トラフィックライト
籾ヶ谷榴萩
青と空
青くて、どこまでもつながっていそうな、そんな空が好きだった。
澄み渡っていて、どこへでも飛んで行けそうな、空が好きだった。
俺が描く”空”は、なぜか限界がある。
絵を描くのが好きだ。頭の中にある情景を平面に淡々と落とし込んでいく、ちょっとした予想外のタッチから、全く別の世界が広がっていく。点と点が線でつながっていくような、それが自分の手元で広がっていくような。ああ、絵というものはとても広い青空に似ている。どこまでも無限に可能性が広がっていくような。
そんなことを思い、そして描いていたのは、いったい何年前の話だろう。大人になればなるほど、限界というものが見えていく。まだ子供だろと大人は言うだろうけれど、道で走っている小学生とすれ違ってしまうと、ああ、もう違う生き物になってしまったなぁ、と痛感するのだ。ああ、子供も青空に似ている。無限に飛んでいけてしまうようなエネルギーがあって、今の俺のように壁を感じてしまった瞬間、人間は大人になるのかもしれない。壁を見つめて、悔しくなって、乗り越えられるのだろうか。自分は。
まだ、あのどこまでも広がりそうな青い空を手に入れることを、俺は諦められていない。
「なに描いてるの」
「空」
そう呟いた彼の真剣な眼差しの向こうを見る。それは、満点の星空だった。深い青と深淵の黒のコントラストの上に、大小散り散りの星が散らばって、ものすごく輝いていた。平面の向こう側に、世界が広がっている。
「上手いな」
「そうかな」
なんだか、それを見た時悔しくなった。俺は青い空を飛べなくて苦しんでいるのに、隣にいる彼はのびのびと空を描いていた。どの位置にどの星があるのか、そんなことも関係なく白を散らしていた。
「……あ」
この時、俺は快晴の中に入道雲がある景色に捉われていたのだと、気がついた。
その日から、気がついた時は空を見るようになった。この微妙に都心に近い街中じゃ、輝いていられるのは月くらいで、他の輝きは全く見えない。たまにヘリコプターがチカチカと光りながら上空を飛ぶくらいだった。空は、毎日違う色をしている。ある日を除いて。
どこまでも続いていきそうな漆黒の空、雲ひとつないと街の明かりを反射するものもなく、濁りのない空がつながっていた。快晴の都心の夜は、全てを吸い込んでしまいそうだった。久々に、この空なら飛びたいと思った。
「空ってさ、信号機に似てると思わないか?」
帰路の信号待ちに空を見ていた。茜色の空と、信号の赤がよく似ていて、ああ空と信号機は似ているのだなとふと思った。赤と青と黄を繰り返す。そうだ、彼は空をどう捉えているのだろう。
「そんなこと考えて空を見たことないよ」
「じゃあ、好きな空は?」
そんなことはないだろう。じゃああの満点の星空の絵はなんだったのだろう、と言いたくなったけれど彼は俺みたいに空に拘っている人間ではない。ただただ脳裏に浮かんでいた景色を描いていただけかもしれない。
「うーん……」
「まあ意識的に見るもんじゃないけどさ」
「しいて言えば、入道雲がくっきりとしてる真っ青な空」
彼の口からそんな言葉が出てくると、どこか思っていなかった。彼はちょっと偏屈で、自分とは全く違う人間だから彼の考えていることは、俺が考え付かないようなものだと思っていた。なんだかすこし気まずくなった。
「あ〜、綺麗だよな。なんかいかにも空〜っていうかさ」
「おまえはさ、どうなの」
「俺?星一つない空」
「なんで?」
「だってさ、そんな真っ暗な空でも次の日はちゃんとくるんだぜ?」
「……」
何言ってるんだこいつは、という顔を彼はしていた。まあ確かにそうだろう。
「確かに星が満点の空もすっごい綺麗だと思うしさ、ああいうのって自然豊かなところでしか見られないし。でもさ、真っ暗な空ってそれもそれでレアじゃないか。ここみたいなそこそこ都会の空か、雲が全面にかかっている時くらいしかそういうのって見られない。雲がかってると微妙に白いしな。……でもどんなに暗くても、明日はやってくるわけ。なんかちょっと明るい話みたいで良くないか?」
「信号機、ってそういうこと?」
彼は俺の拙い言葉から、情報を繋いで理解をしてくれる。確かにものすごく同質に見えてくるだろう?
「言いたいこと、わかった?赤信号も好きだよ。確かに待ってる間はイライラすることもあるけど、待ってる間にスマホみたり、さっきみたいに飲み物買ったりすることができるし」
俺はあの何もない、真っ暗な空に救われたのだ。飛ばなきゃいけない空は、青空だけじゃない。そうしたら、どんな色の空もなんだか綺麗に思えてくるようになった。
「おまえはさ」
「?」
「なんでもない」
彼は何かを言い淀んで、そしてまた引っ込めた。
「青信号を見ると、渡らなきゃいけないような気持ちになる」
ああ、なんかこれは俺の胸中にストン、と落ちた。あんなに澄み渡る空を見せられてしまったら、ここで飛ばないといけないような気持ちになる。飛びたいのに、俺はもうそこの舞台では飛べない。俺の描く空はもう限界がある。
「……」
「いいよ、って言われるには、おれにはまだちょっとはやいから」
「止まってても別にいいんだよ。歩きつかれる時もあるし」
というか、俺は一度疲れて筆を折りかけた。今はずっと、自分が飛べそうな空を模索して、描き続けている。
「おれはもうヘロヘロだよ」
そう笑う顔は、あの憎たらしい満点の星空のように、慎ましく輝いていた。
……本当のことを言えば、俺も一番好きな空の色は青空だよ。認めたくないけれど、いまだに壁のない空を描きたいと思っている。けれど、それはまだ認めたくなくて、ずっと嘘をつき続けている。青じゃない空を描くことで、ずっと、ずっと逃げている。
飛べない鳥は、飛べない鳥だ。
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