小説家志望
鈴美
小説家志望
原稿用紙を1枚めくる。店内は設定温度を疑う程に冷房が効いていて、真夏であることを感じさせない。すぐ近くに座ってコーヒーを飲んでいる女性はカーディガンを羽織り、両腕を手で摩っている。外を歩いて掻いた汗はすでに渇き、今では俺の体を少し冷やし過ぎている。氷が半分程溶けたコーラは、もう飲む気にはなれない。
俺の目の前には男が1人、肩を縮こませて座っている。彼も注文したアイスティーに手を付けていない。結露した水滴が、グラスから滴るのをじっと見つめながら、俺が原稿を読み終わるのを待っている。
俺は左手で掴んでいる原稿用紙を少しだけ強く握りしめた。紙には俺の指の痕が残る。そこに書かれた小説に感動したからではない。むしろその逆だ。俺は半分くらい読んで、原稿用紙から目を逸らす。これ以上読まずとも、終わりが読めてしまったからだ。
ありきたりな話を書く作家は少なくない。よくある人物設定、よくある展開、よくある世界観。大体が、誰かの作品を模倣しているか、いくつかの作品の特徴をつぎはぎにくっつけただけの、面白みのない作品ばかり。常に、これはどこかで読んだことがあるな、という印象がぬぐえない。出版社で編集をしている俺は基本的に忙しい。本来なら知りもしない人物の持ち込みなど読む余裕はないのだが、友人が「どうしても彼の作品を読んでほしい」と懇願するので、時間を作ってわざわざこの男に会った。その友人には前に少しだけ世話になった。その負い目もあって、二つ返事で了承したのだ。目の前の男はこれまで作家として作品を出版したことはなく、受賞経験もない。駆け出しなのだろう。たまにはこういうところから掘り出し物の作家を探すのもいいだろうと思い立ったが、どうやら時間の無駄だったようだ。
「残念だけど、これでは難しいね」
俺はなるべく傷つけないよう配慮して話す。本当なら、こんな駄作を読ませるために俺の時間を消費したことに文句のひとつでも言ってやりたかったが、大人の振る舞いとして、ここは抑える。
目の前の男は、テーブルに落としていた視線を俺の方に向け、少し驚いた様子でこちらを見る。
「でも、まだ読み終わっていないですよね?」
そうだ。俺はこの小説の半分しか読んでいない。それでも充分だと思った。このつまらない展開は、どう転んでも面白くなることはない。根拠はないが、長年編集者として多くの作品に関わってきた俺の癇がそう言っている。
「そうだね。読み終わっていない」
「最後まで読んでくれないんですか?」
男は泣きそうな顔をしている。なんて弱々しいやつだ。男ならもう少しどんと構るべきだ。女のようなめそめそした行動など、見ていて見苦しいだけだ。
「最後まで読む必要はない。話の展開が読めたからね」
「読めた?」男は眉を顰める。
「これは編集者としての意見だから、しっかり聞いてほしい。この作品は面白くない。昔いじめを受けた主人公が、その痛みを背負って生きていく。大人になってからいじめの加害者を見つけ、そいつの幸せな生活に憤り、復讐を決意する。後半は復讐劇で、ラストは、きっとこの主人公は復讐を完遂するんだろう? それが大衆の求める共通の展開だからね。こんなところだ。どうだ?」
男は俺に向けていた目線を下げ、再びテーブルを見つめる。図星なのだろう。やはりそうか、と溜息をひとつ漏らし、俺の興味はより薄れていく。
「それにね、君はこれまでどれくらい小説を書いた? 申し訳ないが、君の文章は、なんというか、少し稚拙な部分がある。恐らくそこまで多く小説を手掛けていないんだろう。まあ、文章は書いていくうちにうまくなるから心配はいらない。しかしね、面白味のない話に、文章までうまくないとくれば、流石にこれを本にすることはできないよ」
男は動かず、話さない。もしかしたら泣いているのかもしれない。
やれやれ、今度は泣く赤子のお守りか。俺は深呼吸に似せた溜息をつき、言葉を繋げる。
「まあ、小説家はみんな、最初はそんなもんさ。だから諦めずに、次の作品が書けたらまた持ってきてくれるかな? 俺の名刺を渡しておくから、何かあったら連絡をくれ」
次の持ち込みを読むことはないだろう、という意味であることは、きっと彼はわからない。こう言っておけば、小説家になることを夢見た卵たちは大体納得し、帰っていく。また小説を書けば読んでもらえる、いつかそれで出版されるかもしれない。そんな薄い可能性を彼らは必死に追いかける。そこにたどり着ける人なんてほんの一部であることは知っているのだろうが、恐らく自分がその一部に入ると思って疑わない。そうやって夢を見続け、後に叶わぬことを知り、そのまま小説を書くことを止めてしまった人を今まで何人も見てきた。きっと、彼もそのうちの一人になる。
「この作品は、もう読んでくれないんですか?」
男はまだ諦めていないようだった。諦めずに、とは言ったが、それは小説を書くことを差すのであって、この作品への執着ではない。彼には俺の意図が伝わっていないようだ。
「悪いけど、この作品は最後まで読む価値はないと思うよ」
少し厳しいだろうが、これが事実だ。本気で小説家を目指すのなら、読む価値があるものを書く必要がある。誰かがすでに書いた作品の模倣など、特別惹かれるものがなければ読む価値などないのだ。
「でも、この作品は、最後まで読むことに価値があるんです。読まなければ、何もわからない」
なんと往生際の悪い。素人であるにも関わらず、そのつまらない作品を最後まで読めなどと、どうして言えるのだ。プロの編集者がこうして時間を作ってまで批評を下しているというのに、まだ満足しないのか。俺は目の前の男のしぶとさに嫌気が差していた。
「作品はね、その多くが、作者は新しいと思っているけど、読者から見れば新しくもなんともないものだったりするんだ。君の作品もそれと違わない。書いた側は自分の作品に愛着を持ってしまうが為に、評価が偏ってしまう。でも読者は常に公平なんだ。面白いか、面白くないか。これだけだ。君の作品は面白くないし、最後まで読む価値はない」
「でも……」
「悪いが、俺は仕事がたんまりと残っている。もう戻らないといけない」
俺は鞄を持って立ち上がる。男はまだ何か言いたげな顔をしているが、見ないことにする。仕事が溜まっているのは事実だ。こんなところでたむろする程、俺は暇ではない。
きつく言い過ぎたか、と僅かに芽生えた罪悪感を払拭する為、彼の分の会計も一緒に済ませた。もう彼に会うこともないだろうと思い、そのまま振り返らず店を出る。
「待ってください!」
男は凝りもせず追い掛けてきた。店の外に出た俺の肩を掴み、振り返った俺の顔に原稿用紙を叩きつける。
「最後まで読んでください。そうすればきっとわかる」
「何がわかるんだ?」
「きっとわかります」
唖然とした俺に、男は原稿用紙を無理やり持たせ、失礼します、と律儀にお辞儀をして帰っていった。
椅子の背もたれに背を預け、大きく伸びをする。固まった体を伸ばし、疲労し乾いた両目に目薬を入れる。デスクワークがもたらす身体への弊害は、この仕事では付き物だ。腹に溜まった贅肉をつまむ。前より少し腹が出てきた気がする。そういえばあの男は弱々しい態度の割に、なかなかいい体格をしていた。脂肪ではなく、筋肉によるものだ、というのは薄いTシャツから透けて見えた。店の外で俺の肩を掴んだ時も、なかなかいい力をしていたことを覚えている。少しだけ羨ましさを感じ、運動した方がいいか、と思うも、恐らくそれが実現することはしばらくないだろう。
もう一度伸びをして、体の凝りを少しだけ紛らわした後、ちらりとデスクの端に目をやる。紙が乱雑に散らかったその上にあの原稿用紙の束がある。つまらない作品であるのにも関わらず、「最後まで読め」と押し付けられた。その小説への興味はとっくの昔に消え去っていたが、男の最後の言葉だけが気になる。「きっとわかる」とは何を意味しているのか? あの展開からとんでもない展開に転ぶのだろうか? 新しい登場人物でも出てきて急な展開に行くのだろうか? いや、さして長くもない物語に、そんな展開などあり得ない。トリックでも使って、読者を驚かせるつもりなのだろうか? 伏線のようなものはなかったはずだが。なぜかどうしても気になる。
溜まっていた仕事を片付け、俺は退社した。手にはあの原稿用紙の束がある。そのまま家に帰らず、行きつけのバーに入った。ホテルと隣接しているそのバーは、駅から少し離れていることもあって閑静な場所にある。客を邪魔しない程度のボリュームでムードのある音楽が流れ、静かに酒を楽しめる場所として人が訪れる。店内は半分程席が埋まっているが、皆本を読んだり、1人でしんみりと酒を飲んでいたり、いたって静かだ。酒を味わいながら本を読むには持ってこいの場所で、数年前から定期的に通っている。
俺は顔見知りのバーテンダーにウイスキーとつまみを注文し、奥の小さなテーブルに着く。酒をちびちびと飲み、頭に少しずつ回る酔いを堪能しながら原稿用紙をめくる。
「一体何だっていうんだ」
俺は酒の匂いのする息を深く吐き出し、再度1ページ目から読み始めた。
話は主人公の中学校時代から始まる。小さな町の中学校は大体が小学校からの繰上りになる。学校は新しくなっても同級生は同じという状況の中、1人だけ、誰も知らない生徒がいた。彼は小学校時代を他県で過ごし、親の仕事の都合でこの地域に引っ越してこの中学校に通い始めた。内気な性格と、少し訛りのある言葉遣い、振る舞いの違いから、彼は同級生に受け入れられず、少しずつ他の生徒と距離ができた。やがていじめが始まる。普通なら、ここで何か面白い展開が起きることが期待されるが、そんなことはなく、ただいじめが繰り返されるだけの毎日だ。
ヒーローでも現れてくれればまだこのつまらない作品が救われるところだが、そんな登場人物が現れることはなく、ただいじめられるだけの3年間が終了し、皆卒業していく。主人公は、これまた親の都合で引っ越した。
話はそこから成人時代に飛ぶ。大学を卒業した主人公はある日、自分をいじめていた加害者を偶然目撃する。主人公は初めは避けるが、それから何度も道端で目撃する。どうやらお互い近くに住んでいるらしい。主人公は過去のトラウマからすぐに加害者に気付いたが、加害者は一向に主人公に気がつく様子はない。一度、同じ本屋に入り入れ違いに肩がぶつかってしまうも、加害者は「すみません」と丁寧にお詫びをするのみで、主人公の顔を見ても昔を思い出す様子はない。そして主人公は、加害者が妻と子供を連れて近所の公園で遊んでいるのを目撃する。笑い声が公園に響き、典型的な幸せな家庭を思わせるその状況に主人公は激しく憤る。自分を忘れ、あの時を忘れ、1人幸せに生きるなど許さない。主人公は復讐を決意する。
俺は原稿用紙から目を離し、つまみを口に運ぶ。ウイスキーで流し込んで、再度酒の匂いのする息を吐いた。相変わらず面白くない。面白くないとわかって本を読み続けることのなんと苦痛なことか。脳への拷問と言ってもいい。こんなものを「読め」などと、横暴もいいところだ。まだ半分程残っているページを見て、俺は嫌気どころか怒りが芽生えてきた。あの男の「読めばわかる」という言葉がなければこんなものをいちいち読もうとは思わなかったのだ。あの言葉さえなければ。
しかし、改めて読んでいて気になったことがある。いじめの描写が妙に細かいところだ。加害者が行ったいじめの数々は、一つひとつの動作が詳細に描かれ、殴打の痛みも細かく、わかりやすく書いてある。暴力を経験したことがない人でも想像に難くない。加害者が吐く言葉も妙に現実味がある。これらの表現を見ていると、あの男のポテンシャルはゼロではないな、と思えてきた。
残りを読む前に、とグラスを持ち上げるとウイスキーはすでに空になっていた。バーテンダーにおかわりを注文する。
テーブルに運ばれたウイスキーをぐいと飲み、ページをめくる。
後半は主人公の復讐劇だ。主人公はまず加害者の情報を集める為、探偵のような張り込みを始める。加害者の職業や生活リズムを調べ、いつ、どこに現れるかを把握し、近づく隙を伺う。そこには事細かく加害者とその家族のことが詳細に記載されていた。
加害者は7年前に結婚し、4歳の娘がいる。妻は現在34歳で、地元の大学出身。卒業後は看護師として大きな病院に勤めていたが、出産を機に退職し、育児に専念する。現在は娘を保育園に預け、近くのクリニックで働いている。家の周辺は閑静な住宅街で、公園もあり、家族連れが多く住む地域。妻は外向的な性格から近所づきあいも良好、友達も多い。趣味はヨガで自宅近くのヨガ教室に定期的に通っている。
俺は残り半分になったウイスキーをぐいと飲み干した。酒で胃は熱くなるも、顔は青ざめ、冷や汗が出ていた。
どういうことだ? 俺の妻の情報とすべてが一致している。こんなことあり得るのか?
さらに読み進めていくと、娘の情報も全く同じであることに気付く。通っている保育園の名前、先生の名前、娘の容姿に至るまで、すべて細かく書かれている。一行一行読むたびに体温が少しずつ下がっていくような感覚に襲われる。
次のページをめくる。そこにはいじめの加害者の情報が書かれていた。永井孝彦。35歳。○○市出身、××大学卒。現在は編集者として△△社に勤務。中学校時代、いじめを首謀し、他県から引っ越してきた伊倉総司に、日常的に集団暴行を加え、侮辱的な言葉を投げかける。中学校3年間、被害者に精神的、肉体的苦痛を与えた。
永井孝彦、という名前を見て俺の手は震えた。俺の名前だ。そして伊倉総司という名前にも覚えがあった。中学校の同級生の中にそういう名前のやつがいたからだ。伊倉という名前は俺の地元では珍しく、読み方の「いぐら」も「いくら」に似ていた為に子供ながらにからかっていた。また伊倉の親が大好きだという沖田総司から取った「総司」という名前も、読み方が「掃除」と同じだという言いがかりをつけて、よく掃除当番を押し付けていた。
いや、それだけじゃない。改めて主人公がいじめを受けているページに戻る。担任の先生、いじめに加わる同級生。すべてが実在していた人達と重なる。学校の描写ですら、あの小さな中学校と全く同じものだ。とっくに忘れていると思っていた記憶が、息を吹き返す。俺は、伊倉総司をいじめていた。この小説に書かれている通りのことを、俺はやっていた。
これは小説ではない。事実がそのまま書かれている。
俺は震える手で最後のページを開く。そこにはたった一文だけぽつんと書かれていた。
思い出した?
「読み終わりましたか?」
突然頭の上から降って来た声に飛び上がる。顔を上げると、原稿用紙を持ち込んだ男が俺を冷めた目で見降ろしていた。
「お前……伊倉か?」俺は震える声で聞く。
伊倉はふん、と鼻を鳴らして答えなかった。でもそれが答えだった。
俺は青ざめる。どうしたものか、と思った途端、視界がぐるりと歪んだ。全体がぼやけて、伊倉の顔もよく見えなくなった。瞼が急に重くなり、視界が狭くなる。首が頭を支えきれなくなり、俺の体勢は前のめりになる。なんだ、急に眠くなってきた。
「大丈夫。そのまま眠ればいい」
伊倉の声が遠く聞こえる。俺はそのまま気を失った。
目が覚めると見知らぬ部屋にいた。8畳ほどのベッドルーム。皺ひとつないベッドシーツ、余計なものが置かれていないデスク、小綺麗な部屋の様相を見る限り、ホテルの一室のようだ。立ち上がろうとすると、うまく膝を伸ばせないことに気付いた。腕も動かない。改めて自分の体を見ると、俺は椅子に括りつけられていた。
「起きたか?」
後ろから伊倉の声がする。振り向こうにも拘束された体は自由が利かず、最大限まで顔を振り向かせるも伊倉の姿を目にすることはできない。
「お前、俺をどうするつもりだ?」俺は恐る恐る伊倉に聞く。
ふっと微かに笑いを零した伊倉は俺の前に立つ。がっしりとした体付き、顔は前髪が目にかかり少し陰のある印象を与える。原稿を持ち込んだ今朝の弱々しさとは打って変わり、髪の隙間から見える目は酷く冷たかった。
「お前に思い出してほしかったんだよ。昔のこと」伊倉は俺を見下して言う。「まさか、本当にすべて忘れてるとは思ってなかったよ」
別人と思える程に冷えた声色だった。俺は言葉を失くし、金魚のように口をパクパクさせる。それを見て、伊倉は鼻で笑う。
「お前、本当に、あの伊倉なのか?」
「そうだよ」
伊倉は、ようやくわかったか、と言いたげな表情を向ける。俺はこの先の展開を予想し、青ざめる。
「頼む。許してくれ。俺は、ガキだったんだ! あの頃は本当に馬鹿で! すまなかった!」
俺は固定された状態で、できる限り頭を下に向けた。本当はいじめの反省なんてしていない。子供なら、誰でも間違えるし、いじめなんてどこでも起こることだ。でもこいつは俺の家族の情報を握ってる。俺が頭を下げなければ、妻と子供に何をするかわかったもんじゃない。俺は必死に許しを請う。
「お前、今朝俺に会った時、俺の名前聞かなかったな」
「え?」
俺は顔を上げて伊倉を見る。伊倉は相変わらず冷めた目で俺を見る。
「あの頃から何も変わっていないな。自分が常に上で、人を見下す。見下したやつの名前なんて知ろうともしない」
汗が俺の背中にそって滴り落ちていく。伊倉の声色には怒りが滲んでいた。
「原稿を渡したとき、もし俺の名前を聞いて少しでも思い出していたら、何か変わっていたかもな」
ごくりと唾を飲み込む。伊倉の手に金属バットが握られていたからだ。
「そういえば、お前言ってたな。この小説の主人公は復讐を完遂するだろう、それが大衆が求める展開だって」
伊倉はバッドを両手で持ち、頭の上で大きく振りかぶる。
「これで満足か?」
最後に聞こえた伊倉の声と共に、頭に強い衝撃が走った。
小説家志望 鈴美 @kasshaaan
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