勿忘草
苺どん
第1話勿忘草
『ソーサー』というカフェは普通のカフェとは違うらしい。
こんなことを言われた。
誰からだったか、いつ聞いたかも覚えてない。
昨日の朝ごはんさえ思い出せないのだから仕方がないか。
はぁ、と椅子の上に立ったままため息を吐く。首にはホームセンターで購入した太い縄。
私は、たった今自殺をしようとしていた。
首に縄をかけ、あとは椅子を蹴飛ばすだけ。苦しいのは一瞬で、気を失ってしまえばあとは眠るように死ねる。
それがついさっきまで、私の唯一の希望だったのだ。
なのに人生の終わりにこんな未練がましいことを思い出してしまった。
『ソーサー』というカフェはどんなところなのだろう。
普通のカフェとは違うってどういう意味なのだろう。
……死ぬ前に、行ってみようかな。
決して死から逃げる訳ではない。カフェから帰ってきたら縄で首を吊るのだ。
それは決定事項で、確定している未来。
そう自分に言い聞かせて縄を首から外し、椅子から降りた。
そして人々が忙しなく働いている水曜日の午後に足を踏み出した。
『ソーサー』という店は案外早く見つかった。
スマートフォンで名前を検索したらすぐにヒットした。
電車で二駅先の街に行き、駅前の入り組んだ路地を進むとたどり着いた。
どんなところだろうと期待する反面、きっとただのカフェなのだろうと失望する気持ちが心の中に同時に存在していた。
二律背反な気持ちをぐるぐると心の中でかき混ぜながらカフェのドアを開く。
カランカランと軽いベルの音がした後、真正面のカウンターにいる女性が微笑んで「いらっしゃいませ」と言った。
「空いているお席にお座りください」
言われた通り、適当な空いている席に向かう。
この店の店主にしては随分若い女性だ。
ボブヘアーで丸メガネをかけていて地味な印象を持った。二〇代くらいだろうか? 本当に若く見える。
店の雰囲気はお洒落なものではなく、どちらかと言えばアンティークな、昔ながらの喫茶店に近い雰囲気だった。
ただひとつ、異様な点があった。
花が多いのだ。
花屋かと錯覚するくらいには多い。そういうコンセンプトのカフェなのだろうか? それにしては店本来の雰囲気がまるで合っていない。
席に座りながらそんなことを考えていると、店主であろう先程の女性がメニューを持ってきた。
「ご注文お決まりになりましたらお呼びください」
決まり文句を言い、カウンターの方に戻っていった。
メニューを眺めてみるが何の変哲もないただのカフェのメニューだ。コーヒー、紅茶、ラテ……。あとは少しのスイーツ。
拍子抜けだ。ここはそんなに、普通とは違うカフェなのだろうか。私にはとても、そんな風には思えなかった。
適当に注文して、帰ろう。早く帰って死んでしまおう。
「すみません、コーヒーをブラックで」
店主に声をかけ、注文を済ませた。
はぁ、と小さくため息を吐いてコーヒーがくるまでスマートフォンを弄る。
もう誰の連絡先も入ってない、役目が半分以上なくなってしまったスマートフォン。
遺品程度にしかならないだろう。親がこんな娘の遺品を受け取るかどうかも分からないが。
誰からも必要とされない私は、きっと誰にも覚えていて貰えない。
別にいい。こんな三〇年間生きただけ、ただ生きてきただけの私は誰かに覚えていてもらえるはずがないのだから。
「お待たせしました。コーヒーです」
店主は優しい声でそう言い、コーヒを机に置いた。
「ありがとうございます」
人と話したのはいつぶりだろうか。こんな簡単なやり取りで、他人の温かさを感じたのはいつだっただろう。
他人と喋ることで、自分が認識されている気がした。
気がつくと私は涙を流していた。
もういい大人なのに、人前で恥ずかしい。
店内にほぼ客がいなかったことだけが救いだ。
店主は動揺もせず、微笑みながらハンカチを差し出してきた。
その行為にさえ優しさを感じてしまい、溢れる涙の量が増えた。
店主は何も言わず私の背中をさすった。
こんなこと親にだってしてもらったことがない。
私の親は、いわゆる毒親というものだった。
私が幼い頃は家にいる時間の方が少なかった。流石に罪悪感があったのか、祖母を呼びつけ私の世話をさせていた。
祖母は私のことがあまり好きではないようだった。当然だ。父親が誰なのか分からない上に、嫌いな娘が産んだ孫なのだから。
流石に死なせてしまっては世間体が悪いため三食しっかりとご飯は食べさせてもらっていたが、『家族団欒の食卓』なんてものは一度も経験したことがない。
愛をもらったことなど一度もない。
貰ったのは暴力による痛みと、罵詈雑言だけ。
そのまま私は大人になった。
『普通』というものと無縁に育ったせいか私は周りと合わなかった。
育ってきた環境が異様だったせいか、価値観が、考え方がどうやら世間一般とは違っていたようだった。
『君、おかしいよ』という言葉を何度投げかけられただろうか。
仕事も思うようにできなくて、人付き合いも上手くいかない。
私のせいじゃない。こんなふうになってしまったのは私のせいじゃないのに、なんでこんなに辛い目に合わなければいけないの?
母がもう少し私に関心を持ってくれれば、祖母がもう少し私を愛していてくれたら。
名前も顔も知らない父が、一度だけでも私に会いにきてくれていれば。
何かが違ったのかもしれない。
でも、それでも一番愚かだったのは私だ。
こんな思いを燻らせながら、それを伝えようとしたことは一度もなかった。
母親と祖母に少しでも酷いことをされないように立ち回っていた。
一度も自分の気持ちを伝えられなかった。
でももうどうしようもないのだ。今この三十年間燻らせてきた気持ちをぶつけたところで何も変わらない。
全部が手遅れで、遅すぎた。
だから私は命を断つことを選択したのだ。
三十分くらい泣き続け、涙を流しきって少し落ち着いてきた。
注文したコーヒーは冷めてしまっていたが、それでも美味しく感じた。
目はきっと酷いくらい腫れているのだろう。こんな顔のまま帰るのかと思うと気が重くなる。
ずっと背中をさすってくれていた店主は、「少し待っていてください」と言い温かいお手拭きを持ってきた。ありがたく受け取り、少しでも目の腫れを治そうと目の上のあたりに当てた。
「何も聞かないでいてくれて、ありがとうございます」
私は店主にそう言った。私が泣いてしまった時に、変な同情の言葉や詮索があったらきっと私の覚悟は揺らいでいただろう。
もう少し生きてみてもいいのかもしれないと勘違いをしてしまうところだった。
「ただのカフェの店主ですから。私はお客さんにとって何者でもないので」
店主は、私が店に入ってきた時と同じ微笑みを浮かべていた。
「ごゆっくりどうぞ」
そう言い店主はまたカウンターの方に戻っていった。
結局このカフェが他のカフェと何が違うのかは分からなかったが、人生の最後に良い時間を過ごせたかもしれない。
残りのコーヒーを飲み干して席を立ち、会計をするため店主のいるカウンターに向かった。
「お会計ですね。五百円になります」
カウンターの前に来ると店主はそう言った。
財布の中を覗くと整理できていないレシートの隙間にちょうど五百円玉があったので、それを渡した。
「ちょうどですね。あとこれを」
店主がカウンターの下から何かを持ち上げた。
「貴女に花を贈ります」
店主は変わらぬ笑顔で一輪の、青くて小さな花を手渡してきた。
「私、お客さんに合う花を選ぶのが得意なんです。趣味みたいなものなので、お花のお代は要りません」
ああ。これが普通のカフェと違うところなのか。だけどこんな小さく可愛らしい花が私に合っているとは到底思えなかった。
「花屋みたいですね」
「ええ。よく言われます」
そんな短い会話をして、私は店を後にした。
家に帰りながらもらった花を調べてみると、それは勿忘草だった。
花言葉は『私を忘れないで』
なるほど。確かにあの店主は花を選ぶのが本当に得意なようだ。
最期に、少し違った形ではあるけれど他人に自分の思いを伝えられる。
後日、狭いアパートの一室で首を吊っている女性が発見された。
その傍には、勿忘草が落ちていた。
勿忘草 苺どん @ichigo73don
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます