いちばんの罪人

 風の神が口走った内容を、

 私は確かに聞き届けましたが、

 現実と受け入れられずにいました。


「……今、なんと。」


「走馬灯って、やつ、かしら……。

 私……こんな、今更……」


 そう、そうですよ、今更ですよ。

 今更、あの人の心を揺さぶろうとでもいうのですか。

 そんなのは。

 ずる過ぎやしませんか。


「……今更、思い出したところで、許しはしませんよ。」


「ええ……分かってる。

 今更、思い出して……ごめんなさい……」


 そうですね。

 その謝罪すら、傲慢だと思います。

 本当にあなたは、嫌になるくらい、私の母です。


「さようなら、母上。永久に。」


 大嫌いな、大切な母上。

 深淵の廻廊で、あの方が力尽きるまで。

 半永久的に自分の犯した罪に苦しんでいてください。




 私が風の神と碧の鷲を深淵の廻廊に転送し終えると、

 ジャコウの香りがふっと漂い、

 少し離れたところに地神が転移してきました。


「決着が、ついてしまったのですね。」


 主神様を斃すと抜かしたこの男を、私は蛇のごとく睨みつけました。


「現れたな、地神。お前だけは絶対に許さな……」


 地神は私と視線を合わせることなく、ふいと横を向きました。

 その横顔には、戦意などまるでなく、

 普段浮かべていたよりも少し自嘲的な笑みが貼りついていました。


「ええ。僕も、僕を許せないと思います。

 ……サンリアちゃん、思い出してましたね。

 僕も……五十年前、瀕死に陥ったことがあって。

 思い出していたんです。

 あの頃、僕らが彼と……レオン君とともにいた、

 あの苦しくも幸せだった日々を。」


 レオン、と。

 あなたも、呼ぶのですね。

 大嫌いですよ、そういう古参アピール。


「……それで、敵意が……」


「はい。もう、僕は戦えません。

 ……死のうかと、何度も思いました。

 その度に……あの子の苦しむ声が、聞こえた気がして。

 僕は、僕の命すら、自分の勝手にしてはいけないと思ったんです。」


「それで、私の処分を待っていたと?」


 溜息が出てしまいます。

 雷神も地神も風神も、自分のことばかり。

 本当に大人ですか?

 主神様を少年だと笑えないのではないですか?

 もう、あなた達は必要ありません。

 あの人の名を呼べるのは、もう私だけでいい。


「はい。このまま深淵の廻廊へ、送ってください。

 逆神の末路は、そうあるべきです。」





┼ ┼ ┼ ┼ ┼ ┼


 三柱を墜としたことを主神様に何と伝えるか、

 寝所に転移する手前で悩んでいると、

 主神様の方から声を掛けてくださいました。


「ラインハルト」


「はい。」


 転移を完了させ寝所の床に立ちます。

 主神様は、ベランダで月を見ていました。

 そっと近寄ると、主神様は振り返らずに、

 私に問いかけてきました。


「風のは、どうなった……?」


「ご安心を。

 第三聖獣の碧の鷲ともども、

 深淵の廻廊に落とすことに成功しました。」


「……そうか。」


 主神様は静かに息を吐き、顔を伏せました。


「…………サンリア……」


 母の諱、ですか。

 あなた達はもう終わりなんですよ。

 もう、その名を呼ばないでください。

 あなたが呼んでいい名前はひとつだけ。


「? なにかおっしゃいましたか?」


 私が敢えて聞こえなかったフリをして首を傾げると、

 主神様はこちらを向きました。


「……いや。心を、私の心を、弔っているところだ……」


「……主神様。私が、おります。」


 だから、ねえ。


「ああ……」


 主神様は心ここにあらずといったふうにゆらりと歩き出しました。


「私は、あなたのおそばに……」


 私の前を、素通り、するんですか。


「そうだな……」


 私の声、聞こえてますか。


「……私では、足りませんか。」


 ねえ、主神様。


「…………少し、黙っていてくれないか。」


 そんな態度を、取っていいと思ってるんですか。


 どこへ、ゆくんですか。


 どこにも居場所なんかないくせに。


 寝台?


 そうやって、


 私が殺す気になるまで、


 籠城するつもりですか。


 ねえ、なあ、おい。


 どうして私を拒むんだ。



 寝台のそばまで主神が移動したので、

 私は彼を寝台に突き飛ばしました。

 主神は何の抵抗もなく、俯せに倒れました。


「……私がここにいるというのに。」


 もう、自分を抑えることが、出来そうにありません。

 主神はのろのろと振り向こうとしたので、

 私は彼に馬乗りになり、寝台に押さえつけました。


「……ラインハルト。」


 無理矢理組み敷いた腕の下から、声が。

 ようやく私の名を呼ぶ気になったのか。


「私には、あなたしかいないというのに。

 主神。

 あなたは、

 君は、

 なぜ私を見ないんだ。」


 言葉、めちゃくちゃだな。

 でも、私のせいじゃない。

 私は、頑張ったんですよ。

 もう、我慢の限界なんだ。


「この体勢では見られないだろう。見せてみろ。」


 主神が私の様子のおかしいのにようやく気づいたらしい。

 そうですね、あなたはずっと塞ぎ込んでいましたからね。

 私がどんな気持ちで、殺してくれと言われ続けてきたか、

 何度、あなたの口を塞いでしまおうと思ったか、

 理解しようと、いや、見ようとすら。

 ああもう、見なくていい。

 こんな私など。


「……いやだ。今の私は、うつくしくない。あなたが望んだ私ではない。」


「……なら、出ていけ。」


「お断りだ。もう子供の頃の私ではない……」


「……なら、なんだというのだ。」


 こんな世界を続ける私は。

 世界を延命しようとする私は。

 ただ、あなたがしいだけ。


「私は……今の私は、あなたが生んだ怪物だ。あなたがこの身に何度も教えこんだ隷従の狂気あい。それが、今度はあなたを食らわんとしている。

 私は、私だけのあなたがいい。あの頃から変わらないその小さな体、私にくれないか。レオン……」


「貴様。どこでその名を!」


 一体どこにそんな気力がと思うほどの激昂を見せて、

 主神がウェルの翼を生やして抵抗しようとしてきた。

 私はリンの力を腕だけに集中させ、慌てて抑え込む。

 重ねて詠唱で押し込む必要があるか……、

 いや、今は夜だ。私の方が強い。

 そう、

 私の方が強いから、こんなことになってしまった。


「……風の神が、あなたのことをそう呼んでいた。今更思いだしてごめんなさい、と……」


「……クソッ……」


 レオン。

 ねえ、レオン。そんなに奴らが大事だったの?

 ねえ、レオン。そんなに私じゃ駄目だったの?

 ねえ、レオン。どうして泣いているんですか。

 ねえ、レオン。涙もひとを傷つけるんですよ。


「……レオン。あなたは……」


 責める言葉をためらって、意識がふっと脇に逸れる。

 ああ、汗の匂いに交じって、白檀の、香り───


「……あなたは……、あれ?」


 あなた。

 あなた、じゃ、なくて、ねえ。

 ■■■。

 ない。

 ない、ない、なんで?

 私は、あなたの名前を呼びたい、のに。


「……おかしい、私はあなたの名前を得た、はずなのに……」


「忘れろ。お前には不要な情報だ。」


 ああ、そんな。

 そんなことが、

 まだ私にそんなひどいことができるというの。


「まさかあなたが……なぜ、なぜ……」


「私の名を呼んだ者は皆私を裏切ってきた。忘れられる名なら最初から知らない方がいい。」


「……私すら、信じられぬというのか……」


「世界が、そうなっているのだ。個人の意志など関係ない。」


「どういう……」


 どういう意味ですか。

 そうやって、世界のせいにして。

 逃げているのはあなたの方ではないんですか。


「私は、疲れた。もう、好きにしろ……」


 主神の小さな体から翼が消えて、

 抵抗しようとする体の力が無くなって、

 息すら億劫になったような力無い声が聞こえて、

 私は。


「良いんですか。今の私は、好きにしますよ。」


 私は、千年分の復讐を。

 千年分の欲望と夢を。

 千年分の憎しみを。

 千年分の狂気を。

 千年分の愛を。

 全部、全部、■■■にぶつけました。

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