第19話 憎悪
「サヨウナラ」
母を呪い殺した小太りの男、オボウチを見下ろすサナユキ。
手にした刃を振り下ろそうとした時。
「待って! サナユキ」
声を上げたのはコトハだった。
「……何?」
「もし恨みで彼を殺したら、あなたが死霊に堕ちてしまうッ」
恨みの対象を殺めることで、生霊である自分は死霊に堕ちるとカンヌキから聞いた。誰かを恨んで生霊となったわけではないが、都合よく自分だけそのルールを逸脱できるとは思えない。
人を殺めることなどありえないと思っていたが、今は気持ちが分かる。
そうだ、分かってしまうのだ。
「お、俺を殺しても、いっ、い、いいことなんかないぞっ」
活路を見出したオボウチが
「こいつは、身勝手な理由で母さんを殺した。なのに……なのに、笑ってたんだぞ? ずっと」
再び刃を振り上げたサナユキの目は怒りと悲しみに満ちていた。
心臓が激しく鼓動し、全身が震えている。抑えきれない感情。過去の苦しみや屈辱の記憶が蘇り、怒りがこみ上げてきた。
今、眼の前で怯える男が、あらゆる不幸の根源のようにも思えてくる。
ここで全てを終わらせることができる。
ただ自分が死霊に堕ちて、異界を
「だから殺す。そうでないと、俺が、今を生きられない」
刃を握りしめた拳に力を込める。
「ひっ」
オボウチの抜けた声が響く。
そして全力で振り下ろした。
刃は一筋の線を引きながら、まっすぐと首筋へ向かう。
ヅュッ
だが、不可解な音を立て、刃が止まった。
――何だ
無傷のオボウチの首から、自らが握った刃の切っ先へと視線を移す。
すると、焦げたように毛深い黒い毛皮が目に飛び込んだ。
死霊のような影ではなく、はっきりとした質感。
人狼である。
亜空間に閉じ込められていたオーガのような死霊ですら切り裂いた刃を、だ。
――薄皮も切れてない
強力な鬼化系の祟術を保持している生霊であることは、目の当たりにしたばかり。
それでも無傷とは信じがたい光景であった。
「シ、シンジさんッ!」
オボウチが今にも泣き出しそうな声を上げる。
まるで迷子になっていた子供が親を見つけたときのように。
「す、すげぇ……」
「魔狼が来てくれた」
サナユキと調伏されたオーガに対して、身動き1つできなくなっていた短髪の男とスーツの男も、明らかに安堵の表情を浮かべていた。
対照的に、凍りついたように動かなくなったのはコトハとカンヌキ。
2人の顔には、極度の緊張が張り付いていた。
言葉1つ発せないほどに。
周囲の空気を一瞬で飲み込んだまま、人狼がゆっくりと口を開く。
「悪いが、彼を殺すのは
なだめるかのように話しかけてくる人狼。
落ち着いた声だ。
言葉の意図はわからないが、サナユキも引くわけにはいかない。
「
サナユキと人狼の視線が交わる。
静かであると同時に、獣のような
――何だ?
交わった直後、
「見てはダメだ!」
黒い木と合一しかけているカンヌキが、振り絞ったかのような声を上げる。
サナユキは一瞬だけ視線をカンヌキへと向けるが、 悠長に会話をしている状況ではない。
再び視線を人狼へと戻し、切っ先に力を込めた。
面倒そうにため息を吐く人狼。
なおも斬撃を繰り出そうとするサナユキに対してだろう。
「仕方ないね」
直後、衝撃とともに体が浮き上がる。
人狼の強烈な蹴りが、腹へと食い込んだのだ。
「ぐッ」
体が宙を舞う。
そして、5メートルほど吹き飛ばされた所に着地したサナユキ。
――鋭い蹴りだ
予備動作すら察知できなかった。
だが。
――受けられる
大量の術持ちの死霊を吸収したことで、飛躍的に力が向上したためか、以前見たときほど隔絶したものを感じない。
サナユキは姿勢を整え、再び刀を右手でギュッと握る。
そして、左手から使役するオーガの死霊へと合図を送った。
「邪魔するな」
ビルの屋上――人狼たちが【果樹園】と呼ぶ場所――唯一の出入り口を
それでも人狼に焦った様子は見られない。
「懐かしいな、『鉄鬼』じゃないか。元気してたかい?」
調伏したオーガを見ながら、人狼が声をかける。まるで通りすがりの友人にでも挨拶するかのように。
当然、調伏されたオーガは何も答えない。
「……知り合いなのか」
「彼は元副官。祟術を増やそうとした結果、失敗して死霊に堕ちてしまってね。惜しい人材を亡くしたよ。まあ、それでも喰うためにとっておいたのだが、君に喰われてしまった」
「……仲間ですら死霊に落ちれば喰い合うのか。その程度の仲間意識なら、そいつをよこせ」
サナユキは床にうずくまるオボウチを目で
小太りの男は「ひっ」と声を上げて更に縮こまった。
「やれやれ、好戦的だなぁ。まあ、初めての知った本物の憎悪で自分が万能になったかのように勘違いするのは、君のような初心者にはありがちだからね」
人狼の言葉を無視し、大きく踏み込む。
正面と背後から同時に襲い掛かった。
刃を正中線に添えて、真っ直ぐに切りかかるサナユキ。
さらに大きい
2人の放った武器の中心にいる人狼。
刃を振り下ろそうとした、その時。
急に脳をグチャグチャにかき混ぜられたかのような凄まじい不快感を覚えた。
「うぉえぉ」
立っていることもできずに、床へと
――何が起きた
どうにか頭だけは持ち堪え、人狼を目で負う。
そこには人狼により胸を貫かれたオーガの姿。
あれだけ倒すのに力を振り絞ったオーガが消失しかかっていた。人狼には傷一つ付けられていない。
「洞察力と経験が足りないね」
笑みを浮かべたままの人狼。
顔は狼姿であるが、分かる。間違いなく笑っている。
いや、
濁った瞳には薄っすらと、花のような模様が浮かび上がっていた。
カンヌキがサナユキを【鑑定】してくれた際に、瞳に
――心眼系の祟術か!
おそらく催眠や精神汚染の
鬼化は心臓に核があり、その隣は左右の肩、もしくは眼である。
『常に選択肢を捨てないこと。たとえば相手が鬼化系だからといって遠距離攻撃や精神攻撃の可能性を除外してはいけない』
亜空間に幽閉される前に、カンヌキに言われたばかりだ。
怒りによって、視野が狭くなりすぎていた。冷静な状態ならば、ここまで不用意にならなかったはず。
もっとも自身の肉親を呪い殺した相手を目の前にして、冷静でいられるはずもなかった。
「さて、これで終幕」
オーガから腕を引き抜くと、使役する死霊は虚空へと溶けてなくなった。
「く、っそッ」
足掻こうにも、体がやはり動かない。
「『人は流れに逆らっても、常に過去に押し戻される』というグレート・ギャツビーの一文が私はお気に入りでね。弱い人のあり方、そのものだとは思わないか?」
ゆっくりとサナユキへと振り向き、近づく人狼。
「意味……が……わからない……」
ジャリ、ジャリと人狼の足音が立つ度、視界が薄れていく。
意識が今にも飛びそうだ。
だが意識を失えば、殺される、もしくはカンヌキと同じく人ではない異形にさせられるかのどちらかだろう。
近寄る人狼の奥にいるセーラー服の少女と、木化しかけている老人の姿が薄っすらと目に入る。
今にも駆け寄ろうとするコトハを、カンヌキが必死に止めているようだ。
――コトハも……
捕まった自分を助けに来てくれたコトハを巻き込んでしまった。
オボウチに構うことなく、亜空間の脱出と同時に、この廃ビルから脱出していれば、逃げられた可能性もわずかながらあったはず。
「ごめ……ん」
コトハが腕を振り払おうとしたとき、カンヌキが思い切り腕を振るう。
そして、コトハを宙へと放り投げた。
飛ばされる体が向かう先は、ビルの眼下に広がる廃墟と化した東京。
ビルの屋上からカンヌキが、コトハを投げ飛ばしたのだ。
落ちる直前、コトハは手を伸ばす。
「サナユキッ!」
壁に掴まろうとしているのではない。サナユキへと手を伸ばした。
お互いの距離は10mは離れている、決して届くはずはない。
まだ彼女は自分を助け出そうとしてくれているのだ。
こんな状況に置かれながらも、まだ。
「ああぁ」
その手が、どこかに触れた気がした。
自身の腕ではなく、心の何かをコトハが掴み取ってくれたように感じる。
応えようとサナユキも震える手を伸ばす。
そして視線があった直後、コトハの姿はビルの下へと消えていった。
「やってくれるね、カンヌキさん。なかなか良い祟術を持っている娘だったのに、落ちて死んだかもしれないよ?」
残念そうな声を上げたのは人狼。
「賭けではあるが、コトハ君の式神なら助かる可能性は十分ある」
「【果樹園】で木になるくらいなら、生き残れる可能性に賭ける、か。間違ってはいないとは思うよ」
「彼も助けてあげられないのが心残りだよ」
カンヌキは憂いた顔をサナユキへと向ける。
「他人に構ってる場合かな。カンヌキさんは、もう逃げられないのに」
「私のような老いぼれは、どうなってもいい」
人狼はカンヌキの言葉を鼻で笑い、更に近寄ってくる。
そして、
「
耳元でささやく人狼の声。
その声が子守唄のように、いやに頭に響き、意識が次第にぶつ切りとなっていく。
「ま……だ……」
サナユキの視界は黒く塗りつぶされた。
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