわやかな明るい声で二人に声を掛けた。

「露天風呂よかったわよ。お風呂からはよくは見えないけど、浴室の窓から、港の寂しい明かりを見て気分が落ち着いたわ。二人とも寝てたの? 仲がいいのね。」

「有美子、今日は三人で寝るぞ。有美子、お前とは一緒になる。今決めた。だから、三人で寝るぞ。」

 仲根は頭を下げ、目を閉じながら低い声でしかし凛とした口調で有美子に言った。

「そう、寝るのはいいけど、竹内さん、あたしには触らないでね。それはお願いね。」

「いや、僕は自分の部屋に戻って寝るよ。」

そう言って友哉がよろよろと立ち上がると、

「有美子は自分の体に自信があるから、それを人に見られるのはかまわないと言うよりも、自分に危害を加えない限りはむしろ好ましいことと思っている。有美子もお前が気に入ったんだ。おれにはわかる。おれはそんな有美子のおおらかさが好きなんだ。」

「それは少し違うわ。あたし自分の体に自信なんてないわよ。足も太いし、腰回りも少しだけど太いから。だけど、あたしの気に入ってる人なら、裸を見られても別に何とも思わないわ。それをおおらかと言うならそうかもしれないけど、でもね、あたしに気に入られているっていうのが前提ね。自分が気に入らない人には絶対いや。私細かいことも大いに気になるの。その点はおおらかでも何でもないわね。」

 友哉はまた座り直して、絶対か、と一言小声で口にした。佳奈なら「ぜえったい。」と言うところだ。

「あら、何かおかしい? あたし変なこと言った? あたしね、人に笑われるのが一番嫌いなの。」

 有美子が目をとがらせて友哉に言った。今まで誰にも見たことのないような怖い顔付だった。おおらかさの陰に潜む気性の激しさ。こうした二面性は誰しもが持ち合わせているものだ。友哉はあわてて体を前に倒しながら打ち消した。

「違う、君のことを笑ったんじゃない。ほかのことを思い出したのさ。君じゃない。」

「そう、それならいいけど、あたしのことをばかにしたら許さないわよ。」

と有美子はすごんだ。有美子の顔のすさまじさに友哉ははっとした。仲根は有美子のこの気の強さを知っているのだろうか。おれだから、有美子は垣間見せたのではないだろうか。そうだ、おれは有美子にとっては何の関係もない赤の他人なのだ。

「喜劇なんだよ、すべては。喜劇ってやつはいつだってどこかに隠れていてひょいと顔を出すんだが、わかるか、つまりな、真剣味のある日々の営みの中に、笑い事としかとらえようのない喜劇が含まれているんだよ。見てる分には滑稽でいいんだよ。脇で見てる分にはな。ただひと時のおかしさを笑っていれば済む話だ。だが、今回は違う。その道化役者がおれなんだよ。笑わせるじゃねえか。」

 そう言うと、仲根は有美子にむしゃぶりつき、有美子がよろけて布団の上に転がると、浴衣を大きく広げ、乳房にむしゃぶりついた。有美子は白い肉付きのいい足を仲根に絡めた。仲根は上体を起こし、有美子の顔を両手で包むと、いとおしむように唇に吸い付き、有美子に覆いかぶさった。友哉は二人の行為を間近に見ながら、少しも興奮を覚えなかった。この二人の中に素足で入っていくことは許されない。友哉はこの厳粛ながっしりとした真剣さに打たれて、よろよろと立ち上がり壁に手を突きながら部屋を出た。何時だろうか、時計を見ると十一時を過ぎていた。暖房の効いた館内にあって廊下には初冬の底冷えする寒さがとぐろを巻いていた。足元からするすると這い上がる寒さを振り落とすように友哉はよろめきながら自室に戻った。


 翌日は七時ごろに目が覚めた。風呂場に行って体を洗い、まだ少し酔いが残る頭で自室でしばらく休み、「お食事の用意ができています。」という宿の電話の案内で仲根たちの部屋に向かうと、部屋に鍵は掛かっておらず、有美子はまだ布団の中で寝ていた。裸ではなかった。仲根は窓辺の椅子に座り静かに港を見ていた。今日も快晴で港の海面がきらきらと輝いている。仲根は六時ごろに目が覚め、一浴びして有美子が起きるのを待っていたと言った。

「友哉、おれは裏切られることが人一倍嫌なんだ。誤解するなよ。おれは有美子を慰み者にしてるわけではない。有美子はおれを裏切らない。おれも有美子を裏切らない。それは確かだ。だから、お前もおれを裏切らないでくれ。」

「わかってる。心配するな、弘樹。」

 友哉は仲根が初めて弱い一面を見せたように思った。強制された関係はもろいことを友哉は知っている。手を結んで協力し合って事に当たるというような関係でなければ、事業はうまくいかないのではないだろうか。そこは仲根もわかっている。だから、仲根は接着剤のように有美子を間に挟もうとしたのだろうか。剛健だと思っていた仲根が初めて見せた柔弱さ。いや、失敗しないかと足がすくんでいる時に考えた惰弱な考えではないだろうか。ふと、有美子が、「この人かわいいかわいいしてあげないとだめなの。」と言っていた言葉を思い出した。仲根は有美子を支配しているかのように振る舞うが、内実はその逆で、仲根のほうがしっぽをつかまれている。仲根はよかれと思って有美子を出汁に使ったようだが、有美子にきっぱり断られ、かえって仲根の弱さが際立つように思えた。だが、そのとたん、すぐさま違う自分が現れて、違うぞ、と心の中で一喝した。大事をなさんとする者がとば口に立ってふと見せた震えを誰が責めることができようか。初めて仲根がおれを頼って来たのだ。それに応えてやる必要があるかもしれない。一瞬だが、この話は断ろうと思ったのだったが、友哉はもう一度じっくり考え直してみることにした。

 三人連れ立って食事処で朝食を摂り、有美子は友哉の顔を見ず、うつむき加減に食事をし、そそくさと食事を済ませ、気まずい思いを抱きながら帰途につくことになった。

「弘樹、昨日の話はもう一度おれなりによく考えてみるよ。だから、帰りは一人で帰る。電車で帰るよ。悪いが先に出る。おれの分の支払いは済ませておく。君たちとはここで別れよう。」

そう言って友哉は二人に別れを告げると、旅館の送迎バスで下田駅に行き、伊豆急に乗って東京に帰って行った。



     五



 日がまたぞろ、そろそろと流れ始める。

 一週間が過ぎても佳奈は姿を見せなかった。一週間と期限を切った返事も仲根から特に催促の連絡は来なかった。

 友哉は十月最終の土曜日に、千葉県の大型集合住宅のシステムキッチンの件で、顧客との最終の打ち合わせに向けたスケジュール調整をするために、午後一時ごろ休日出勤をしたが、早めに切り上げて退社し、駅近くの食堂に入り、七時のNHKニュースを見るともなしに見ながら、いつものようにまずビールを飲み、今日は少しお腹がすいていたのでご飯を大盛りにしてもらった鰈の煮つけ定食を食べ終えると、佳奈に会いたい、と佳奈の名前を初めて心の中でつぶやいた。会いたいと思ってもこちらから出かけて行くことができず、なすすべもなく佳奈がやって来るのを待つだけであった。やって来るとも来ないとも判然としないが、思いがけない出会いだったからこそ、きっとまたいつか会える、と思い直し、また待つことにした。友哉にとって、「待つ」とは何かが結実するのを見守ることであった。何かが結実して心が満たされ、充足感に支配され、それが「生きる」糧に変わっていく。今おれが待っているのは、漠然とした何かではない。様々な表情や姿態を見せ、おれの心を充足させてくれる佳奈という実体なのだ。そう自分に念を押すように「佳奈という実体」という言葉を再度心の中でつぶやいていた。ふと顔を上げると、店の娘が店の奥から友哉の顔を見てにこりと微笑んだ。鼻が低く、愛嬌のある丸顔は見られて悪い気はしなかったが、友哉はそ知らぬふりをして、食堂を出て帰宅した。


 待つと決めてみたもののやはり一日は長かった。友哉は湯につかりながら、ぼんやりと考えている。あれほど早く流れて行った時間が、油でも切れたかのようにきしりながらよろめいて行く。習慣だ、今までしてきたことと同じようにして日を過ごすのだ、そうすれば日はめくるめく流れ始める。朝起きて新聞に目を通し、今日の運勢欄を読んで運気が低迷している日は何事も控え目にし、特に車には気をつける。夕方七時まで残業をし、日報をまとめて退社し、帰りがけにいつもの食堂でまずビールを注文してから夕食を済ませて、そそくさと帰宅する。家に帰って風呂に入り、必要もないのに習慣でバスタオルを一枚巻いてテレビをつける。友哉はこの時が一日のうちで一番好きな時間であることも思い出していた。そうだ、今までおれはこの単調で何の変哲もない生活そのものに満足してきたではないか。何も考える必要がない時間こそ至福の時だ、そう思ってきたのだ。

 考える必要がないからと言って、何もしていないということではない。それは明日を迎える準備であり、邂逅の萌芽であり、胚胎なのである。他人に商品の説明をしている時でさえ無碍の境地にひたり、時間を忘れることはできる。今は、待つのだ。待つことには慣れているではないか。透明人間か、とふと佳奈と見たつまらない映画を思い出しながら友哉は小さな笑いをもらした。おれも時間に溶けた透明人間なのかもしれない。そして佳奈もこの空間に溶け込んでいる透明人間なんだ。

 これまで友哉は、生きることは時間を焼却することであると思ってきた。仕事に慣れ、世事に慣れてくると、時間のほうからさっさと周囲ごと丸呑みにして流れ始める。ややもすると、毎日は無為にしてただに懶惰、と思うことがあった。震えるような喜びもないかわりに、身を切られるような哀しみもない。こうして、時間に溶け込みながら、江里子のことも同じように忘れてきた。透明人間のように、傍観者のように、蹉跌も反省も忘れ去って電車に揺られて行く毎日が続いた。平凡なのだが、そもそも非凡を求める必要性そのものがなかった。連綿と続く平凡な日常生活を変えようにも変える手立を友哉は持っていなかった。だが、今は違う。佳奈がこの閉塞を突き破り、何かを変えてくれそうな予感がする。そう思うと、待つことが楽しみになってきた。


 友哉は一週間の疲れをぬるま湯につかって落とした後、腰にバスタオルを一枚巻き付けてテレビの九時のニュースを聞きながら、ビールをあおった。このところ連日のように戦争と強盗事件と値上げが続く物価高騰の報道ばかりだが、仕事に直結する為替相場以外のニュースは友哉には生まれてくる前の遠い過去のような出来事でしかなかった。ぐうっという音と一緒に、心地よい冷たさの液体が喉を流れ落ちて行く。げっぷをしながらふと笑いがこぼれた。佳奈に会いたい、確かにこれが今のおれにとって一番の関心事である。しかし、佳奈に会いたいと思っても佳奈の気まぐれを待つことしかできない。友哉は佳奈の前でもなお宙ぶらりんでいる自分に気づいておかしくなったのである。十八歳の予備校生に三十二歳のおれが未決囚のような気持でいる。だが、こうして部屋の中で落ち着いていると、どっちつかずの状態を友哉は楽しんでもいた。そうだ、未決囚の篤実な真心を見せるために、何かプレゼントをしてみたらどうだろうか。十八歳の少女が喜びそうなものというと何だろう。冬に向かう時節柄、セーターというのはどうだろうか。だが、いつもブルージーンズに白いTシャツを着ていた佳奈の色の好みも知らず、かといってセーターならなんでもいいというわけにもいかない。よし、佳奈が好きなピンクのセーターにしよう。セーターを手渡した時の佳奈の喜ぶ顔を想像すると、不思議と気分も高揚してきた。その時ふと、明日きっと佳奈がやって来る、そんな予感がした。友哉の予知能力は家の外では無力であるが、家にいる時はこうした予感はよく当たった。


 友哉は翌日洗濯を済ませ、ビールを二ケース注文した後、さっそく池袋駅近くのデパートに買物に行った。婦人服売場に行くと、五十がらみの店員が出て来て、

「彼女へのプレゼント?」

と、にやりと薄気味悪い微笑を浮かべてうるさくまとわりついてくる。どうしてほっておいてくれないのだろうか、と友哉は少し不機嫌になった。

「これなんかどうかしら、若い人に人気があるのよ。」

 そう言って店員はモスグリーンのタートルネックのセーターを取り出して来た。これと似た色合いの上着を佳奈は持っていたが、こんな濃い緑色が似合うだろうか。色を合わせてみようとするのだが、宙に視線をさまよわせて怯えたような表情を見せている佳奈しか思い出せず、色が合っているのかどうかもわからない。

「こういうセーターが若い人にはやっているんですか?」

「そうね、二十四、五歳くらいの人がよく買って行くわね。」

 二十四、五歳か。店員は友哉の年恰好を見て、恋人の年齢を踏んだに違いなかった。友哉は今度は少しおかしくなって唇を噛みながら店員に会釈をして売場を離れた。いや、実は十八なんですよ、とはどうしても言えなかった。友哉はプレゼントをあきらめて帰ることにした。

 二階に下りると、香水売場に佳奈に似た店員が、退屈でしかたがないとばかりに腕組をしてガラスケースに寄りかかりながらこちらを見ている。香水か、買ってもいい。少し大人になったような気分も味わえるのではないだろうか。真っ赤な口紅と濃い藍色のアイシャドーをべったり塗りつけたその店員は、よく見ると鼻とあごがとがり、佳奈に似たところなど一つもなかった。店員はゆっくりと上体を起こして喉を鳴らすような調子で、「いらっしゃい、プレゼントされたら彼女喜ぶわよ。」としゃがれ声で言いながら、ショーケースの中からすぐに二、三本取り出して来た。

「香水っていうとフランス製しかないと思っている男性が多いけど、実はそんなことないの。向こうはどちらかというと体臭の強い人が多いから匂いがきつめなんだけど、このアメリカ製のエリザベス・アーデンは匂いがやさしくて日本人向きなのよ。おいくつくらい?」

「ううん、……二十歳。」

「二十歳ね。だったらこのエルメスのナイルの庭なんかもいいわね。ナイルの庭、しゃれた名前よね。彼女にピッタリよ。それに少しお安くなってるのよ。」

 見てもいないのにピッタリなどとどうやったら言えるのだろうか。同じ営業とはいえ、小売の営業はあくが強い。押しが強すぎても人は信用してくれない。その頃合いを計るのがコツであり、面白さなんだが、と友哉は思った。匂いの対価として百ミリリットル一万二千円が高いのか安いのかよくわからなかったが、安くなっているという言葉は耳に残り、「どう?」とたたみこまれて、失敗したなと思いながら小さくうなずいていた。


 だまされたかもしれない、そう思いながらも友哉はなんとなくにやにやしながら午後早目の帰りの電車に揺られていた。所沢駅に着いて駅ビルの中をぶらぶら歩いていると、思いがけなく洋菓子店が目に入った。友哉は佳奈がチョコレートパフェが好きだったことを思い出し、そこでプチチョコレートを買い込んで帰宅した。それから花嫁でも迎え入れるような心掛けで部屋の片づけをした後、もう一度外に出て、近くのコンビニでから揚げ弁当を二つ買い込んで来て佳奈を待った。時計を見るともう五時だった。

 一日の経つのは早くても、こうした時の一時間はよほど足が遅いものである。友哉はコーヒーを飲み、新聞をじっくりとくまなく読んでしまうと、することもなくテレビをつけ、冷蔵庫からビールを取り出して飲みながら時間をつぶした。普段一人でいる時と同じことをしているのに、なぜだかわからないが、今日は時間がよろめき、もたついている。友哉はめったにはずれたことのない予感が今度ばかりははずれてしまったかと思いながらビールを飲み続け、意識的に声を低くしてニュース原稿を読み上げている女性アナウンサーを見ながら、宙に視線をさまよわせて困惑している佳奈を思い浮かべていた。友哉はふと佳奈の肉を感じたいと、首筋にまとわりつく冷気に肩をすぼめながら思った。額、頬、唇、髪の毛、胸、腕、腰、腹、尻、足、そのすべてに触れ、女を、自分の肉の感触とは異質なものを自分の中に思う存分取り込みたいと思った。異質でいてやわらかく、あたたかく、すべらかな、心がなごむ肉と同化したい、そう渇望しながら、友哉は押入から毛布を引っ張り出し、ソファーの上でうたた寝をしていた。


 額にやわらかいものが触れていた。

 目を開けると、薄暗い中に白い服を着た人影が座ってこちらを見ているようだった。いつの間にか明かりを消して眠り込んでいたようだ。

「佳奈か?」

 佳奈だろうとわかっていても、友哉は聞かずにはいられなかった。佳奈は、「うん。」と言っただけで、額に載せていた手を離し、友哉の顔を両腕ではさむように両手をソファーに突き立てて、逆様に顔をのぞき込むようにしたまま動かなかった。ブーンというエアコンの音が静かに響いている。

「何を見てるんだよ。」

「こんなに早くから寝てるんだもん、熱でもあるのかなって思って。……それにあなたの顔、こうして少し見てたいの。」

 聞き慣れた佳奈の低い声に聞き入りながら、友哉が手を伸ばして佳奈の首に巻きつけ、顔を引き寄せようとすると、

「あたしさあ、ずうっと待ってたの、小さい時から。きっと幸せになれる、そんな夢を見ながら待ってたんだ。でも、ほんとのこと言うと、幸せって何かよくわかんなかったんだけど、とりあえず、身近に現れた男が幸福の切符を持ってるんだって理由もなく決めつけてたのよ。それがいけなかったんだよね。」

 とても行間を埋めきれない繰り言。ほっておいて顔を引き寄せようとしたが、「いけなかったんだよね」という一言が気にかかってまたおとぼけ者のように尋ねていた。

「いったいなんの話をしてるんだ? 幸せ? 身近な男? お前、おれのことを言ってるのか?」

「やあね、違うわよ。……でもさ、あたしのことを幸せにしてくれるんだったら、あなたでもいいわ。」

 友哉は佳奈の首に巻きつけていた手をほどいて起き上がると、手元に置いてあったリモコンを使って明かりをつけ、テーブルの椅子に馬乗りになり佳奈と向き合うように座った。佳奈はソファーの隅に毛布の上から座り、いくぶん前屈みになって両手を両膝の上に置き、まぶしいのか目を細めて友哉を見つめている。佳奈は今日もジーンズに白いTシャツ姿だったが、Tシャツは厚地の長袖に変わっていた。やはり予感は当たった。だが、このような邂逅まで予知することはできない。

「あたし、泊まっていってもいい?」

「いいけど、お母さんにしかられちゃうぞ。おれだって二十歳未満のお前を一日泊めたなんてことになれば……なんとか法違反でつかまっちゃうんじゃないか。今は十八歳成人だから、そうでもないのかな。」

「あたし一人暮らしなんだ。それに、友達に友達の家に泊まるって言ってきたから平気よ。」

「……なんだよ、男にふられて、それでおれのところに来て、どうなったって知らないぞ。」

「別にどうなったっていいのよ。」

「ふうん、何だかやけくそになってるな。……そうか、じゃあいいよ。」

「でもあなた困ることになるでしょ?」

「どうして?」

「だって彼女に知られたらまずいことにならない?」

「彼女?」

「そう。……あたし見ちゃった。香水でしょ、その包み。もう一つはチョコレートかクッキーじゃない?」

「えっ?」

 そう言って佳奈は顎をしゃくりながらガラステーブルの上にビール瓶と一緒に置きっぱなしにしていた香水の包みを指差した。隣に置いてあった小さな泡のついたコップの底に、変色したのではないかと思えるほど黄ばんだ水が時間の残骸のように残っている。佳奈はいったんよろよろと立ち上がって毛布をはぎ取り、座り直して膝の上に掛けた。

「いけない子だよね。でもきれいに包み紙はがしたからもう大丈夫。だってさ、あなた全然起きてくれないんだもん。あんなにベル鳴らしたのに。」

 またぞろ意味不明の言葉をしゃべり始めた。ベルをあんなに鳴らしたのに起きて来なかった。だから、合鍵を使って無断で上がり込み、香水を見つけて包みをほどき、元通りにしてから、ソファーに寝ていた友哉の顔をのぞき込んでいた、そんなところだろうか。だが、そんなことはどうでもいい。友哉は佳奈に会えてうれしかった。だからわざとつっけんどんに、

「やるよ、その香水とチョコレート。」

と、顎をしゃくり、目の前にある香水とチョコレートの包みを指しながら言った。

「ええっ、いいよ。彼女に悪いじゃない。」

「彼女なんていないよ。」

「えっ、どういうこと? ……あっ、もしかしたら、それ、あたしに買ってくれたの? ……まさかね。」

「お袋に買ったんだよ。」

「お母さんにナイルの庭? ……なんかよくわかんないけど、要するに香水のことよく知らないんでしょ。」

 佳奈はにやりと笑いながらいったんソファーにそり返ってから、膝の上に掛けていた毛布をはぎ取ると、よたよたとした足取でテーブルをはさんで友哉の向かいにへたりこむように座った。顔が青白く見えるのは明かりのせいだろうか、と友哉は思ったが、待ち焦がれた鼻筋のしゃんと通った佳奈の顔と、首から肩にかけて白くつやめいた肌を見つめているうちにその疑問もどこかに消えて行った。

「だからお前にやるよ。」

「だから、っていうのはちょっと意味がよくわかんないけど、ほんとにもらっていいの?」

「ああ、いいよ。」

 友哉は苦笑しながらそう言った。営業マンのおれとしたことが意味不明のことをしゃべってしまった。後輩の営業中の談話について後で感想を述べる時に、よくこのことを話題に取り上げて注意したものであったが、人のことはとやかく言えるものではない。

「じゃ、ほんとにもらっちゃおうっと。」

 佳奈はうれしそうな表情を見せて椅子を引いてまたよろよろと立ち上がり、包みをもう一度開けて小さな瓶を取り出し、手の甲に一滴たらすと、ふわっとミカンのほのかな匂いがあたりに広がった。佳奈は友哉のそばに来て、手の甲を友哉の鼻先に突き出した。

「どう? いい匂いでしょ。かわいい匂いだよね。あたしの好きな匂いだわ。これね、柑橘系だから男も使えるのよ。カップルで使ってる人もいるの。」

 とたんにつんとした甘い匂いが鼻を突いた。匂いがきつすぎるのではないだろうかと思ったが、うなずいただけで何も言わなかった。それよりも胸のふくらみのほうが気になった。

「ほんとだ、いい匂いだよ。だけど今日はそばに立ってても平気なのか?」

 友哉はからかうつもりでそばに立つ佳奈の顔を見上げながら言ったのだが、佳奈はそれには取り合わず、

「あたしね、今日はここまでたどり着けないんじゃないかって思ったの。だから友達に連れて来てもらったんだ。」

と、テーブルに両手を突き、友哉の顔を上から見下ろしながらあえぐように言って、両手でテーブルを伝いながら、向かいの椅子にまたへたりこむように座った。

「友達?」

「うん、アッコ。このあいだ喫茶店で会った子よ。ここまで一緒に来たんだよ。あたしなんだか体調悪くてさ、ふらふらで歩けなかったから、アッコにここまで送ってもらったの。」

「体調が悪いってどういうふうに。」

「なんて説明していいかわかんない。とにかく調子がへんだったの。そしたら急にあなたに会いたくなって、だから押しかけて来たの。それなのに何度呼んでも……寝てるんだもん、悲しくなっちゃったよ。」

「そりゃあ、悪かったね。」

「いいのよ、こうして会えたんだもん。……ねえ、ビールもうないの? なんか今日は一口だけ飲みたい気分よ。」

 そう言って、佳奈は再び椅子を後ろにずらして立ち上がり、冷蔵庫を開けて、ビールを一本と流しの横に据え付けてある食器棚からグラスを二つ取り出してきて栓を抜くと、友哉のグラスに注いでから自分のグラスにも半分ほど注いでしばらく眺めていたかと思うと、やっとのことで一口飲むと、顔をしかめて「にがい」と言いながらテーブルに置いた。確かに疲れているらしく、顔が青白く、もう一度友哉にビールを注ぐ時に手が小刻みに揺れた。注意して見ると、痛みでもあるのか、心なしか体がこわばっているようにも見える。真夜中に男と女が一つ部屋の中にいる緊張のせいからではないように思えた。

「大丈夫なのか? 具合悪そうだな。かぜでもひいたんじゃないのか?」

「そんなんじゃないみたい。ちょっと疲れただけよ。エアコンの温度を上げてもらってもいい? それからこのソファーも借りてもいい? 横になりたいの。さっきから、ちょっとおなかが痛いの。この毛布も借りるね。」

 友哉がエアコンの温度を上げてから時計を見ると十時になっていた。佳奈はテーブルからよろめくようにソファーに移動し横になった。あれから食事もとらず四時間近く寝ていたのか。そう思うと、とたんにおなかが空いてきた。

「から揚げ弁当があるんだけど、食べるか?」

「ううん、いらない。」

「わかった。今布団敷いてやるからそこで寝ろよ。シーツだけ新しいのに取り替えてやるから。」

「ありがとう。でも、ソファーでいい。あたしがお布団に寝ちゃったら、あなた寝るとこなくなっちゃうじゃない。」

 お前の隣で寝るよ、と言いたいところだったが、肩を揺すって荒く息をし始めている姿を見ているうちにそんな冗談を言う気もなくなり、家に帰したほうがいいのかもしれないと思ってもみたが、一人暮らしをしているなら、それもできない。友哉は立ち上がって佳奈のそばに行き、つい男気を出して、優しく叱るような口調で、

「おれはどこでも大丈夫だから、心配しなくていい。それに、このソファーは実はベッドにもなるんだ。」

とソファーの端を軽くたたきながら言い、言い終わらないうちに隣の和室に行って布団を敷き、洗ったばかりの青色のお気に入りのパジャマを取り出すと、毛布にくるまり、両腕で体を抱え込むような姿勢で体を丸めて座っている佳奈に渡した。

「これ着るの?」

「服着たままで寝るわけにもいかないだろ?」

「わかった。これ着て寝るから向こう向いてて。」

「いいよ、見ててやるよ。」

「だあめ。男ってすぐにそうなんだから。」

 友哉は苦笑しながら、後ろ向きになり、「もういいよ。」と言われて振り向くと、佳奈はソファーに正座したままだぶだぶの袖口と裾をまくり上げ、両手を広げて見せた。男物を着た女は女性を強調してかわいらしく見える。友哉は欲情をきりりと抑えてあわてて佳奈を布団に寝かしつけた。

 秋の夜は妄想をたくましくしながら果てしなく続いていくように思えた。佳奈は寝返りを何度も打ちながら一時間ほどもんもんとしていたが、いつの間にか息を荒げて眠ったようだった。

 友哉は佳奈が寝てからさらに一時間ほど起きていたが、明かりをつけているのもかわいそうだと思い、ふすまを閉めた。友哉も早めに明かりを消して横になってはみたものの、寝つかれなかった。仕方なく、起き上がって飲み残したビールを飲んでからから揚げ弁当を食べ、食べ終わると再びふすまを開けて佳奈の枕元に座り、佳奈の苦しそうな寝顔に見入っていたが、これも習慣のせいか、一時を過ぎたころ友哉もソファーベッドに横になって眠っていた。

 

 佳奈は夜中に譫言(うわごと)を言いながら何度も目を覚ました。そのたびに友哉も目を覚ました。そばに行くと首から胸にかけて細かい汗の粒がびっしり浮かんでいる。額に触れるとかなり熱かった。佳奈の体ばかりが熱を放っているが、部屋の中は冷気が足元にまつわりつき、今夜は寒くなりそうである。寝る前に消したエアコンを再びつけてから、体に障るなと思い、友哉は佳奈を起こし、友哉の半袖の下着とタオルを手渡しながら体を拭くように言った。佳奈は乱れ髪のまま素直に濡れた下着を脱ぎ、タオルで汗を拭おうとして、友哉がじっと見てるのに気づいてあわててタオルで胸を隠し、右の頬にかかる髪を掻き上げてから、「見ちゃあだめ。」と甘えたような声を出した。それから頭をわずかに傾けてにこりと笑うと、背中を向けながら友哉に向こうを向いているように頼んだ。友哉が形よくふくれた乳房を目に焼きつけ、言われるままにそっぽを向こうとしたその時、ふと佳奈の背中が白く光ったように見えた。そっぽを向いたふりをしてそっと見やると、紅色の一筋の糸が右肩から五センチほど伸びている。糸というよりも大きなミミズが背中で吼えているように見える。友哉はふと霞んできた目をしばたたきながら、気づかれないようにそっと手を伸ばした。

「あっ、だめ。いや。」

 佳奈が金切り声を上げてタオルで背中を押さえながら振り返った。目を剥き瞳をこわばらせて佳奈は友哉の目をまっすぐ見すえている。形のいい小さな乳首までが上を向いて突っ張っている。

「その傷、いったい何なんだよ。」

「やっぱり傷になってたのね。肩のあたりが少し痛むからそうかなあって思ってたの。でも、何でもない。」

「何でもないわけないだろう。竹刀ででも叩かれなきゃそんなみみずばれになるわけないじゃないか。」

「ほんとに何でもないの。お願い、このまま寝かせてほしいの。あたし、おなかが痛いの、お願い。」

 佳奈は背中にタオルを当てたまま目に涙をため、頬を引きつらせて懇願した。これ以上追求しないほうがいい、友哉はうなだれるようにうつむいて佳奈に背中を見せた。衣ずれの音がひっそりと立ち、佳奈はまた布団にもぐったようだった。

「誰がお前にそんなことしたのか知らないけど、そんな男とは一緒にいないほうがいい。……若い女が背中にそんな傷つくるわけがない。この間うちに来た時、怖いって言ってたけど、その男のことを怖がっているんじゃないのか。」

 佳奈は布団を顔の上まで引きずり上げて泣きじゃくり始めた。嗚咽が次第に高まり、その後を引きずるような泣き声が耳に響いてたまらず、友哉が布団をはねのけようとすると、佳奈は布団の端をしっかり握り緊め、頭を左右に揺すって拒んだ。

「なぜだ、そんなのふつうじゃないぞ。」

 友哉が声を荒げれば荒げるほど佳奈は布団の奥にもぐりこんで激しく泣きじゃくった。友哉は体中をひっかきまわすような泣き声を耳にしながら、佳奈を愛しいと思った。できれば布団をはぎ、佳奈を裸にして一つになってしまいたかった。その狂暴な気持をむりやり押さえつけて、倒れこむようにソファーに戻って横になり、唇を肉がちぎれそうになるほど強く噛んだ。


 いきり立つ思いを無理やり押さえつけながら時は経った。

佳奈の泣き声はそれから弱まりながらも一時間ほど止まなかったが、ふと気がついてみるといつの間にか静かになっていた。起き出して枕元に座ると、佳奈の息は依然として荒く、いつまでたっても平らかにならない。友哉はまた明かりをつけ、タオルを取り出して水に濡らし、佳奈の額に載せた。熱が高いせいか、じっとりとした熱気が伝わってくる。佳奈はやっと眠ったらしく、時々息苦しいのか、眉間に皺を寄せ、胸をそらして息を吸い込み、ぜいぜいと喉を鳴らした。もう汗が吹き出している。こうして汗をかいていれば熱だけは下がる。しかし、風邪だろうか。あの傷のせいということもあるのかもしれない。明日医者に見せたほうがいい。友哉はそんなことを考えながら、ずり落ちそうになったほかほかとぬくもるタオルを裏返しにしてもう一度額に載せて佳奈を見つめた。

 

佳奈が布団から顔を出して荒い息遣いをしながら眠っている。

いったい何があったのだろうか。その事情はまるでつかめないのだが、異様で狂暴な相手であることだけは確かである。こんなに素直な女がなぜよりによってこんな目に遭うのだろうか。だが訳を聞きそびれてしまったからか、こうして静かに佳奈の寝顔をじっと見ていると、あるいは大騒ぎするほどのことではないのかもしれないとも思えてくる。友哉はもう一度タオルを水に濡らして佳奈の額に置いた。ものぐさのおれがどうしてこんなにかいがいしく看病しているのだろうか。十八か。こんな小娘のどこがいいというのか。友哉は苦笑を抑えることができなかった。

 

 秋の夜は長く、ここに他人が熱を放ってこんこんと眠っている。

 他人が自分の領域に侵蝕し始め、その侵蝕を自分では食い止めることができない。自分がいて他人がいる。だが他人からすれば、他人がいて自分がいるのだ。こうしてこの二面性をまといながら、自分には自分の中に他人が住みついているように思え、他人は自分の付属物、あるいはアクセサリーにすぎないと思えてくるのだが、歯車がからみあってくると否応なく他人の歯車に引きずり込まれてしまう。他人が自分を取り込もうとしてその力に抗うことができずに自分が他人の中に取り込まれるのではない。必然的に自分のほうから他人の歯車に吞み込まれていってしまうのだ。そしてついには自分が見えなくなってしまう。それはいやだった。自分の世界の中ではいつも自分が中心でいなければならない。だから自分は己の私的な領域に入り込もうとする他人を突っぱね、頑迷に他人を認めてこなかった。それだから友哉には学生の時からの知り合いである仲根以外に社内に気を許す友達はいなかった。会社では真の友人を得ることは難しい。友哉はそう思っていた。だが今は違った。佳奈の歯車ならこのまま呑み込まれてもいい、そうした事態は受け入れられると友哉は思った。

 

心なしか佳奈の呼吸が落ち着いてきたようだった。

額に触れてみるとさっきよりも熱が上がっているのではないかと思えた。友哉は押入からアイスノンを引っ張り出してきて、冷凍庫に入れてからまた佳奈の枕元に座り込んだ。明日になればまた出て行ってしまうのだろう。いったい佳奈はどこに行ってしまうのだろうか。佳奈にまた会えるだろうか。そんなことを思いながら友哉はソファーから毛布と枕を持って来ると、布団の上から佳奈の横に横たわり、エアコンをつけっぱなしにして、そのまま眠り込んでしまった。


 翌朝、七時に携帯の目覚しに起こされると、佳奈ももう目覚めていて、額に髪の毛を張り付けたままうつろな眼差で間近に友哉を見ていた。

「おはよう。」

 先に声をかけたのは佳奈のほうだった。佳奈のささやくような声が耳元に心地よく響く。いつもこんな朝だといいのだが。

「おはよう。熱はどうだ? 下がった?」

 友哉は起き上がって毛布をどけ、佳奈の額に手を触れた。まだ少し熱いようだが、昨日ほどではない。だいぶよくなったようだ。背中の傷のことをもう一度問いただしたかったが、佳奈のさっぱりとした笑顔を見ているうちにその勇気も失せた。

「うん、だいぶ楽になったよ。タオル、どうもありがとう。それから下着もう一枚借りちゃったよ。そこの整理箪笥にあったのを見つけたの。汗たくさんかいて気持悪かったから。洗っておくからね、ごめんなさい。」

「えっ、いや、いいよ。今日はずいぶん素直じゃないか。」

「ええっ、あたし、いつもだよ。」

「そうだったかな。……そうだ、お前、おなかが痛いって言ってたけど。」

「うん、まだ時々痛むんだけど、もう昨日ほどじゃない。」

「ふうん、よかったな、治って。……おれは今日は大事な打ち合わせがあるから会社に行くけど、佳奈はどうする? どっちでもいいぞ。ここで寝ててもいいし、よかったら今日も泊まっていっていいんだぞ。」

 そう言うと、友哉は毛布と枕を手に持ったまま立ち上がってまずそれをソファーの上に置くと、そのまま台所に立ってコーヒーを二人分入れた。

「……うん、ありがとう。もう少しここで寝ててもいい?」

「ああ、いいよ。……何か食べるか。から揚げ弁当が一つ残っているからそれでもいいし、後はトーストかインスタントラーメンくらいしかないけど。」

「ううん、今は食べたくない。」

「そう。じゃ、おれは会社に行くからな。外出する時は鍵を掛けて出かけてね。……そうだ、念のために佳奈の携帯の番号を教えといてくれない?」

「ううん、今はいい。もう少ししたら教えるね。」

「もう少しか。……何か理由があるの?」

「別にないけど、今はまだいいっていう気持ちよ。会いたくなったらあたしのほうから来るよ。だから、今はあたしの好きにさせておいて。ごめんね。」

 そう言われるとそれ以上言えなくなり、友哉は佳奈の分のコーヒーをテーブルに置くと、レバーペーストを塗ったトーストとコーヒーのいつもの朝食を済ませ、いつもならしない跡片づけも済ませ、丹念に髭をそり、髪を梳かし、何かあったら薬が買えるようにと金まで置いていった。帰って来た時には佳奈はもういないだろう、ドアに鍵を掛けながらそう思ったが、この予感が外れることを期待しながら、いいさ、また会えるさ、そう思い直して友哉は出かけることにした。


 その日の夕方、懸案だったシステムキッチンの契約がまとまり、関係先を六社ほど回り、会社に相手先の上役を接待するはめになったので出先から直帰すると出任せを言って、友哉は六時すぎに家に戻った。やはり佳奈は帰ってしまったらしく、部屋の中は小ぎれいに掃除がされ、部屋の隅に置かれた布団には陽のぬくもりが残っていた。予感はやはり当たった。何となく気が抜けてしまい、ネクタイをはずしてテレビをつけ、ビールを飲もうとして冷蔵庫を開けてみると、ラベルをきれいにはがしたマヨネーズの瓶の中にふぞろいにくだけた水羊羹が水につけて保存されていた。佳奈に違いない。だがなぜ水羊羹をこんな瓶の中に入れたのだろう。友哉は瓶を取り出してその奇妙な水羊羹をつくづくと眺めてみた。赤茶けた水にいくつもの赤黒いぶよぶよとした固まりが、上は丸みを帯び、下は半身の桃をわしづかみにむしり取ったようにでこぼこになっている。大きさは様々で、大きいものもあれば小さいものもあり、雑然と詰め込まれている。茶褐色で、ところどころ透明な白い斑点が付いている。見たこともない異形さに友哉は不安になった。いたずらにしては手が込んでいる。よく見ると羊羹にしてはぶよぶよしすぎているようだ。作るのを失敗したプリンのようにも見える。レバーのつけものだろうか、わざとらしくそう思ってみたが、そうした戯言(たわごと)をどのようにしても許さない森厳さがガラス瓶を透かして伝わってくる。

 友哉はこの中身がいったい何なのか見当もつかなかったが、何となく気味の悪さを感じていた。ふたを開けてみると、かすかにさびれた鉄の匂いがする。あのミミズと同じ匂いだと、友哉は直感的に思った。なぜなのかわからないが、不意に寒けが背筋を走り、すぐにふたを閉めて冷蔵庫に戻そうとした時、聞き慣れた軽快な靴音が聞こえた。佳奈だ。友哉はとっさに聞き耳を立てて足音の行方を追った。靴音はしだいに高くなり友哉の部屋の前で止まり、鍵を開ける音がしたかと思うとすぐにドアが開き、食料品をいっぱい詰め込んだスーパーの袋をぶら下げて佳奈が入って来た。入るなり佳奈の笑顔が消し飛んだ。

「帰らなかったのか?」

「あっ、それ、捨てないでね。」

 二人同時に声を出し、佳奈は部屋に駆け込んで来るなり二つのレジ袋を敷居ぎわに置き、友哉が手に持っていた大き目の瓶をひったくるように取り上げて、冷蔵庫の中に戻した。佳奈は空色のウールのコートを羽織り、いつものブルージーンズに袖口から見える白無地の厚手のTシャツを着込んでいた。

「いったいそれは何なの?」

「何でもいいじゃない。」

「レバーのはずがないし、何なんだよ。ちょっと気になるんだよ。」

「子供よ。赤ちゃんが壊れちゃったんだ。」

「子供? 赤ちゃん?」

「そう、赤ちゃん。流れてくれたのよ。」

「流れた?」

「そう、ほら、昨日おなか痛かったじゃない。きっとあれ、これだったのよ。要するに流産。でも、二人とも職もないし、暮らしてなんか行けないし、あいつはいいかげんだし、流れてくれてよかった。……だから、ちゃんと埋めてあげるの。わざわざ拾ったんだよ。……でもさ、流れちゃうと何が何だかわかんなくなっちゃうんだね。でもこれでやっとすっきりした。さっ、今日もおいしいもの作ってあげるね。そして、それ作ったらあたし帰る。ほんとうはあなたが帰って来る前に帰ろうかと思ったんだけど、看病してもらったし、これはそのお礼よ。……それに、流れちゃったから、あたし戻ろうと思うのよ。あいつも戻って来てくれって、殊勝に改心してるみたいだしさ。」

「何を言ってるんだか、よくわかんないけど、要するに仲直りしたってわけか、そのヨースケ君って子と。」

「えっ、どうして洋介のこと知ってるの? 調べたの?」

「何を言ってるんだよ。このあいだ会ったアッコっていう子が言ってたじゃないか、ヨースケ君が心配してるって。」

「そうか、そうだったね。あなた記憶力がいいんだね。……神様ってさ、もしいたらだけど、ほんとは子供っぽい人なんじゃないかって思うよ。こうしてほしいって思うことにはちっとも見向きもしないで、いつも天の邪鬼なんだ。でも思いがけないところで助けてくれるから、おあいこなのかな。」

 佳奈は腕を踊らせながら、なぜか目に涙をためて鼻声で陽気にそう言うとにこりと笑った。無理に笑顔をこしらえるものだから笑いは口元ですぐにひしゃげ、思わず振り上げていた腕が力尽きたかのようにぱたんという音を立てて脇に垂れた。

「じゃっ、お料理作ってあげるね。シチューにしようと思って。実は、あたし今のところはまだシチューかカレーしか作れないんだ。この前はビーフシチューだったでしょ。だから、今度はクリームシチューにしてあげるね。冬場にシチューは体があったまっていいよね。……あたしさ、あなたをだますつもりはなかったんだよ。だから、あなたに会いたいなって思っても、これでもずいぶんがまんしたんだから。……知らなかったでしょ。そこのところはわかってほしいの。あなたのそばにいるととても居心地がよくて落ち着くから、いつも一緒にいたいの。ほんとよ。……でも、未練なんだよね、だめだってわかっていてもそこに引かれちゃうんだ……。あたしがついていてやらないとだめなんだ、あいつは。……計量カップある? ないの? じゃあ、目分量でもいいか。味はそんなに変わらないと思うから。」

 佳奈は友哉のそばに立ってうつむきながら鼻声混じりのつぶやき声でそう言うと、友哉の首に腕を回して肩に顔を埋めた。佳奈の髪の匂いがして体の熱が服を通して伝わってくる。佳奈の体が小刻みに震え、嗚咽を漏らすのを止めようとしていることがわかった。佳奈は首に巻き付けていた手をほどいて腰に巻き付けた。友哉はしばらくこのままでいることにした。流産か、とふと友哉は思った。妊娠何か月だったのだろうか。妊娠して三か月もすると腹が出てくると聞いたことがある。腹が出ていることはまったく気づかなかったから、妊娠二か月ぐらいだったのだろう。友哉に出会った後で妊娠したことになる、と友哉は思った。それにしても、もしも流産しなかったら、佳奈は子どもをどうするつもりだったのだろうか。ヨースケ君はあてにならず、一人で育てるつもりだったのだろうか。それとも自分でもどうしていいかわからず、臨月を迎えて子供が生まれたら、友哉に頼ろうとしたのではないだろうか。もしかしたら、その子供をおれが育てることになったのか、と思った。おれはそれを受け入れることができただろうか。他人の子を自分の子として受け入れることができたのだろうか。だが、その他人の子は佳奈の子でもある。佳奈のすべてに責任を持つ用意も、父親になる用意もまだ十分にはできていないけれども、佳奈の子なら受け入れられると思った。佳奈の嗚咽が止み、友哉が佳奈の肩をつかんで体を離そうとしたら、佳奈が体をピクリとさせた。佳奈は腰に巻き付けていた腕をはずしてうなだれたまま静かに体を離した。背中の傷が痛むのかもしれない。目から大粒の涙がひとしずくこぼれ落ちた。

「この背中の傷もヨースケ君がつけたのか?」

「……ごめんね、あなたの服が少し濡れちゃった。赤ちゃんがかわいそうでね。あたし、守ってあげられなかった。母性本能ってほんとにあるんだね。……背中の傷? もういいの。あいつさ、今日ここに来たのよ。アッコが教えちゃったの。」

「ヨースケがここに来た? お前、この部屋にそいつを上げたのか?」

 もう一度佳奈の肩をつかんで揺すりながらそう聞くと、佳奈はやはり下を向いたまま小さくうなずいた。友哉はその時、もしかすると背中の傷は、あの日、映画を見た帰りに佳奈と喫茶店に立ち寄ったことを、アッコという女がヨースケに話したせいではないかと疑った。

「その傷だけど、映画を見た帰りに喫茶店で会ってたことを、アッコって子がヨースケ君にしゃべったからなのか?」

「えっ、違うよ。違う。それは関係ない。……もういいの。そんな傷すぐに治っちゃうしさ。もういいじゃない。あたしがいいって言ってるんだから、もういいのよ。」

 佳奈は少しあわてたふうにそう言った。友哉はきっとそうだったに違いないと思いながらそれ以上聞くことができなかった。この部屋でヨースケと二人でどのような時間を過ごしたのか気になったが、それは口にせず、いつの間にか、自分が知らないうちに佳奈を傷つけていたことになると思った。

「佳奈、悪かったな。」

「うん。……でっ、あいつ、悪かったって言うしさ、だから、いろいろ考えて、あたし戻ってやろうと思うんだ。」

「馬鹿野郎。何を考えてるんだ、お前は。そんなろくでもない男といつまでもくっついてるんじゃない。」

「あたしさあ、あなただから言うんだけど、怖いんだよ。何されるか怖くてしょうがないんだ。だから誰にも言えなくて、……でもあなただったら、もしかするとあたしのこと守ってくれるんじゃないかって、勝手にそう思い込んだの。だって、あんなに込んでる電車の中で名刺が落ちたんだもん。」

「その瓶の中の子供も、ヨースケ君の子なのか?」

「そう。……あたしね、ほんとはあなたに助けてほしかったの。……あそこから抜け出したかったんだ。でも何て言うかさあ、あなたやさしすぎるんだよ。だからやめたほうがいいのかなって。……男って初めはみんなやさしいんだよ。でも、それも初めだけ、それが続かないんだもん、悲しいよ。」

「聞け、佳奈。お前そのヨースケって男のところに戻るんじゃない。おれが佳奈の代わりに話してやる。そいつが怖かったらおれが話をつけてやる。」

 佳奈は顔を上げ友哉の目をしばらく見つめていた。上気したように顔がほのかに赤い。それから寂しげに頼りなげに肩をすぼめ、うつむきながら友哉の手を取って言った。

「ありがとう。でも、いいよ。あいつ、突拍子もないから、ほんとに何するかわかんないんだ。何も考えてないから、その時したいって思ったことしちゃうの。……ばかなんだよね。ばかだから暴力で言うことを聞かせようとするのよ。みんなそうなのよ。大人だってそう。考えてみたら、家だって、学校だってみんな同じなのよ。逆らおうとするとみんな暴力ふるってくるの。言葉でだめなら腕力。みんな我慢できないのよね。あたしは、流されるだけ。それから抜け出したいって思ってもどうしていいのかわかんないし、それに、あたしほんとに、力任せにねじ伏せられるのが怖くてさ。助けてほしいって思っても、誰に言ったらいいのかわかんないし。それにあたし、あなたを巻添えにしたくないし。」

 佳奈はうつむいたままそう言うと、手をなごり惜し気にゆっくりと離すとすぐに流しに立って料理を始めた。チョコレートパフェの後にバナナパフェ、そして今日はビーフシチューの後のクリームシチューである。友哉はその場に立ち続けながら、何となく佳奈の不器用さを感じていた。流産した子供の遺骸を瓶に詰め、たぶん土に埋めてやるのだろう。そうして一区切りついたところで、またいいかげんで粗暴な男のところに戻って行く。まるで初めからその男の元で生れ育ったかのように、そこにしか世界が開けないかのように帰って行く。不器用としか言いようがない。そしてまた子供を身ごもり、犬猫のごとく生み捨てにして、砕けた遺骸を拾い集め、空き瓶の中に葬ることになってしまうのではないか、と友哉は思った。間違っている。佳奈がこの先どうなろうとも、いや、はっきり不幸になるとわかっていても、今は止めようがないのだろうか。おれと佳奈は違う。佳奈は他人である。共有するものも今は何もない。だから、近いと思っていたはずの佳奈との隔たりを思い知りながらも、同じように明るく認めなければならないのだろうか。否。そんな道理はない。友哉は佳奈への募る思いを抱き締めるようにもう一度後ろから佳奈を抱き締めた。

「佳奈、今日も泊まっていけ。帰らないでくれ。」

「うん、ありがとう。そうする。あたしも、ほんとのこと言うと、そうしたいの。あたし、あの部屋に帰るのが怖いの。」

 そう言うと佳奈は友哉の手を一度しっかり握り緊めてからゆっくりほどき、再び料理を続けた。まな板の上で食材を切り分ける軽快な音がする。鍋からぐつぐつと煮えたぎる音がし出した。その家庭的な音を耳にしながら、友哉は流産をした佳奈の体のことを考え、せっかくのクリームシチューのおいしさに舌鼓を打ちながらもさっさと食事を済ませた後、今日は早めに隣室で休ませ、自分はソファーで厚地の布団を掛けて寝ることにした。

 テレビの深夜番組を見るとはなしに見ながら、友哉は、佳奈が「あなたを巻き添えにしたくない。」と言った言葉を反芻していた。そう言いながらも友哉の懐に飛び込んで来ている。そうではない、裏腹なのだ。佳奈は確かにおれを頼りにし始めている。ふと、「救いという字は求めるという字を使うのは面白い」と言った佳奈の言葉が思い出された。このことだったのか。救いか。その気持ちに応えてやりたいと友哉は思った。その篤実な気持ちを表すには……。そうだ、二人で旅に出よう。どこがいいだろうか。近くて観光気分が味わえるところと言えば、川越はどうだろう。友哉はテレビを消して、わくわくした気持ちで遅くまで川越の観光地を調べていった。



     六



 翌日、友哉が目を覚ますと、隣室で寝ていた佳奈も目を覚まし、布団を畳み、服に着替えて友哉のところにやって来た。目が腫れぼったいのはまた泣いたのだろうか。佳奈は友哉の手を握ると、友哉の隣に座った。

「そうだ、今日二人で川越に行ってみないか。ここからだと電車で近いし、川越には見て回るところがたくさんあるから。」

と毛布をどけてソファーに座り直し、昨日の夜に思い付いた考えを佳奈に尋ねてみた。

「いいの? 今日は火曜日だよ。会社は? あたしは今日は別に用事はないからいいけど。」

「僕は休暇をとるから大丈夫。」

そう言うと友哉は八時過ぎに会社に電話を入れ、「私用で急用ができたので今日は休暇にしてください。」と隣席の緑屋に伝えた。

「わかりました。課長に伝えておきます。」

と緑屋が明るい声で応えた。電話を切った後、「おれ」と言うところを「僕」と言ってしまったことに気づいて友哉は苦笑した。佳奈の隣に座り、また手を握りながら、

「ところで佳奈の家はどこにあるの?」

と間の抜けた質問をした。男と女がこんなに近い距離で手を握りながら座っていれば、することは決まっているようなものだが、十八歳ということに妙に引っ掛かっていた。

「所沢。駅の近くにあるアパートだよ。ここからだと歩いて三十分くらいかかるかな。だからあなたに会えたんじゃない。」

と佳奈は笑いながら答えた。そうだ、佳奈と言葉を交わすようになってからまだ二か月ほどしか経っていなかったんだ。それも数えるほどしか会っていないことに今さらのように気づいた。友哉は佳奈の肩を抱き、体を引き寄せてキスをした。柔らかい唇の感触が心地よく、ほのかな柑橘系の香水の匂いが漂ってきた。この間のナイルの庭かもしれないと思った。すると、佳奈はやおら友哉の体を押しのけてソファーから立ち上がり、息を整えた。

「もう出かけたい。出かけようよ。」

そう言って友哉の腕をつかみ、玄関に引っ張って行き、空色のコートをつかみ、友哉には衣類掛けに掛けていたベージュのコートをつかんでニ人そろって外に出た。


 外は薄い雲が出ていたが、初冬の小春日和が続いており、散歩にはもってこいの陽気だった。友哉は佳奈と連れ立って所沢から西武新宿線に乗り、川越まで行った。川越散策を喜多院から始めて、次に佳奈の精をつけるために喜多院近くのうなぎ屋で食事をし、それから蔵造の町並で有名な一番街、時の鐘と観光し、最後に菓子屋横丁を回るルートを頭の中でざっとまとめていた。それぞれの名所でどんなことを話したらいいか、そんな先回りまでして、佳奈と二人で一日を楽しく過ごしたい、楽しい思い出を作りたいと思った。

「あたしさあ、所沢に住んでいながら、川越って小学生の時に遠足で来たくらいなんだよね。どんな所かまったく覚えてないわ。でもすごく楽しみ。」

「それはよかった。おれも楽しみだよ。」

 友哉は電車に揺られながら、携帯で行き先の観光名所のサイトをもう一度検索して多少の情報を仕込み、頭に入れた。営業マンには多少役者と似たような一面がある、と友哉は思っている。商品の特徴をうまく、もれなく、客の心をつかむように伝えることが肝心で、時には自作の文章を暗記する必要もあった。役者と違うのは、演じるのは他人ではなく自分自身であるということだった。自分が普段とはちょっと違う自分を快活に演じるわけである。友哉は暗記は得意であった。

 二人は本川越駅を出て三菱銀行のところで右手に折れ、東照宮中院通りを歩いて喜多院を目指した。通りに電線がなく、電線がないと空がすっきりと広く見えることに驚きながら、途中道幅が狭くなる道をのんびりと歩いて行った。最初は少し離れて歩いていたのだが、佳奈が小走りに友哉に近づくと友哉の顔を見つめながら「手をつないで歩いてもいい?」と聞いた。それには答えず、黙って手をつなぐと佳奈が指を絡めてきた。あの日のように柔らかい手のぬくもりが友哉の体の中を走って行く。その感触が手から脳に届き、ふと思い出した佳奈の唇の感触とともにそれをしっかり焼き付けた。友哉はやっと恋人に巡り合えたような感じがして安堵していた。その思いから、つないでいた佳奈の手をそっと力を込めて握り緊めながら、もう一人ではない、ここにおれの恋人がいる、そう思った。

 喜多院は本川越駅から約一・五キロメートルほど歩いたところにある。道の途中を左に曲がった先に仙波東照宮が見えてくる。この小ぶりの神社は徳川家康の死後、家康の側近と言われた天台宗の大僧正天海が創建したと言われ、日光山東照宮、久能山東照宮と並んで日本三大東照宮と言われる。友哉と佳奈はそこには立ち寄らず、まっすぐ喜多院に向かった。喜多院はそこから歩いて一、二分の所にある。喜多院は西暦八三〇年慈覚大師円仁により創建された無量寿寺を大僧正天海が家康に頼んで受け継いで喜多院と改名したもので、境内に六、七十センチから一メートルほどの高さの五百羅漢があることで有名である。近年は春日局が人に知られるところとなり、春日局が暮らしていた部屋や三代将軍家光の誕生の間などがここに移されたことでも知られる。

 二人は喜多院の境内を歩きながら、拝観受付で拝観料を支払い、先に多宝塔の前にある土産物店のわきを通って五百羅漢を見て回った。五百羅漢の中心は釈迦像で、その法話を聞くように五百羅漢が取り囲み、一番前に他の羅漢よりも頭一つ抜け出した高さ一メートルほどの大きな像が二体あり、釈迦の十大弟子のひとり阿難尊者と羅ご羅尊者が立っている。その後、多宝塔、慈恵堂と順に見て歩き、客殿に入って家光公誕生の間や春日局化粧の間などを一通り見て行った。佳奈が家光公誕生の間に飾られていた木馬を見て、「この木馬に乗って遊んだのね、かわいい。」などと感想を述べるのにうなずきながら、二人は一時間ほど見物して歩いた。

 喜多院を出た後、佳奈の精をつけるために、うなぎで有名な創業一八〇年のいちのやに入った。平日だったが店内は満席で、順番待ちリストに名前を書いて、名前が呼ばれるのを椅子に腰掛けて待っていると、肩をポンと軽く叩かれた。驚いて見上げると二年後輩の原口と四年後輩の清川がそこに立っていた。原口と清川は国内商品部第二課に所属し、調理家電、銅製品、調理器具などを幅広く扱っている。原口がにやにやしながら、人の好さそうな笑顔を見せて話し掛けてきた。

「竹内さん、奇遇ですね。今日はお休みだと伺ったので、最初は人違いかと思いましたよ。」

「原口君。どうしてこんなところに。」

「本川越ペペや丸広にちょっと用事がありましてね、せっかくだから、ウナギを食べて行こうとこちらに出向いたところだったんです。お連れさんもいらっしゃるし、僕たちは離れた場所で食べることにします。お楽しみのところ、無粋な真似はしたくありませんからね。大丈夫です。僕はこう見えても口が堅いですから、誰にも話したりはしませんから。……そうだ、松木部長が朝一で竹内さんに相談したいことがあるから、明日出社したら来るように金子課長に伝えていました。何やらずいぶん喜んでいるようでしたよ。先輩は何事もうまくやってますねえ。この件ご報告しておきます。」

そう真顔で言うと清川の二の腕をつかみながら奥に歩いて行き長椅子に腰掛けた。清川がぺこりと頭を下げながら、原口に引きずられるように二人の脇を通って行った。

「まずいとこ見られちゃったんじゃない、あたしたち。」

「なあに、大丈夫だよ。別に悪いことしてるわけじゃないしな。でも、食べ終わったらすぐに出ようか。」

「うん。でも、ご報告しておきますって、誰に?」

「おれにだよ。おれは主任だからな。」

「そうだったね。」

 佳奈は小さくうなずくと、安心した風だった。三十分ほど待って名前が呼ばれ、通りを臨む窓側の席に案内された。うな重とビールを注文すると、先にビールが出てそれをちびりちびり飲んでいると、十分ほどでうな重が届いた。佳奈は肝吸いを飲んでからうな重のふたを開けるや、ウナギを口いっぱいに放り込んだ。

「あわてなくていいよ。かえってのどを詰まらせたりしてもよくないからね。」

 友哉がそう言うと「ありがとう。うなぎ、おいしい。」と言いながら佳奈はまたゆっくりと箸を口に運び始めた。箸の遅い佳奈が目を大きく剥いて食べる様子が友哉にはおかしかった。


 いちのやを出て、二人は一番街に向かった。大正浪漫夢通りを手をつないで歩きながら、

「川越は小江戸って呼ばれているけれども、江戸時代の町家だけが有名なんじゃないんだ。芋でも有名なんだよ。昔江戸で焼き芋が流行り、川越からたくさんのサツマイモを出荷したんだ。当時は水運が盛んでこの川越から江戸まで船でサツマイモとか木材とかを運ぶ高瀬船が往来していてね、江戸からは肥料とか日用雑貨品などを積んで戻って来たのさ。」

などと昨日の夜に調べたうんちくを垂れていると、佳奈は突然手を離し、立ち止まった。

「なんだか、気分が落ち込んじゃった。やっぱりまずいとこ見られたね。別に悪いことしてるんじゃないんだけど、やっぱり気まずい感じ。なんでだろう、大手を振って歩けないのよね。年が離れすぎてるからなのかな? あたしみんなから祝福されながら歩きたい。ごめんね。あなた川越のことよく知っているようで、何もなかったら、すごおおい、拍手喝采ってところなんだけどね。」

「いやな言い方をするな。まさかヨースケ君のことを考えているんじゃないだろうね。」

「ええっ、洋介。洋介なんて関係ないわ。もう別れるんだから。昨日の夜そう決めたんだから。」

と佳奈は言った。昨日は「あたし戻ろうと思うのよ。」と言っていたのに、女心と秋の空かと思いながらも、反面ヨースケ君と別れると言ったことを喜んでもいた。その一方で、「あたしみんなから祝福されながら歩きたい。」という言葉に傷ついてもいた。なぜ佳奈は祝福されていないと思うのだろう。せっかく佳奈が喜んでくれると思って連れて来たのに。

「……わかった。帰ろう。」

 友哉は少し怒って踵を返し、本川越駅方向にずんずん歩いて行った。佳奈が小走りに後ろから追いかけてきて、

「待ってよ。怒ったの? 怒らないで。何でも正直に言えないのはいやだから、あたしの気持ちはストレートにあなたに伝えたいの。あたし、うそは嫌いよ。だから、今朝あなたがうその電話をした時はあまりいい気持ちがしなかったの。あたしはうそやごまかしのない世界にいたいの。だけどこれだけはわかってね。あたしはあなたともっともっとずっと一緒にいたいの、これからも。だけどあなたを傷つけたくもない、それが怖いの。……それがあたしの本当の気持ちよ。」

 佳奈がすっと手を滑らせまた友哉の手を握った。温かいぬくもりが流れ、とたんに怒りが鎮まっていく。友哉はその手を強く握り返した。怒ってなんかいないよ、その気持ちを表そうと、手を前に振った。佳奈が笑い声を上げ、友哉もそれにつられてアハハと笑うと、そばを通っていた初老の男性二人の通行人が怪訝そうな顔付でこちらを振り向き、立ち止まって二人をやり過ごした。友哉は初めて聞く佳奈の真情に打たれていた。佳奈には純粋な一面がある、そうわかると、なおさら恋情が募るようで、腹をくすぐるような熱いものが友哉の脳を突き刺すように流れて行った。

「そうだ、買い物しない。丸広ってこの辺で一番大きなデパートなんでしょ? 聞いたことある。あたしデパートに行ってみたい。ねっ、いいでしょ?」

「そこに行きたいのか、また原口たちに会ったらいやだな。」

「どうして? 会ってもいいじゃない。なんかさあ、あなたともっともっとずうっと一緒にいたいって口にしたらさあ、なんかすっきりしちゃったよ。気持ちが定まったって言うのか。あたしはかまわないわ。うん、平気。ちいっとも怖くなんかないわ。」

 佳奈は何か吹っ切れたように明るい声でそう言うと、友哉の手を取って通りを歩いて行った。


 二人は大正浪漫夢通りを戻りながら、携帯の案内に従って、川越熊野神社の裏手を通り過ぎて、丸広に向かった。

「佳奈は日常っていう言葉の意味わかる? 毎日毎日同じことを繰り返すってことで、いつもと違う部分がないことを指す言葉なんだけど、おれはこの日常って言葉が好きで、毎日同じことの繰り返しでも、あきたということがなかったんだ。だけど、今日は違う。佳奈がおれの日常を壊しちゃったんだな。だけど、それがうれしくもあるんだ。不思議な気持ちだよ。」

 佳奈につられて、自分の佳奈に対する真情を言葉にしようと思ったが、いかにもぎこちなく、たどたどしくもあり、我ながら気恥ずかしい気がした。

「日常かあ。あたしも日常って言葉好きよ。だけど、あたし毎日同じことを繰り返してるわけじゃないんだ。毎日することが変わるし、毎日気分が変わるし、だけど嫌なことの多い毎日だしさ。それだから楽しいことがあると妙に気分がすっきりしたり、うきうきした気持ちになったりしてさあ。それに日常って、生きてるってことでしょ。生きてるから日常があるんだよ。そんな毎日だけど、こうして友哉に会えたしさ。それでなんか新しい日常が生まれてくるんじゃないかなって思えてくるしね。それが生きてるってことにもつながってくるから不思議だよね。あっ、あなたも今不思議だね、って言ってたね。おんなじだね。」

 また始まったと友哉は思った。どこか繰り言に近いとりとめのないモノローグ。だが、面白いことに友哉にはそれが人間の自然な言葉遣いのようにも思えた。

 

 こうしてたあいもないおしゃべりをしながら、平日にもかかわらず、人でごった返すクレアモールを二十分ほど歩くと丸広に着いた。佳奈は婦人服売り場ではなく、家具売り場や日用雑貨品を見て回りたいと言い、一階で近くにいた店員に聞くと、丸広に家具売り場はないが寝具売り場ならあると言うので、五階の寝具売り場と食器売り場に向かった。エスカレーターで五階に上がりながら、ふと、佳奈は家庭を持つことを夢見ているのだろうかと思った。家庭を持って、当たり前に子供を産んで、当たり前に子ども育てて行きたい、そう思っているのだろうか。そのような日常を作り上げて行きたいと思うなら、おれも同じだ。二人が同じ方向を見つめていることが友哉はうれしかった。


五階の寝具売り場で敷布団や掛布団などを見て回り、それからその隣の食器売り場に行くと、催事場で新素材の軽量フライパンや厚手のホーロー鍋、高圧鍋などの売り出しをしていて、それは原口たちが担当しているイタリアとフランス直輸入の日用雑貨品だった。原口たちはこのために来ていたのだとわかった。

「あたしさあ、ショッピングが大好きなの。女は買い物が好きなのよ、覚えておいてね。付き合ってもらうことが増えてくるかもしれないからね。どう? 鍋やフライパンは、フランスとかイタリア製のものがいいわよね。高級感があって。こういうものを使ってお料理がしたいわ。お料理するスペースも広いほうがいいわね。やあね、道具だけそろえたってだめよ。その前にお料理の腕を磨かなくちゃね。それが先よね。」

 佳奈が友哉のほうを向いて友哉の腕をつかんだ時、突然、背後から原口の低めのさらりとした声が聞こえた。

「こういうものを見て回っているとなると、ご結婚の予定があるんですね。こんな若くてきれいなお嫁さんをもらって、うらやましいなあ。しかし、さすが先輩ですね、気になってわざわざここまで足を運んで見に来てくれたんですね。」

 原口は口がうまい。人の機嫌を悪くさせない、営業マンとしては当然の心構えなのだが、原口は板についていた。

「いや、そういうわけじゃないけど、連れが見たいって言うもんでちょっと寄ってみたんだ。」

「そうですか、ご結婚のご予定はもう立っているのですか。」

「いやまだだ。だけど、どう、売れ行きの調子は。売れてる? お客さんはあまり入っていないみたいだけど。」

 友哉は原口にプライベートな話をしたくなかった。あれこれ詮索がましい質問をされるのも避けたかった。

「最近はデパートに足を運ぶ人が減っていて、あまり芳しくはないんですけど、二万円台や三万円台のホーロー鍋が次々に売れるんですよね。やはりこの店は客層が違いますね。」

「そう、売り出しをかけたかいがあったじゃないか。」

 原口はそれには答えず、友哉の腕をつかみ、耳打ちするように小声で言った。

「竹内さん、ここで二度お会いしたのも何かの御縁だと思って、少しお時間をいただいてもよろしいですか。相談したいことがあるんですよ。この上の六階においしいコーヒーを出す喫茶室がありますから、そこに行きませんか。この時間だと人もあまり入らないし、話ができますから。清川も同行いたしますので、奥様もよろしければご一緒にいかがですか。」

 そう言って佳奈ににっこり微笑みかけ、友哉の返事を待っている様子である。妙な流れになってきたものの、断るわけにもいかず、「わかった。行くよ。」と成り行き任せにすることに決めてそう返事をした。口ぶりからして、大事な話であることはわかった。友哉の返事を聞いたとたん、原口はせっかち者がするようにさっさとエスカレーターに向かって歩き始め、清川がその後を追った。

「奥様だって。そんな風に見えるのかなあ。」

佳奈がぼそりと友哉に耳打ちすると、

「それが人の気分を害さない営業マンの心得なのさ。いわゆる、お上手というやつさ。」

と答えると、

「なるほどね。ところで、お上手ってどういう意味?」

と、納得したようながっかりしたようなしぐさを見せてから、友哉の二の腕を引っ張りながら尋ねた。「後で説明するよ。」とあしらうように言った後で、

「話にはいっさい口をはさまないでね。」

と念を押して原口たちの後を追い、六階にある喫茶室に入った。店内に客はまばらで、通路側の席に陣取り、コーヒー三つと佳奈にジンジャエールを注文したとたんに、原口がまわりを見回してから身を乗り出して来て小声で話し始めた。

「実は、社内で社内カンパニーを起ち上げる話が持ち上がっていて、部長の松木さんから私に声が掛かったんです。うちは部門ごとのカンパニー制を採用していませんので、個人的には実験段階だと思っています。松木さんからは社内カンパニーで何をするかはまだ聞かされていないのですが、松木さんには絶対に成功する腹案があるそうです。そして松木さんは竹内さんにも声を掛けようとしています。金子課長には声を掛けません。金子さんは管理職には向いているけれども、商品知識は意外に少ないからです。必要なのは商品知識の豊富なプロの営業マンなんです。松木さんと、僕と、竹内さんと、清川の四人で新会社の設立にあたるという構想です。いかがですか。」

「社内カンパニーね。そうなあ、そんな大事な話、急に聞かされても、すぐには返事はできないよなあ、悪いけど。でも、いったい誰の発案なの? 松木部長なの? いきなり持ち上がった話じゃないよねえ。」

「誰の発案かは詳しくは聞かされてはいませんが、松木さんではありません。社内に子会社を作るって言うんですから、社長が絡んでいるのは間違いないと思うのですが、もしかすると専務あたりが言い出した話かもしれません。松木さんは専務と仲がいいですからね。」

 仲根からは聞かされていなかった情報を原口は知っている。うかつなことは口にできない、と友哉は思った。あの慎重な松木部長が原口たちに声を掛けたというからには、社内カンパニーの具体的な構想を考えていないわけがなかった。また、その構想は実際は原口にも伝わっているはずである。松木部長には成算もあるのだろう。だから原口は絶対に成功すると言っているのだ。松木部長はその腹案を持って賭けに出たに違いない、そう思えた。そして、これがもしかすると仲根が言っていた二つ目の社内カンパニーかもしれなかった。どちらかはつぶれる。そのことを原口は知っているのだろうか。組織は子会社の片方をつぶしてまで組織に必要な人材を掘り起こし、組織を維持しようとするのだ。しかし、振り返って考えれば、仲根に来た社内カンパニーの話は輸出入部の武藤部長に来た話だったのではないだろうか。会社が入社十年目の社員にそんな大事なことを任せるだろうか。それを武藤部長は仲根に押し付けた。そして、仲根はそのことも踏まえたうえで、逆にこの話を利用したというのが事の真相なのではないだろうか。仲根にとっては実は渡りに船だった。あの剛腕の仲根なら考えそうなことである。

「そうか。それじゃあ少し考えてから返事するよ。」

「わかりました。二、三日したらご返事を聞かせてくれませんか。松木さんは竹内さんにぜひ仲間になってもらいたいと思っています。期待してるんです。何しろ、竹内さんはうちの部のエースですからね。僕も清川も竹内さんとだったら心強いです。ただ、この話はあくまでも内密にお願いします。まだ外部には出せない話ですから。」

「わかった、考えとく。明日、松木部長が朝一で僕に来るように言ってるのも、もしかしたらその話かもしれないなあ。いや、違うな、そんな話を部内でするわけがないか。」

「来月に産業交易センターで開く輸入雑貨の展示会の件じゃないでしょうかね。竹内さんに担当してもらいたいそうですよ。」

 友哉が知らないことを原口が知っている。原口はよほど松木部長の受けがいいらしいことがわかった。原口もそうしたことを見せつけるように松木さんとさんづけで呼び、距離の近さを誇示しながら内密の話を静かに淡淡と口にした。友哉は松木部長が話す前に先走って内密の話を漏らしてしまうことに原口の危うさを感じたが、そのことは口には出さなかった。そうか、これ以上はここにいないほうがいい。この男は油断ならない、友哉は直感的にそう思い、佳奈を促して席を立った。


 外に出るといつの間にか夕方になっていた。あたりは薄暗くなり始め、空が重たくよどんでいた。雨が降ってくる気配はないものの、冬空らしい、どんよりとした雲が立ち込める空模様だった。心なしか気温も下がってきたようである。

「国内商品部のエースなんだね。すごおおおい。あなたやり手なんだね。だけどさあ、あの人あたしのこと奥様って呼んだわ。そう見えたのかしら。でも、あたしまだ十八だよ。まだ結婚には早いわ。自信もないしね。」

 丸広を出て、繁華街を横切って携帯を頼りに本川越に向かいながら、そうか、そう思っているのか、と人通りの少なくなった細い道を歩きながら、友哉は思い、佳奈の手を強く握り緊めた。友哉は結婚はまだ先の話だと思っていたのだが、佳奈と夫婦になるのはいいなと思えた。毎日あのとりとめのないモノローグを聞いていたいものだ。

「だけど、会社員っていうか、大人になると予定が毎日入ってくるんだね。あたしなんか自慢じゃないけど、予定なんて予備校かバイトに行くくらいで、ほかには何もないわ。あたしも早く予定が詰まった生活をしてみたいな。楽しいんだろうね。……ところでさあ、あなたまだ答えてないよ。お上手って、どういう意味なの?」

「相手の気をよくさせるようなお世辞のことさ。大人になったら磨かれてくる世渡りの術みたいなもんだよ。」

「なるほどね、それで奥様なのか。確かに耳触りがよくて、くすぐったいようなうれしい気分になりました。でもさあ、やっぱりそう見えたのかもしれないね、奥様に。」


 とりとめのない話をして和気の余韻に浸りながら二人は本川越駅に向かって歩いた。クレアモールから細道を右に曲がって本川越の駅舎が見える大通りに出たところで、ふと佳奈が小さく「あっ。」と言ってつないでいた手を離し、足を止めた。「洋介。」 佳奈は体を硬直させ、震え出したように見えた。前を見ると、一人の中背の少年がビルの壁に背中を押し当て、片膝を上げてこちらを眼光鋭くにらんでいる。焦げ茶色の皮のジャンパーの下に黒いセーターを着てジーンズをはいた洋介がこちらに近づいて来た。

「遅いじゃねえか、佳奈。もう帰ろうかって思ったところなんだ。あんた、おれの女に手え出すな。」

「洋介、あんたあたしたちの跡をつけて来たの?」

「そうさ、携帯アプリの位置情報を使って、朝からずうっと追いかけていたのさ。でも悔しいけど、おれはあんな構えの店でうなぎなんて食べさせてやれねえから、佳奈が幸せそうに見えたから、黙って跡をつけて来たのさ。でも、あんた、佳奈はおれの女だ、おれの女に手えだすな。今日は用事があるからこのまま帰るけど、この次は黙ってねえぞ。」

 そうすごむと洋介は、ビルの壁面に立て掛けてあったバイクにまたがり、爆音を響かせて帰って行った。

「……ごめんね。驚いたでしょ。これが今のあたしの現実なんだ。あなたの奥さんになんて資格がないよ。ありがとう。夢見させてもらってうれしかった。」

「佳奈、夢見ていいんだよ、お前にはりっぱな資格がある。お前は素直だし、純粋だし……。」

「やめて、あなたあたしのこと何も知らないじゃない。あたしたちまだ何回かしか会ったことないんだよ。」

「会った回数が大事なんじゃない。おれはずうっと待っていたんだ。何を待っているのかは自分でもよくわからなかった。宙ぶらりんな毎日が続いてたんだ。だけど佳奈に会ってわかったんだよ。佳奈を待っていたんだ。男が女に惹かれるのに回数なんて問題じゃない。惹かれるのは丸ごと惹かれるってことなんだ。おれに佳奈のすべてを受け入れる用意ができたということなんだよ。」

 友哉は静かな口調で佳奈をなだめるように言った。気持ちは通じたと見えて、佳奈の震えも止まったように思えた。

「……うれしい、そう言ってくれて。あたしもあなたがあたしを受け入れてくれるんなら、あなたとずうっと一緒にいたい。……そうだね、年齢なんて関係ないよね。」

 佳奈はそう言うとにっこり微笑んで友哉の手をまた握り緊めた。目に少し涙を溜めていた。

「ヨースケ君とはきっぱり別れたほうがいい。おれの女なんて言ってるけど、おれの女かどうかはおれが決めるんじゃない、佳奈が決めることだよ。」

「そうだよね。あたしが決めていいんだよね。なぜかわからないけど、うれしいな。あたしのことを認めてくれる人がいるって、うれしいことなんだ。」

 そう言うと佳奈は「ごめんね。」と言いながら友哉の肩に顔をうずめて泣き出した。佳奈はうれしくて泣いているわけではないように思えた。どうしていいかわからないのではないだろうか。このまま友哉の元に走って行きたいのだが、ヨースケとの関係もきっぱり清算することのできない揺れる想いを持て余しているのではないか。そうして仲を裂かれるようなどこか高ぶった気持ちから涙があふれてきたのではないだろうか。友哉は慣れない女の心情を読み解こうとしてそこまで考えて考えを中断した。そんなことはどうでもいいではないか。佳奈がおれを頼ろうとしていることがわかっただけで十分である。通行人が何人も何の関心もないというような素知らぬ顔をして、まるでそこに人がいないかのように通り過ぎて行った。友哉は佳奈の背中をさすりながら、佳奈が泣き止むまでしばらくそのままでいた。佳奈の髪の匂いがする。ナイルの庭よりもずっといい匂いだと思った。


 川越から戻り、友哉の行きつけの食堂に入ると、一人娘らしい女の子が驚いたような顔をしたかと思うと、うなだれながら、コップに水を入れてテーブルの上に置き、何も言わずに調理場の内側に引っ込んだ。ビールを一本と生姜焼き定食を二つ頼み、無言ですぐに置かれたビールをコップに注ごうとしたら、佳奈がそれを横取りしてぎこちない手つきでコップに注いだ。友哉はテレビのニュースで今日がハロウィンであることを知った。友哉の若いころにはなかった祭りがいつの間にか定着して、このお祭り騒ぎが日本の伝統として続いて行くのだろう。この日を境に秋が終わりを告げるとともに一年の終わりを迎え、死者の霊が家族の元へ帰ろうとあちらこちらをさまよう。それを追いかけるようにやってくる悪霊や魔女は人間に悪さをすると思われていた。悪霊や魔女に人間だと気づかれないために、また、彼らを怖がらせ遠ざけるために人間は火を焚き仮面をつける知恵を授かった。そんな日だ。そして新年の始まりとともに冬が到来し、春はその後にやって来る。三年前に業務用キッチンの見本市がロンドンで開かれた折りに、社命で金子課長とともに見学に訪れ、その日の夜にレストランで食事を摂りながら案内してくれた女性担当者から聞かされた話を友哉は思い出していた。

「あたし、もう一晩泊まっていってもいい?」

「ああ、そのほうがいいね。」と言うと、佳奈は「よかった。」と言ってもう一度テレビのニュース番組を見た。番組は、仮装した若者であふれかえっている渋谷に警察官が出動して、車上や路上で群衆を整理している姿を映し出していた。

「いろいろあったけど、楽しい一日だったわ。楽しい日っていうのはさあ、すぐに過ぎちゃうんだよね。」

「そうだな。時間はどんどん過ぎて行ってしまう。止めようがないけど、だからいいのかもな。ふと気づくと、あれって驚くくらいにずいぶん変化してるしな。」

「ほんとね、ずいぶんな変わりようだわ。」

 友哉はいつの間にか佳奈が自分の近くにいる変化に驚きもし、うれしい気持ちもしていた。二か月前には予想もしていなかった変化である。だがその変化は友哉が待つとはなしにおぼろげに待ち望んでいた変化でもあった。やっと共感しあえる恋人ができた。友哉はその喜びをビールと一緒に喉に流し込んだ。

 その日の夜、気が向いて、佳奈に頼まれていたギターを弾いた。友哉のお気に入りのビートルズのナンバーから、「プリーズ・プリーズ・ミー」と「イエスタデイ」を少し小さな声で歌った。そのかすれがちな友哉の歌声に、佳奈はうつむいて一つ一つの音を拾い上げるように聞き入っていた。



      七



 翌日、会社に着くなり、自席の椅子に座って新聞を読んでいた松木の元に行くと、新聞を畳み眼鏡を中指の腹で額に押し付けて、

「おお、竹内君。向こうの部屋に行こう。」

と大声で促され、二人だけで応接室に入った。

「昨日、原口君から出社したら部長の席に行くように話がありまして、伺いました。」

「いや、実はね、来年一月に開かれる産業交易センターの輸入雑貨フェアの担当を君にやってもらおうと思ってね。展示商品の選択やセンターの担当者との折衝をよろしく頼むよ。」

「わかりました。ありがとうございます。それで、産業交易センターの窓口になる方は何とおっしゃるのですか。」

「うん、木田さんという人で、五十歳くらいの課長さんだ。これが木田さんの名刺だ。コピーを取って後で返してくれ。木田さんには僕からも連絡を入れてあるので、今日にでも挨拶に行って来るといい。僕の名前を出せばそれなりに対応してもらえると思うよ。君も知っての通り、わが社はアメリカやカナダやイギリス製の雑貨だけでなく、もっと大々的にヨーロッパの商品を扱うことを消費者に提案しようとしているんだ。鋳物ホーロー鍋やセラミック鍋、圧力鍋、耐熱ガラス鍋、シャスール、ル・クルーゼ、ティファーㇽ、ストウブ、ビジョン、フィスラー、ダンスクなどヨーロッパや北欧の雑貨の紹介とその長所を知らせるのが今回の輸入雑貨フェアの主旨だ。本来なら二課が請け負う案件なんだが、君にはそちらのほうの業務も少しずつ携わっていってもらいたいと思っているんだよ。これはね、君にとっても部内を横断的に見て回るいいチャンスだと思うよ。いいね。」

「わかりました。ご高配ありがとうございます。さっそく私のほうでも調べて出品社や商品の選定に取り掛かります。」

「頼んだよ。ところで、もう一つ君に頼みたいことがあるんだが、君、昨日原口君たちと会ったんだってね。それに関連する話なんだがね、西武新宿駅近くにしゃぶしゃぶのいい店があるから、今晩六時にここに来てくれないか。細かいことはここで話そう。君にとって悪い話じゃないと思うよ。」

と言って一枚の名刺をテーブルの上に滑らせた。穂乃花亭新宿本店 店長正木亮太とあった。

「承知しました。それでは、六時にお伺いいたします。」

 友哉は表情を変えずに松木に言った。松木には得体の知れないところがあり、何事によらず恩を売りつけようとする性格が好きになれず、友哉は松木に気を許したことがなかった。友哉はその名刺をワイシャツのポケットにしまい込むと、月初めの朝礼に出た。館内放送で社長の業績結果報告を兼ねた訓示があり、それが終わり、三課の課長席に一番近い自分の席に着くと、金子が驚いたような顔をして友哉に聞いた。

「今朝、僕が話す前にどうして松木部長の席に行ったの? 誰かから松木さんが君のことを呼んでることを聞いてたの?」

 友哉はそのことをすっかり忘れていた。しまったと思ったが、とりあえずその場を取り繕うことにした。

「いえ、朝来たら、松木部長が私を手招きしているのが見えたもので、直接伺ったのです。」

「そう。」

 金子はそれ以上追求しようとせず、課員の出欠表に目をやり、記入していった。


 その日の午前中に松木から紹介された産業交易センターの木田に連絡を入れ、松木の名前を出しながら、

「ご挨拶かたがた当社で企画している輸入雑貨フェアのご相談に伺いたいと思いまして。」

と言うと、木田は機嫌よく応じてくれ、その日の午後に木田と打ち合わせをすることになった。フェアについては今日聞かされたばかりなので、企画書も資料も何も用意できていないが、取り急ぎ面を通しておくほうが仕事がやりやすく、はかどることを友哉は経験で知っていた。

 木田が指定した三時に新橋にある産業交易センターに出向くと、一階にある受付近くのロビーで十分ほど待たされた後、松木の言った通り五十歳くらいの恰幅のいい大柄な男が現れ、さっそく名刺交換を済ませ、打ち合わせに入った。友哉が簡単に企画の概要を説明すると、木田はソファーの背もたれにもたれながら話に耳を傾け、話が一段落したところで、笑顔を見せて言った。

「竹内さん、この件につきましては、おおざっぱな話はすでに松木部長様からお聞きしております。万事承知しました。それでは、次回正式な企画書を頂戴し、具体的な日取りなども取り決めましょう。松木様にもよろしくお伝えください。」

と言うなり木田は立ち上がり、友哉に軽く会釈をして二人は別れた。これは松木の案件であった。そのためか話はスムーズに流れて行くように思えた。

 

夕方、喫茶店で一休みしてからその足で穂乃花亭に向かうと、すぐに仲居が座敷に案内して「お連れ様がお見えになりました。」と言って静かにふすまを開けると、八畳くらいの小部屋の中央にすでに松木は着座していて、卓袱台の上に置かれた熱燗をちびちびと飲んでいるところだった。背広は脱いでいたものの、カフスを外すでもなく、乱れたところがまったくない装いで、優し気な顔をして縁なしの眼鏡越しに友哉を見やった。広い額が脂ぎりてかてかと光っている。

「産業交易センターの木田さんとは面識を得まして、打ち合わせも済ませました。部長から事前にお話していただいておりましたので、話はスムーズに運びました。ありがとうございます。次回木田さんにお会いする時に企画書をお渡しすることになりまして、つきましては、近いうちに企画書素案をお持ちいたしますので、先に部長に目を通していただき、ご決済をいただければ助かります。」

「そう、それは何よりだったね。企画書の件もわかった。何事もよろしく頼むよ。まあ、一杯いこう。さあ、足を崩して、胡坐でいいよ。さて、何から話そうかね。まあ、飲みながら聞いてくれ。きのう、原口君から社内カンパニーの話は聞いているね。まあ、問題は何をやるかなんだが、原口君にはまだ詳しくは話していないが、君には話しておこうと思っている。僕はね、日本の米と日本酒を含む農産物をヨーロッパに輸出販売しようと思っているんだ。一昨年JAS法が改定されてね、有機酒類にも有機JASマークが使えるようになったんだよ。有機JASマークがついていれば世界百八十八か国とEUが加盟する国際食品規格の策定等を行うコーデックス委員会の規制に適合していることになり、アメリカの有機農産物などの公的認証制度である米国有機規格なども改めて取得する必要がなくなり、商売がしやすくなるんだ。現在のところ米は輸出実績があるものの、有機酒類については有機同等性の対象外の扱いになっているため、EU域内に日本酒を輸出する場合はその有機認定を受ける必要があるのだが、とは言っても有機JASマークが付いているので通りやすいんだ。実際には日本酒の輸出は増加中で、いま日本酒等の輸出実績は四百七十億円程度なんだが、年々急激に伸びていてね、今年度には倍増する目算も立っているんだよ。数量ベースでも、現在でも約三万五千キロリットルも輸出されているんだが、これは確実にもっと増えていく。農林水産省では二〇三〇年の輸出額として五兆円を目標にしているんだよ。ルートを作るなら今のうちなんだと僕は思ってる。酒はヨーロッパの衛生植物検疫措置の適用に関する協定、いわゆるSPS協定にも引っかからないしね、やりやすいんだよ。目下売上が多いのは、中国とアメリカなんだがね、現在日本はヨーロッパと農産物の規格の統合を進めているところでね、ゆくゆくはヨーロッパの割合が増えてくるだろうと僕は予想しているんだ。君はヨーロッパの人口を把握してるかね。高山君、ここからは手酌で行こう。……全体で約六億人いてね、ドイツ、イギリス、フランス、イタリア、スペインの五か国でヨーロッパ全体の約半数を占めるんだ。ヨーロッパで成功したら次は東南アジアだ。東南アジアの人口はASEAN十か国だけでも約六億人以上の人口を抱えており、中国とインドを含めたら巨大市場になるんだよ。だからね、日本酒と米がうまくいったら、次はみそやしょうゆなども輸出しようと考えているんだ。今、国外に日本食レストランが何店舗あるか知ってるかね。……竹内君、これからはね、君も視野を広げて色々な情報を仕入れて行くんだよ。約十五万店あるんだ。米には粒の長いインディカ種と日本が国内で生産している丸みを帯びた小粒のジャポニカ種とあってね、世界で流通している米の約八割がインディカ種で、タイ米と呼ばれているんだが、タイ米は粘り気が少ないのが特徴で、それに比べて日本の米は、ふっくら炊き上がる食味の良さと持ちの良さでね、世界の食文化に定着した感のある寿司の成功もあってね、ヨーロッパやアメリカでも評判がいいんだよ。進めるんなら今のうちなんだ。機が熟したと言うか、我々にとってはチャンス到来というところなんだ。フランスはもとより、イギリスでも日本の米は知られ始めているんだよ。イギリスには日本食のオンラインショップがあってね、日本の米も購入できるんだ。なにしろ日本にはヨーロッパや東アジアに売る優れた商品が多数あるからね。流通面も改善されて来ている。フランスには日本の農産物を流通させる会社もけっこうあって、うちと手を組みたいと希望する会社も多いんだ。これはまだ社内でも知っている人は限られているんだが、そのうちの一社とはもうすぐ提携の話し合いがつくところまでこぎつけているんだよ。そうした企業を我々の新会社で引き取るという計画だ。東アジアも負けていないんだよ。日本の米はもとより、味噌会社がすでにタイに子会社を設立して営業している。ゆくゆくはうちも東アジアにおける流通販売網を構築しようと考えているんだ。やりがいのある仕事だと思うよ。どうだね、竹内君、僕と一緒にやらんかね。僕はね、君には大いに期待してるんだよ。」

「はあ、とてもありがたいお話だとは思うんですが。少し考えるお時間をいただけないでしょうか。……原口君から聞いた話なんですが、松木部長は鏑木専務と仲がいいんだそうですね。この話は専務も絡んでいるのですか。」 

「原口君はそんなことまでしゃべったのかね。そうかね。彼もまだまだだな。……そうだ。この話は専務の発案なんだが、専務の下で仕えていれば、いつまでたっても専務の下働きに終わっちゃうからね。それはつまらんだろ。君もサラリーマンなら、それくらいの気概を持っていないと面白くならないよ。」

と言って松木はにこりと微笑んだが、目はまったく笑っていなかった。松木は普段からあまり笑わず、表情が乏しかった。松木は友哉のお猪口と自分のお猪口に酒を注ぎ足すと、一気に飲み干し、もう一度自分のお猪口に酒を注ぎ足してから、おもむろに友哉の目を射抜くように見つめてこう言った。

「考えるのは無論かまわないが、前向きに考えてもらいたいなあ。ところで、君は仲根君と同期の仲だったね? 仲根君からも話が来てるんじゃないのかね?」

友哉はその質問には「はあ。」とだけ答えて、仲根の話をしたものか迷った。ここは松木の側について自分を高く売っておくのも手だとは思ったが、仲根の「おれを裏切らないでくれ。」という言葉が聞こえてきたような気がして黙っていることにした。

「君ももう気づいてるだろうが、会社はこの社内カンパニーをね、僕のとは別にもう一つ作って競合させようとしているんだよ。仲根君が担当する社内カンパニーはね、本当は武藤さんに振られた話なんだがね、武藤さんは腹が座ってないと言うか、腰が引けてるから、せっかくのこの話を仲根君に譲ったんだよ。譲ったというよりも逃げたというほうが正しいのかもしれんがね。仲根君はミスをしたからね。しかし、武藤君も判断ミスを犯したね。チャンスはそう何度も巡って来るもんじゃないんだよ。一度きりのチャンスだと思って飛びつくくらいの度胸がないとね、サラリーマンなんて務まらないよ。まあ、なんだね、仲根君は社長の知り合いでもあってね、ミスをとがめられずに首はつながったんだが、そこはラッキーとしか言いようがないよ。彼も若いのになかなかうまく立ち回る。……それで、仲根君はどんなアイデアを持っているんだね?」

「すみません、それはまだ聞かされていません。本当です。」

「そう。」

 松木はお猪口に入った酒をグイっと飲み、さらに酒を注ぎ足し、さあ、もう一杯やりなさい、と言うように無言でお猪口を上に上げ、友哉が飲み干したのを見てさらに友哉のお猪口に注ぎ足しながら話を続けた。

「そうか、じゃあ、僕から説明しておこう。仲根君たちは、ヨーロッパの食品をレシピと一緒に輸入しようと考えているんだよ。特にパスタを中心としたレシピをね。ヨーロッパと言ってもいろいろな国があるからね。ギリシャはハチミツ、ハーブティー、サフラン、ナッツ、オリーブオイル、ワインが特産品。チェコのピルスナビール、スロバキアのタトラティー、ティーとは言うものの実際はアルコール飲料なんだがね。デンマークはチョコレート、ビール、紅茶、ドイツはもちろんソーセージだよね。オランダはチーズ、しかしなんと言っても食はフランスとイタリアだね。特にイタリアのパスタはすばらしいよ。仲根君がそこに目を付けたのもうなずける。EUからの輸入食品には食品衛生の一般原則であるHACCP認証の導入が義務化されていてね、これは日本から海外に食品を輸出する際の有機JASマーク等にも当てはまることなんだがね、フランスのラベルルージュやEUの原産地呼称保護マークやユーロリーフのような食品品質保証マークがついているものじゃないといけないという細かな約束事があるんだが、このことがまだ日本の消費者には浸透していないんだ。何しろ、食の安全は、日本だけでなく世界中の消費者が最も気にするところだからね。品質保証マークの浸透はおろそかにできないことだと思うよ。仲根君は、消費者にこうした食品品質保証ラベルの概要を認知させることも必要だろうね。」

 松木はよほど自分の計画に自信があるらしく、仲根にアドバイスするような発言まで付け加えた。だが、松木は「仲根君たち」と言った。弘樹はすでに何人か仲間を集めたらしい。

「やはり、もう少し考えさせていただけないでしょうか。ご明察の通り、仲根君からも声が掛かっています。ですが、仲根君からはまだ詳しい内容の説明は一切受けていないんです。これは私にとっても大事な話で、しかも、どちらかはお断りしなければならない話ですので。……すみません。」

「まあいいさ。そうだね、来週の月曜日には返事を聞かせてくれないか。君に万一断られたら、誰か別の人間を考えなければならんからね。……竹内君、今僕が話したことは他言無用だよ。わかってるね。……よし、さあ、僕の話は今日はここまでだ。竹内君とは差しで飲んだことはなかったねえ。まあ、今日はゆっくり飲もう。竹内君、そこの電話を取って料理と酒を四、五本持って来るように言ってくれないか。……今日は君のことをもっとよく知るまたとないチャンスだからね。チャンスは生かさないとね。……竹内君、若くてきれいな人と同伴だったんだって? 君もなかなか隅に置けないねえ。」

とこの時ばかりはにやりと笑って友哉の顔を見た。原口は松木には包み隠さず話してしまうらしい。「僕は口が堅いですから。」と言っていたものの信用できない。「この件、ご報告しておきます。」と言ったのは松木のことであった。松木の仲間になっても原口はあることないこと松木に報告するだろうから、言ってみれば監視役を身近に置いておくようなものである。それは危険だし、かなわないな。そんなことを思いながら、とりとめのない話を二時間ほどして松木と別れた。

 穂乃花亭を出て西武新宿駅方面に歩きながら、仲根君たちか、と友哉は思った。仲根のアイデアはすでに固まっていて、上にも知られている。そして、どうやら、仲根たちは社長派で、松木たちは専務派だということもわかった。会社は大きくなると徒党を組みたがるものなのだ。友哉はいつの間にか自分が微妙な立場に置かれたことを嫌な思いで感じていた。


 家の前に着くと、健康のため今日も階段を歩き、四階まで来たところで、カレーライス特有のスパイスの香りが強く鼻を打った。匂いは友哉の家から漏れ出していた。佳奈がいる。鍵を開けると佳奈がカレーライスを作って待っていた。今日ばかりは佳奈は帰らないという自信があった。一体何年ぶりだろう、家族のような余人に迎えられるのは。友哉は妻が待っていたような錯覚を覚えた。

 家の中に入って着替えを済ませ、冷蔵庫からビールを一本取り出してコップに入れ、煽るように飲み干した。続いて二杯目も同じようにごくごくと水を流し込むかのように飲み、半分ほど飲んでふうっと息を吐き出したところに、ドアが勢いよく開いた。ヨースケだった。友哉は鍵を掛けるのをこの日ばかりは忘れていた。ヨースケは昨日と同じ身なりで、口をあんぐりと開けながら、目を剥いて部屋に飛び込んで来るなり友哉を指差して射すくめるように見つめた。またか、と友哉は思った。よく知らない若者が、なんのつながりもなかった空間をこじ開けるようにして押し入って来る。年の隔たった者とはこのように思いがけない出会い方でしか会えないのだろうか。

「洋介。」

 ややあって佳奈がつぶやくように言うと、洋介は顎をぐっと引いてすごみを利かせながら声を落として言った。

「あんた、おれの女に手え出すな。」

 焦げ茶色の革のジャンパーにジーンズをはいた洋介は中背で、まん中で二つに分け刈り上げにした髪型が子供っぽい印象を与える。だが、眉が太く、目が小さいが、口元は引き締まり、なかなかの美少年である。これまでてっきり髪の毛を赤く染め、鼻翼にピアスを嵌め込んだような柄の悪い不良少年だとばかり思い込んでいたので、その印象の違いに友哉は少しばかりとまどった。この少年がそんなに狂暴なのだろうかと疑ったほどである。

「人の家に入る時は最低でもノックぐらいしなさい。……君がヨースケ君か。佳奈の背中に傷をつけたのも君か。」

「佳奈? 気安く呼ばないでくれよ。佳奈はおれの女だ。あんた、おれの女に手え出すな。」

 洋介はちらりと友哉の顔を見やって同じ文句を並べると、すぐに視線を佳奈に戻した。洋介はまっすぐにひたむきに佳奈の顔を見つめている。鼻梁が高く、横顔に清潔感さえ漂わせている。ふと、友哉は洋介に一途なものを感じた。狂暴なだけの脳なしではなさそうである。

「おれの女か。ずいぶん粋がるんだな。おれの女だったら背中に傷をつけようがどうしようがいいって言うのか。」

「背中の傷なんておれは知らねえよ。だいいちあんたに関係ねえだろ。関係ねえんだから黙ってろよ。さあ、佳奈、来い、帰ろう。ずうっと下で待ってたんだぞ。全然家から出てこないんだもんな。何考えてんだよ、お前。」

 洋介はそう怒鳴ると、靴も脱がずに上がり框に立ち、佳奈の手をつかんだ。佳奈が、「いや。」と小さく叫んで腰を引いて拒みながら、友哉の顔を悲し気に見た。そのとたんに、佳奈の背中のミミズがかすかにうごめき、洋介の分厚い手が裸の背中を愛しむようになでさすっている姿が思い浮かび、陵辱された思いから友哉は洋介に対してにわかに怒りを覚えた。椅子から立ち上がり、

「土足で何だ。その手を放せ。」

と言いながら友哉は我知らず洋介を殴っていた。洋介の膝が折れ、腰が崩れて、よろよろと後ずさりして、ドンという派手な音を立てて玄関のドアに背中を打ちつけてたたきにへたりこんだ。鼻から血が赤いミミズのように滴り落ちた。洋介はジャンパーの袖でその血を拭うと、「てめえ。」と唸りながら立ち上がり、顔を紅潮させて、手をだらりと下げたまま部屋に戻り、ぐいと足を突き出した。口元にかすかに笑みがこぼれている。こうしたけんかに慣れ、その緊張を楽しんできたかのようなゆとりさえ感じられ、友哉のほうが萎縮した。どちらかが倒れるまで殴り合わなければならない。友哉がとっさに拳を固めて身構えた時、佳奈が友哉の前に出て膝に両手を当てながら洋介に向かって叫んだ。

「やめてえ!」

「うるせえ。」

 洋介は佳奈の腕をつかんではねのけ、飛びかかるように友哉の胸倉をつかむと、鼻の下に血をこびりつけたまま目をぎらぎらと輝かせて腕を振り上げた。友哉も洋介の胸元をつかみ、洋介の濁りのない奇妙に透き通った瞳を見つめ返した。瞳の中に洋介を見下ろしている自分が縮こまって見えた。

「やめて、洋介。これを見ろ。」

 佳奈が冷蔵庫からマヨネーズの瓶を取り出し、黄門の印籠のように洋介の眼前に突きつけた。洋介は血走った目でそれを一瞥すると、チッと舌打ちしながらつかんでいた手を離した。洋介もちょっと見ただけでその異形さに気づいたようである。

「何だよ、それは。」

「あんたの子どもよ。こんなになっちゃって、あんた、最低なんだよ。」

「またそれか。佳奈、おれのどこに不満があるのかきちんと言ってくれよ。説明してくれよ。いったい、おれのどこが最低なんだよ。子供が生まれたことか? 育てるって言ったじゃねえか。今は無職だけど、そのうち、いや近いうちに就職してお前と子供くらい育ててみせる。それくらいの甲斐性はおれにだってある。……佳奈、おれはな、おれの言うことを聞かねえやつが許せねえって言うか、無性に腹が立ってくるんだ。黙って言うことを聞けばいいんだよ。そうすりゃ、何もしねえよ。」

 そう言うと、洋介は友哉の顔目がけて殴り掛かった。友哉は上体を反らして拳を避けた。友哉もいつの間にか本気になっていた。拳を握り緊め、洋介を殴り倒そうと思った。

「洋介、やめてってば。この人に乱暴しないで。あたし、遺書書いたんだよ。あんたがこれまで亜希ちゃんや瑞枝にしてきたこと、みいんな書いたよ。みいんなあんたのボッチャンボッチャンしたその顔にだまされたんだよ。あたし、もう、あんたのとこなんかぜえったい戻んない。あたし、そう決めたんだ。あんた最低だよ。あんたなんか、大嫌いだ。」

「嫌い? ……うそだろ、佳奈。お前がおれのこと嫌いになるはずなんかない。おれは、お前にだけは乱暴なんてしなかったじゃねえか。背中の傷だってふざけただけだったんだよ。まさか、爪を立てたくらいであんなに腫れるなんて思わなかった。本当だよ、佳奈。……なあ、佳奈、戻って来てくれよ。もう乱暴なんてしないよ。お前が行っちゃって、おれわかったんだよ。一人だと寂しいんだよ。だから迎えに来たんじゃねえか。」

 洋介はどうしたわけか、驚いたような表情を見せて、上体を折りながら佳奈の肩に手をかけようとして、宙に両手を浮かせたまま言った。これ以上佳奈の機嫌を損ねたくない、という気持ちが佳奈に触れるのをためらわせたのだろう。佳奈も顔を火照らせて洋介の目を傲岸に見つめている。両腕を脇に垂らし、毅然としてさえいる。自信があるのだ、と友哉は思った。友哉が一度も見たことのない佳奈の表情だった。その自信ができあがるまでの時間を想像してみようとしたがとても推し量ることができない。いったいどういう時間をこの二人は過ごして来たのだろうか、と友哉は思った。なぜこういうやりとりになるのか友哉には見当もつかない。ただ、この二人がかなり密度の濃い時間を共有して来たことは容易に理解できた。洋介は「あんなに腫れる」と言った。二人の関係が今も続いていることも想像できた。佳奈の友哉に対する気持ちにはうそがないと思っている。おれは佳奈をおれの女、いや、自分のものにできるだろうか、ふと、友哉はそう思った。

「洋介、やめて。……いやよ。今言ったでしょ、もうあんたなんかのところになんて、ぜえったい戻んない。」

「ちきしょう、なんでお前までがおれに逆らうんだよ。逆らわないでくれよ。そうじゃないと、おれもどうしていいかわかんねえんだよ。おれだって一生懸命やさしくしたじゃねえか。これ以上やれって言われても、おれにもどうしていいかわかんねえんだよ。」

「洋介、もうだめ。あんたおどしたかと思うと、急に甘えたり、やさしくなったり、あたしもわかんなくなっちゃうんだよ、あんたが。疲れるの。……あたし、あんたに疲れちゃったの。あんた、子供なんだよ。もう、いや。」

「子供? おれ、その言葉大嫌いなんだ。おれは子供なんかじゃない。大人じゃないかもしれないけど、でも、子供なんかじゃない。こいつがそんなに大人なのかよ。」

「そうよ。あんたなんかより、ずうっと大人よ。」

 佳奈は友哉の傍らに立って大きな凛とした声で言った。洋介はそう聞くと、うなだれながら靴を脱いで上がり込み、窓側の壁に背をもたれながらしゃがみこんだ。先程の威勢のよさも消え、すっかりしょげかえり、どうしていいのかわからないという言葉を体で表現するかのように、膝を抱えてその中に顔を埋めている。洋介は佳奈になすすべなく降参してしまったかのようである。だが、友哉は、洋介が佳奈にだけは自分の弱みを隠さず見せてきたのだと思った。自分には人前でこんな姿はとても見せられないだろう。そうした姿勢を取ることができるのも、洋介には佳奈しか見えておらず、佳奈に対する真情にうそはないのではないかと友哉は思った。そう思ったとたん、友哉の佳奈に対する愛情もいっそう募り、佳奈が気高く尊く見え、さらに思いは深まり、このまま洋介に佳奈を譲る気にはなれなかった。全うしよう、そう思った時、友哉の隣にこれまでとは違う別の佳奈が立っていた。佳奈は台所に立ち、コップに冷蔵庫から取り出したペットボトルに入った水を入れて一口飲むと、また友哉の脇に立って洋介を見つめた。友哉は洋介を見つめる佳奈が佳奈であることを確かめるように見つめた。静寂が戻り、友哉は窓辺に寄って窓を開けた。そのとたんに窓から入り込んで来た冷たい空気がすがすがしく思えた。

「わかった、帰るよ。……もう戻って来なくていい。」

 洋介はそう言い残すと静かに玄関から出て行った。かっかっかっという靴音が次第に薄れて消えていった。

 

洋介は一陣の風であった。過ぎ去ってしまえば、果たして風が吹いたのかどうかさえ定かではない一陣の風。静寂があたりを押し包み、しばらくして佳奈はマヨネーズの瓶を冷蔵庫に戻すと、テーブルの前にへたりこんでしまい、テーブルの上に置いてあったビールの飲みさしをえいっとあおった。

「今日も泊まっていっていい? ……あたしにはもう帰るとこないの、ここしか。」

「もちろんいいよ。いつまででもいいよ。」

 そう言うと佳奈は安心したかのように玄関のかぎを掛け、台所に戻って、皿を二枚取り出し、それぞれにご飯をよそい、カレーライスをよそった。チキンカレーで、スパイスからカレーを作ったらしく、黄色いサフラン色のカレーは初めて口にする味わいがあり、適度な辛みがあっておいしかった。

「このカレーおいしいよ。材料いつ買ってきたんだ? 今日はどこにも出かけなかったんじゃないの?」

「一昨日ついでに買い込んで来たの。シチューもいいけどカレーも食べたいなって思って、材料だけ買い込んで来たの。作り方は雑誌を読んでいて、大体頭に入ってるわ。材料は、ごめんね、あなたが置いていったお金で買ったの。ほんとのこと言うとね、あたしあまりお金持ってないから。」

「もちろんいいよ。明日も置いてくよ。おれはこれでも貯金はあるんだ。ほとんど出かけないからね。」

「無駄遣いの激しい人よりも堅実でいいよね。あなたいい旦那さんになれるわ。……でも、あたし、これで洋介と別れたことになるのかなあ。やっぱり未練が少し残るんだよね、あたし、どうしたらいいのかわかんない。」

 そう言うと佳奈はふふっと笑い、また目に涙をためた。佳奈の軽い冗談だったが、一緒に笑う気にはなれなかった。

「なんだか悲しいね。みんな一生懸命生きてるのにね。だけど、うまくかみ合わないんだ、歯車が。だからみいんな一人ぼっち、自分一人の力じゃ、どうにもならないんだよ。どうにもならないものに向かってどうぶつかっていけばいいのかわからないから、自分の気持ちもコントロールできない。健気って言うのか、哀れって言うのか……。赤ちゃんも死んじゃったし。やっぱり、ここが潮時だよね。終わりにしようと思うんだ。……もっとビールないの? 今日はもう一口飲みたい気分よ。」

 冷蔵庫からもう一本ビールを取り出してきて、コップに注ぎ、佳奈に渡すと、佳奈は四分の一ほど飲んで「やっぱりにがいね。」と言って友哉に返した。そして堰を切ったように友哉の肩に頭をうずめてえーんと声を立ててまた泣いた。友哉は今日も佳奈の背中をさすりながら、立ったまま佳奈を抱き締めていた。友哉は改めてこれまでとは違うもう一人別の佳奈を見たような気がしていた。これまでは佳奈の意志によってもたらされた強制的な関係であった。その中で見ていた佳奈は繭の中にいる佳奈のように、実体をとらえたものではなかったように思う。言ってみればうわべだけの佳奈を見ていたのだ。だが、今ここに抱きとめている佳奈は繭を破って羽化したかのような佳奈その人だと思えた。おれはようやく佳奈を佳奈としてはっきり捉えることができたようだ。友哉はそう実感した。

「佳奈、さっき遺書書いたって言ってたけど、ほんとなのか?」

 佳奈はそう聞かれて友哉から体を離し、うなだれたまま小さな声で答えた。

「ほんとよ。机の引き出しに入ってるわ。」

「佳奈、死んじゃだめだぞ。」

「うん。」

 そう言うと佳奈はテーブルの上に残っていた飲みかけのビールを飲んでソファーに座り、テレビをつけて、表情のない顔付で何事か考え込みながら、お笑い番組に聞き入った。番組を見ている途中で突然「わかってる。」とぼそりとつぶやくように言って、隣に座った友哉の手を握り、太腿の上に置いた。心なしか微笑んでいるようにも見え、友哉も安心して一緒にお笑い番組に聞き入った。



 翌日、友哉は会社に出かける前に佳奈と携帯の電話番号を交換し、二人だけのラインも作成して、いくらかの金を佳奈に渡して、後ろ髪を引かれる思いで会社に向かった。

 社内で松木から紹介を受けた輸入商社六社に連絡を入れ、輸入雑貨フェアで打ち合わせをしたいと、松木から紹介を受けたことも併せて伝えると、いずれも丁重に応接してくれ、話がスムーズに進むので気分もよかった。そんなところに、仲根から携帯に電話があった。仲根は社外から電話をかけてきた。

「期限の一週間はとおに過ぎたぞ。ここのところ忙しくてお前の返事を聞く暇がなかったんだが、この話もだいぶ煮詰まってきたから、お前の返事を聞かせてくれ、明後日、うちに来ないか。うちの住所は教えてあったっけ。最近引っ越したんだよ。わからない? 住所をメールで送るからそれを見てくれ。……じゃあ、土曜日、待ってるぞ。」

 そう言って仲根は電話を切った。

 その日家に帰ると佳奈がポークソテーを作って待っていた。マーマレードをベースにしたソースが絶妙な味わいで、レタスと鶏肉と豆腐を入れたコンソメスープとの相性もよく、どれも今まで口にしたことのないような料理で、おいしく食べることができた。こんなに料理好きな女性を手放すことなど考えられない、そう思いながらビールを取ろうと冷蔵庫を開けると、マヨネーズの瓶はなくなっていた。一人でどこかに葬って来たようだ。瓶が消えていること自体が佳奈の覚悟を無言のうちに伝えていた。友哉はそのことは佳奈に尋ねず、ドアを閉めてこのまま闇に葬ることにした。ビール瓶を一本携えてテーブルに戻り、二人とも黙ったまま手酌で静かにビールを喉に流し込むと、ビールが腹の中に温かく流れて行った。



 その週の土曜日の午前十一時ころ、東中野の上野原公園近くにある三LDKのマンションの十階に住んでいる仲根を訪ねた。友哉と同じくらいの給料なのにこのような豪勢なマンションになぜ住めるのだろうか。そう思いながら仲根の部屋の呼び鈴を鳴らすと、出てきたのは有美子だった。

「いらっしゃい、竹内さん。待ってたわ。」

そう言ってリビングに通すと、仲根は窓側のソファーに座って英文のパンフレットを読んでいるところだった。

「すごい家に住んでるんだな。」

「ここは有美子の家なんだ。おれは居候さ。有美子の父はもともとは寿司職人なんだが、今は外食レストランチェーン・シェフズキッチンのオーナー社長として銀座や赤坂などに十一店舗を構えているんだよ。このマンションも父親が有美子に買い与えたもので、最近おれも親元を離れて、ここに居候を始めたのさ。」

 そう言っているところへ、有美子がケーキと紅茶を運んで来て、それぞれの前に置いた。有美子は淡いピンクの花柄のワンピースに、黒のカーデガンを羽織って、さながら新妻然としていた。

「竹内さんがいらっしゃるというから、今朝作ったのよ。私の手作りのケーキなの。お口に合うといいんだけど。今日はゆっくりしていってね。」

「ああ、それはありがとうございます。」

 裸も見た気兼ねのない仲なのに、このように形式張った挨拶をされるとついこちらも丁寧な口調になって、お互いに笑みがこぼれた。すると、仲根がゆっくりと体を前に倒して言った。

「用件はこの間電話で話した通りだ。お前の返事を聞かせてくれ。人づてに松木さんがお前を誘ったという話は聞かされた。会社というところは、上層部は秘密にしておくことができないんだ。何かあった時話さなかったことで責任を取らされたりしないように身を守るんだよ。あの人おれに挑戦して来てるんだよ。おれの芽が出ないうちにつぶしてしまおうという魂胆なんだ。勤め人の宿命で、自分がのし上がっていくために、ライバルになりそうな者は早めに蹴落とすのさ。」

 友哉はそれには答えず、仲根のアイデアが聞きたかった。仲根はどんなプランA、プランBを用意しているのだろうか。

「ところで、パスタって、どんなパスタを考えているんだ? 弘樹の構想については、おれはまだ何も聞かされていない。それじゃあおれも決められない。」

 仲根はソファーにもたれながら、足を組んで話し出した。

「そうか松木さんから聞いたんだな。まだお前には説明していなかったけれども、パスタには二種類あってな、パスタの原料であるデュラム小麦粉を、セモリナ、つまり粗びきして水を混ぜて生地を作り、それを押し出してロングパスタを作る金型のことをダイスと言うんだが、そのダイスに二種類あって、ブロンズ、つまり青銅だな、この青銅の金型を使って作るのがブロンズダイス製法、もう一種類はテフロン製のダイスを使うテフロンダイス製法と言うんだ。大量生産されているのは腰があるテフロンダイス製法のパスタなんだが、本場のイタリアで食べられるのは、高品質のデュラムセモリナ粉を使って自然発酵させるブロンズダイス製法のパスタで、もちっとした歯ごたえとパスタの表面に細かい溝ができるため、ソースがよく絡むのが特徴なんだ。ゆで方に難しさがあるものの、このあたりの情報はパッケージに印刷すればいい。おれはこのブロンズダイス製法によるパスタを輸入しようとしているんだ。レシピも合わせてな。イタリアのパスタには三百種以上あるいは一千種以上とも言われる調理法があって、ローマの三大パスタと言えばカチョエペペ、アマトリチャーナ、そしてカルボナーラなんだが、そのほかにもアル・ネーロ・ディ・セッピアと呼ばれるイカ墨パスタや、ボッタルガと呼ばれるからすみパスタなども有名だ。そしておれは、パスタ以外にオーガニックチーズやオーガニックソーセージなども輸入して、その有機農法によるヨーロッパの主要な農産物が食べられるレストランと抱き合わせで展開しようと考えているんだよ。それから、もう一つ、おれのとっておきのプランがある。それはプラントベースフード、つまり植物由来の食事なんだよ。大豆を使った代替肉などが知られて来ているよな。代替肉には必要な栄養素を摂取できないという欠点も見られるんだが、例えばビタミンB12が摂取できないというようなものだけどな、これを付け合わせを充実させて解消しようというものなんだ。こうして栄養面も充実させた料理をおれたちのレストランで大々的に提供しようと考えているのさ。世界的な健康志向の広がりと相まって、プラントベースフードは二〇三〇年代には二十二兆円規模の市場に成長すると見込まれているんだぞ。パリなどではプラントベースフードのレストランなども盛況で、すでに一般の消費者にもなじみがある食べ物なんだ。どうだ、完璧だろう。もちろん流通も考えてあるぞ。有美子の父親が協力してくれることになっていて、手始めにシェフズキッチンでリーズナブルな価格帯でヨーロッパ各国の特産品フェアとプラントベースフードを提供しようとしているんだ。オーガニック肉やオーガニックチーズも輸入して、健康志向を打ち出した日本人が大好きなハンバーグを提供する予定なんだよ。その後、外食チェーン全体に拡大していくつもりなんだ。流通についてはまだ誰にも話していないから、松木さんもおれがここまで考えていることはまだ知らないはずだ。社長にはあさっての月曜日に伝える手はずになっているからな。そしてその翌翌週の水曜日の定例の役員会で決定される手はずなんだ。……友哉、ケーキとお茶を飲みながら話そう。有美子のせっかくのショートケーキだからな。朝から張り切って作っていたんだ。」

 友哉は「ありがとう。」と一言礼を言って、ホワイトクリームをベースにし、上に半分に切ったイチゴをちりばめたデコレーションケーキを一切れ口にした。甘さをやや抑えた上品な味わいだった。

「おいしいよ、このケーキ。甘さがしつこくなくて、大人の味だよね。」

と一言有美子に感想を述べてから、本題に戻った。

「……ところで、松木さんは、ヨーロッパのユーロリーフやフランスのラベルルージュなどの公的認証制度の理解が消費者に浸透していないことを指摘していたぞ。」

「さすがだな。しかし、そこはおれもぬかりない。食の安全を謳ったパンフレットを作成したり、講演会などを開く一方で、新聞社や雑誌社などにも協力してもらうことなども考えている。そうやって、消費者への浸透を図っていくつもりなんだ。」

「……なるほどね。面白そうだな。ところで、話は変わるが、仲根はどうして社長を知ったんだ? ずいぶんと親しく付き合っているみたいじゃないか。」

 仲根もケーキを口に入れながら紅茶をすすり、「うん」と言ってから、うなずくように小さく二、三度頭を上下に振って話を続けた。

「おれの親父がたまたま大学で親友同士だったのさ。付き合いは今も続いていて、だからこの会社に入れたのも実は親父のおかげなんだ。今や日本も実力主義の社会なんだが、一方ではまだコネも通用するんだよ。素性の知れたものに対する信用だよ。おれにしても、ゼロからすべてを創り出すには金も時間もかかり、効率が悪すぎる。今の世の中効率を重視しないとな。」

「そうなのか。それで社長派対専務派という派閥争いみたいになっているんだな。松木さんは特にヨーロッパに向けて日本酒と米の輸出を考えてるそうだ。日本酒と米が成功したら、みそとかしょうゆなども輸出するそうだ。おれは松木さんからも仲間に加わるよう言われているんだけどね。」

「派閥抗争というのはちょっと違うな。会社は、と言うより本田社長は最初から二つの社内カンパニーを作って競わせようとしているのさ。それで二つ目のカンパニーを鏑木専務が担当して子飼いの松木さんにやらせたというわけだよ。どちらかは、あるいは二つともつぶれてしまうかもしれない。だが、それはそれ。ここは流れに乗ってみるのが気概というものだ。そこは松木さんもおれと同じ考えだと思う。これはおれにとっても松木さんにとってもチャンスなんだが、どちらかはつぶれる。似たような会社が二つとも生き残る可能性は低いだろうからな。だから友哉、おれを手伝ってくれ。お前が一緒にいてくれれば百人力だし、それに、お前はおれを絶対に裏切らないとおれは信じているんだ。」

「竹内さん、あたしからもお願い。友達として仲根を助けてあげて。ねっ。」

 仲根の隣に座った有美子が体を前に倒して口をはさんだ。夫唱婦随か。この二人はすでに恋愛関係が終わっていて、すでに夫と妻のような落ち着きのある雰囲気を醸し出していた。友哉は十年ほど前、かつて二人であちらこちら飲み歩いていた時、ある新宿の居酒屋で恋愛について話をしたことがあった。友哉が「いつか身も心も捧げるような大恋愛をしてみたいものだ。」と言うと、仲根は「恋愛なんて子供がするものだ、おれは恋愛なんていうくだらないものに掛かり合うのはごめんだ。」と言ったことを、友哉を見つめる仲根と有美子を見ながら、ふと思い出していた。

「……わかった。そこまで話ができあがっているのなら、おれも手伝うよ。おれもこの話は、自分でもよく考えて咀嚼しなくちゃな。パスタの製法の違いは知らなかったが、オーガニック農産物についてはおれも前からちょっと興味があったんだ。健康志向のご時世だからな。だから少しは力になれると思う。」

 そう言って友哉は仲根や有美子との付き合いの関係を重視して、仲根のチームに加わることに決めた。原口のような監視役が身近にいる仲間とは一緒に仕事はできない、そうも思った。

 そう決まると、仲根も安心したように笑って歓談に興じた。有美子が立ち上がって「お酒のつまみを用意してくるわ。」と言って座をはずした。友哉も立ち上がって窓辺に寄ると、神社の境内だろうか、木々がうっそうと生い茂っている一角が見えた。視線を移して室内を見回すと、ハイチェストの横に三連の明るい茶色の重厚なローチェストが連なり、その一棹の上に三十センチ四方のガラス箱が一つ置いてあった。中に木切れが入っていて芋虫が二、三匹うごめいているのが見える。箱の中からミカンの匂いがした。有美子が生ハムとサラミソーセージとチーズを切り分けて戻って来て、テーブルの上に置くと仲根の隣に座った。

「これは蝶のさなぎ? 小学生の時に僕も育てたことがあるのでそう思ったんだけど。」

「そう、それはヒメギフチョウという少し珍しいアゲハチョウの仲間のさなぎなのよ。アオスジアゲハの芋虫もいるわ。蝶のさなぎは餌がたくさんある春から夏にかけておよそ二週間かけて蝶に変態するんだけど、秋口から冬先にさなぎになったものは餌がないことを本能的に知っているのね。だから、羽化せずに越冬して食べ物、つまり花がすぐに見つかる春先まで待つものもいるのよ。春先にさなぎになるものは緑色をしているのだけど、越冬するさなぎはそのように茶色っぽいの。見ていてあきないわ。羽化したら、外に逃がしてしまうのよ。」

「そうなんだ。だけど蝶はどうやって花を見つけ出すの?」

「そうよね。花はね、紫外線を浴びて特殊な光を出しているの。そしてその特殊な光が独特な模様をつけるの。アゲハチョウは花が出すその特殊な光と模様を見ることができるのよ。人間が基本的に赤、青、緑の三原色しか見ることができないのに対して、アゲハチョウは紫外線を含めて五つの色を見ることができるの。すごい感知能力よね。」

 蝶は本能的に花を見つけるのだと思っていたが、そうではなかった。もしかすると本能などと呼べるものはごくわずかで、ほとんどは何かしら物理的な理由があるのかもしれないと思った。佳奈がおれに助けを求め、おれが佳奈に惹かれたのにもそうした物理的な要因があるのだろうか。佳奈が「女の直感よ。」と言った言葉がふいに思い出された。女の直感は友哉が放つ紫外線を感知し見事に的を射抜いた。だとすると、有美子は仲根にも紫外線を感知したのだろうか。そんな戯言が一瞬脳裏をかすめたが、すぐに消えていった。アゲハチョウについての有美子の説明は面白いと思ったが、すんなりとは頭に入っていかなかった。友哉にはもう一つ気にかかっていたことがあった。先ほど座っていた席に戻り、それを仲根に聞いてみた。

「松木さんは、仲根君たち、と言っていたぞ。あと誰を連れて行くんだ?」

 すると仲根はにやりと笑って、サラミソーセージを一枚口の中に放り込んでから答えた。

「輸出入部第二課で冷凍食品を扱っている川岸君と足立君が来てくれる。冷食はこれからもっと活躍するからな。アメリカはもちろん、ヨーロッパでもパスタなどの冷食の売れ行きが好調なんだ。そのほかプラントベースフードを彼らに担当してもらうつもりだ。そのための布石だ。」

「そうか。足立君と川岸君ね。二人とも将棋が強いっていううわさを耳にしたことがある。……しかし二人とはどこで知り合ったんだ。」

「おれはこう見えてもラガーマンだぞ、知ってるだろ? 週に一回程度の割で同好会のメンバーで練習してるのさ。彼らも同じ同好会のメンバーなんだ。」

「なるほどな。」

「決まったな。よし、それじゃあ、新会社の門出を祝って乾杯しよう。有美子、戸棚から封を切っていないウイスキーを持って来てくれないか。」

「はい。」

と返事して再び有美子が立って戸棚に行き、封を切っていないグレンフィデックを一本抱えてテーブルの上に置いた。それから台所に行き、かち割り氷を入れたアイスペールと、つまみにピーナツとチョコレート菓子を取り合わせて戻って来た。仲根はウイスキーをロックで飲むのが好みらしい。仲根は有美子がいる手前、

「酒の肴代わりに、少し昔話をしよう。おれが友哉と付き合うようになった因縁をな。」

とウイスキーをグラスに三分の一ほど注ぎ、一口飲んでから話し始めた。

「おれと友哉の付き合いは大学時代からだから、もうかれこれ十年以上になる。有美子、おれたちの大学は五十音順でクラス分けをし、たまたま名前が近かったせいで同じクラスになり、一年経ったころに言葉を交わすようになり、なぜか気が合って友達付き合いをするようになったんだ。おれは東京出身だったから自宅から大学に通っていたんだが、友哉は福岡県飯塚市の近くの炭鉱町出身で、大学の近くの下宿先から通っていた。友哉はどちらかというと奥手で、人付き合いが苦手な面があった。それは今も残っているように思える。ぐずぐずと考え込むタイプで、正義感が強く、感情的になることを嫌がり、他人の気持ちを先に思いやるきらいが昔からあったんだが、たぶんそれは今も変わっていないかな。それが悪いということではないが、自分の意見は固まっているのに、それを表立って言いたがらないという一面があり、まわりをいらいらさせることもあったのさ。そのころ、おれたちの仲間に山崎妙子と小畑広子がいた。妙子は人の批判を慎むというところが見られる清楚な感じのする女だった。広子は頭脳明晰で、物おじせず、主張すべきははっきり主張するという性格だったが、刹那的で、その一瞬一瞬を楽しむ傾向があった。ある時おれたちは四人で鎌倉の由比ケ浜海岸に初日の出を見に出かけたことがあった。友哉、覚えているか、その時のことを。おれたち四人はおれの車に乗り、途中、客でごった返す中華料理店に入った。それぞれ特製ラーメンを注文して、会計の時におれがほかの三人に先に出るように言って、おれは人込みをかき分けてトイレに行き、そのまま料金を支払わずに出てきたことがあったよな。食い逃げはまんまと成功したにもかかわらず、由比ガ浜に歩いて向かう途中で、お前はそのことを気に病んで、金を払いに行くと言い出した。妙子がそれに賛成し、自分の分の料金を友哉に渡し、お前は払いに店に戻ったんだ。広子は『余計なことをする人ね。せっかくの仕事が台無しじゃない。』とお前にわざと聞こえるように言ったのを今もはっきり覚えているよ。それをきっかけに、お前は妙子と付き合うようになり、おれは広子と付き合い出した。だがお互い長続きせず、おれは広子とささいなことで衝突するようになり、一年ほどで別れ、お前も大学を卒業するころには別れていた。それでさらに気が合うようになり、おれが勧めてお前もおれと同じ会社に就職することになったんだ。おれには親父のつてがあったが、お前は実力で入社したんだ。おれは本当のことを言うと、お前は営業に向いていないんじゃないかと思ったんだが、それはおれのとんでもない思い違いで、お前は次第に業績を伸ばして頭角を現していった。人間水に慣れると変わるもんだと、驚いたくらいだったよ。会社というところは人の長所をよく見抜いてるよな、そう思わないか。適材適所に人一倍気を遣うところが会社だよ。」

 仲根はこう言うと友哉の顔を見てウイスキーをもう一口口に含んで少しして飲み下した。有美子が「へえ。」と言いながら、チョコレートをつまみ、同じように友哉を見つめた。二人の視線を浴びて、急かされたように思え、友哉も注がれたウイスキーを一口飲んで、背もたれに上体をもたせながら話し出した。

「あの時のことは今もよく覚えているけど、おれたちはその後由比ガ浜海岸に出て、寒さしのぎの焚火があちこちで暗がりを赤赤と照らし出して、逆に人の姿が暗がりになり、その陰影が幻想的な光景に見えたのが印象に残ってるよ。おれは確かに仲根が言うように、人づきあいが下手で、他人に自分がどう見えるかが気になり、自分の考えをうまく伝えられなかった。おれたちは政治学部に所属し、弘樹は「大正デモクラシー」を研究したんだが、おれは三年でどの研究室に入るかなかなか決められずにいたら、仲根に『お前には優柔不断なところがある。』と言われたこともあったな。その後で祖父が昭和三十年代の三井三池争議に関わったこともあって、戦後日本の労働運動史を卒論のテーマに選んだんだが、その指摘は当たっていると思う。ある時四人で映画に行く機会があったのを覚えているか。おれは「ミッション:インポッシブル/ゴーストプロトコル」が見たかったのだが、君たちは「ハリーポッターと死の秘宝パート2」が見たいと言い出し、『今どきハリポを見ない人なんていない。』と広子に言われて、三人がそう言うならと仕方なくハリーポッターを見たのだが、あれはあとあとまで悔やまれたよ。「ミッション:インポッシブル」がⅮVⅮに落ちるまでの時間が長かったことったらなかったな。おれは最初、聡明で自分の意見を相手に明快に、時には相手を遣り込めるまで主張する広子に、自分とは異なる爽快さを見出し、広子に恋をしていたんだ。お前には言わなかったけどな。だけど、あの鎌倉の事件の後、学食で食事してるところに妙子が一人でやって来て一緒に食事をし、その後中庭に出てベンチに座っていた時に『あたしと付き合ってくれませんか。』と切り出され、断り切れずに付き合うようになったんだよ。妙子は広島の出身で、よく気が付き、優しかった。おれたちは地方に旅行に出かけるよりも、都会のビルに囲まれた遊園地や公園によく出かけて歩いたものだ。夏になるとビルの屋上ビアガーデンにもよく行ったものだった。それから妙子の下宿先に行くようになり、体の関係もできて、距離も縮まり、仲良く過ごすことができたのだが、そんなころ弘樹と広子が別れたことを弘樹から聞き、何かにつけて広子のことを口にするようになると、『あなたは本当は広子のことが好きだったのね。』と妙子に責められて、次第に妙子がおれから距離を置くようになって離れて行ったんだ。そして三藤商事に入り、おれの営業の成績が伸びたのも、ある時、役者になればいいのだと気づいたからなんだ。快活で有能な営業マンを演じたのさ。すると他人の目が気にならなくなった。他人の目というのは気になりだすとうっとうしいくらいまとわりつくものなんだよ。営業マンの中には、営業成績を上げることが自己実現の道であり、おれのように相手の反応を待つという姿勢では成績は決して向上しないと言う者もいるだろう。おれも一時期だけど、そう思ったことがあった。だからそういう営業マンは相手の懐に飛び込んで相手を懐柔しようとする。弘樹もその一人だと思っている。おれにはできない芸当だ。確固とした自分を持ち、社会的な階段を上って行くという向上心に満ちており、そのように割り切る、言い方を変えれば、自分の世界をそこに限定することができれば、世界と関わりを深め、地に足の付いた生活にもなって行くんだ。おれはそういうことができる弘樹を尊敬しているよ。」

「そうか。そう思ってくれているのか。……こうして落ち着いて酒を飲むのも久しぶりのような気がするよ。これからもよろしく頼むよ、友哉。おれの力になってくれ。」

「二人ともいいお友達なのね。仲がいいってすてきなことだと思うわ。」

と言って、有美子は仲根と友哉の顔をかわるがわる見つめてから、残していたショートケーキを小さく切ってつまみ、ウイスキーを口にした。そうして三時間ほど三人で昔話を肴に飲んでいたが、佳奈を一人にしてきたことが気になり出して、友哉は上機嫌でよろめきながら帰って行った。



 翌週の月曜日、早めに出社して松木の席に行って「部長、ご返事したいと思います。」と言うと、松木は新聞をばさりと畳んで、「ここではなんだから、向こうの部屋に行こうか。」と言うなり、足早に応接室に入った。友哉は椅子に座るなり、やにわに切り出した。

「私なりにじっくり考えてみたのですが、申し訳ありませんが、同僚の仲根君と一緒にやらせていただけないでしょうか。」

「えっ? 仲根君と。……がっかりさせるね、君は。それが君が出した答えなのかね。それでいいのかね。僕を怒らせると、君はこの会社にいられなくなるが、それでもいいのかね。社員一人の首を飛ばすくらいは僕には造作もないことなんだよ。はっきり言おう。仲根君たちのアイデアは成功しないと思うよ。今時パスタじゃ。製法が違うと言ってもゆで方が難しいから、すぐに麺が伸びちゃうし、定着しないのは目に見えている。僕は君の将来のことも考えて言っているんだよ。もう一度考え直してきなさい。今から代わりを探すのは時間的にも難しいんだよ。返事は僕の携帯にしてくれ。番号は……これだ。あと一日待とう。二日は待てないから、返事は必ず明日中にしてくれ。」

 友哉は差し出された紙切れを丁寧に畳んで、名刺入れに入れてからこう伝えた。

「わかりました。それではもう一日考えて来ますが、部長の気に入るようなお返事ができるかどうかわかりません。それでもよろしいでしょうか。」

 松木の恫喝は友哉を委縮させるすごみがあったが、仮にもいったん断ったからには、返事を変えるのは人のすることではなかった。松木はそれには答えず、むっとした顔付で友哉を見つめた。友哉は顔を伏せ、頭を下げて応接室を出た。


 友哉は仲根に相談に行こうと階が異なる輸出入部に出向いたが、仲根は外出しており社内にはいなかった。仲根の携帯に電話を入れてみると、仲根は大阪に出張しており、夕方には東京に戻ると言った。夕方七時に、以前よく通った池袋の居酒屋で待っていると言って電話を切った。

 佳奈に今日は遅くなると連絡してから、七時に指定された居酒屋に行くと、仲根はもう右手奥の席に着いてビールを飲んでいた。店員にビールと焼き鳥の盛り合わせを追加で注文しながら、仲根の向かいの席に着くなり、友哉は即座に切り出した。

「松木さんに断りの返事をしたんだが、僕を怒らせるとこの会社にいられなくなると恫喝されたよ。社員の一人や二人、首を飛ばすのは朝飯前なんだそうだ。」

「いいじゃないか。どうせ二人ともいなくなるんだし。成功したら、お前だって役員になれるし、役員になったら、また会社に戻って来られる。そうしたら見返してやれる。」

「そんなにうまくいくかなあ。」

「いくよ。おれだって失敗して、有美子の尻に敷かれて暮らすなんて嫌だからな。有美子の父親まで担ぎ出したんだからな、失敗なんてできない。それにおれのプランは絶対成功する。おれはそう確信してるんだ。お前もこうと決めたんだから、腹をくくらなくちゃな。今からびびってたんじゃあ、しくじるぞ。しっかりしてくれよ。……しかし、ここはしばらくぶりで来たけど、焼き鳥が実にうまいな。そうだ、もつ煮込みも頼もう。」

 仲根はそう言いながら、快活に話し、よく食べ、よく笑った。心に支えていたものが取れたようで、豪放磊落な一面がまた表に出て来ていた。そうした仲根の様子を見ると、友哉の一抹の不安もふっつりと消えていった。おれは一人ではない、おれには仲間がいる、そう思うと安心もできた。


 翌日のお昼休みに会社の近くの公園に行き、松木の携帯に電話を入れ、

「松木部長、申し訳ありません。私はやはり仲根君のチームに参加することに決めました。申し訳ありません。」

と声を小さくして話すと、松木は「わかった。」と静かな口調で言い、その日はそれきり何事もなく過ぎていった。


 その日帰宅すると、家の窓に明かりがついておらず、ドアを開けると部屋の中は暗くしんと静まり返っていて、佳奈の姿はどこにも見えなかった。ソファーの上に料理雑誌がグラタンのページを開いたまま投げだされてあったところを見ると、どこかに買い物にでも出かけたのだろうか。テレビをつけてニュースを聞きながら三十分ほど待ったが佳奈は帰って来ない。心配になって携帯に電話を入れてみると、着信音が鳴るばかりで応答はなかった。ややあってカチっという音とともに通話が切れた。佳奈が無事でいることだけはわかった。それからLⅠNEに「今どこにいるの?」と打ち込んだが三十分経っても既読はつかなかった。もしかしたらヨースケが来て佳奈をどこかに連れて行ったのかもしれない。だから電話にも出られないのではないだろうか。佳奈を探しに行こうとしたが、佳奈が住んでいる所沢のアパートだけではなく自宅の電話番号や住所も友哉は知らなかった。どこを探したらいいのか見当もつかず、悶々として一夜を過ごした。結局その日佳奈は帰って来なかった。


翌日休暇を取って佳奈を探しに出かけることにした。

所沢駅付近の不動産屋を四、五軒当たって佳奈のアパートを尋ねてみたが、どこも胡散くさい目つきで友哉を見るばかりで、台帳に当たってくれたもののアパートは見つからなかった。あきらめかけたところ、六軒目でようやく佳奈のアパートが見つかった。佳奈のアパートは所沢駅東口の東新井町にあった。友哉のマンションがある駅西口の寿町からは、佳奈が言った通り歩いて三十分ほどの距離である。教えてもらった住所に向かい、築年数が相当経っていそうな古いアパートの二階の左手奥にある角部屋に行くと、鍵が掛かっていた。不動産屋に教えてもらっていた大家に電話を入れて、自分が佳奈の婚約者であり、しばらく音信不通のため様子を見に来たと説明すると、すぐ近くの家から出て来た四十がらみのでっぷりとした大家は、怪訝そうな顔をしながらもすぐに鍵を開けてくれた。1LⅮKの部屋に佳奈がいないことを確認すると安心したように大家は自宅に戻って行った。

部屋に上がると、古い家屋に独特なかび臭い匂いがした。この部屋に一人で住んでいたのか、と部屋の中の数少ない家具を見ながら思った。衣類掛けに佳奈の白無地のTシャツが吊るされている。台所に置かれていた小さな冷蔵庫の中には牛乳パックとコーラのペットボトルが1本だけ置かれていた。ふと、「あたし、飲物がないとパン食べられないんだ。」と言った佳奈の言葉が思い出された。部屋の中のあちこちから佳奈の匂いがする。その匂いを確かめながら、一時間おきに電話を入れ、LⅠNEもしてみたが応答はなかった。友哉は念のために明かりを消したまま夜十時ごろまで待ったが、その日も佳奈は帰って来そうになかった。友哉は明日のこともあり帰宅することにして、「今どこにいるの? 心配しています。帰ったらすぐに連絡をください。」と書置きを残して鍵を掛けずに帰って行った。


その翌日も仕事から帰って部屋に佳奈がいないことを確かめるとまっすぐ佳奈のアパートに向かい、書置きがそのまま残されていることを確かめたところで、その日はLⅠNEに「何かあったのなら至急連絡をして。状況がつかめないので困っています。今日も佳奈のアパートに来ています。」と書いて明かりをつけたまま夜十時まで待って帰宅することにした。何日も鍵を掛けないままで大丈夫だろうかと思ったが、鍵がないのでは致し方なかった。心配しながら帰りを待っているのは気が重く苦痛で、時間が経つのがことのほか遅く感じられ、部屋を出たとたんにある種の開放感さえ味わった。途中でラーメンをすすりビールを一本飲んで味気ない夕食を済ませると、LⅠNEがいつまでたっても既読にならないことに気をもみながら、佳奈に何かあったと胸を潰して帰宅した。日が経つにつれ心配が募り、じりじりとした思いを抱きながら眠れぬ夜を過ごした。


その翌日も前日と同じように帰宅してから佳奈のアパートに向かい、「とても心配しています。返事をください。アパートで待っています。」とLⅠNEに入れた後、夜十時まで待って帰宅した。心配が募るばかりでその夜は何も食べる気がせず、家に帰って途中のコンビニで買ったウイスキーをさんざん飲んで目を回しながら毛布にくるまってソファーの上に寝転んだ。


その翌日も、社用で休日出勤をして帰宅してから佳奈のアパートに向かい、今日戻らなかったら警察に捜索願を出すほうがいいのかもしれないと決めてアパートに入り、「今どこにいるの? 何があったのか話してください、力になるから。」とLⅠNEに入れて明かりをつけたまま待っていると、夜九時十分を過ぎて携帯に着信音がして、急いで携帯のLⅠNEを見たとたんにメッセージが踊るように続けざまに既読になり、やっとのことで佳奈の無事が確認できた。既読時間は二十一時三分であった。友哉は腰が抜けるような安堵感を覚え、立っていられず、椅子に座り込んだ。呼吸を乱しながら、受信メールを見ると「今から帰ります。今川越。ごめんなさい。」というメッセージが目に飛び込んだ。友哉は「わかった、アパートで待ってます。無事でよかった。」と返信して佳奈の帰りを待った。

佳奈が帰って来たのは午後十時を少し過ぎたころだった。五日ぶりに会った佳奈は疲れが見え、髪の毛がぱさついていた。佳奈は友哉の顔を見ると下を向き、玄関先で棒立ちになった。冷気が足元で渦を巻いている。その渦をかき混ぜるように佳奈の肩をつかんで、早く中に入り、椅子に座るように促すと、佳奈は言われるままにテーブルの椅子に腰掛け、テーブルに肘を突いて両手で顔を覆った。

「それで、いったい今までどこで何をしていたの?」

「あたし、どうしていいかわかんない。……あなたと一緒にいたいんだけど、あなたを傷つけるのはもっと嫌なの。」

 佳奈は顔を上げて哀願するようなまなざしで友哉の顔を見つめながら、ぼそりとくぐもるような声でつぶやいた。友哉が佳奈の手を握ると佳奈はその手を強く握り返して、友哉に抱きついた。

「よかった。また会えて。もう会えないのかなって暗い気持ちになっちゃった。……迎えに来てくれたのね。ありがとう。」

「佳奈、帰ろう。おなかも空いたし、コンビニで食べるものを買ってうちに帰ろう。」

 友哉がそう言うと佳奈はこくんとうなずき、二人同時に椅子から立ち上がり、何日かぶりに鍵を掛けて外に出た。近くのコンビニで食料を買い込んで駅前からタクシーに乗り込むと、佳奈が下を向きながら、

「洋介にマンションのことを教えなければよかった。」

とつぶやくように言った。

「ヨースケ君?」

「アッコがね、睡眠薬を大量に飲んで自殺を図ったの。それで五日間入院してたの。」

「自殺?」

「そう、それで、あたし四日間ずうっと早紀ちゃんのマンションにいたの。」

「早紀ちゃんのマンション。……佳奈、詳しいことは後で聞かせて。でも、一つだけ約束してほしいな。もうこんなことは二度としないって。必ず連絡するって。ずいぶん心配したんだよ。」

「ごめんなさい。目が充血してるわ。……ごめん。怒らないでね。」

「怒ってなんかいないよ。でも、この五日間はずいぶん心配したし、ずいぶん長く感じたよ。それはわかってほしい。」

 佳奈はそう聞くなり友哉の手をしっかり握り緊めた。

 

 帰宅すると、早速にレジ袋を開いてサンドイッチとおにぎりと揚げ鶏を取り出して食べ、友哉はビールを飲みながら佳奈が話し出すのを待っていたが、なかなか話し出さないので、こちらから切り出すことにした。

「それで、どうしてアッコは睡眠薬を飲んで自殺を図ったの?」

「……あの日の午後、そうね、火曜日のことよ。早紀ちゃんからLⅠNEが来て、アッコが睡眠薬を飲んで自殺を図ったっていう連絡が入ったの。アッコの意識がなくなっていたところに、偶然早紀ちゃんがアッコを訪ねて来て、床に倒れていたアッコを見つけて、救急車を呼んだら川越近くの大きな病院に運び込まれたって言うの。それであわててその病院に向かったの。病院に着いたのはお昼ごろだったわ。幸い睡眠薬の量が少なくて大事には至らず、胃を洗浄して、三日ほど入院して退院したのよ。……なんでそんなことをしたかって言うと、その日から一週間ほど前、洋介が誰かから顔が変形するほどひどく殴られて、アッコと早紀ちゃんの前に現れたんだって。『これで悪い仲間と縁が切れる』、洋介はそう言ってたそうよ。アッコは洋介にあこがれているって言うか、洋介に恋してたから、洋介のことをひどく心配して、洋介の世話を焼こうといろいろと努力したんだけど、そんなことがあっても洋介がアッコを頼ろうとしないのをひどく気に病んで、ずいぶん気落ちしちゃったんだよね、自分のふがいなさをずいぶん責め立てていたって早紀ちゃんが教えてくれたわ。アッコはそんな話あたしにはしたことないんだけど、早紀ちゃんにはあれやこれや相談してたのよ。早紀ちゃんが言うには、不良の仲間っていうのは、質が悪い上にしつこくってさ、いつもつるんでいると暴力が幅を利かせるようになって、そこで頭角を現すには、腕力が強くないとのし上がっていかないらしいの。そんな話をしてくれた後で、『あたし、洋介とはもう会わないようにしようと思う。怖いのよ。』って早紀ちゃんが言うんだ。入院当日アッコの面会が終わって、もうこんなことは二度としないでねって念を押してから、その日そのまま早紀ちゃんのマンションに行って二人で話し込んだのよ。……あたしさあ、そういうことはうすうす気づいていたの。でも、こんな暴力沙汰の世界があることなどあなたは知らないなって思って、あなたをこんな世界に引きずり込んじゃいけない、そんなことをするのは間違ってると思って、それであなたと別れようと思ったの。それで何だか心細いし、早紀ちゃんのマンションに泊まり込んでアッコの面会に行ってたってわけ。あたしね、あなたのメールは何度もチェックしてたんだけど、既読がつかないようにして、会いたいのを我慢してたんだけど、今日アッコが退院した後、どうしてもまた会いたくなって。気持ちを抑えることができなくなって……ごめんね。」

 そう言うと佳奈は両手で顔を覆って大粒の涙を流して声を立てて泣き始めた。緊張が解けたような大らかな泣き方であった。

「佳奈、いいんだよ。帰ってきてくれてよかった。おれも佳奈がいないとだめなんだなってことがよくわかったよ。もうこんなまねは二度とするなよ。」

 友哉が佳奈の手を握ってそう言うと、佳奈は友哉の肩に顔をうずめてわんわんと泣き続けた。友哉が佳奈の頭を撫でさすりながら、

「佳奈、今日は金曜日だ。何かおいしいものを作ってくれない?」

と言うと、佳奈は顔を上げて涙を人差し指の背で拭いながら、笑顔を作ってうんとうなずき、台所に立って冷蔵庫を開け、中に食材らしいものが入っていないのを確かめると、弾んだ明るい声で言った。

「明日の日曜日に買い物に行かない? 中華が食べたいわ。かに玉なんてどう? 酸辣湯と合うって雑誌に書いてあったわ。」

「かに玉と酸辣湯か。会社の同僚の披露宴で食べたことがある。いいね、豪華だね。」

 心配の種が消えると、いつしか声が弾み、また和気が戻って来た。友哉は山を越え谷を渡って二人の関係が深まっていくのを感じ、佳奈がなくてはならぬ人のように思えて、いっそう愛おしく大切に思えた。佳奈が冷蔵庫に残っていた葉野菜と卵を使ってインスタントラーメンに添えたどんぶりを二つテーブルに乗せると、特製ラーメンのほくほくとした湯気に心も温まるようであった。



      八



 翌週の月曜日に、会社で事務を執っていると家具や寝具を扱う国内商品部一課の山口主任が産業交易センターの担当を引き継ぐことになったと挨拶にやって来た。何のことかわからず、戸惑っていると、松木に山口ともども呼ばれた。

「竹内君、産業交易センターでの輸入雑貨フェアなんだが、君にははずれてもらうことにした。一課の山口主任が代わりに担当するから、業務を引き継いでくれ。」

「なぜ私が外されるのでしょうか。」

「納得がいかないと言いたそうだね。この間のシステムキッチンの件で、クライアントから私のところにいろいろとクレームが入って来ているんだよ。もっと説明しなきゃならんかね。竹内君、いいかね。これはね、社命なんだよ。」

「社命? ……承知しました。」

 ここは引き下がるしかなかった。山口は、

「引継ぎはいつだと都合がつきますか。」

と事務的に尋ね、「今日の午後の二時ではどうですか。」とあいまいに返事をして別れた。


 お昼休みに近所の蕎麦屋で天ぷらそばを食べていると、金子課長がやって来て、「竹内君、相席していい?」と聞いてきたので「もちろんです。」と答えると、金子は友哉の向かいの席に座って顔をしかめながら話し出した。

「竹内君、君、松木部長と何かあったのか。」

「えっ、別に何もないと思うんですけど。何か悪いうわさでも立っているんですか、課長。」

「松木さんが、君が担当しているシステムキッチンの納入に関連して、クライアントから立て続けに六件クレームが直接松木さんの元に届いたと言うんだよ。納期に間に合わなかったとか、搬入の台数が不足していたとか、商品の型番が違っていたので寸法が合わなかったとか、いろいろあったそうだ。だから、君を担当から外せと言うんだよ。僕は、今までこんなことは一度もなかったから、変だなと思って、松木さんが席を外したところで、君も外出していたし、クライアントに電話を入れて僕からもお詫びしようとしたんだよ。そうすると、商品の型番違いはあったものの、これはね、よくあることだから、どうでもいいとは言わないまでも、目をつぶることにして、納期に間に合わないとか、搬入の台数が足りないとかはなかったと言うんだよ。変だよね。竹内君、君、松木部長と何かやりあったんじゃないの? 君は今までこんな単純なミスは一度もなかったし、だから何か変だなって、いらぬおせっかいだったんだが。……竹内君、これは僕からの忠告だが、松木さんは執念深いから、何かあったんならさっさと謝ったほうがいいと思うよ。そうじゃないと会社にいづらくなるぞ。彼の機嫌を損ねて社外に飛ばされた人間はたくさんいるんだからね。あっ、それから、これは少々言いにくいんだけれども、今後システムキッチンは浅井君に担当してもらいなさいと、松木さんからの指示なんだ。君には新たに給湯器を担当してもらいたい。担当替えの発表は週明けになる。給湯器は現在、新人の越川君が担当しているけれども、君に手伝ってもらうようにとのことだった。」

金子はそう言うと、注文した山菜そばを掻き込み、自分の分の勘定を払って出て行った。藪から棒の業務命令だった。勤め人である以上、否と言うことは許されず、従うしかない。給湯器はこれまで担当したことがなかったので、一から始めなければならない。どこから手を付ければいいのかさえわからなかった。友哉は頭を抱えた。どうしてこんなことになったのか。思い当たる節は一つしかない。これは松木が実力行使に出たという合図だということだ。手をこまねいてはいられない。だが、一介の平社員が組織の部長に対して何ができるだろうか。嫌がらせを止める手立てなどないに等しい。ともかくと仲根の携帯に連絡を入れてみたが、あいにく仲根は不在のようだった。いや、やめておこう、このまましばらく様子を見ることにしよう、仲根にもこればかりはどうしようもないではないか。右往左往するのはかえって混乱の元であり、傷を広げることにもなりかねない、そう考えて、友哉は仲根に連絡を入れるのもやめることにした。


 その日の午後に山口と業務の引継ぎを行い、不快な思いをぶら下げて帰宅したところに、仲根から携帯に連絡が入った。どこかの街並みを歩いているらしく、雑踏の音が聞こえて来た。

「友哉、例の件なんだが、臨時役員会が今日開かれて、おれのプロジェクトは認められたが、一つだけ、認められなかったものがある。お前を外せと言うんだ。鏑木専務が反対したらしい。だけど、おれから内密に社長に頼んでおくから、心配するな。おれにはお前が必要だ。友哉、恩に着てくれよ。」

「弘樹、松木部長のプロジェクトも認められたのか?」

「ああ、認められた。鏑木専務の肝煎りということだったらしいぞ。プロジェクトは来年早々始動することになった。今から少しずつ準備を始めないとな。」

そう言って仲根は電話を切った。来年から始動するということは、松木の嫌がらせが少なくともあと一か月は続くということだが、一か月なら耐えられるだろうと友哉は少しだけほっとしていた。


 その週の土曜日、晴天ということもあって、友哉は佳奈と連れ立って自宅からほど近いところにある航空公園に出かけた。航空公園と言っても航空発祥記念館の一階に小型機が十数機と、屋外に展示されているのは国産旅客機YS-十一と輸送機C-四十六のいずれも中型機の二種類だけなのだが、敷地は五十ヘクタールもあり、かなり歩き出のある広い公園である。今日は陽が温かく、穏やかで、風が少し冷たく感じられるものの、園内の木々が、秋の深まりを感じさせる。公園入口にある地図をカメラに収め、地図を頼りに道幅七メートル近くありそうな片側に並んだ丈高い欅並木の広い通路を歩き、園内にある放送塔とモニュメントを抜けて、右手に折れ、池のある場所に出た。今日は小春日和の土曜日とあってそこかしこに人が出ていて、芝生の上にはテントを張る者もいた。紅葉は十二月の初旬が盛りらしいのだが、十一月の中旬を迎えて今が盛りなのではないかと見えるほどあでやかだった。紅葉の立木群の近くに楓の紅葉も見られ、銀杏の黄葉は今始まったばかりで黄緑色に染まっており、地面に紅葉と黄緑の葉が敷き詰められている。

 水路に沿って歩き、池の近くの休憩広場で休んでいた時だった。「よおっ。」と言って楓の木の陰から洋介が現れた。いつもと同じ焦げ茶色の革ジャンとジーンズという服装だが、今日は少し暖かいせいで、前を開けて、その下に濃紺の厚地のTシャツを着込んでいる。まぶしいのだろうか目を少し細めていた。佳奈があきれたという声で洋介に向かって声を掛けた。洋介は微笑みを浮かべていて、怒気を含んだ様子は見られず、佳奈の声にも緊張している様子はなかった。

「また跡をつけてきたの? 監視カメラでもつけてるの?」

「それがたまたまなんだよ。お前の家にあいさつに行こうと思ったらお前たちが出てきたから、跡をつけて来たのさ。監視なんてするはずもないだろ。偶然だよ、偶然。だけど、佳奈も携帯の位置情報アプリを削除したほうがいいんじゃないのか。」

「忘れてたよ、それか。後でアプリを削除しておくわ。」

 佳奈がそう言うと、洋介の隣に木陰から出てきたやせた上背のある一人の女が立った。「アッコ。」と佳奈がつぶやいた。どこかで見かけた顔だと思ったが、あの喫茶店で会った女の子だった。この子がアッコか。自殺騒ぎを起こした後、ヨースケ君と仲直りができたのだろうか。アッコは誇らしげな笑顔を見せていた。アッコが洋介の隣に立つと、洋介がさらにこちらに近づき、佳奈に「お前とはサヨナラだ。」と言った。

「ごめんね、佳奈。こういうことになっちゃった。」

 明るいグレーのコートを羽織ったアッコが、長い髪をなびかせ、体を丸めて洋介の腕にぶら下がるようにしながら、笑顔を作って明るい声で言った。そのあとを引き取って洋介が続けた。

「そういうわけで佳奈はあんたにあげるよ。もう用済みだから。」

と言って友哉に近づくと、突然友哉の横顔を殴った。友哉はベンチから転げ落ち、地面に倒れ込んだ。

「何すんのよ、洋介。」

 佳奈がすぐに友哉のそばに駆け寄り、地面に片膝をついて友哉の肩を抱きながら叫んだ。近くにいた人がある者は立ち上がり、ある者は腰掛けたまま二人の様子を伺うように見始めると、何事が起こったのだと人が集まって来て様子をうかがっている。せっかくの安穏なひと時を邪魔する闖入者は排除しなければならない。そうした群衆の無言の意志が圧力となって伝わって来る。友哉は横顔を片手で押さえながら、洋介を見つめた。洋介は少し後ずさりして一本の細い木のそばに立つと、アッコが近づき、制止するかのように洋介の腰に手を回した。洋介は驚いた顔をして見上げている友哉を見下ろしながら、にっこり微笑むと、

「これでおあいこだよ。おれは殴られたままにしておいたことなど今まで一度もないんだ。借りは返すのがおれの主義なんだ。ほんとは倍返しだけど、今日は連れがいるし、あんたも佳奈の前でかっこ悪い姿を見せたくないだろうし、だからこれくらいにしておくよ。よかったな。あんたがいい人のように思えたからこれぐらいで済んだんだぞ。もしも佳奈を粗末にするようなことがあったら、今度は仲間を大勢連れて来て袋叩きにするからな。それにしても、あんた隙だらけだし、けんかしたことないんだろ? けんかしないほうがいいよ。向いてないよ。最後に忠告しとく。じゃあ、佳奈のことよろしくな。」

と言って、手を振って、人垣を避けるようにして離れて行った。佳奈が友哉の横腹を抱き抱えて起き上がるのを手伝うと、とたんに人垣が崩れ、思い思いの方向に散って行った。

「かっこ悪いとこ見せちゃったな。ざまあないよな。」

「変な見栄張らないほうがいいわ。あいつ一匹狼だけど、けんかが強いのでこの辺じゃ有名なのよ。洋介が一声かけると仲間が大勢集まってくると言ったのは本当よ。でも、アッコがついてるし、もう私たちの前には姿を見せないと思う。よかった。」

 佳奈がほっとした様子で友哉に身を寄せると、友哉も佳奈の肩をしっかり抱いたままベンチに腰掛けた。椅子の冷たさが服越しに伝わってくる。すると洋介に殴られた興奮も次第に冷めて行き、すぐに落ち着きを取り戻した。佳奈はいつの間にか友哉の身近にいてともに日常を過ごす仲になっている。この一週間ほどの間に佳奈と関係も持っていた。佳奈は瞼をぎゅっと閉じて友哉を受け入れた。二人の関係がたがが外れたように急激に縮まり、絡み合い、なじんでいった。佳奈が体を寄せ、友哉の腰に手を回してじっとしている。友哉はこの落ち着きに身を委ねていることが心地よかった。松木との嫌な思いも今日は忘れていられた。

「なんか少し寒くなってきたし、あたしたちも帰ろうよ。まだ朝ごはん食べていないし、どこかで食事がしたい。今日はラーメンが食べたいわ。」

 その言葉を合図に二人は帰途についた。多くの人が思い思いの趣向を凝らして休日を穏やかに楽しく過ごしている。この平安は一帯に伝播して、破る者はここには見られない。午前中に帰る者はほとんど見られず、見知らぬ大勢の他人が歩きながら、走りながら、てんでに二人のそばを通り過ぎて行った。

 その日、佳奈は携帯の位置情報アプリを削除した後、友哉と相談して来週の土曜日にアパートを引き払うことにした。佳奈にとっては洋介との訣別であった。



 翌週の月曜日、松木同席のもとで、課の会議が開かれ、職務の編成替えが知らされた。会議中、松木の詰るかのような視線を浴びたが、友哉はそれに気づかないふりをして無視した。会議終了後、友哉はシステムキッチンの業務を浅井に引き継ぐとともに、越川のところに行って、給湯器の業務内容についての細かい説明を受けた。午後給湯器のメーカーと販売価格の値上げについて交渉をすることになっていたので、担当者との顔つなぎもあり、友哉はそれにも同席することになった。

 

 それから二日後の水曜日、定例の役員会が開かれ、仲根からその結果を知らせる一報が入った。

「困ったことになったよ。やはり、お前は会社に残すと言うんだ。ここは他の人間を引き連れて行ってくれと言うんだよ。女性が一人もいないのは不自然だから、輸出入部の水谷幸恵を連れて行けと言うんだ。彼女は有能な管理職タイプなんだが、戦力にはならないと言うと、事務に長けた人間は必ず必要になる、もう役員会で決まったことなので、従ってくれの一点張りなんだよ。困ってるんだ。おかしいじゃねえか。何かあったのか? 友哉、何か思い当たる節はないか?」

 仲根は本当に困ったらしく、喉を詰まらせながら、一気呵成にしゃべった。

「もしかしたら松木さんが腹いせというか、邪魔をしたのかもしれない。金子課長が言うには、松木部長は執念深いそうだ。」

「違う松木じゃない。松木ももう一つのプロジェクトに関わっている当事者だ。おれにはわかる。違う理由からなんだが、その理由がなんなのかがつかめないんだよ。」

 仲根は困惑しきった気持ちを声を荒げて表しながら、電話を切った。いつもの仲根らしくない狼狽ぶりである。仲根の予想が大きくはずれたということであわてているのだろうか。そうかもしれないと友哉は思った。仲根が直接社長から得ていた情報と違ったため、なぜなのか、という気持ちが強まったのではないだろうか。だが、友哉にとっては上層部の意向など、雲の上の話であった。


 その日の夜松木からも携帯に連絡が入った。

「本田社長と鏑木専務が君まで辞めさせると優秀な営業マンが一度に五人もいなくなることになって会社の損失が大きすぎるから、君は残せと言うんだ。僕は大いに反対したんだが、社長がどうしても僕に引き下がれと言うんだよ。運が良かったね。だけど、君は仲根君たちのチームには加われないよ。君は会社に残るんだ。だけどね、君は僕の面子をすっかりつぶしたんだから、このまま見過ごすなんて僕にはできないから、覚悟しといてくれ。それを回避したいのなら、僕が会社を離れる前に、君は僕に詫びを入れろ。僕に申し訳ありませんでしたと言って心底詫びるんだ。そうしたら考え直してやってもいいよ。僕も鬼じゃないからね。」

 そう言うと松木は電話を切った。友哉は松木に詫びを入れることなど何一つしていない。松木が独り相撲を取っているだけである。だが、今後のこともあるし、佳奈もいるし、友哉は詫びるだけなら、考えてもいいと思った。組織内のもめごとは、上司からの仕打ちの場合は抗いようがないのだ。管理職と社員が対話を行って目標を立て、その到達度によって評価と待遇を決める新人事制度にあっても、組織上、上司は部下の反抗を許さない絶対の権限を握っている。そうだ、こうしたことは早いほうがいい。鉄は熱いうちに打て、なのだ。明日朝一番に松木のところに行って詫びを入れてこよう。「まことに申し訳ございませんでした。」それだけ言えば済むことではないか。理不尽ではあるが、謝るだけならたいしたことではない、そうすることで失うものは何もない、逆にそうしないことで失うものは今後たくさん出てくるかもしれないのだ、ここは先手を取ろう、友哉はそう思った。



 休日明けの金曜日、出社するとすぐに松木の席に行って松木に詫びを入れた。すでに部内のほとんどの社員が着席していた。販売会社という性格上、在宅勤務をする者はほとんどいなかった。

「松木部長、このたびの件につきまして誠に申し訳ありませんでした。お詫び申し上げます。」

「このたびの件、とはどの件のことだね?」

「いえ、納入した商品の型番が違っていたり、納入時期が遅れたりとかのクレームが直接部長の元に入ったと伺っております。ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。」

「何だ、その言い草は。そういうことを含めて、君はね、僕のせっかくの好意を踏みにじったんだよ。そんなことをしてくれた人間は後にも先にも君だけだよ。君ね、好意を無にされたらね、誰だって怒るんだよ。わからないのかね。……ああ、なんと腹立たしい。君はね、僕のプライドをさんざんに踏みにじったんだよ。君はそれで僕に謝ったつもりなのかね。詫びるということはそういうことじゃないだろう。子供じゃあるまいし、きちんと形を作って、気持ちを込めないといけないだろう。僕はね、何も君に土下座しろと言ってるんじゃないんだよ。ほんとはそれくらいしてもらいたいんだが、僕の体裁もあるしねえ。……ああ、だめだめ、やり直し。もう一回初めから、部内のみんなに聞こえるように、大きな声で僕に謝りなさい。それが謝るってことだよ。ここまで言わなきゃわかんないのかね、君は。わりと鈍感なんだね。竹内、席に戻って初めからやり直せ。」

 友哉は松木に怒鳴られて首をすくめて自席に戻り、心臓が高鳴るのをこらえながら、腹に深くゆっくりと息を吸い込んで、怒りを鎮めた。一、二、三と数えながら、怒ってはならない、冷静になるのだ。怒りに任せていては正しい判断は下せないではないか、そう自分に言い聞かせた。「せっかくの好意」と松木は言った。松木は友哉が松木のチームに加わるのを拒否したことを責めている。そこが始まりだった。友哉はいったん目を閉じ気息を整えてまわりを見回すと、部内は妙な静寂に包まれ、誰も何も見なかったふりをしている。下を向いて、顔を上げるものは数人を除いていなかった。その数人さえ、驚いて様子をうかがいこそすれ、笑う者はいなかった。松木とは金輪際関わりを持ちたくない、そう思うと、人生で一回くらい恥をかいてもいいではないかと腹をくくり、すっくと立ち上がって、ゆっくりと、そして堂々と再び松木の席に向かった。

「松木部長、この度は私の不始末で部長に大変ご迷惑をおかけすることになり、誠に申し訳ございませんでした。どうかお許しください。また、部長のせっかくのご好意を無駄にしてしまったこと、お詫び申し上げます。何とぞお許しください。」

 友哉は自分でも驚くくらいの大声でこう言うと、深々と頭を下げ、不条理なことに対する謝罪のための謝罪をした。松木は、正面を向いていた体を横にし、足を投げ出して、手の甲を上にして下から上に小さく二、三度振った。あっちへ行けと言うのである。友哉はほっとしたが、それを表情には出さず、眉間にしわを寄せてもう一度、大声で「失礼します。」と言うなり、深々と頭を下げ、そのまま踵を返したが、席には戻らず、「外出して来る。」と隣席の緑屋に言い残して、部屋を出て行った。越川が心配そうな顔つきで友哉を見ている。後から、緑屋が走って友哉の後を追いかけて来た。社屋の玄関先で、緑屋がいつもの落ち着いた声で言った。

「竹内さん、ご立派でしたよ。すてきでした。みんなうすうす気づいているんです。松木部長と竹内さんの間で何かあったことを。松木部長苦虫を噛みつぶしたような顔をしていましたけど、いい気味です。女性の間では、人の気持ちが理解できる竹内さんのような人の下で働きたいってよくうわさしてるんですよ。あたしたちは竹内さんの味方ですから。」

と言うなりぺこりと頭を下げ、また戻って行った。緑屋は江里子と同期の同い年で、事務的な話しかしない女だとばかり思っていたが、好意を持たれていたようであった。社内に友人は一人もいないと思っていたが、おれに味方してくれる者がいた。そのことは意外な驚きではあったが、早くこの社屋を立ち去りたいという気持ちのほうが強く、「ありがとう。」とだけ礼を言って外に出た。松木の嫌がらせであるが、これは原因が明瞭なので対処しやすく、ここは忍の一字で耐えようと思った。


 友哉は西新宿の住友ビルの下で足を止め、ふとビルを見上げた。今日も快晴で、まぶしい青空の下に突き立つように建っている銀灰色のビルを眺めていると、ビルのてっぺんがきらきらと輝いている。友哉は圧倒されるようなめまいを覚えた。こうして大いなるものの前に立つと己の小ささがあぶり出されるように浮かび上がり、凌辱されたことによる怒りの感情がふっと消えて行くのを感じた。ビルは自分を否定するかのようなでんとした佇まいなのだが、反面大きく自分を包み込んでくれるような気もした。そう思うと、足元から温かい気が巡って行くようであった。ガラス窓に矮小化された自分が映っている。ある時、鏡に映る自分は自分ではないと思ったこともあったが、今はここに映る自分はまごうかたなき己である。確かにここに屹立するビルの圧倒的な存在感に比べ、なんと己の小さいことよ。だが、今日はその己を否定する気にはなれなかった。昂然とした気概に包まれ、おれは確かにここにいる、と感じられた。意識としての存在といった薄弱としたものではなく、仲根や佳奈とつながりのある錯綜した、複雑な糸が絡み合った自分こそが本物の自分だと思え、友哉は意を強くした。

「竹内さん。」

 ふと、背後から声が掛かった。振り返ると、壬生江里子だった。少し痩せたように見えたが、背中まで届く長い髪はつややかで、薄茶色のチェックの柄のスーツを清楚に着こなし相変わらずの色気であった。江里子は病気を患い一か月ほど入院していたといううわさだったが、一週間ほど前からまた出社し始めていた。

「何を見てたの? ビルのてっぺんに何か見えるの?」

「いや、なんでもないよ。ここの五十二階にいいレストランがあるんだけど、そこで食事でもしようかな、と考えていたところさ。」

「そう。リッチね。私外出して来ると言って出かけて来たから、その辺でお茶でもしていかない?」

「いいね、付き合うよ。」

 そう言って二人は住友ビルの地下一階にある喫茶室に入った。店の中央に空いている席を見つけてそこに座り、ウェイターにコーヒーを二つ注文するなり、江里子が尋ねた。

「松木部長と何かもめてるってうわさ聞いたわ。何があったのか聞いてもいい?」

「別に何もないよ。松木部長の好意を無にしたというのは本当のことなんだけど、それ以上のことは今は言えないんだ。説明しづらいことがあってね。この辺で勘弁してくれない? ところで、病気で入院したってうわさを聞いたけど、もう大丈夫なの?」

「ええ、急性糸球体腎炎というよくわからない病気にかかって、一か月ほど入院してたのよ。でも、もう大丈夫。すっかり元通りになって、元気になったわ。ところで竹内さん、今もあのマンションに住んでるの?」

「ああ同じマンションにいるよ。」

「独り?」

 江里子の挑むようなまなざしを感じながら、友哉は佳奈のことを打ち明けようと思った。

「いや、連れができた。」

「……そう。きっとすてきな方なんでしょうね。私は仲根さんと別れてから、今は誰とも結婚する気がなくなってしまったわ。このままおばあさんになるのを待つのは嫌だけどね。誰かいい人が拾ってくれないかなあ。だけど、誰でもいいっていう心境にはまだならないけどね。そこまで切羽詰まってるわけじゃないわ。」

 江里子は顔を上げてアハハとはじけたように笑ったが、友哉は一緒に笑う気にはなれなかった。江里子の笑い声から次第に力が抜けていった。

「どうして別れたの? 聞いてもいい?」

「有美子っていうお金持ちの女が現れて、そっちに乗り換えたのよ。で、それからけんか続きで、もう別れましょうって話になったの。でも、あたし後悔はしてないわ。あたしまだ二十八だし、きっといつか、もしかしたら近いうちにあたしのことを好きになってくれる男性が現れるって信じてるの。」

「江里子さんなら、大丈夫だよ。誰かいい男性がそのうちにきっと現れるよ。」

 江里子はそれには答えずややしばらく無言だった。江里子には江里子の時間が流れ、流れに棹さして葛藤し、他人との交錯した関係を築いては時には繕い時には壊し、そうして一人の世界になじんでいく。友哉は、今となっては江里子のそばにいて江里子の支えになってやることはできないとはっきり感じていた。江里子は孤独であった。江里子はウェイターが運んできたコーヒーを一口含んで飲み込んだ後、顔を上げて笑顔をこしらえながら静かに言った。

「そうね、ありがとう。竹内さんみたいないい人だといいわ。……あの日、喫茶店を出て行く時、竹内さん、あたしに『お大事に』って言ったのよ。覚えてる? あたしどういうことかわからなかったから、あたしなりに考えたの。あたしあのころから、体調が悪かったから、きっとそのことを言ったんだろうって思ったんだけど、当たってる?」

「まさか、そんな風には見えなかったよ。江里子さんに振られて気が動転してたんだ。ただの言い間違いだよ。気を悪くさせたんなら謝るよ。ごめん。」

「いいのよ、気にしないで。……でも、さっきはかっこよかったわよ。あたし用事があって三課にいたんだけど、松木部長少したじろいでいたわね。あの人表面はいい人ぶってるけど、すごい野心家なの。てっぺんに立たないと気が済まないってタイプの人なのよ。あの人、ある時あたしを口説きにかかったのよ。危うくホテルに引きずり込まれそうになったわ。だけど、あたしきっぱり断った。あんな男と関係なんて持ちたくないから、あたしには将来を誓った人がいますって、たんか切ってやったのよ。まあ、ほんとのようなうそのような話なんだけどね。そうしたら、しょうがねえなあ、って感じで帰してくれたわ。」

「そう、そんなことがあったんだ。だけど、そんな不倫関係になったら、かえって苦しんだだろうね。」

「そうね、あんな薄情な男とそんな関係にならなくてよかった。あいつと抜き差しならないドロドロした関係になるなんて、考えただけでもぞっとするわ。」

「そうだね。そこはよかったじゃないか。」

「そうね、よかったのはそこだけかもしれない。」

 友哉は江里子との会話が深まりを見せていかないことを感じていた。なぜだろう、久しぶりに言葉を交わしたというのに。ふと、江里子は後悔しているのかもしれないという気がした。だが何に対して後悔しているのかまではわからない。些細なことにさえ拘泥するところのない淡白な関係では、相手の心情や真情をつかむことはできないのだ。

 江里子とそれから小一時間ほど話していたが、

「あたし、用事を済ませてくる。じゃあ、竹内さん、頑張ってね。ファイト。」

と江里子は体をこごめて、両のこぶしを胸の前に置いてそう言うと、「ここは私が誘ったのだから。」と言って伝票を持って、二人分の勘定を済ませて店を出て行った。

 

 友哉は江里子と別れた後、新宿駅地下街にある蕎麦屋に入って温かいそばを食べ、産業交易センターの輸入雑貨フェアで商品を提供する目黒区にある村田商事に向かった。村田商事には十日ほど前に担当を外れることになったという連絡を入れてから何度か足を運び、担当者の各務とも二、三度打ち合わせを重ねていた。社屋の六階に回り、各務に「正式に担当が代わったご挨拶に伺いました。」と伝えると、各務は友哉を応接室に通し、ソファーに腰掛けるなり体を乗り出して言った。

「竹内さん、ちょうどいいところに来ていただきました。実は、ちょっと困っています。他の会社の人事異動ですから、何ともしようがないのですけど、竹内さんのあとを継いだ方、山口さんという方ですけど、いいかげんとまでは言いませんけど、打ち合わせの時間に遅れたり、当社が必要としている資料を見せていただけなかったり、こちらが提供した資料を飲んだ帰りにタクシーの中に置き忘れて紛失したり、こんなことあり得ない話ですよ。正直言って、山口さんには私どもの仕事相手として不信感があります。また竹内さんに復帰していただくことはできませんか。」

「申し訳ありませんが、それは難しいと思います。ですが、山口にはこの件は伝えます。まじめな男で、今まで不祥事など起こしたことはないと思うのですが。」

「それじゃあ、うちが軽く見られてるっていうことなんでしょうかね。うちとしましても、言いたくはありませんが、こういうことが続くとお付き合いをお断りするかもしれませんよ。しゃべり方も横柄ですし、この忙しいのに、同じ資料を二度も作成させるなど……、確かに当社は御社に比べて規模の小さな会社ですけれども、そのために、軽く見られているというよりも、見下されているのかもしれないと、……多少疑心暗鬼に陥ってしまいますよ。……すみません、愚痴をこぼしてしまいましたね。……ところで、これから私は産業交易センターさんに行って担当者の木田さんと打ち合わせをするんですが、一緒に行かれますか?」

「いや、私は別に用事がありますので、今日はこれで失礼させていただきます。」

各務にそう言い残して会社を出ると、友哉はやり切れない思いに歯噛みをした。自分ならもっとうまくやれるのにと友哉は思う。だが、組織の歯車から追い出された今の自分は無力で何もできない。山口と代わってやりたいが、自分の気持ちだけではどうにも手の打ちようがないもどかしさを感じていた。

 三時過ぎた頃、

「今日はクライアントとこのまま打ち合わせを続けるから、直帰します。」

と会社に電話を入れると、緑屋が出て、

「課長も外出中なのですが、五時前には戻って来ると思いますので、その旨伝えておきます。」

と言って電話を切った。友哉は憂鬱な思いを抱えて帰宅したが、佳奈の顔を見て銀鱈の煮つけを一切れ頬張ると少しだけ気も晴れた。初めて気が付いたことだが、実は佳奈は好奇心旺盛で、最近は和食にも手を出し始めていて、料理のレパートリーが徐々にだが増えて行った。


 明くる日、友哉は佳奈のアパートを引き払うために佳奈に同行した。階段を上がって二階の左手、西側の六畳一間とダイニングキッチンからなる部屋に入るとすぐに二人は片づけを始めた。カーテン類や遺書が入っていた机を含む小型の家具などは中身を処分して前もって頼んであった不用品回収業者に引き取ってもらい、小さなテレビや電子レンジ、洗濯機といった家電も買い取り業者に頼んで一括して買い取ってもらった。合計二万四千円になった。佳奈のTシャツなどの衣類や下着などが詰まった和箪笥一棹とハンガーラックは洋服を掛けたまま引っ越し業者に頼んで友哉のマンションに運んでもらい、遺書は中を見ずに破り捨てた。あの日は気づかなかったが、こうしてみると手狭な部屋に意外にも多くの家具調度があることに驚いた。独り身であっても、生活して行けば物は自然と増えて行く。


 二人は二時間ほど片づけをして、佳奈ががらんとなったアパートの中を感慨深げな面持ちで見回し、友哉は佳奈の隣に立って、佳奈と所帯を持ったらこのように家探しから始まるが、二人で暮らす住処は最低でも二LDKは欲しいなと思った。友哉には子供のころから閉所恐怖症気味なところがあった。大家に片づけが終わったことを連絡すると、大家がやって来て、部屋を一瞥しただけで検分も型通り終わった。

「ご両親には知らせなくていいの?」

 友哉がそう尋ねると、佳奈は寂しい笑顔を作りながら首を横に振った。このニ週間ほどの間に佳奈は自分の生い立ちについてもぼそぼそとした小さな声で断片的に友哉に伝えていた。

 佳奈の父親は大学で化学工学の教師をしていたが、佳奈が中学生のころに強度の高い耐震性を持つゴムを生産する会社の取締役に就任して、給料は良かった。父親は何かと言うと佳奈に干渉し、口癖のように勉強しろと言った。遊びが過ぎると平手で佳奈の頭を殴ったこともあった。そのためか佳奈の学校の成績はトップクラスであったが、大学入試に失敗し、干渉しすぎる父親の教育方針に反発して高校を卒業すると同時に家を飛び出して実家からほど近い今のアパートに移ったのだが、母親が娘を心配して、父親に内緒で、自分の高校での給料の大半と家計から捻出して仕送りを続けていた。佳奈は予備校に通うことになったが、予備校にはなじめず、アルバイトをして過ごしていた時、小山厚子と中垣洋介に出会い、洋介たちと付き合いを深めて行く間に洋介が佳奈のアパートに入り浸るようになり、いつしか深い仲になっていったのだった。佳奈には綾奈という名の高校生の妹がいて、この妹にだけは自分の近況を細かに知らせていた。妹は姉の行状を非難することは一切なく、いつも変わらず姉の味方であった。

「奈という字には唯一で永遠に続くもの、という意味があるらしいの。佳奈というのはいいことが永遠に続くという意味を含む名前だって、母親が言ってたわ。」

と、ある日佳奈は自分の名前の由来を説明した。友哉はそれを聞いて自分の名前にはどんな意味が込められているのだろうかと思い、ネットで調べてみると、友は仲間や親友、さらには道連れを表す言葉だとあった。哉は「始める」、また「初め」とあった。思い当たる節もあった。友哉はこれまで知らず知らずのうちに仲間や親友を求めてきた一面もあったように思った。だが仲根や佳奈を見ても、他人には他人の世界があり、独自に活動している。他人の世界は独自に活動しながら自分の世界を侵食し、時には破壊し、他人である自分に取り込もうとする。言いかえれば、他人は他人の世界を持つがために、他人の世界と自分の世界がおのずと衝突するのである。個人が単独で活動しているように見えて、内実は常に小さな世界と世界がぶつかり合い、関係を深めながら、時には関係を打ち壊しながらお互いの世界を拡大して行く。孤絶するということは極限の世界で、日常の世界では常に自分の世界と相手の世界が衝突し、転がりながら、変化してなじんでいくのである。そして新しい日常という世界が開けて行く。このことは友哉が佳奈と洋介を通して気づいたことであった。それにしても、と友哉は思う。「初め」とはどういうことなのだろうか。「初めが肝心」などと言うが、そういうことを言っているのだろうか。調べてみると、「始まり」、「おこり」と出てくる。始まりか、と友哉は思った。一つ一つの言葉の意味は理解できるのだが、それと自分がどのような関わりを持つのかはよく理解できなかった。結局のところ考えてみてもよくわからない。よく考えてもわからないことを考え続けてもかえって混乱を極めるだけではないか。そう思って友哉は途中で考えるのをやめた。

 アパートを無事に引き払った後、このまま帰っても食べるものが何もないからと、友哉の行きつけの食堂に立ち寄り、ビール一本と、立ち退きが無事完了したことを口実にして特別に熱燗を二本頼んで飲み、親子丼定食を食べて家路についた。食堂の娘は今日は姿を見せなかった。



 それから瞬く間に二週間近くが過ぎた。

 会社では給湯器販売の業務にも少しずつ慣れてきて、越川とも良好なチームワークを築け、落ち着きを見せ始めていた。そんな折り、仲根は友哉を池袋の例の居酒屋に呼び出し、三藤商事常務取締役野川との一件を詳しく説明した。それは次のような話だった。

 

 話は一か月ほど遡る十一月二十二日のことである。この日、常務の野川が仲根を常務室に呼び出し、プロジェクトの門出を祝って一杯やろうと言った。それは仲根が友哉に役員会での決定について友哉に電話を入れた後のことだった。

 その日の夕方七時ごろ、指定された神楽坂の老舗割烹を訪ねると、野川はすでに上着を脱ぎ、上座に着いていた。仲居が一人入ってきて、ビールを二本とグラスを二つ盆に載せて運んで来ると、すぐに下がって行った。卓袱台には突き出しが二つすでに用意されてあり、野川は仲根にビールを勧めながら、すぐに静かな口調で本題に入った。

「君のパスタについてのアイデアは我々も高く評価した。特にシェフズキッチンと提携して流通経路を確保したことが評価されたんだが、決め手になったのはね、君が事業計画書の最後に触れていたプラントベースフード、つまり植物由来の食事だったんだよ。これは将来性があるし、さすがの着眼点だったね。まあ、竹内君は君のチームには合流できなかったが、君の力なら、彼がいなくても立派にやって行けるだろう。このプロジェクトはね、ある意味属人性の高いプロジェクトでね、会社は君の能力と人柄を高く評価しているんだよ。つまりだね、会社が君を社長に選んだんだ。自信を持ちなさい。成功を期待しているよ、仲根君。」

「ありがとうございます。竹内君がチームの一員に選ばれなかったのは残念でしたが、会社の意向であればやむを得ません。私としても皆さんのご期待に沿えるよう頑張る所存です。」

「その意気だよ、仲根君。……ところで、君と竹内君は同期だったね。今回竹内君はシステムキッチンの大型商談を一人でまとめて来てね、会社に大きく貢献してくれた。その前にもシステムキッチンの大量納入案件に成功するなど、彼の業績は大いに評価できるところだ。その竹内君が、松木部長ともめているという報告が我々の耳に届いたんだよ。本田さんがいたく心配してね。仲根君、単刀直入に聞くが、なぜ二人はもめているんだね? 君、この件について何か聞いていないかね。 君には竹内君もいろいろと相談するそうじゃないか。」

「実は、竹内君は松木さんからもチームに加わるよう要請があったのですが、結局私のチームに加わることになって、そのことを松木さんに言ったら、松木さんはたいへん怒って、おれの話を断るなら会社にいられなくするぞ、と竹内君を脅したと言うんです。」

「ほう、松木君がそんな脅しをね。なるほど、それでどうなったと言うんだね。」

「いえ、その後のことは何も聞いていませんが、うわさだと松木さんは執念深い性質なので、竹内君はパワハラを受けているんじゃないかと思われます。」

「そう、パワハラね、それはいかんねえ。今時パワハラはダメだよ。パワハラが事実だとすれば懲戒ものだよ。わかった。松木部長には僕からもそれとなく言っておくが、その前に少し調べてみないとね。……そうだね、この際だから、竹内君はどこかに一時避難させることを考えないといけないのかもしれないね。……まあ、これは余談だから今の言葉は忘れてくれ。」

 ふと、仲根は閉められているふすまの奥に誰かいるのではないかという気がしたが、物音はせず、人の気配もしないように思えたから、すぐに気に留めなくなった。

「さっ、それじゃあ料理を運んでもらおう。ここの会席料理は特別なんだ。特にすっぽん料理は絶品だよ。せっかくのお祝いだから、今日は遠慮せず、食べて飲んで行きなさい。」

 このような話を交わしながら、二時間ほど料理に舌鼓を打った後、仲根は野川を置いて料亭を出ると、タクシーを拾って帰途についた。

 

仲根は青梅街道を走る車窓から流れゆく都会のビルの明かりを見るとはなしに見つめながら、友哉を仲間に入れることをあきらめた。同時に会社が友哉の能力を高く評価していることに驚いてもいた。もしかしたら会社の中での友哉の評価はおれよりも高いのかもしれない、とも思えた。友哉をライバルとして認めざるを得ないのかもしれない。ライバルは、力をつけ肥大化する前に蹴落とさなければならない。これは鉄則である。しかし、なぜここに来て会社は友哉に目を付けたのだろうか。慧眼の持ち主である野川常務のことだから、きっと裏がある。調べてみる必要がある。そんなことを考えながらその日はまっすぐ家路についた。


 それから一週間近く経った日のことである。西新宿の居酒屋でプロジェクトチームの仲間と飲んでいると、ぶらりと平取締役の高木が入ってきて、「おや奇遇だね」と言いながら相席した。初めは他愛もない話をしていたのだが、酒が進むにつれて高木は饒舌になった。

「仲根君に川岸君、足立君、そして紅一点の君は水谷君だったね、君たちも本田さんの子飼いの郎党なんだってね。子飼い、昔で言う配下、手下(てか)とも言うね、現代では部下と言うってね。まあ、これは冗談だが、あの人についていれば損はしないよ。かく言う僕もその恩恵にあずかっている一人さ。」

「ところで、社内随一と評判の、情報通の高木さんは竹内君のことについて何かお聞きになっていませんか。」

「竹内君? ああ国内商品部のエースのことだね。何でも松木君ともめてるそうじゃないか。」

「その話と竹内君が我々のチームに加われなかったことが何か関係があるんじゃないかと僕は思っているのですが。」

と仲根が聞くと、高木はにやりと不敵な笑みを浮かべ、一瞬下を向いて話すのを逡巡したように見えたが、仲根が、

「何かご存じでしたら、差し支えない範囲でけっこうですので、教えていただけませんか。」

と言うと、高木は、

「わかった。」

と言って表情を引き締めると、テーブルに組んだ両手を載せて体を丸めながら、声を一段と潜めて話し出した。

「そうだな、君たちはもうわが社の社員じゃなくなるんだから、まあいいか、せっかくの門出だ、少しくらい話してもね。だが、これはあくまでも内緒の話にしといてくれよ。ましてや僕がしゃべったなんて絶対に、口が裂けても言わないでね。」

 こう念を押すと、高木は身を乗り出し、いっそう声を潜めて話を続けた。

「まあ、ここだけの話にとどめておいてもらいたいんだが、これはね、鏑木専務と松木君のね、力をだね、今のうちに削いでおこうとする野川常務が立てた計略の一環なんだよ。」

「鏑木専務と松木部長の力を削ぐ? どういうことですか? 高木さん、もっと詳しく聞かせていただけませんか。高木さんがこの件の真相を一番よくご存じなんじゃないですか。」

「そりゃあ立場上会社の戦略はよく理解しておかないとね、取締役は務まらないよ、君。つまりだね……」

 高木は声を潜めたまま、次のような話をした。

 

 本田社長は鏑木専務を快く思わず、後継の社長には野川常務を考えていた。野川常務は懐が深く、頭も切れたため人望も厚かった。その野川が友哉と松木のもめごとに目を止め、これを鏑木たちの力を削ぐ好機と捉えたのには理由があった。このころ、鏑木たちは会社を大きくするために、輸入家具を扱う東洋家具に目を付け、そこを買収して業務の拡大を図り、社長の座を射止めようとしていたのだったが、東洋家具は独自に生き残りを模索していて、他の家電量販店との合併を進めている矢先だったので、東洋家具の買収をやめるよう野川に相談を持ち掛けていたのだった。成功した暁には、三藤商事が扱っているヨーロッパからの輸入家具を家電量販店で販売してもよいという話に発展した。そこで野川は東洋家具買収の話を破談にすべく裏から手を回し、手始めに松木の排斥から始めることにした。野川たちは松木の提案を利幅の少ない事業と低く評価しており、松木を新会社の社長に据えて、そのまま没落させようという魂胆であった。鏑木にとっては腹心の一人が消えることになり、大きな痛手を被ることになる。そんな折りに、野川は松木が友哉ともめているのを耳にし、もっけの幸いとばかりにこれを利用しようとしたのである。当初、役員会が友哉を仲根のチームに加えなかったのは、有能な社員を一時に大勢失うことへの危惧からだったが、野川は松木が友哉にパワハラを働いたということを聞きつけ、これを逆手にとったのであった。野川は松木に、

「これまで君の評価が高かったのは、竹内君や原口君らの営業能力の高い、当社にとって貴重な人材を育成したことが上司として高く評価されたからだ。だが、その一人の貴重な人材に対して会社の行く末も考えずやみくもにパワハラを続けるなど、君の評価が格段に下がることになり、最悪の場合は会社として懲戒処分を下すということもあり得るのだが、それでもいいのか。君は会社の存続を何と心得ているのだね? そんなことでは次期役員候補という触れ込みも取り下げる必要があると思うが、どうかね?」

と言って、松木に難癖をつけ、このように言い含めたのだった。明敏な松木は友哉が野川と近しい間柄だと悟り、懲戒処分を恐れて、矛を収めることにした。松木はこのことを鏑木専務に伝えたが、野川常務の腹の内がしかとは読めず、相談した結果、少し様子を見ることにした。

「まあ、竹内君のことはこの辺で手打ちということにしよう。野川君の背後には本田さんがいる。二人が手を組んで何事か画策しているようだが、真意がつかめないのでは致し方ない。」

鏑木はこう言って友哉へのパワハラを中止するとともに、こうしたいきさつをそれとなく高木にも伝えた。すると高木は鏑木に野川の計略を東洋家具との密約には触れずに大まかに説明したのだった。高木としては密かに二人を手玉に取っているつもりであった。


「とまあ、これが事の真相だよ。あの日君が神楽坂の料亭から帰った後で、野川さんから直接聞いた話だから間違いないよ。会社というのはね、腹の探り合い、足の引っ張り合い、お互いの力くらべ根くらべ、と魑魅魍魎の世界でもあるんだが、そこを人知の限りを尽くして、くぐり抜け生き抜いて行くのが真の知恵、言いかえれば正しい判断というもんだよ。」

と高木は自分の手柄話を話すかのように得意になって話した。


 仲根はこうしたいきさつを焼き鳥を食べ、酒を飲みながら、多少話をはしょって、友哉に説明した。会社にはいまだに権謀術数が幅を利かせる一面が残っていることは友哉にも伝わった。仲根が興味を示し、色めき立つのも会社のこうした一面であった。仲根はこうした話が特に好きだった。だが、友哉にとっては、それは雲の上の話で、そのようにして人事が決められていき、いつの間にか野川の派閥に組み込まれていたということは呑み込めたが、それ以上の感慨は持たなかった。友哉にとっての関心事は、それで本当に松木のパワハラが止むのかどうかという一点だけだった。

「これでお前がおれのチームに入らない理由がようやくつかめたよ。野川常務の策略だったんだな。会社の秘密なんて自然とどこからか漏れて来るものなんだよ。別に秘密を洩らしたからって舌を抜かれるわけじゃないから、気楽にしゃべってしまうんだ。特に高木さんは口が軽い。その軽薄さが野川さんには使いやすいところだし、鏑木さんにも重宝がられる所以なんだろうな。野川さんは鏑木さんに話が伝わることを計算の上で高木さんに話し、そうすればこの話が自然に専務に伝わるだけでなく、社内にも広がって行く。だが、主導権は野川さんが握っているという構図に変わりはない。それが野川常務の狙いなのさ。」

 仲根はこう言うと友哉にビールを注ぎ足して話し続けた。

「お前は野川さんに気に入られているようだし、こののちお前はおれのライバルになるかもしれないな。おれにはそんな気がする。予感だ。それはおれたちが対等の立場に立つということでもある。上下の関係ではなく、横の関係だ。おれはな、ライバルに対する付き合い方というものもあるから、これからはそれを踏まえて行動することにするよ。」

 こう言って仲根はグラスを合わせて乾杯した。友哉は何に対する乾杯だろう、と思いながらも、仲根が今まで友哉との関係を上下の関係と捉えていることに多少の憤りを覚えはしたが、それは仲根のうぬぼれのなせる業で、そう思うと高かった鼻が少しひしゃげたことは仲根にとっては喜ばしいことだとも思った。友哉はビールを飲み、追加で注文した焼き鳥をつまみながら黙って考えた。仲根は自分に自信があるのだ、と改めて思った。いったいどこから来る自信なのだろうか。自分の力を信じ込むいちずさだ、そう友哉は思った。自分に乾杯したというのは買いかぶりがすぎるだろうか。それとも単に仲根と友哉の新しい関係に対する乾杯というつもりなのかもしれない。仲根と友哉の新しい関係、初めか、と友哉も妙に納得するところがあった。しゃれたことをする。カチンというコップを合わせた乾いた音が二人の間に静かに降り積もっていった。



 それから四日ほど経った月曜日、友哉に名古屋営業所の所長に就任するよう社命が下った。異動は来年早々で、新会社の設立と時期が重なった。年の瀬のさ中、あわただしい異動になったが、松木と離れられる喜びに比べればどうということもない。その日の午後に経理部の畑中がやってきて、住宅は社宅があるから、差支えがない限りそちらを使用することになる、新しい名刺は一週間以内に届ける、引っ越し費用は全額会社が持つ、別途支度金が三十万円出る、といったことを説明した。すぐにも引っ越しの準備をしなければならない。住宅は社宅があるから探す手間は省けたが、これまで名古屋には一度も行ったことがなく、不案内なので、赴任する前に挨拶も兼ねて何回か往復しなければならないだろう。それに今夜にでも佳奈にも一緒に行くよう頼まなければならないし、会社にも内縁の妻が同行することを伝えておく必要もあった。よかった、と友哉は思った。引っ越しをすればもう松木とも洋介とも会うこともなくなるだろうし、これでもう誰からも煩わされずに済む。そう思いながら浮き立つような足取りで帰宅し、佳奈に昇進を伝えた後、一緒に名古屋に行くよう頼むと、佳奈はうれしそうな表情をこしらえて迷いも見せずに二つ返事で承諾した。まさに捨てる神在れば、拾う神在りである。以前佳奈が「神様がいるとすれば、神様ってさ、ほんとは子供っぽい人なんじゃないかって思う。こうしてほしいって思うことにはちっとも見向きもしないけれども、思いがけないところで助けてくれるから、おあいこなのかな。」と言った言葉を思い出しながら、その夜佳奈を慈しむように抱くと、佳奈も友哉に執着するかのように体を寄せて応えた。


 翌朝、辞令は松木が交付した。部長として三藤商事における松木最後の辞令交付でもあった。松木は少し緊張している様子で、松木の手が少し震えているのがわかった。こんな松木を見るのは初めてだったが、何に震えているのだろうと気にはなった。だが、これで松木との縁も切れると思うと、友哉はそれ以上の詮索をやめ、席に戻った。松木も辞令を交付すると何も言わずにそのまま離席して一人で部屋を出て行った。緑屋が、「竹内さん、ご昇進おめでとうございます。」とぺこりと頭を下げて祝いの言葉をかけてくれたのを、友哉はうれしく思った。 



      九



 明くる日の夜、佳奈のアパートから持ち込んだ和箪笥を友哉の洋箪笥の隣に移し、ハンガーラックを和室の隅に移動した後、不要なものを整理しつつ部屋の片づけをしていると、仲根から電話が入った。

「来年、有美子と結婚することにしたんだ。式は椿山荘で挙げることにした。後で案内を出すから、お前も来てくれ。そこで前祝をしようと思うんだが、今度の土曜日に家に来ないか。少し早めに四時ごろから始めようと思っているから、そのころに来てくれ。川岸君と足立君も来てくれることになってる。」

と言った。「わかった。行くよ。」と返事をして友哉は電話を切った。

 仲根は自分がこれだと思い描いた道を着実に進んでいる。多少の失敗はあったものの、そうした障害を乗り越えて何の迷いも見せずに出世階段をひたすら登って行こうとしている。仲根の「おれはラガーマンだぞ。」と言った言葉が思い出された。ボールを相手陣のインゴール内に運び、地面に着けるというただ一つの目的を果たすために、障害を打ち払ってひたすら突進して行く姿は、確かにラグビー選手のようでもあり、友哉が仲根を気に入っている点でもあった。明日、佳奈を仲根の家に連れて行こうかという気持ちが湧いて来たが、先日、仲根が友哉との関係を見直すと言った言葉が思い出され、仲根に佳奈のことを紹介するのはもう少し先に延ばすことにした。

 ふと、待てよ、明日は手土産が必要だなと思った。前に行った時は何も持たずに押し掛けたのだが、今回は結婚の前祝なので、手土産はぜひとも必要である。何がいいか佳奈に相談すると、佳奈はパソコンを開いてネットで検索し、人気の手土産の中から、ニューヨーク産のチーズケーキとブラウニーケーキの詰め合わせを選んだのだが、お届け日が遅く間に合わないので、新宿のデパートに寄って似たような菓子を見繕っていくことにした。

 結婚か、ソファーに座って近くのコンビニで買ってきた雑誌を読む佳奈の姿を横目に見ながら、ふと友哉は考えた。男と女が正式に夫婦関係を結ぶことを結婚と言うのだが、夫婦は資格ではない。お互いに認め合った役割なのかもしれない。だから結婚は黙契なのだ。同じ正式な夫婦関係を結ぶのに婚姻という言葉が使われるが、これは法律上の手続きを経ることを意味している。結婚には社会性も備わっていることになる。結婚か、と友哉はまた思った。佳奈はおれにどんな役割を果たしてほしいと思っているのだろうか。そのことをそっと聞いてみたくなった。

「何を考えているの? さっきからずうっと黙り込んでるよ。仕事のこと? そうだ、名古屋営業所の所長に昇進したんだから、私たちもお祝いしなくちゃね。」

と佳奈が友哉の左腕をつかみながら目を輝かせて言ったが、それには答えず、「佳奈、おれたち結婚する?」と聞いてみた。

「えっ、結婚? してもいいけど、今すぐは嫌だな。あたしさあ、今まで一度も働いたことないから、来年はどこかにお勤めしようかなって思ってるの。あなたの会社であたしを雇ってくれないかなあ? そうしたらいつも一緒にいられるね。あなたが働いている姿を間近で見てみたいわ。」

 友哉は答えをはぐらかされたような気がしたが、名古屋営業所で一緒に働くのも悪くないと思った。

「働く? おれの会社でか? そうだな、聞いてみてもいいよ。会社には営業所で人手が足りなくなったからって言えば、一人くらいなら承認してもらえるんじゃないかな。だから、佳奈、おれたちも来年結婚しようか。」

「結婚かあ。あたし結婚願望ってまだないんだ。あたしさあ、早生まれだからまだ十八だよ。来年でもまだ十九。早くない? 結婚ってさあ、なんか人と結婚するっていうよりも世間と結婚するって感じがしない? 世間に認めてもらうっていうような。あたしはまだ今のままでいい。あたしさあ、あれから時々日常ということを考えてみるんだけど、日常というのは、普段と変わることのない毎日を表す言葉らしいんだけど、あたしには自由な生活の具体的な形のように思えるわ。あたし自由になりたかったのね。あたし、今初めて自由を感じているの。自由っていいよね。心に引っかかるもの、気に病むものが何もないの。毎日が自由なんだよ。こんな気持ちになれたのは生まれて初めてだよ。あなたのおかげだね、ありがとう。……そうね、たぶん子供が欲しくなったらその時結婚したくなるんじゃないかな。あなた、それまであたしのこと守ってね。」

「あなたか、もうそろそろおれの名前で呼んでもいいぞ。友哉さんって呼んでくれる?」

「友哉さん。……なんかちょっと照れるなあ。」

「まあ、急がないから、気が向いたらでいいよ。……子供ねえ。そうか。わかった。それじゃあ、結婚は佳奈が二十歳になった後にしよう。十八歳成人だけど、感覚的には成人はやっぱり二十歳だよな。その前におれの昇進祝いをしよう、二人っきりでね。そうだ、どこか旅行に行こう。」

 友哉は佳奈の手を握って旅に出る提案をした。どこか知らない土地を観光して、二人だけの特別な時間を過ごし、そうして特別な思い出を増やすのは、二人の気持ちをより近づけるのではないだろうか。妙案ではないか、と友哉は思った。

「いいね、あたしも旅行したいわ。どこがいいかなあ。名古屋にも行かなきゃならないから、その近くでもいいね。」

「そうだな、赴任する前に一度名古屋に行ってみないとなあ、って思っていたんだ。名古屋見物を兼ねて近くの志摩半島にでも行ってみようか。おれは行ったことないけど、伊勢神宮も近いし、観光名所がたくさんあるって聞いたぞ。」

「いいね、あたしも神様のいるところ行ってみたい。……なんか楽しくなってきたらさあ、おなかが空いてきちゃったね。どこかに食べに行こうよ。それから今夜の夕食に前祝を兼ねてグラタンを作ってみようかな。あたしお料理のレパートリーを広げたいと思って、こうして雑誌読んで研究してるんだ。グラタンの食材買ってこないとね。グラタン皿はある? ないの? じゃあ、それも買ってこないとね。そうだ、グラタンにはパンが合うよね。おいしいパンも買って来たいわ。」

 佳奈はそう言うと立ち上がって友哉の腕を引っ張り、今夜の食材とグラタン皿とパンを買い出しに駅のショッピングセンターに向かった。いろいろな予定が次々に湧き上がり、自ずと心も弾み、楽しかった。


 駅ビル内のショッピングセンターはデパート並の品ぞろえで、食器も廉価品から高級品まで取り揃えている。そこで四階に回って二人の記念の品になるように、また、長く使っても見あきたりしないように、やや値の張る柄の付いた陶磁器製の深めのグラタン皿を購入し、それから地下一階にある食品売り場に回ってグラタンの材料を仕入れ、一階に回ってパンを各種買いそろえた。食材を見ながら、今夜は、チキントマトグラタンにすることにした。買い物を終えた後で八階のレストラン街に回り、喫茶店に入って旅行の話の続きをしながら、二人であれやこれやとプランを練った。携帯を使って観光地を見て回りながら、旅行のプランを練ること自体が、友哉にも佳奈にも楽しいひと時であった。旅はすでに始まっていた。


 帰宅した時は、もう夕刻になっていた。佳奈が前に部屋に残していったピンクと白の縦縞のエプロンをつけて、鼻歌を歌いながら、料理の準備に取り掛かった。友哉はソファーに座ってビールを飲みながら、テレビニュースを見るともなしに見ていた。三か月ほど前には佳奈を待つことしかできなかった友哉だったが、今は違った。佳奈が家にいて家族のようにふるまっている。佳奈を待つことから佳奈を求める行動へ転換したとたんに、いろいろなものが変化した。「待つ」から「行動」へと変わる時、人は何を実現しようとして動くのだろうか。友哉が佳奈を得ようとして行動を起こしたのは、佳奈を得ることがこの世の中で新たな自分を見つけ出すことにつながるのではないかと考えたからなのだが、最近は佳奈とともに生きていくことで新しい世界が開かれていくことを友哉は実感している。確かに「待つ」を打ち破るには「行動」しかないのだが、そして生きるとは行動しながら新しい日常を実現して行くことの連続なのだが、その行き先は友哉には見えて来ない。それがふと湧き上がる不安と言えば不安なのだが、この一抹の不安だけはどこまで行っても解消されることはないのだろう。だから不安だと感じなければいいのだ。単純なことだが、不安になる弱気を顧みないようにして、毎日を過ごして行こう。佳奈がいればどんな困難でも乗り越えて行けるだろう。そう思える、未来を恐れない強い気持ちが今の友哉にはあった。

 そんなことをつらつら考えているうちに時間が経ち、いつしかグラタンが出来上がり、その熱々のねっとりとしたホワイトソースとチキンとトマトとマカロニの味を口いっぱいにほおばりながら、佳奈の手料理を味わい尽くすかのように堪能した。

「グラタン、おいしくできたかなあ。」

「うん、すごくおいしいよ。」

「そう言ってもらえると料理にやりがいが出てきて、もっとおいしいものを作ろうという励みになるわ。」

「佳奈の作る料理はいつもおいしいよ。」

「そう、よかった。……なんだか楽しいね。」

「そうだな、すごく楽しいよ。一人だと幸せってなかなか実感できないけど、二人だと不思議に実感できるんだよな。」

「ずっと続くといいね。」

「ほんとだな。」

 短い会話が続き、久しぶりに友哉はギターを弾いた。その柔らかな余韻の残る音色が室内に静かにこだまして、しんしんと夜が更けていった。



 その週の土曜日、四時に仲根の家に行くと、川岸と足立は先に来ていて、仲根と有美子を囲んで酒を飲み始めていた。三連あるローチェストの一つに色とりどりの花束が置かれている。川岸たちが持って来たに違いない。友哉はそんな気も利かず、チーズケーキとブラウニーケーキを一つぶら下げて来ただけだった。友哉がその手土産を有美子に渡すと、仲根がすっと立ち上がり、二人も同時に立ち上がった。

「友哉、紹介しよう。こちらが冷凍食品を扱っている輸出入部第二課の川岸君と足立君だ。」

「初めまして、これまで国内商品部で仕事をしてきたのですが、来年から名古屋営業所の所長を拝命いたしました竹内友哉と申します。プロジェクトチームでご一緒できなかったのは残念でしたが、またどこかでご一緒にお仕事もできるかと思いますので、これをご縁にお付き合いのほどよろしくお願いいたします。今日はあいにく名刺を持ち合わせておりませんので、新しい名刺が出来上がり次第、お二人にお渡しします。もちろん弘樹にも。」

「お二人は弘樹、友哉と呼ぶ間柄だったんですね。それは今まで知りませんでした。……そうなんですか。竹内さんは名古屋営業所の所長になるんですね。ご栄転ですね。こちらこそよろしくお願いします。」

と背が高く体格のがっちりした川岸が言った後から、

「輸出入部第二課の足立です。僕たちは主に東南アジア向けの輸出を扱っています。よろしくお願いします。」

とラガーマンにしてはやや小柄に見える足立が挨拶を済ませてそれぞれの席に座った。仲根が垣間見せた驚いたような表情を隠して、穏やかな口調で言った。

「そうか。で、名古屋営業所にはいつ赴任するんだ?」

「来年早々だ。社員は僕を入れて全部で七名だそうだ。」

「そうか、先を越されたな。」

「同じだよ。仲根は新規事業部の社長なんだから、昇進したようなもんじゃないか。」

「竹内さん、栄転されても、仲根と助け合って協力しながらお仕事頑張ってくださいね。私からもお願いします。ところで、私たちはもうウイスキーを飲み始めているんだけど、竹内さんは最初は何にしますか。おビールにします?」

 有美子は友哉のウイスキーグラスを食器戸棚から取り出して来て手渡すと、友哉に顔を近づけながら尋ねた。

「そうだな、ビールを一杯いただいてから、その後ウイスキーに切り替えます。」

と言うと、有美子はそのままカウンターの裏手に回り冷蔵庫からビールを一本ともう一つ小さめのジョッキを持って来ると、友哉に注いだ。

「そうだ、危うく忘れるところだった。弘樹、有美子さん、結婚おめでとう。末永くお幸せに。」

 座ったままそう言ってジョッキを目の高さに持ち上げると、川岸と足立もそれぞれの席に座ったままグラスを持ち上げて乾杯した。

「ありがとうございます。今日はお寿司をたくさん注文してあるから、皆さんゆっくりしていってくださいね。」

と有美子が礼を述べると、仲根はむっつり黙りこんでグラスを傾けていた。


 一時間ほどして寿司が届けられ、宴たけなわになると、酒が回り、酔いが回り、思考が空回りを始めた。次第に声が大きくなり、男と女の高笑いする声が室内に乱れ飛んだ。

「だけど、竹内さん、どうして急にメンバーから外れたんですか。何か理由があったんですか。実は僕たち何も聞かされていないんですよ。」

とスポーツ刈りの足立がふと真顔になって友哉を見つめながら尋ねた。何も聞かされていないというのはうそで、友哉の口から直接聞こうという肚であることは明らかであった。足立の目が座り始めていた。

「会社が友哉を引き留めたんだよ。友哉は会社に必要な人間なんだ。名古屋営業所の所長に昇進したことでもわかるじゃねえか。」

友哉の代わりに仲根が答えた。あまり足立にしゃべらせないほうがいいという配慮からであることは友哉にもそれとなく伝わった。足立は酔って目が座りだすと、制御が利かなくなった。

「竹内さん、栄転なんですね、ずるいなあ、いつの間に野川常務とくっついてたんですか。竹内さんが僕らのメンバーから外れたのも、最初から野川常務と画いた絵なんじゃないですか。本田社長の後継は野川さんだというもっぱらの社内のうわさですからね。さすがエリートサラリーマンは目が利きますね。変わり身が素早いと言うかね。竹内さん、僕らの事業が失敗しても僕らを拾ってくださいね。頼みます。」

と足立は両手を顔の前で合わせて友哉に向かってお辞儀をした。友哉にしてみれば野川常務の策略など知る由もなく、仲根に事情を聴かされても話がよく呑み込めなかった。すると今まで黙って聞いていた川岸が、静かにグラスをテーブルに置いて仲根に向かって小声で言った。

「仲根さん、本音を言うと、やっぱり僕たち心配なんですよ。社命だから仕方ないけど、ほんとに成功しますかねえ。竹内さんが抜けて、代わりに輸出入部の水谷じゃあ、どう考えても戦力ダウンじゃないですか。会社も本気で我々の事業を成功させる気があるんでしょうかねえ? そんなことをついつい考えちゃうんですよ。仲根さん、仲根さんの本音のところを聞かせてもらえませんか。仲根さんはほんとはどう考えてるんですか。」

「成功する。おれのプランは必ず成功する。野川さんもそれを期待しているんだ。本人から直接聞いたことだから間違いない。成功させてみせるさ。おれはそう信じてる。お前たちもそういう信念を持たなきゃだめだ。ラグビーだってこの試合に勝てるだろうかと思いながらやれば、端から相手に飲まれているようなもので勝てるわけがない。水谷だって、事務にも長けているし、会社には事務能力に長けた人材も必要だよ。」

 仲根は本田からそれとなく言われたことを川岸に言った。訓話の受け売りなのだが、すでに平社員ではなく、上司としての心構えも芽生え始めているようだった。

「そうですかね。会社がつぶそうとしているのは僕らのほうじゃないんですよね? 仲根さんはそのことを本田社長に確認してるわけじゃないんでしょう? どうしてもその心配がぬぐえないんですよ。」

「それは違う。本田さんを信じるんだ。途中ではしごを外したりするような人じゃない、本田さんは。」

そう言うと、川岸のグラスと足立のグラスに新たに取り出したウイスキーを注ぎ、それぞれにかち割氷を入れた。仲根は友哉にはあまり立ち入った説明をしないようにしていた。そのことに友哉はそれとなく気づいていた。いつからかはわからないが、仲根がおれと距離を取り始めている。そう感じさせるものがあった。

 仲根にとっては友哉が社内でこれ以上力を付けないように、本社から異動したのは好都合だった。一方で友哉を手元に置いておく必要があるとも感じていた。友哉は役に立つ。イエスマンだけを重用する会社は長く続かないことを仲根は知っている。組織には有能な部下が必要なのだ。だがどのようにすれば友哉をこちらの味方に引き付けておけるのかはまだ仲根にも見えていなかった。足立が、グラスに注がれたウイスキーを一気にあおり、どんとテーブルにぶつけるように置くと、やおら甲高い声で言った。

「おれ、失敗したら困るんすよ。来年にはおれにも子供ができて、父親になるんです。家族を路頭に迷わせるようなまねはできませんからね。」

「何、路頭に迷う? なんだ、お前らは手の平を返すようなことを言うじゃねえか。何回言えば気が済むんだお前は。足立、心配するな、本田さんからもそう言われているんだ。成功したら、取締役にしてやるって話がついているんだよ。」

 仲根はつい口が滑ったというように、しまったという顔を見せ、眉間に皺を寄せて、グラスに残っていたウイスキーを一息に飲み込んだ。仲根も酔った。

「なんだ、そんな口約束があったんですか。それは初めて聞きました。だけど、それって仲根さんだけの話なんじゃないですか? 僕らはどうなるんですか? 僕らも戻れるんですか? 僕らも昇進できるんでしょうねえ? だけど、いったい誰が僕らのことを保証してくれるんですか? おれなんか社長どころか常務とも口利いたことないですよ。」

 足立が喰ってかかるようにこう聞くと、仲根は、体を前に倒し、威嚇するかのように足立の顔を見据え、声を低めて言った。仲根が激高していることが友哉にはわかった。

「おれのことがそんなに信用できねえのか、お前たちは。お前たちのことはおれが面倒見る。ここに来て、じたばたするな。男なら腹をくくれ、腹を。」

「あなた止めて、それじゃあ仲間割れしてるみたいじゃない。ワンチームなんだから、ケンカなんてしてないで力を合わせなきゃだめよ。協力して事に当たるっていうようじゃないと前に進んで行かないのよ。あたしも大学で五十人からの吹奏楽部の部長だったから、多少はわかるの。」

 有美子が仲根をたしなめたが、仲根の怒りは収まらなかった。仲根は気心が知れた仲間を誘ったつもりだったが、いつの間にかほころびが見えてきていた。小さなほころびはほっておくと大きなほころびに変わる。そうなる前に繕っておかなければならない。仲根の怒りの矛先は自然な成り行きで友哉に向けられた。今大事にしなければならないのはチームに残る川岸や足立で、本社を離れて行く友哉ではなかった。

「友哉、野川はお前に色が付いていないことをいいことにして、お前を利用しようとしているのさ。お前はいつだって、営業と真摯に向き合ったことなど一度もないんだ。人柄のよさがお前の武器で、お前はこれまで常にまわりに助けられて来たんだ。だがな、おれは違うぞ。おれは営業と真摯に向き合って、誰の助けも借りずに一人で開拓し、会社の業績が上がるように常に前線で頑張って来たんだ。営業成績だって、おれのほうが会社に貢献した実績は上だ。確かに一度だけおれはミスを犯した。しかし、たった一度のミスじゃねえか。それなのになぜお前ばかりがおれの先を行くのか。おれを飛び越えて行くなど、百年早い。」

 仲根が面と向かって友哉に罵声を浴びせるのは初めてのことだった。実力はおれのほうが上だ、仲根はそう叫んでいる。仲根もやはり他人の一人であったか。これは友哉が初めて経験する身近な他人との衝突であった。関係がなじんでくると様々な場面で否応なく他人との関係の崩壊の予兆が現れてくる。他人との関係は絶えず生々流転して行くのである。こうしてわずかに変化しながらお互いの関係は爛熟して行く。生来、友哉はこうした衝突を好まないのだが、今日は仲根に反発する気持ちが勝った。

「違うぞ、弘樹。おれだっていつも営業に真摯に取り組んで来たから、部内でも一番の成績をあげられたんじゃないか。おれの成績がいいのも、おれが相手に誠心誠意対応する姿勢がクライアントにも会社にも認められたんだ。言い過ぎだ、弘樹。」

「何を言ってるんだ、お前は。お前はおれがクライアントに誠心誠意尽くしていないと言っているのか。おれのどこを見てそんなでたらめを口にするんだ。頭を冷やせ、友哉。」

 そう口にするなり、仲根は憤怒の形相をあらわにして注ぎ足したばかりのウイスキーを、グラスの中で溶けて小さくなった氷ごと友哉の顔をめがけて浴びせた。

「何をするんだ。」と友哉が声を荒げて言うのと同時に有美子が叫んだ。

「何すんのよ。頭を冷やすのはあなたのほうでしょう。何考えてるのよ。ごめんなさい、竹内さん。弘樹さんったら、すっかり悪酔いしてしまって。ごめんなさい。怒らないでね。」

 有美子が走って取り出してきたタオルで濡れたセーターとズボンを拭き取り、もう一枚もらったタオルで友哉は、顔を拭き、セーターに張り付いた氷の欠片を払い落とした後、黙ったまま席を立ち、コートを手に取って仲根の家を出た。怒りで体が震えたが、その怒りを鎮めるものはここにはなかった。濡れたシャツが肌に張り付き、冬の夜風が冷たく肌を刺す中を、友哉は東中野駅に向かって足早に歩き出した。


 その翌日、クリスマスイブを一週間後に控えた日曜日、友哉は佳奈と買い物に出かけた。街はすでにクリスマス一色に染まり、「ジングルベル」や「サンタが町にやって来た」などの定番のクリスマスソングを盛んに流していた。仲根は昨日の夜遅くに電話を掛けてきて、酔いの残る恐縮した声で、

「さっきはすまなかった。謝る。ちょっと悪酔いをしてしまったようだ。また遊びに来てくれよな。有美子も待ってるし、友哉ならいつでも歓迎するよ。」

と詫びを入れてきた。友哉も電話を受けた直後は絶対許さないぞと思っていたのだったが、仲根がこのような仕打ちをするのは今まで一度もなかったことだったし、こうして佳奈と初めて迎えるクリスマスの喧騒に踊らされていることも手伝って、今は許すことにした。佳奈はあれからいっそう料理に凝りだして、昨日は仏頂面をして帰って来た友哉を慰めるようにサーモンクリームパスタを作って迎えた。初めて食べるパスタだったが、クリームにスモークサーモンの塩味がほどよくからみあっていて、腰もあり酔った舌にも鼓を打つほどとてもおいしく、震えるほどの怒りも次第に収まった。佳奈は今日は黒酢を使った酢豚と長いもを使った中華スープを作ると言う。妻になる人が料理好きなのは男冥利に尽きることで、友哉は毎日の夕食が待ち遠しかった。

 ソファーに座ってスマホのニュースを見ながら待っていると、ようやく酢豚が出来上がり、酢の匂いが揚げた肉の香りと相まって実に食欲をそそる匂いを漂わせていた。佳奈が酢豚を皿に取り分けて友哉と自分の前に置いた時だった。突然、呼び鈴が鳴った。誰かと思って佳奈がドアを開けてみたら、洋介だった。洋介は玄関先に立って中には上がらず、怒るような八つ当たりをするような口調で佳奈に言った。

「佳奈、やっぱり戻って来てくれ、厚子じゃだめなんだ。あいつ、何でもおれの言うこと聞いてくれるし、おれが喜ぶようにしてくれるんだけど、何かが違うんだ。物足りねえんだよ。厚子がどうしても好きになれねえんだよ。」

「いやよ。帰って、もう家には来ないで。さあ、出てって。」

 そう言うと佳奈は洋介の胸に両手を押し当てて突き出した。洋介は「馬鹿野郎!」と一声吠えて帰ったらしく、階段を下りて行く小さな足音が部屋の中にまで響いた。せっかくの晩餐が台無しになってしまったが、ビールを飲み、酢豚を口に放り込んだとたんに、文字通り頬の落ちるようなおいしさに友哉の機嫌は直ったが、佳奈の表情は冴えず、この日和気が舞い戻ることはなかった。


 それから三日後のことだった。

 小山厚子が手首を切って再び自殺未遂を遂げたことを、あの映画を見た日に喫茶店で厚子と一緒にいた戸田早紀が深夜に佳奈に連絡してきた。佳奈はその連絡が信じられないという風で、電話を切った後、しばらくリビングをクマのようにうろうろと歩き回り、何事かぶつぶつ言っていたが、何を言っているのかは聞き取れなかった。その後は頭を抱えて、黙り込んで何事か考え込んでいる様子だった。翌日、早紀に教えてもらった立川の病院に行き、外科病棟の受付で厚子の病室を確認して六階に回ると、厚子は二人部屋の窓際のベッドに横になっていた。ベッドの仕切り用カーテンは開け放されていて、ベッドの脇に白衣を着た眼鏡を掛けた小柄な五十がらみの医師が立っていた。厚子の左手に巻かれた白いガーゼの包帯が痛々しく見えた。

「アッコ、早紀ちゃんから連絡があったからびっくりして飛んで来たんだよ。」

と佳奈が言うと、医師が佳奈にとも厚子にともなくささやくように言った。

「もう少し発見が遅かったら出血多量で助かりませんでした。」

たまたま回診に来ていたのか、医師はそう言うと「お大事に。」と言い残して立ち去った。

「佳奈、来てくれてありがとう。やっぱりあたしじゃだめみたい。あたしは佳奈にはなれそうにないよ。」

「アッコ、よかったよ、処置が間に合って。自殺なんてだめよ、そんなことしちゃあだめ。」

 その言葉を聞くなり、厚子は掛布団を頭の上まで引き上げて、さめざめと泣いた。白い両手の甲が、心なしか血の気が失せ、透き通るような白さに見えた。しばらくして、嗚咽が止まり、

「あたしまで泣きたくなっちゃった。」

と言う佳奈の言葉で布団から少しだけ顔を出し、

「佳奈は泣かないで。お願い。あたしが惨めになるだけだから。……洋介がどうしても、何を言っても、あたしのこと振り向いてくれないの。でもあたしにもどうしようもできない。あたしどうしたらいいのかわかんない。」

そう言うと厚子はまたくりっとした目に涙をいっぱいにため、目の端から涙がこぼれて鼻先に伝って行った。

「このこと洋介は知ってるの?」

「知ってる。あたしが手首を切ったのを見て、救急車を呼んでくれたのは洋介だもん。洋介は早紀にも連絡を入れてくれたみたいね。洋介はあの日だけは一緒について来てくれたけど、洋介もどうしていいかわからないみたい。何回もどうしたらいいんだ、って言ってたわ。洋介はあたしがこんな騒ぎを起こした時だけ優しくしてくれるの。」

「そうだったの。洋介は薄情ではないのよね。でも見かけよりだいぶ寂しがり屋だから、きっとアッコのこと頼りにしてると思うわ。……果物持って来たけど、食べる?」

「あたしね、そんな洋介のことも知らないの。洋介はあたしの前では寂しがったりしないわ。洋介はいつだってあたしのかっこいいヒーローなんだ。そのイメージが強すぎるのかもしれない。あたし、本当の洋介を知らないでいるのかもしれない。……ありがとう。でも今はいい。いらないわ。」

「アッコ、洋介と何があったか、よかったら話してくれない? あたしにできることがあれば何でもするよ。」

と佳奈が言うと、厚子は掛布団から顔を出し、佳奈の目を見つめながら言った。

「洋介はあたしが退院した日だけ優しくしてくれたんだけど、その後は、何かさあ、人が変わったみたいにあたしに話しかけてくれないの。洋介はおしゃべりじゃないけど、話し好きな一面もあるよね? だけど、わけがわかんないんだけど、新しくできたお友達の真理に話しかけることはあっても、あたしには話しかけてくれないの。でも真理に気があるってわけじゃないことはわかるわ。最近はあたしのことガン無視するんだ。それがとてもつらいのよ。あたし、洋介の気に入るように、洋介がしたいって言うことを何でも聞いてあげようと思ってあたしなりに努力したんだよ。でもだめなんだ。洋介はあたしのことどうしても受け入れてくれないの。どうしてなんだろう。……あたし、どうしていいかわかんない。洋介にあたしのことちゃんと見てほしいだけなのに。」

 佳奈は先日洋介がやって来て「物足りない、どうしても好きになれない。」と言った言葉を思い出しながらも、厚子にはそのことは黙っていた。厚子に何と言っていいかわからず、慰める言葉も見つからず、目に涙をためている厚子の言うことを黙って聞いてやるしかできなかった。

「ごめんね、アッコ。私にできることって何かある?」

「多分何もないわ。佳奈は彼氏ができたし、この間公園で会った時も幸せそうに見えたよ。今の自分を大事にしなきゃだめよ。もう、あたしと洋介には関わらないほうがいいかも。せっかく見舞いに来てくれたのに、ごめんね、こんなこと言って。」

 佳奈は嗚咽が漏れるのをやっとのことで我慢し、首を左右に振るだけだった。

 それから小一時間ほど洋介のことには触れず、自分の近況やら四方山話をして過ごすと、厚子が体を佳奈のほうに向けて、小さな声で言った。

「佳奈、見舞いに来てくれてありがとう。だけど、ごめんね、あたし少し疲れちゃった。」

「あっ、あたしこそ、気がつかなくてごめん。じゃあ、また明日も来るよ。」

「ううん、明日はいいわ。この病院は佳奈の家から遠いし、ここまで来るの大変じゃない。あたしはもう大丈夫。こんなことじゃめげないわ。あたし頑張るからね。」

「わかった、それなら、二、三日してからまた来るね。元気になってね、アッコ。あまり思い詰めないでね。」

 そう言い残して部屋を出ると、ナースセンターの前で一人の看護師に呼び止められた。

「小山さんのお友達の方ですか?」

「はい、そうです。小山さんの身内の方の連絡先をご存じでしょうか。連絡先がわからず困っていたところなんです。小山さん、自宅の連絡先を教えてくれないんです。両親は二人ともいないっておっしゃって。」

「そうですか。……どうしよう。……ええ、自宅の電話番号ならわかります。だけど、あたしアッコのご両親とは一度もお話ししたことがないので、あたしの名前を言ってもわかってもらえないかもしれません。」

「いえ、ご自宅の電話番号だけでけっこうです。向こう様にはお宅様のお名前は出しませんからご心配なく。それから、念のためお宅様の連絡先も残しておいていただけませんか。」

そう言われて、紙に厚子の自宅の電話番号と自分の携帯の番号を書き、看護師に渡すと、看護師はにっこり微笑んで、礼を述べてから「それでは、こちらに連絡を入れてみますね。」と言って控室に戻って行った。



 さらにその二日後の夕方のことである。

 クリスマス寒波が襲来して、いまにも雪が降りそうなどんよりした灰色の雲に覆われた寒い日であった。弱り目に祟り目で、悪い時には悪いことが重なるものである。佳奈は厚子を見舞った三日後になる明日のクリスマスイブに、再び厚子の見舞いに行く予定を立てていた。そうだ、クリスマスイブだし、アッコにチーズケーキを買って行こう。アッコはケーキが好きだったから。そう思って、夕方、駅ビル内の洋菓子店でチーズケーキを買って来た。そこへ妹の綾奈から連絡が飛び込んで来た。父親が心筋梗塞で倒れたから、至急帰れという連絡だった。父親は無事だが、一時は心臓が止まり、AEDを使って心臓を蘇生させると、そのまま緊急手術を施して、一命をとりとめたと、医師が言っていたと言った。


翌日、佳奈は仕方なく重い足取りで、まっすぐ所沢市内にある病院に向かった。父親の病室に回ると、父親は意外に元気そうだったが、十か月ぶりに会った父親は頬がこけ、自分が覚えている父親の顔とはずいぶん違って見えた。少し年取ったのかな、あたしが心労をかけたせいだろうか、と佳奈は思ったが、そんな思いを父親には気づかれないようにして、普段通りに振る舞おうと思った。

「佳奈か、元気にしていたか。何年ぶりかな。一年近くは会っていないな。だが、あのころよりは角が取れて、柔和に見えるし、何より美人になった。お前が出て行って、私は考えたよ。私はお前に期待していたんだ。その気持ちが少し強すぎたのかもしれない。お前には人並み以上の人間になってもらいたい、と思っていた。だから、お前はそんな私の気持ちを負担に思ったのかもしれない。」

 父親の繰り言をそれ以上言わせないようにというつもりなのか、五十路を過ぎ、髪に白いものが混じるようになり、小皺が増えてきた母親が、突然に口をはさんだ。

「竹内さんという人とはうまくいってるの? 私はあんたが幸せになるんなら、その人でもいいって思ってるの。悪い人じゃなさそうだし。不良と付き合ってるよりはずうっとましよ。あんたの気持ち次第よ。それで、一緒になるつもりなの?」

と「ずうっと」に力点を置いて言った。どうやら綾奈が母親には佳奈の近況を報告していたらしい。それを母親は父親に話し、だから父親も佳奈の近況をおぼろげながらつかみ、こうして十か月ぶりに娘に会っても、すぐに娘を受け入れる落ち着きが見られた。

「あたしたち今は同棲してるわ。彼は結婚しようとも言ってくれてるんだけど、あたしは今は結婚する気はないの。このままでいいの。それでね、来年、あたし彼と一緒に名古屋に行くことになったの。彼がね、大手の商事会社の名古屋営業所の所長になることになったのよ。またしばらく会えなくなるかもしれないけど、ママはあたしのこと心配しないでね。パパもね。」

「わかった。よかったよ、幸せそうな佳奈の顔を見てほっとした。私の心臓は五分の一、二十パーセントが壊死しているそうなんだ。だけどバイパス手術がうまくいって、もう大丈夫って言われているんだよ。私が元気なら、また会える。今日だってこうして佳奈に会えたんだからな。子供に会って元気な姿を見るっていうのは親の楽しみの一つなんだよ。ところで結婚式は挙げるんだろうな。また新しい楽しみが一つ増えたよ。こうなると早く孫の顔が見たいもんだな。何だな、欲を言い出すときりがなくなるな。」

 父親は安心したように笑顔を見せ、母親も安心したのか、ベッドの傍らに置いた椅子に腰掛けてリンゴの皮を剥き始めた。


凍っていた時間が静かに溶け出して行く。

 まだわずかな時間しか経っていないのに、こうして家族が集まりその輪の中にいるとすぐになじんで、自分がこの家族の一員であることを了解できた。ふと病室を見回してみたが、妹の姿は見当たらなかった。

 父親は病気のせいかどうかはわからないが、少々老け顔になったものの、反面、柔和になり、口調も穏やかだった。こんな父親だったら家を飛び出していなかったのではないだろうかとふと佳奈は思った。「社会に出て困らないように、若いうちはしっかり勉強しなさい。時間があったら勉強するんだ。そしていい大学に行き、いい会社に就職する、これが一番なんだぞ。」と、大学教授で家にいることが多かった父親は何かにつけきつい口調でこう言って、口うるさく介入してきたものだった。自分の気に入らないと、頭を叩くこともあった。それが疎ましく、佳奈の自由を奪ったようにも思えて許せず、佳奈は反発したのだった。しばらく三人で雑談を交わし、妹も今日は用事があって来ないと言うので、一時間ほどして、

「じゃあ、あたしそろそろ帰るわ。」

と言うと、母親があわてて引き留めに掛かった。

「あらまだいいじゃない。急ぐ用事でもあるの? せっかくまた会えたんだから、もっとここにいてあげて。明日はクリスマスイブなんだよ。お父さん、あんたが出て行って、寂しがってたんだからね。だからお父さんへのクリスマスプレゼントだと思ってもう少しここにいてちょうだい。ああ、それから、何かあったら、いつでも家に戻って来ていいんだからね。ここはあんたの家なんだから。それが家っていうものなんだからね。」

 母親が先を急ぐように父親の気持ちを代弁して、佳奈を引き留めた。佳奈は今までしてこなかった親孝行のつもりで、さらに一時間ほど病室にいて帰って行った。



 その日の深夜のことである。

 佳奈が床に就こうと布団を敷いていた時、病院から厚子が亡くなったという連絡が入った。そんなはずがない、この間会ったばかりなのに、元気にしてたのに、そう思うと心臓が高鳴り、あふれてくる涙をこらえきれずに嗚咽が漏れた。心配顔をして見つめる友哉に、友達が亡くなったことを知らせ、三万円を友哉から借り受け、一緒について行こうかという申し出を断って所沢から立川までタクシーを飛ばして病院に駆けつけた。時計を見ると明け方の三時であった。六階の病室に回ってみたが、ベッドはすでに空で、厚子は病室にはおらず、ナースセンターで居場所を尋ねると、地下にある霊安室に移されたとのことだった。中背の看護師が「お悔やみ申し上げます。」と言った言葉が、頭の中で飛び跳ねた。

 霊安室に入ると、部屋の中央に厚子は寝かされていた。近寄ると、厚子は耳の穴や口に真綿が詰められ、眠るように横たわっていたが、すでに亡骸であった。頭のすぐ上には一体の小さな観音菩薩が置かれていた。病院から連絡が入ったのか、早紀もかけつけて来てうなだれて立っていた。佳奈は厚子の変わり果てた姿を見たとたんに、体が震え、うろたえ、後悔もし、涙があふれてとめどなくほほを伝わって足元を濡らした。

「手は尽くしたのですが、四日間も食事をとらず、体力が持たなかったようです。お若いのに気の毒です。」

 早紀のそばに立っていた看護師が言った。

「アッコは将来を悲観したんだと思う。あたしが見舞いに行った時も何も食べていなかったんだよね。て言うか、食べないようにしてたんだよ。かわいそうだよ、アッコ。」

そう言うと早紀は目に片手を当てて地面に膝を突き泣き崩れた。

「あたし何もしてやれなかった。死んじゃうなんて考えてもみなかった。ごめんね、アッコ。」

そう言うと早紀は両手で顔を覆い、さらに声を上げて泣いた。

 その時バタンという激しい音を立てて洋介が部屋に飛び込んで来た。洋介はいつもの焦げ茶色の革のジャンパーとジーンズにパステルカラーのマフラーをしていた。洋介は無言で厚子のそばによたよたと近寄り、ストレッチャーの端に両手をついてうなだれると、笑い声のようなかみ殺した嗚咽を一瞬だけ漏らし、両腕を小刻みにがたがたと震わせて、ストレッチャーを揺らした。しばらくして頭を上げると、

「なんで死んじゃったんだよ。お前のことが頭から離れなくなるじゃねえか。……おれのこと恨んでねえよな、厚子。お前のこと守ってやれなくてごめんな。」

 そう小声で言うと、厚子の変わり果てた顔を見つめていたが、しばらくしてストレッチャーから離れると、うなだれたまま佳奈の隣に立った。ふと早紀を見ると、緊張して体をこわばらせているように見えた。佳奈と早紀のすすり泣く声が静かに室内にこだまし、言葉を交わす者は誰もいなかった。生前の厚子の姿が断片的にいろいろと思い出されて佳奈の脳裏に浮かび、うたかたのようにはじけて消えて行った。しばらくして看護士が部屋を出て行き四人だけになったが、死者を前にして、この三人は語る言葉を持ち合わせていず、じっと立ったまま誰も言葉を交わそうとしなかった。すすり泣く声をかき消すかのように静寂がうなりを上げ、冷気が足元にわだかまり、そして時間が流れ、いつの間にか朝を迎えていた。

 

 九時過ぎごろ、病院からの連絡を受けて厚子の両親が遺体を引き取りに看護師と一緒に部屋に入って来た。禿頭の五十がらみの小柄な父親は部屋に入るなり、厚子に近づき、娘であることをさっと確認すると、「面倒掛けやがって。」と娘の遺体に向かって小声で言った。すると父親の背後にいた額に深い皺が刻まれている背の高い母親が厚子に近づき、涙一つ見せず、娘に手を合わせることもせず、黙って厚子の顔に打ち覆いをかぶせると、看護師に手伝ってもらって、佳奈たち三人には目もくれず、ストレッチャーに乗せた遺体を部屋から運び出し、病院の裏手に待たせておいた車に遺体を乗せ、何も語らず三十分ほどであわただしく逃げるかのように裏門から出て行った。洋介と早紀に厚子を病院に運んでもらったことに対する礼も一言も口にはしなかった。佳奈と早紀は白い排気ガスを上らせてゆっくりと去って行く車に向かって深くお辞儀をし、洋介は顔を上げて、眉間に深い皺を刻みつけて、むすっとして黙りこくったまま三人を見送った。

「アッコは東松山の子なんだけど、あたしはアッコの家がどこにあるかもどこの学校に通っていたかも知らないんだ。だからあたしたちアッコのお葬式には行けないと思う。」

と早紀が寂しそうに小声で言った。佳奈も洋介も早紀も厚子の氏素性を何も知らず、携帯電話が仲を取り持つだけの薄っぺらな関係であった。掛け布団の端をつかみ、嘆き悲しむ厚子の姿が佳奈の脳裏に一枚の写真のように焼き付いた。誰も言葉を発しなかった。その言葉も見つからなかった。洋介もうなだれたまま、早紀と連れ立って二人でバイクにまたがって無言で去って行った。


 佳奈はお昼ごろに友哉のマンションに戻って来たが、その日一日黙って何事か考え込むような様子で、友哉が何を聞いても生返事をするだけだった。その理由を重い口調で聞かされたのは床に入った時だった。この頃、友哉と佳奈は二つ布団を並べて寝るようになっていて、寝る前に睦言を交わすようになっていた。佳奈は厚子が自殺未遂で入院した後、餓死したこと、両親が無言で遺体を引き取りに来たこと、佳奈も早紀も洋介も厚子の葬儀に出席できないことなどを手短に説明した。その後しばらく黙ったままだったが、佳奈が寝つかれないことは友哉にもわかった。

「佳奈、佳奈にとっては今日は厚子さんの通夜の日になるね。通夜の日には、死者について語ると死者を弔うことになるんだよ。そうして死者の霊を慰めるんだ。厚子さんとの思い出話を聞かせてよ。佳奈は厚子さんや早紀さん、洋介君たちとは、どんなふうに知り合ったの?」

「そうなの? それがアッコの弔いになるんだったら、話してみるよ。思い出せる限り話してみる。」

 佳奈は体を友哉のほうに向けてそう言うと、ぼそぼそと三人の出会いを語り始めた。


 半年ほど前、あたしが高校を卒業した直後のことなんだけど、あたしとアッコはファミリーレストランのアルバイト先で知り合い、アッコのライン仲間に金崎亜希ちゃんや近藤瑞枝ちゃんがいたのね。亜希ちゃんと瑞枝は、言ってみればどこからともなく集まって群れるようになったバイク仲間で、その群れの中心にいたのが洋介だったの。洋介はね、中垣洋介と言うの。東洋とか西洋の洋介。バイカーって一度知り合いになると群れるようになるのよ。アッコが亜希ちゃんと出会ったのはファミレスのバイト先で、アッコはいつも笑顔を絶やさないおとなしい女の子だから、誰からも好かれていたわ。それで亜希ちゃんもすぐにアッコと仲良くなり、時々バイクの後ろに乗せてツーリングに連れて行ってくれるようになったの。亜希ちゃんって少し男っぽい性格だったね。アッコはバイクの運転はできなかったからツーリングをとても喜んでいたわ。バイクを飛ばすと気分がスカッとするのよ、そう言ってた。そうして亜紀ちゃんにあたしを紹介したのもアッコだったの。今思えば、あたしたちってアッコがつないでくれた仲間だったのよ。でもあたしたちってお互いの素性を知ってるわけでもなく、別に知りたいとも思わないから、その時その時の気分で付き合うっていうか、浅い関係の仲間だったのよ。みんなそれぞれ仕事を持つでもなく、毎日、何をするでもなくただぶらぶらと過ごしながら、気分が合えばお互いに関係を持ち、それを絆に行動を共にするっていうところがあったわ。洋介と最初に関係を持ったのは、とかく派手好きな亜紀ちゃんだったわ。洋介はとにかく目立ったの。だけど二人の関係は長続きしなかったわね。けんかばかりするようになってね。次に洋介が手を付けたのが瑞枝で、二人の交際は二か月ほど続いたんだけど、洋介は瑞枝にもすぐにあきて、その次に目を付けたのが、あたしだったってわけ。あたしは洋介に言わせると、おとなしくて、行きずりの関係を拒まなかったものの、悪い事に手を染めるのは嫌だったから、洋介にもいけないことはしてはだめよと伝えるようになると、洋介はそれを面白がるようになったんだって。そう言ってたわ。洋介はあたしには暴力を振るわず、洋介との関係は洋介にしては珍しく長続きしたみたい。だけど、妊娠しちゃったでしょ、そうすると今度はあたしの気持ちが変わったのね。あのころは苦しかったわ。わけもなく不安に襲われ、その不安を払拭しようともしないし、また方法を考えようともしないで、無為無策って言うの? 何にもしないで、そのままやり過ごそうとする洋介の態度が、あたし許せなくなったのよ。なにしろ浅い関係だから、薄っぺらな関係って壊れるのも早いのよ。壊れていく関係を修復するやり方もよく知らないから、元には戻らないの。あたしはアッコが洋介に惹かれていることは知ってたわ。アッコの洋介を見る目が、ほかの男の人を見る目とぜえんぜん違うのよ。洋介のことを見る目がうっとりしてたわ。でもアッコは万事控えめだったし、あたしに批判めいたことは一言も口にしなかったし、あたしに意地悪をしたりすることもなくて、すごく優しいところのある人だったんだけど、芯が強いところがあって、洋介とあたしが別れるのをずうっと待ってたんだと思うわ。アッコのアパートは狭山市にあったんだけど、アッコはなぜかそのアパートに入らせてくれなかったの。それで、一度あたしのアパートに連れて来たらね、『あたしのアパートと感じが似てるわ。』ってうれしそうに言ってたのを思い出したわ。その時に、自分のぼろアパートを見られたくなかったんだってわかったわ。そんな時だったわね。バイト先に向かう電車の中でたまたま背の高い友哉を見かけ、なんとなく気持ちが引かれて、それで友哉に近づいたの。電車の中で何度か見かけるうちに、友哉の顔も見慣れて、友哉が今まで見たこともない大人に見えたわ。」

 そう言うと佳奈は白い腕を伸ばして、友哉の首の後ろに入れ、体を引き寄せ、友哉の体を求めて、高ぶる気持ちと体を鎮めた。



 翌日はクリスマスだった。

友哉はこの日一日転勤の残務整理をして過ごし、ローストチキンとケーキをぶら下げ、心を弾ませて帰ってくると、佳奈は電気もつけず、厚手のピンクのTシャツを一枚着込んだだけの格好で、エアコンも付けずにソファーに座って何事か考え込んでいる風だった。厚子のことを考え込んでいるのだろうか。明かりをつけ、エアコンをつけ、佳奈の隣に座ってからそれとなく佳奈に聞いてみた。

「どうしたの? また、友達のことを考えてるの?」

 友哉が聞くと佳奈は黙ったまま返事もせず、つくねんとソファーに座ったままで、どこか緊張した様子で、身じろぎひとつしなかった。

「今日はクリスマスだよ。二人でお祝いしよう。ケーキのほかにローストチキンも丸ごと一羽買ってきたから。」

 佳奈はそれにも返事せず、何かを思い詰めるように考え込んでいたが、しばらくして、やおら体を友哉に向けて、決然とした口調で切り出した。

「あたし、明日実家に帰るね。アッコが亡くなったのも元はと言えばあたしのせいなんだ。アッコの洋介を思う気持ちを知ってたのに、あたしアッコのために何もしてあげられなかった。あたしはさあ、友達のお葬式にも行ってあげられない友達がいのない、どうしようもなくふがいない人間なんだ。だめだよ、あたし一人幸せになることなんてできない。なっちゃいけないんだよ。ほんと言うととてもつらいんだけど、あなたと別れる。友哉、いままでありがとう。すっごく楽しかった。」

と言うと、目に大粒の涙をためて、友哉に抱きついたが、すぐに友哉の肩をつかんで体を離すと、両手で涙を拭った。厚子のことをそこまで思い詰めているとは気づかなかった。佳奈の真剣なまなざしを見つめながら、今度ばかりは止められないかもしれない、ふとそんな不安が頭の中をよぎった。何かががたがたという音を立てて崩れて行く気がした。佳奈をつなぎとめるにはどうしたらいいのだろう。どう言えば佳奈の気持ちが収まるのだろうか。佳奈の気持ちを変えるために何か手立てはないものだろうか。焦れば焦るほど、友哉にはその言葉と方法が見つからなかった。

「急に言い出されてもおれも気持ちの整理がつかないよ。」

と言うなり、冷蔵庫からビールを一本取りだしてコップに注ぐと、一気にあおった。ビールの冷たさが、冷えた体の中を流れ落ちて行く。やり場のない怒りさえ沸き起こってきた。

「佳奈、ここにいてくれないか…。」

 友哉がその言葉を口にした瞬間に、突然呼び鈴が鳴り、友哉がドアを開けると洋介だった。「またお前か。」と言う友哉の言葉を無視して、洋介は玄関先に立って、今まで一度も見せたことのない晴れやかな笑顔を作って佳奈に話しかけた。

「今日は佳奈にさよならを言いに来たよ。おれ、今度横浜にある自動車会社に就職することになったんだ。二個上の先輩がおれに見つけてくれたんだ。お前のために頼んでた話だったけど、そこはもうあきらめたよ。もうお前に会うことはないと思うんだけど、どうしてもこのことをお前にだけは伝えたいと思って来たんだ。もうおれにはこんなことを話す相手もいないし、佳奈に一緒に喜んでほしかったけど、そこはもうあきらめた。」

「いい加減にしろ洋介。お前はもうここには来るな。お前が来ると佳奈が怖がるじゃねえか。」

「佳奈はおれのことを怖がってなんかいないよ。おれのことが信じられねえだけだ。そうわかっていても、自分でも何ともしようがないから、このままそっと別れるんじゃねえか。それで、おれの人生をリセットするつもりなんだ。だけど、おれは佳奈にだけはおれのほんとの気持ちをわかってもらいたかったんだ。今だから正直に言うけど、おれは佳奈が大好きだった。」

と、洋介はむっとした表情を見せて、友哉のほうは見向きもせず佳奈に話しかけた。

「わかったよ。洋介、そんなとこに立ってないで上がったら? あなた、洋介を上げてもいい? ちょうどよかった。これからみいんな別々の人生を歩んで行くんだ。なんか最後の晩餐って感じになったわ。悲しくないからそのほうがいいかも。これクリスマスケーキでしょ。こっちにローストチキンもあるわね。洋介にも分けてあげていい?」

 そう言われて洋介は黙って家の中に入り靴を脱ぐと、窓框のソファーの脇にあの日と同じように膝を抱えて座った。あの凶暴な感じがすっかり影を潜めて、おとなしくなっているのは、佳奈に会えるのもこれが最後だと思っているせいからかもしれない。その間に佳奈は友哉の返事を待たず、包みを開け、まず中からイチゴが載ったショートケーキを取り出すと、ナイフで三つに切り分け、その後ローストチキンを切り分けた。

 そこへまた呼び鈴が鳴った。友哉が出ると仲根だった。友哉はふと嫌な予感がした。騒ぎになる、そんな予感だった。同時に、洋介が膝の間に顔を埋めたままいっこうに帰る気配を見せないので、ほっとしてもいた。会ったことのない他人が混じっていれば、仲根も少しは行動を控えるだろう、ということへの期待だった。仲根はぶらりと部屋に上がりこむと、「差し入れだ。二人で飲もう。」と言ってウイスキーを友哉の腹に押し付けるように渡した。それから黒色のダウンのコートをハンガーに掛けると、佳奈の顔を見つめながら言った。

「クリスマスだから、さぞかし寂しい思いをしているんじゃないかと思って来てみたんだが、おお、お前にもついに女ができたか。……なんだか子供っぽい女だな。でもお前にはちょうどいいか、このくらいがな。そうだ、おい、女もいることだし、このあいだの続きをやろうか。五か月くらい前のな。それに、……ケーキとチキンか、おれの分も一つ用意しておいてくれ。さてと、飯ができるまでの腹ごしらえだ。今度はおれはあそこに五分ぶら下がってるよ。この前は三分だったけどな。女もできたことだし、お祝いに五分にしよう。いいか、五分だぞ。……おっ、まだ誰かいるぞ。なんだこいつは。見るとまだ少年ではないか。おい、友哉、今日はひさしぶりににぎやかな一日を過ごしてたんだな。少年、ちょっと悪いな。おお、そうだ、少年、お前もそんなところにうずくまってないで、おれたちと一緒に体力測定を後でやってみろ。気分転換にはもってこいの遊びだぞ。」

と言うと仲根はにやにや笑いながら窓に近づき、窓枠に手をかけてよいしょと言いながら窓の外に体を出してぶら下がった。友哉は仲根の気分が高揚していることがわかった。観客が入ると燃え上がるラガーマン精神、といったところだ。

「あたし、女って言う名前じゃありません。相澤佳奈と言います。」

「そうか。おい、女、お前五分たったら言うんだぞ。ちゃんと時計見てろよ。お前とはやっぱり仲直りしとかないとだめよと有美子にも言われてな。仲直りするために何をしたらいいんだろうとおれなりにじっくり考えてみたんだが、友哉、お前とはこんな遊びじゃないと一緒に遊べないんだよな。もっとも、こういう遊びがいちばん面白いんだけどな、スリルがあってよ。だから、友哉、お前もおれの後でやってみろ。遊びに付き合え。」

 そう言うと仲根は下を向き、黙ってじいっと窓にぶら下がり続けた。佳奈がスープを作るためなのか、鍋を火にかけてタオルで手を拭きながら、「大丈夫なの?」と友哉に聞き、時計と仲根をかわるがわる見つめた。洋介がもっそりと立ち上がって仲根をちょっと見た後、窓枠に手をかけて仲根の様子を見ている友哉の顔を見つめながらにやりと笑うと、テーブルの椅子に座ってから台所に立ってコップに水を入れて戻って来た。これが大人のすることなんですか、とその笑いが語っている。「こういう男もいるんだよ。」と、友哉は洋介に答えるともなくつぶやくように言った。

 それにしてもなぜこうもぎくしゃくしてぎこちないのだろう、と友哉は佳奈の髪の匂いをかぎながら思った。訪ねて来るとなると次から次にやって来る。それぞれがそれなりに訪問の意図があるのだろうに、素直に表現すればそれだけで済むものを、自分の型に固執し、もってまわって隠すものだから、芝居を打たなければならなくなる。自分にも他人にも演技を続け、こねくりまわして行くのだ。そう、これが他人の世界との衝突である。世界と世界が衝突して新たな世界に変容していく。だが、ことによるとその先こそおれの永遠の出発点になるのかもしれない、と友哉は佳奈の隣に立って、頭を下に向けたままの仲根を黙って見つめながら思った。衝突は歪みを生む。まわりが歪んでいれば、自分も同じように歪んで見なければその歪みにさえ気づかないだろう。無為にして道化た労力である。この無為にして道化た未決な事態は、永遠に向かって放り出された時に初めて裁断されるようになっているのかもしれない。あるいは、これこそがおれの到達点なのだろうか。そんなはずがない。裁断を下す者はこのおれだからだ。新たな世界の初めか。そうしてその初めは永遠にはじめを繰り返して行く。時が煮凝りのように固まって静かにもたもたと過ぎて行った。仲根の顔が紅潮し始めた。うんともすーとも言わずにじっとぶら下がっているだけなのだが、腕がなえて五階のこの部屋から落ちたらたぶん助からないだろう。仲根の様子を見ると、仲根は顔を紅潮させはしたものの息は少しも上がってはいなかった。五分はすぐに経った。

「五分よ、五分。」

 佳奈が叫んだ。仲根がそれを聞いて手に力こぶを作り、よっこいしょと言いながら這い上がって来た。

「五分よ。すごおい。……ねぇ、まさか、あなたはこんなことしないわよね?」

 佳奈が面白い見世物を見たかのように興奮した口付で言った。佳奈の気分も高まっていることがわかった。おれも遊びに付き合ってぶら下がってみようか。だが、できるだろうか。五分間は短いようで長い。ただ黙ってぶら下がっていれば五分などすぐに経ってしまうように思えるが、大学でラグビーを始めて今も体を鍛え続けている仲根だからできるものの、並の腕なら二、三分が関の山だろう。二本の腕だけで八十キロ近くの体重を支えるのは、よほど訓練しないとできないものである。だが、それでもやってみよう。佳奈をつなぎとめるにはこうするしかない。友哉は決心した。

「佳奈、おれが五分ここにぶら下がっていたら、お前はおれのそばにいておれと一緒に名古屋に行ってくれるか? そして今後一切別れるなどと口にしないでもらいたいんだ。それを今約束してほしい。」

「えっ?」

「どうだ、佳奈、賭けないか? おれが五分ぶら下がっていることができたら、お前はおれと一緒になるって。」

「本気なの?」

「ああ、本気さ。」

 佳奈は椅子に腰掛けている洋介を振り返った。洋介は顔を赤らめ、友哉の顔をちらりとのぞき見ると、足を組んで声高に言った。

「ああ、おれはいいぜ。なんかすごくばかばかしいんだけど、ばかばかしいからそれでいいよ。じゃまはしない。」

「いったい何をごちゃごちゃ言ってるんだ? さっ、次は友哉の番だぞ。五分間だ。頑張ってくれよ。女もできたことだし、みっともないまねはできないよな。五分経って腕に力が入らない時はおれが引き上げてやるから心配するな。」

 仲根がにやにやしながら佳奈の肩に手をかけた後で友哉の隣に立って友哉の背中をポンと叩きながら言った。友哉は佳奈の頬を赤らめた顔を見ながら仲根に手伝ってもらって窓の下にぶら下がった。

「……わかったよ。いるよ、あたし、あなたといるよ。……ほんとだよ。約束する。だから、ぜえったいここから落ちないでね。」

「おお、いい女見つけたな、友哉。思いもよらなかった展開じゃねえか。こうこなくちゃな。そうだよな。どうあっても絶対に落っこちるんじゃねえぞ。……おい、お前、男のこんな真剣な顔見たことあるか、男が女のために命を懸けるなんてな。ええっ? いいもんだろう。ヒャッヒャッヒャッ。」

 仲根の甲高い笑い声が耳にこびりついていっかな離れない。ヒャッヒャッヒャッ、一息吸うごとに喉を掻き鳴らすようにヒャッという音がしぼりだされ、仲根は腹を揺すって立て続けにヒャッを連発した。


 時間が軋りつつ静かに停止したように思える。

「目が……、何も見えなくなって行くようだ。」

 盛り上がった肩の間にめりこんだ口から、真っ白い言葉が、ざらつき、くすんだ壁面を伝って暗がりに力なく沈んで行く。青白く変色した指先が蜘蛛の足のように内側に曲がり、ぶるぶると震えている。どんよりとよどんだ目が空をうつろに見上げ、風にあおられて頭頂の髪の毛が踊り、前髪だけが汗に濡れて額にこびりついていた。指先が痛いほどに冷たい。

「あと一分、あと一分で五分だ。もう少しだから、頑張るんだぞ、友哉。」

 臙脂色のセーターを着込んだ仲根が、蒼白の顔と腕時計をかわるがわる見つめながら、時折唇の端を噛んで声高に言った。しかつめ顔をしていても、笑いを噛み殺しているのがすぐにわかった。

「ねえ、もういいかげんにしたら?」

 その言葉をもう少し早く言ってくれたらよかったのに。このまま落ちてしまったらどうしたらいいだろう。

「いーち、にーい、さあーん。」

 友哉は頭の中で震えながら数を数えてみたが、指先が気になり、三より先を数えることができなかった。顔をめぐらせてぶらんと垂れ下がった足の下によどむ暗がりに目をやった。視線をおろおろとさまよわせ、うろつくうちに、気が遠くなるほどはるか下に家が見え、四角に切った、黄色い光を投げ上げる天窓から人影が見えた。見覚えのある女がふいに立ち止まってこちらを見上げ、分厚い胴体に首をめりこませて笑い顔を浮かべたかと思うと、圧縮されて脹らんだ顔を二度三度左右に振り、それから下を向き、何か叫んだらしい。すぐにでっぷりと太った女が現れ、こちらを指差しながら体を揺すって声を立てずに笑い始めた。女のはじけるように笑っている笑い顔を見つめながら、友哉は笑われている気はしなかった。もう、どうにもならない……。またも指先が気になり、時間の長さが気になった。いったいいくつまで数えたのだろうか。

思考が光の速さで巡って行く。

 腕がしびれ豆がはじけるように感覚がまひし始めている。三? 四? 五? どこまで数えたのか思い出しながら、もう一分はとうに経っているのではないかと思えた。仲根はまだ腕時計を見つめている。まだ十秒も経っていないのだろうか。やはり自分で数えたほうが……。一、二、三……。これ以上は体を支えていられないかもしれない。重くてどうにもならない顔を上げると、仲根は窓框に両手を突いてすずしい笑顔を見せながら、

「友哉、もうすぐ五分だ。」

と、さもつまらなそうに言った。その後から佳奈が背中に黄色い光を放散させながら、心配そうに目をいっぱいに剥いて友哉の顔をのぞき込んでいる。仲根が窓枠の壁に右肩をつけて半身になって友哉をじっと見つめている。佳奈の後ろから洋介がにやりと笑いながら友哉を見ていた。友哉はふと、自分がいなくてもこの世界はこのまま存在し続けるのだ、と思った。この世界にしてみれば自分は飾りにもならない。だが、世界にとってはそうであっても自分はこの世界の中で染みのように、壁についたかさぶたのように生き続けて行くしかないのだ。這い上がるに上がれず、落ちてしまえばそれで済んでしまうのだが、そんなことはできない。このまま未来永劫にわたって宙ぶらりんのままぶら下がり続けることもたまらない。ここだったのだ、この闇の視界に四角に切り取られた黄色い窓辺以外におれの出発点などあるはずもなかった。これがおれにとっての「初め」だったのだ。ここで世界を切り取り、自分を切り取って瓶に詰め、保存していくのだ。佳奈がいればそれもできる……。もう少しだ。何とかなる。

 黄色い窓辺に立つ女の真剣な眼差を友哉は見つめていた。友哉にはこれが長いこと捜し求めてきたもののように思えた。自分のことだけを真剣に見つめてくれる者を友哉は求め続けてきたのだと確信した。その探し求めていた者がここにいることをはっきりと意識もし、その安堵感から、友哉は安心した。もうすぐ五分か。大丈夫だ。少し気力も出てきた。指先に血が巡り、力も加わってくるように感じた。これなら耐えられるだろう、そう思った。友哉は空を見上げた。星が小さく瞬き、確かに息づいていることを教えている。この星を見ながら待てばいいのだ。そうすれば佳奈はおれのそばにいてくれる。そう思いながらも腕が次第にしびれてくるのをとどめようがない。昨日もう少し寝ていたほうがよかったか、とそのしびれをごまかすように友哉は思った。

「あと、十秒だよ。友哉、あとちょっとだから、頑張ってね。」

 友哉は黙ったままうなずいた。もう顔を上げることもできない。腕がどうしようもなく重い。だが、もう少しだ。あと少し……。

「……五、四、三。もういい。もういいよ、友哉。」

 佳奈が涙声でそう言って友哉の腕に触れた時だった。

「ばか、何すんだ。」

 仲根がそう言いざま、佳奈の顔を腕ではねつけると、佳奈はきゃあっと叫び声を上げ、その瞬間、友哉は、「弘樹、佳奈に乱暴するな。」と怒鳴りながらとっさに拳を振り上げていた。友哉は自分の体が壁から剥がれ落ちる奇妙な大きな音を耳にした。それはザルッという今まで聞いたこともないような不気味な音だった。しまった、と思いながら、友哉は佳奈に向けて手を伸ばして壁面を叩いてみたが、落下を止められるはずもない。きゃあああああっ。甲高く尻上がりに細くなって行く短い叫び声が、尾を引いて昇天して行く。両手で口を押さえ目を見開いた佳奈の顔がフラッシュをたいたように網膜に張り付いた。だめだ。全身の血が一時に下がり、屋上の星が激しく瞬いたように見えた。ああ、きれいだ……。落ちる……落ちる……落ちて行く……。

 少しずつ小さくなっていく黄色い窓辺が見える。現実の世界からはがされるように落下して行くのだが、その現実はそこから離脱してしまえば一枚の写真である。自分はこの写真のかさぶたにすぎないのだ。

 友哉は首を縮めて落下して行った。落ちながら落下して行く自分が見えたような気もした。

「友哉、友哉、ともやあ……。」

 佳奈が上体を窓から乗り出しながら友哉を呼んだ。お前もやっとおれの名前を呼んでくれたな。佳奈、おれは目覚めることができるだろうか。今朝と同じように佳奈の隣で目覚めたい。お前の声が聞きたい。だが、おれが佳奈のそばで目を覚ますことはもうないのだろう。佳奈。友哉は佳奈の名前を呼びながら静かに目をつぶった。佳奈は……。



      十



「ここはどこ?」

「ああ、よかった、友哉。……よかった、気がついたのね。もう大丈夫ね。このまま死んじゃうんじゃないかとずいぶん心配したわ。もう二度とあんなまねしないでね。」

 聞き慣れたなつかしい声がする。佳奈の声だ。そうだ、おれはあの窓辺から落ちたんだ。助かったのか。体を動かそうとしたとたんに背中に激痛が走った。うんっ、とうめき声を上げると、佳奈が友哉の肩を押さえて、

「動いちゃだめよ。背骨がけがしてるんだから。」

と軽くたしなめるように言った。

「背骨がけが? ここはどこ? 今何時?」

 頭を動かすことはできた。窓の外を見ると白いレースのカーテン越しに青い空が見える。助かったんだ、おれは。間違いない、佳奈がおれのそばにいる。よかった。視線を移すと、病院のパジャマなのであろう、空色の格子縞のパジャマを着込んでいた。個室らしく、ベッドと窓の間の枕元に置かれた椅子にあの日と同じ厚手のピンクのTシャツを着込んだ佳奈が座り、足元の台の上に置かれたテレビに人の顔が映っている。腰から下の感覚がまったくないのは、けがのせいだろうか。テレビの前に置かれたもう一脚の椅子の上のイヤホンから乾いた小さな声が漏れていた。

「ここは埼玉医科大学総合医療センターと言うところよ。救急車でここに運び込まれたの。あんな高さから落ちれば普通は即死だけれど、この人は運が強いんですね、つつじの植え込みの上に落ちるなんてね。それでも生きてるのが不思議なくらいだって救急隊員の人が言ってたわ。ああ、よかった、生きててくれて。……時間? 今は午後一時よ。麻酔が効いたのかしらね、丸一日半寝てたわ。」

そう言うと、佳奈は友哉の顔を両手ではさみ、額を付けて頭を左右に二度三度振ってこすりつけた。佳奈の髪の毛が頬と首筋にかかり、髪の毛のやや強い匂いと手のぬくもりと額の冷たさがこもごも伝わり、生きていることが実感できた。

「丸一日半? ということは今日は何日? 十二月二十六日になるの?」

 佳奈は顔を離して、

「二十七日よ。記憶が一日抜け落ちちゃってるのよ。おかゆがあるけど食べる?」

「おかゆ? ああ、食べたいな。」

 佳奈がスプーンにかゆを掬って口に入れてくれた。かゆの生ぬるいどろっとした塊が口に入り、ほんのりとした塩味があっておいしいと思った。

「どうして助かったんだろう。落ちながら、ああ、おれもこれで死ぬんだって覚悟したよ。」

「もう少し食べて……友哉は運が良かったのよ。さっきも言ったけど、たまたま下につつじの植え込みがあって、その上に落ちたの。つつじがクッションになって、あなたは助かったの。つつじはそこのところだけ丸くつぶれてたわ。首筋についているひっかき傷はつつじの枝につけられたものよ。友哉が落ちた後、あたしと仲根さんが駆けつけて、あなた真っ白い顔してたわ、それで、首に抱きついたら、かすかに息をする音が聞こえて、「息してる。」って叫んだら、仲根さんがすぐに救急車を呼んでくれたのよ。そしたら十分で救急車の人が来てくれて、近くの病院は外科医が不在で対応できないと言うので、あなたに酸素マスクをつけて、ここの病院に来たってわけ。仲根さんも一緒について来てくれたのよ。それでレントゲンで見てみたら背骨が折れているので、なんと言ったかな、脊椎固定術とか言う緊急手術をして、それもうまくいって、ここに寝てるわけ。だけどしばらくは車いす生活だって。」

「そうか。車いすか。……確か洋介君もいたよな。」

「洋介はあたしたちが一階に降りている間にいなくなったわ。もう現れないと思う。」

「そうか。」

 友哉はスプーンを持った佳奈の手を無言で右手で握り、手のぬくもりがさっと友哉の脳内を走り、もう一口かゆを食べると、また眠気に襲われ、そのまま眠りに落ちた。

 

 気がついたら部屋の中は暗く、佳奈もピンクのTシャツを着込んだまま隣の簡易ベッドで横になっていた。佳奈も着替えなどを持って来ていないようで、着た切り雀になっている。十二月の末だが、病院の中は温度が適切に保たれているから寒いということはなかった。突然ドアが開いて看護師が入って来た。夜間の巡回であった。白衣が黒い影を帯びて薄墨色に変わっていた。看護師に「喉が渇いた。」と言うと、ペンライトを点けてベッドサイドテーブルの上に載せてあった水差しから水を飲ませてくれた。

「いい奥様ですね。ずっと寝ずの看病をされていたんですよ。でも今日はお休みになったみたい。」

 看護師は佳奈のほうが気になるらしく、佳奈の掛布団を直して佳奈の肩上まで引き上げて部屋を出て行った。病院には妻と伝えてあるのだろう。車いす生活になるらしいが、佳奈はそばにいてくれるだろうか。不安ではあったが、もしもこのまま車いす生活が続くようなら、佳奈を近いうちに解放してやらなければならない、と思った。まだ二十歳前の佳奈を車いすに乗るようなけが人に縛り付けておくのは許されないと思った。だが、おれは誰の手助けもなしに、一人きりで生きて行くことができるだろうか。不安だらけであったが、考えても始まらない、なるようにしかならないのだから、そう思って観念することにした。時間が気になったが、時計も携帯もなく、何時なのか皆目見当がつかない。目が冴えて、友哉はレース越しに見える窓の外の虚空を見つめながらしばらく起きていた。佳奈の寝息が聞こえてくる。また佳奈に会えたうれしさがふと込み上げてきた。生きててよかった。


 朝方、今朝方見回りに来た看護師がまた見回りに来て検温と、血圧と血中酸素濃度を測定して書類に記入し、午後教授の回診があることを告げた後、食事は今日と明日はかゆを食べ、大丈夫なようなら、明後日から通常の食事になることを書類を見せながら説明して部屋から出て行った。佳奈には通常の食事が出ていた。

「友哉、あたし着替えとかタオルとか病院から言われたものを持って来るから、いったん家に戻るね。」

「佳奈、おれの財布は? ……背広の内ポケットに入っているから、それも持って来てくれ。お金はこれからはおれのを使ってくれ。通帳は飾り棚の引き出しの中に入っていて、そこにお金も置いてあるから、念のためにそれも持って来てくれないか。」

「わかったわ。ありがとう。」

と言って佳奈が出て行くと、何もすることがなく、排尿が気になったが、足の感覚がなく、性器に管が通されて簡易便器につながっていた。すべてが通常と異なっている。この状況はいかにも不自由で、通常というのがどれほど自由なことであるか、友哉は身にしみてわかった。


 午後になって所沢警察の安田という中年の刑事と筧という若手の刑事がやって来て、病院からあなたのことで連絡が入ったので、少しお話を伺いたいと言う。そこへ佳奈が荷物を抱えて戻って来た。筧が佳奈に、「奥様ですか。」と聞くと、佳奈は荷物を自分のベッドに置きながら、「そうです。」とはっきりした声で答えた。その返事を聞いた筧がにやりと笑うと、安田が筧の口をぴしゃりと右手の甲で打ち付けた。筧は一瞬驚いた表情を見せたが、うなだれて、安田の背後に隠れておとなしくなった。

「お勤め先からお話いただけませんか。」

「三藤商事の竹内友哉と言います。」

「窓の外から転落した、ということなんですが、その時の状況を詳しくお聞かせいただけませんか。」

「十二月二十五日の夜のことです。クリスマスの余興に会社の同僚と窓の外にぶら下がる遊びをしていたんです。窓の外にぶら下がるのは前にもやったことがあります。同僚はラグビー部で、腕力も強く、五分くらいなら窓框にぶら下がっているのは、訳もないことなんです。私もできると思ったんですが、時間がものすごく長くて、手がしびれてしまい、つい窓框から手を離してしまったんです。」

「落ちる前になぜ助けを求めなかったのですか。遊びとはいえ、途中でやめるということは考えなかったのですか。」

「なぜだかわかりません。妻に五分間ぶら下がると約束した手前、妻の前でかっこ悪いところは見せたくなかったんだと思います。」

「それで頑張った、ということでしょうか。」

「そうです。」

「どなたかとけんかして突き落とされたというようなことは?」

「それはありません。刑事さん、これは事件ではありません。私が言うんですから、間違いありません。」

「奥様もその時そばにいらしたんですか。」

「はい、いました。友哉が言う通りです。私はやめてほしかったんですけど、私が友哉の手をつかもうと思ったらその手を払われてしまって。」

「手を払われた。それでご主人が窓から落ちたと言うんですね。誰があなたの手を払ったんですか。」

「会社の同僚の方です。」

「同僚ですか。その方のお名前とご主人との関係を教えていただけませんか。」

「仲根弘樹と言います。私と同期の間柄です。あと二、三秒で五分だから、最後までやらせたかったんですよ。彼はね、スポーツマンだから、ルールに厳しいところがあるんです。刑事さん、これは私の不注意なんです。事件性はありません。」

「なぜ仲根さんをかばうんですか。あなた仲根さんに何か弱みでも握られているんじゃないですか。」

「別に弱みなんてありません。」

「そうですか。」

「刑事さん、その辺でよろしいでしょうか。まだ友哉も療養中ですので、これくらいで。」

「これは奥さん失礼しました。事件性があるかないかを調べるのが我々の仕事なもんですから。ですが、今のお話は傷害罪の疑いもありますし、重過失という観点からも重要な点ですので、仲根さんにも念のためにお話を聞いてみたいと思います。話の内容次第では、もう一度ご主人にお話をお聞かせいただくこともありますので、その際はご協力をお願いします。それじゃあ今日はこのくらいにして失礼します。」

 そう言うと、友哉と佳奈にそれぞれ一礼して、安田が筧の腕を引っ張るようにして病室を出て行った。

「商売とはいえ、あの人たちも大変だよな。……佳奈、さっきから足がしびれたような感覚があるんだよね。少し興奮したから、血行がよくなったのかも。もしかしたら、リハビリをすると歩けるようになるかもしれないな。」

「ほんと? ああ、よかった。実を言うとね、ずうっと車いす生活じゃ大変かもって思っていたところなんだ。ごめんね、こんな不謹慎なこと言って。」

「いいさ、そう思うのが普通だよ。佳奈はうそがつけないから、そこは安心だよ。」

 そんなことを話しているところに、刑事と入れ替わりに金子がやって来た。金子はお見舞いの果物をベッド脇のテーブルの上に置き、コートを脱いで友哉に話しかけた。

「竹内君、会社は明日から年末年始の休暇に入るから、その前に様子を見に来たんだ。どう体の具合は? 仲根君から聞いたけど、窓框にぶら下がる遊びをしてたんだってね。いい年をしてそんな危ないまねはするもんじゃないよ。竹内君、こちらは?」

「私の内縁の妻です。経理部の畑中さんには伝えてあります。名古屋にも一緒に行きます。」

「そう。初めまして、国内商品部の課長を務めております金子と申します。」

「初めまして、相澤佳奈です。」

「いよいよ君も身を固める気になったというわけだな。こんなかわいらしい人なら、ほっておけないよね。よかったな、助かって。……それで、竹内君、名古屋営業所に赴任するのはもう少し後になるね。そのことは松木さんに僕から伝えておくけど、松木さんも来年はもういないから、新しい部長から指示があるだろうね。君は療養に専念して一日も早く元気にならないとね。」

「課長、もしかすると私車いす生活になるかもしれないんです。名古屋に行けるでしょうか。車いすを押してでも行きたい気持ちはあります。」

「そう。そういう前向きな気持ちが大切だよね。たぶん、来年改めて検討されるだろうけど、だとしてもだ、いったん決定された以上は元に戻すってことにはならないと思うよ。職位っていうのは、それにふさわしい社員に与えられるものだから、人物本位に作られているんだよ。君もそこのところは安心して、車いす生活が長く続かないように、そのつもりで早くよくならないとね。入院はどのくらいになりそうなの?」

「そこは医者から聞いていないので、わからないんですが、今日教授回診があるということなので、確かめておきます。課長、ありがとうございます。少しほっとしました。……ところで、仲根君の新会社はどうなるのですか。何か聞いてますか。」

「さあ、仲根君のことはよくはわからないけど、うわさじゃ順調に進んでいるそうだよ。彼はやり手なんだってね。」

「彼は、予定が組まれたら、それに向かって突き進んで行くんです。ラガーマンのお手本みたいなやつなんですよ。」

「そうか。君の元気そうな顔を見て、かわいらしい奥様にも会えたことだし、それじゃあ、今日のところはこれくらいで帰ることにするよ。年末でやることがたくさん残っているんだよ。帰って、この件の報告もしなくちゃいけないしね。」

 そう言うと金子はあわただしく帰って行った。人一人がいなくなったとたんに、また静けさが部屋を押し包んだ。今日は静けさがかえって耳にまとわりつくようで、気分が落ち着かず、佳奈にテレビをつけてもらうと、いろいろな声のざわめきが耳に入り、落ち着きを取り戻すことができた。

「……今日はずいぶんおしゃべりをしたな。少し疲れたから、休むことにするよ。」

 佳奈はベッドと窓の間にある椅子に腰掛けて、友哉の手を握りながら、話し掛けた。

「それじゃあ、少し寝てるといいわ。あたしさあ、この二日間、いろんなことを考える時間があったから、考えていたんだけどさあ、あたしは来年名古屋に行ったら働こうと思うの。万一あなたが車いす生活になっても、働いてあなたを支えて行こうと思うの。人間って死ぬ時は一人で死んで行くけど、生きてる間は、ともに生きて行くっていうことなのかもしれないって思ってさ。神様って、こうしてほしいって思うことにはちっとも見向きもしないけど、でも思いがけないところで助けてくれるから、おあいこなのかなって今も思う。今度もきっと神様が助けてくれたんだよ。あたしはさあ、これまでまわりの人との関係が風に吹かれるとどこにでも飛んでっちゃうような紙切れみたいな人生を過ごして来たんだけど、今度は根を生やしなって言われてる気がするわ。一本の木になりなって言われてるようだよ。あたしさあ、あなたと一緒の木になるよ。そういうの連理木って言うんだってね。二本の木が根元は別々だけども、途中で枝が一つになってる木のことだよ。ネットで調べてたらたまたま見つけたんだよ。何で連理って言うのかよくわからないけど、あたしたちそんな木になろうね。」

 佳奈の話を聞いていたら眠気も消え、もう少し話に付き合うことにした。

「だけど、もしかしたら、おれの体は元に戻らないかもしれないから、佳奈はほかの男と一緒になって自分の幸せをつかむように考えるほうがいいんじゃないかなあ。」

「いじわるね。あたしさあ、理由はわからないけど、きっとあなたがそんなこと言い出すんじゃないかなって気がしたの。でもさあ、それって、卑怯なんじゃないかって思うわ。卑怯は言い過ぎかもしれないけど、気が弱くなってるって言うかさあ。ちっとも男らしくない。ほんとにあたしのこと思ってくれるんなら、体を直すように一生懸命頑張ってほしいの。あたしさあ、ほんとのこと言うと、友哉がぶら下がってくれてうれしかった。あなた細い腕で男気を見せてくれたんだもの、うれしくないはずがないじゃない。あたしのためにこんなことしてくれるの世界中で友哉しかいない、そう思ったの。だからさ、あたしも一緒になろうって決めたんだよ。これからは何でも二人で一人前よ。わかった?」

「佳奈、ありがとう。……おれ、佳奈の言うとおりにして、直すように頑張るよ。まだ、希望はある。」

 佳奈の言葉はギプスのように力強く響いた。一人ではうまくできないことも二人で力を合わせたらできるようになることもあるのではないだろうか、と友哉は思った。

 不意に静寂が流れ、友哉は目を閉じて窓から落ちた時のことをぼんやりと思い返していた。あの時は佳奈の気持ちを押し止めることに気がとられていたが、今思い返してみると、あの時妙に心に引っ掛かった言葉があった。確かあの時、仲根は「思いもよらなかった展開」と言っていた。「こうこなくちゃな」とも口にした。「展開」とはどういうことだろうか。そう言えば以前仲根は「ライバルに対する付き合い方というのもあるから、これからはそれを踏まえて行動する。」とも言っていた。つまり、二人の関係をライバルとしての関係として、互いに対立する者として見直すということを暗に言っていたのではないだろうか。そう言えば確か仲根は「ライバルになりそうな者は早めに蹴落とす」とも言っていた。「それは勤め人の宿命」とも口にした。「宿命」か。どういうことなのだろう。友哉は目を開けて、隣のベッドに座って携帯の画面を見ている佳奈を見て、再び目を閉じた。ことによると、仲根は最初から友哉にも遊びに参加させ、おれが窓から落ちるように仕向けたのではないだろうか。だからあの日クリスマスに事寄せてウイスキーを下げてやって来た。そして芝居を打って友哉が窓からぶら下がるように仕組んだ。体を鍛えていない友哉が五分も持ちこたえられるはずがない、仲根はそう踏んだのだ。本当は酔わせて窓にぶら下がるお膳立てをしてから友哉を落下させて殺そうとしたのではないだろうか。殺すまでいかなくとも最低でも廃人にする。これが「蹴落とす」の裏の意味だったのではないだろうか。だが、偶然つつじの植栽の上に落ちておれは助かった。仲根はそのことをどう思っているのだろうか。このことは仲根自身に確かめた方がいい、と友哉は思った。友哉はまた目を開けて高鳴る鼓動を聞きながら天井を見つめ、窓の外を見やり、静けさに包まれながらもう一度生きていることを確かめた。


 夕方の四時ごろ、部屋をノックする音が聞こえ、入室してきた看護師が「教授回診です。」と告げた。中背の四十代に見える丸い眼鏡を掛けた教授が笑みをたたえて友哉の枕辺に立つと、その教授を囲むように白衣を着た付き人たちが並んだ。

「竹内さん、手の曲げ伸ばしをしてください。手は動かせますか。……できますね。手の指はどうですか。……問題ないですね。次に足はどうですか。足は動かせますか。……足はまだ動かせそうにないですね。……私が膝をたたいているのがわかりますか。……感じますか、そう、少しは感じるんですね。竹内さん、この手や指の運動を意識してやってください。筋肉がこれ以上落ちないようにするためにも続けてください。竹内さん、あなたは運が強い人ですよ。つつじの植栽の上に落ちたから、助かったんですよ。そうじゃなかったら間違いなく即死でした。明日もう一度CTを撮って詳しく調べますけど、レントゲン写真を見た限りでは、背骨の胸椎と腰椎の間が折れていますけど、処置が早かったから、これはね、時間が経てば治ると思います。それ以外は首の骨も、背骨も折れていないようですし、まだ排尿がうまくできないという問題が残りますが、体は動くようですので、不幸中の幸いですね、脊髄はおそらく損傷していないのではないかと推察されます。退院後一か月ほど車いす生活になりますけど、頑張ってリハビリをすればそのうち杖なしでも歩けるようになりますよ。よかったですね。明日からリハビリを行ってください。リハビリは早いほどいいです。最初は体が痛みますが、続けているうちに痛みも和らいで来ると思いますよ。それから奥さん、ご主人が体を動かすのを手伝ってあげてください。一日に、回数を多くして、そうですね、五、六回くらい、体位を変えてあげてください。体位を変えるのが重要なんです。」

「わかりました。」

「先生、ありがとうございます。それをお聞きして私も頑張れます。それで先生、ここにはどれくらい入院が必要ですか。会社にも伝えないといけないので。」

「そうですね、入院自体は一か月くらいじゃないでしょうか。まあ長くても二か月でしょう。背骨が癒合するまでに約一か月、完全に癒合するには約三か月かかります。気長にかまえることです。」

「長いと二か月ですか。」

「よかった。先生ありがとうございます。」

「いや、奥さん、奥さんが救急車を呼ぶのが遅れていたら、もっと深刻な事態になっていたかもしれません。竹内さん、あなたも奥様に感謝しなければなりませんね。」

 そう言い終わると教授は助教授やら講師やら看護師やらを大勢引き連れて次の部屋に移動して行った。



 翌日の午前中、膝から下がむずがゆく感じられ、わずかだが膝を動かせるようになった。足指の曲げ延ばしもできるのは素人判断でも快方に向かっていると思えた。

 午後になって、仲根が有美子と一緒に見舞いにやって来た。

「おお、友哉、元気そうじゃねえか。そうだよな、こんなかわいい子を置いてあの世なんか行けないよ。」

 友哉が仲根のいつもの張りのある声を聞いて笑顔を作ると、有美子が、

「お見舞いの品物です、ここに置いておきますね。まあ、ずいぶんたくさん果物があるわ。」

と佳奈に言って、サイドテーブルに果物の詰め合わせを置いた後、黒色のコートを脱いで丁寧に畳んで両手に持ちながら、にっこりと笑顔を作りながら頼んだ。

「竹内さん、弘樹さんはもう初対面の挨拶を交わしているらしいんですけど、あたしにも紹介していただけますか。初めてお会いする方です。」

「ああ、おれは救急車の中で自己紹介を済ませてある。」

と仲根が佳奈のほうを見てにやりと笑いながら言った。

「こちらは相澤佳奈と言って、僕の婚約者です。佳奈、こちらは仲根君の婚約者で本庄有美子さん。来年結婚式を挙げるんだけど、もう有美子さんの家で同棲してるんだ。」

「初めまして、本庄有美子です。あたしが付いていたら、そんな危ない遊びはさせなかったんですけど、どうか許してください。……そうね、見た感じでは、あたし、年齢はあなたと近いかも。」

「相澤佳奈です。どうかご心配なく、もう大丈夫です。あたし来年十九になります。……コートよかったらこちらのベッドの上に置いてください。」

「お願いします。……十九歳。若いのね。竹内さん、こんなきれいな人、どこで見つけて来たんですか。おとなしそうに見えて案外やるじゃないですか。」

 そう言うと有美子は佳奈にウインクをしておっほっほと豪快に笑い飛ばした。この人はいろんな顔を人に見せる、なかなか一筋縄には行かない人だと友哉は思った。だからこそ、仲根と一緒にやって行けるのだろう。

「友哉、おれも来年から忙しくなるので、もう見舞いには来られないかもしれない。それにこれまでのように頻繁に会うこともなくなるかもしれないけど、お前が元気そうなので安心したよ。あのまま死なれたんじゃ、会社にとっても損失だし、それに、おれの夢見も悪くなるしな。」

「ああ、わかってる。」

友哉は「おれが生きていて、本当はがっかりしてるんじゃないのか。」と聞きたかったのだが、聞いたところで仲根が本心を明かすはずもなく、有美子がいる手前その話を持ち出すのはためらわれた。友哉は不問に付すことにした。

「ところで弘樹、松木部長のプロジェクトも動き出しているのか。」

「ああ、動いている。順調のようだ。おれたちのフロアも決まったぞ。九階がおれたちのフロアで、当初は八名で発足する。松木さんたちは十階で、同じく八名で発足する。社長室が十二階だから、当面は社長の監視の目が行き届くように配慮したんだそうだ。友哉、お前もこんなところで寝てる暇はねえぞ。名古屋営業所は、中部地方の要石として、苦戦している中部地方の市場の掘り起こしを図るというのが会社の考えなんだよ。お前は期待されているんだ。こんなところでくすぶってる場合じゃないぞ。一緒に会社を盛り立てて行こう、友哉。」

「弘樹、わかった。ありがとう。早くよくなって退院できるように頑張るよ。おれも弘樹のプロジェクトがうまくいくよう陰ながら祈ってるよ。」

「そうか、ありがとうな。」

「はいはーい、難しい話はそのくらいにしてせっかく持ってきた果物だから、皆さんでいただきましょう。」

「有美子さん、すみません。いろいろ気を遣っていただいて、ありがとうございます。」

「いいのよ、佳奈さん。これから、長ーいお付き合いになるんだから、ずいぶんあたしを頼ってくださいな。」

 それから、有美子と佳奈が葡萄をほおばりながら、佳奈が使っているベッドに腰を下ろして、よもやま話に花を咲かせ始めた。こうなると女どうしの話は長くなると観念したか、仲根も椅子を引っ張り出して、佳奈と有美子が剥いてくれたリンゴを頬張りながら、部下になる七名を紹介し始めた。そのとたんに気にかかっていた疑問が頭をもたげて、ほんとのところを確かめてみたいという衝動にかられた。友哉は女たちに気づかれないように仲根の目をじっと見ながら小声で言った。

「弘樹、本当はおれが生きていてがっかりしてるんじゃないのか。」

と聞くと、仲根は上体を後ろにそらしながら、にこりと笑って友哉に尋ねた。

「何の話だ。生きててがっかりする?」

「本当は、お前がライバルのおれを窓から突き落として殺そうとしたんじゃないかってふと思えてきたんだよ。」

 それを聞いた仲根は、一瞬驚いた顔を見せた後、またにこりと笑い、体を折るように小さく丸めて、友哉の頭を片手で抱きながらつぶやくように言った。

「そうか。いい質問だ。ライバルは蹴落とすのが鉄則だからな。あの時は確かにそんなつもりはなかったんだが、もしかすると、おれの心のどこかにそんな気持ちがあったのかもしれない。だけどな、本当にそうしたいのなら、おれはあんな子供じみたやり方はしない。別の確かなやり口を考えるだろうな。友哉、おれの本音を言おう。あの会社はな、おれの会社みたいなもんなんだよ。本田社長も野川常務もおれの意を汲んで動いてくれる。わかるか、あの二人はおれの操り人形みたいなもんなんだぞ。だから、おれにはな、お前を蹴落とすくらいわけないことなんだよ。わかるか、友哉。この手を汚してお前を殺す必要なんて微塵もねえんだよ。十年も付き合っていてそんなこともわからねえのか。そんな曇った目で人を見るからきちんと理解できねえんだ。もっとしっかり目を開けておれを見ろ。もうそんなつまらないことは考えるな。」

 仲根が言い終わった時に有美子の明るい大声が室内に響いた。

「佳奈さん、あの二人を見て。ほんとにあの二人仲がいいのね。あたしたちもあんなふうになりましょうね。」

「はいっ。よろしくお願いします。」


 女同士の話が尽きたのは、それから一時間後のことで、二人は帰って行った。帰り際に仲根が来年三月に行う結婚式の招待状を置いて行った。最初は有美子が大学を卒業してから結婚式を挙げる予定だったが、有美子のたっての希望もあり、それを少し早めたのだと仲根は言った。友哉は仲根にひどく叱られたような気がしていた。もっとしっかり目を開けて人を見ろか。そうだった。自分の気持ちばかりが先に立ち、仲根を見ているようで見ていなかったかもしれない。友哉は恥ずかしさを覚えながら仲根と有美子を見送った。


二人が帰った後、佳奈が隣のベッドに腰掛けて、

「あたしたちもそろそろ結婚式のこととか考えていかないといけないわね。あたしもこうして会社の人とか仲根さんとか有美子さんと知り合いになって、結婚を意識するようになったわ。でもお式は再来年、あたしが二十歳になった後でいいわ。その前にあたしの家族にも紹介しなくちゃいけないわね。友哉のご両親は? これまであまり聞いたことがなかったけど。」

「そうだな。これまで佳奈には詳しい話はしたことがなかったけど、少し話しておこう。おれの両親は今から十年ほど前に福岡県飯塚市というところに移ったんだが、それまでは福岡県嘉麻市鴨生という昔炭鉱の町だった所に住んでたんだ。一九七三年、今から五十年前に閉山した炭鉱だったんだけど、おれの祖父竹内明がそこの三井財閥系の主力鉱山だった山野鉱業所というところで係長を務めていたころから、その町に住んでいたんだ。祖母は竹内操と言うんだ。もう亡くなって十五年になる。おれの父親竹内光太郎は以前は中学校の教員をしていたんだが、教頭まで務めて退職して今は飯塚市というところでレストランの店主をしているよ。今年で六十九歳になる。母親も健在で、竹内芳江と言うんだ。六十五歳になる。今度会わせるよ。親父からおじいちゃんのことはよく聞かされたけど、祖父は二十歳になるころに戦争に巻き込まれ、当時中央大学法学部に在籍していた祖父は昭和十八年の学徒出陣で兵隊になったんだ。昭和二十年八月には少尉に任官し、鹿児島県の隅庄飛行場に残置隊の隊長として配属されたんだが、八月十四日、終戦の前日に、八月十五日の午後二時に特攻として他の隊員と一緒に爆撃機に乗り込み沖縄に行って散華、つまり死ぬことを群団長より命令されていたんだ。予定では八月十五日の午後二時に出撃し、午後四時に、当時薄暮攻撃と呼ばれていた夕暮れ時に敵艦船に体当たりする手はずになっていたんだよ。ところが翌八月十五日の正午に天皇陛下の玉音放送があり、日本は降伏することとなり、急遽特攻が取りやめになったんだ。出撃の二時間前のことだった。もしもその時特攻に出撃していたら、父もおれも今この世には存在していなかったと後で父に語ったそうだ。その後祖父は除隊して、三井三池炭鉱に入り山野鉱業所に配属されたんだ。昭和三十年代、今から約六十年前、三井三池炭鉱で労働者側の人員整理、要するに解雇だな、これをめぐって労働者側が大規模なストライキを打ったことがあって、山野鉱業所にもその波は押し寄せた。おじいちゃんは経営者側に立って係長としてストライキの解決に向けて一役買ったんだよ。『三池争議』という大部の本があって、これをまとめた一人がおじいちゃんだったって聞いたことがある。そのころはよく会社の人が銭代坊というところにあったおじいちゃんの社宅に訪ねてきて、毎晩のように侃々諤々の合議を繰り返し、熱が入るとふすまを何枚か破ることもあったんだけど、ある日、とうとう食事に出すものがなくなってしまい、飼っていた鶏を二羽朝のうちに絞め殺して、首を切り落とし、羽をむしり取り、お湯であらうと生臭い匂いが鼻を突き、その肉がその日の夜に水炊きとして出されたんだけど、親父はとても食べる気がしなかったと言ってたな。親父は子どものころその鶏たちの世話をして、朝、卵を取りに行くのが日課だったんだよ。そのうちの二羽だったのさ。おじいちゃんが親父に語ったところによると、会社側はストライキを決行していた第一組合に対して、会社の御用組合的な性格を持った、つまり会社の言い分を鵜吞みにして聞いてくれる第二組合を結成させ、第一組合から組合員の引き抜きを行って徐々に力を削いで行ったと言ってたよ。おじいちゃんはこの争議でたくさんの人を首にし、相当恨まれたと言ってたな。ある時、鉱業所主催の盆踊り大会があって、踊りが終了した後、ナイフを持った男たち数人に取り囲まれたことがあったんだけど、おじいちゃんが一喝すると男たちは恐れをなして退散して行ったという武勇伝が町の人のうわさになったこともあったらしい。おじいちゃんは軍人上がりで、まだ若くて威勢が良かった時だったのさ。そんなある日、明け方にドーンという大きな音がして目が覚めると、おじいちゃんが血相を変えて鉱業所に向かい、何日か帰って来なかったことがあったそうだ。炭鉱で炭塵爆発が起こったのさ。石炭を採掘する時に出る細かい粉塵に火がついて爆発するんだけど、坑内の火災で何人もの人が焼け死ぬほど強烈な爆発なんだそうだ。翌日おばあちゃんが親父の手を引いて一緒に鉱業所に様子を見に行ったんだけど、おじいちゃんが仲間の炭鉱夫と一緒に坑道を走るトロッコ電車に乗って地上に上がって来た後、皆一様に真っ黒な顔をして坑道の入り口から歩いて出てきたことがあったと言うんだ。坑道の奥は入口から見ると真っ黒い暗がりで、暗がりから汚れた白い作業着を着た、顔が黒く目だけを光らせている男たちがぞろぞろ出てくる中におじいちゃんの姿が見えた時、親父は死者の行列を見たような気がして、見てはならないものを見た怖さに震え、子供の時の怖い思い出として記憶に残っていると言ってたよ。おじいちゃんはおれにもその後何回かこの当時の話をしてくれたことがあって、やはり大勢の人を首にしたのは嫌な思い出の一つだと何度も言っていたのを今も覚えている。」

「そうなんだ。あなたのおじいちゃんってヒーローみたいな人だったんだね。今も元気でいるの?」

「いや、五年前に亡くなった。九十四歳だった。親父の話を聞いて、坑道から出て来るおじいちゃんの姿をその後何度か夢に見た覚えがある。炭塵爆発の話はおれにも刺さったよ。」

 病院内では、ほかにすることもないので、こうした話をしながら、時間がのろのろと経って行く。けがを治すためだけに、こうしてベッドの横になって日がな一日を過ごすのは生まれて初めての経験で、人が見舞いに来てくれるのが、けがのことを忘れていられて、いい気晴らしになった。



 朝起きてレースのカーテン越しに窓の外を見ると、空が青く、一機のヘリコプターが鳥のように水平に飛んで行き、日差しが温かく、今は背中の痛みも和らいでいる。佳奈を見ると佳奈は隣のベッドでまだ寝ていた。友哉は筋肉が固まらないように、時折体を左右に動かしながら、少しずつリハビリを続けていると、ようやく足にも感覚が戻って来て、尿意も感じるようになった。先ほどから背中とふくらはぎがかゆいのだが、これは我慢するしかなかった。そこに昨日とは別の看護師が病室に入ってきて、体温と血圧と血中酸素濃度を測定して書類に記入すると、病室を出て行った。佳奈も目を覚まし、どちらからともなく手を握って肌の感触を確かめ、それから頬を触り、首筋を触ると佳奈がその手にキスをした。

 しばらくして、病室をノックする音とともに、先ほどの看護師が蒸しタオルを持って入ってくると、それを佳奈に渡して、佳奈が愛おしむように丁寧に友哉の上体を拭いた。温かさが心地よく感じられ、拭いた後に体内の熱を奪って蒸発していくのが涼しく、生きていることを実感させてうれしくなった。感じることがこれほどの喜びを与えるということに友哉は初めて気がついた。それから食事を済ませ、配膳車にトレーを戻すとまた時間ができる。

「今日は何日だ。」

「えっ、今日はね、三十、いやそれは昨日か、ということは、今日は三十一日、えっ、大晦日じゃないか。今年も今日で終わりか。今年はいろいろなことが起こったな。でも一番の出来事は佳奈に会えたってことだな。毎年そう思うんだけど、一年の経つのが年々早くなるように感じるよ。」

「ほんとに一年の経つのって、早いわよね。でもあたしにとっても今年はいろんなことが起こった年だったけど、忘れられない一年になりそうだわ。あなたに会えて、こうして一緒に年の瀬を迎えられたのね。たった四か月前のことなのに、何年もたったような気がするわ。ねえ、あたしたちこれから一本の木になるんだよ。あなた、あたしにあきたりしないでね。」

「そんなことあるはずがないよ。……そうだな、一本の木か。いいよ、木になろう。」

「背骨がくっつくまでに約一か月、完全にくっつくまでには三か月かかるってお医者さん言ってたね。その間体を動かせないんじゃ、ほんとに木になっちゃうね。」

「まったく体を動かすことができないっていうことじゃあないと思うけど、自由に体を動かすことはできないのかもしれないな。しょうがないよ。でも早く治して、また以前のように会社に行って働きたいな。ここに来て、働くことが楽しいことなんだってわかったよ。会社に行けば行ったで嫌なことも出てくるんだけど、それも含めて生きて行くってことなんだなあって思うよ。思うに、生きて行くっていうのは毎日新しい現実を受け入れるってことなんだろうな。だからまずは体を動かせないというこの不自由な現実から始めるってことなんだろう。と言うか、常に現実そのものがどこかに不自由さを抱えているのだと思う。」

「受け入れるか、そうかもしれないね。受け入れることができたから今までとは異なる新しい一日がアップデートされるのかも。……そうね、あたしも働くわ。あなたと同じ会社がいいけどね。」

「会社に頼んでみるよ。きっと考えてくれるよ。」

「そうだといいわね。」

 そうして言葉を交わしながら、時が二人を包んでゆったりと流れて行った。

 友哉はベッドに横になり、眼を閉じた。他人の意志に翻弄されながらここまで来た。最後には佳奈にさえ見放されるところであった。そうした閉塞した状態を打ち破るべくビルの壁面に張り付いたのだったが、こうして壁面からはがれ落ち、最後に残ったものはいったい何だったのだろうか。祖父と父がそうであったように、誰しもが運命にもてあそばれるように流されて行く。生きるということは一人で漂って行くということであり、ここから逃れることはできない。そのような生々流転の人生を受け入れ、その急流に棹差しながら、急流を漕いで行くには、一人で行くよりも二人で漕いで行くほうが均衡を図りやすく、その相手とは深い信頼で結ばれているものでなければならない。連理の木か。あの後佳奈が寝てから、ネットで連理木を調べてみて、理というのが木目のことであることがわかった。おれと佳奈の木目は、どのような模様を描いているだろうか。二本の木目が一つになる、おれはどうやらそのような相手に巡り合ったのだと確信している……。同じことが仲根にも言えるのかもしれない。仲根か。おれはいい親友にも恵まれたのかもしれない……。


 時の流れに押し流されるように、いつの間にか昼になり、夜を迎えた。

二人はNHK紅白歌合戦を見ながら大晦日を過ごし、紅白歌合戦が終わると、「ゆく年くる年」を見ているうちに新年がやって来る。除夜の鐘が遠くでとどろく雷鳴のように重なって聞こえて来る。いくつもの鐘が遠くに近くに鳴り響き、百と八つの煩悩を消滅させながら夜空にこだまして行く。友哉は佳奈に病室の窓を開けてもらった。鐘の音が大きくこだましながらどっと室内に流れ込み、清新の風がさっと室内に入り込むとともに、冷気が足元から忍び寄って来る。その冷気を押しつぶすかのようにベッドの端に腰掛けた佳奈が、頭を友哉の肩に載せて、二人は連理の木になって鐘の音に聞き入った。一本の木か、とまた友哉はかみしめるように思った。壁から落下する時おれは自分の死を覚悟した。だがそこで完結せず、ここに運び込まれておれはおれの初めを見つけたように思う。おれの初めは未分化のまま流れた胎児を拾い上げて土に返した佳奈と一つになることだったようだ。未分化の胎児は他人との関係の初めを象徴していたのではないだろうか。いったんは流れた。だが、実は今また他人との関係という胎盤の中で新たな胎児が宿されているのではないだろうか。きっと今度は流れずに生まれて来るだろう。その嬰児はどのような姿をして現れて来るだろうか。早く見てみたいものである。友哉は冷気を額に感じながら、佳奈の手をとって鐘の音をいつまでも聞いていた。鐘の音が混じり合い響き合って静かに夜空に流れて行った。

                                        (完)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

他人との関係という胎盤 @syamagami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ