また君に会いに行きます

二村 三

第1話 初恋

 10年前、僕の初恋は病院から見える桜の花びらとともに散った。



 記憶に残るのは綺麗な腰まで伸びる黒い髪と、いつも明るい笑みを見せる彼女の横顔、僕が赤ん坊の頃からの付き合いで、小さな僕にとっては太陽みたいなその人の笑みは、笑い方を知らない僕に手本を見せるように輝き、僕の瞳を引き付けて離さなかった。



 手を伸ばしても届かない大きな背中に、追いつくことのできない足幅の長さ。彼女の優しい手がいつも僕の頭を撫で、目を細めて見下ろす瞳に、僕はいつもりんごみたいに頬を赤くして彼女の胸に抱きしめられて、その胸に顔をうずめて目を閉じていた。



 小さな瞳のファインダーから覗く、僕しか知らない世界。



 茜色の夕日が地平線に輝き、まるで指輪の宝石のようにオレンジ色に一線輝き消えていく黄昏、彼女の心臓の音が夜闇を恐れる僕の不安をかき消して、髪を撫でる繊細なガラスに触れるような優しい手つきに、僕は子猫みたい丸まって時間の流れを忘れるように彼女の体温を感じて安心という平和を抱きしめた。



 絶望というものとは無縁で、時を悠久のように感じ、希望という光であふれてやまない世界で、僕は何でも叶うと信じていた。


 

 恋なんてまだ知らない、星座の動きも、潮の満ち引きや万有引力の駆け引きも、好きという言葉の意味さえ、まだよく理解できず、青春の大切さも、愛の伝え方も知らなかった。



 そんな僕の恋心は彼女に伝える前にまるでシャボン玉のように浮き上がり、触れられないままかき消えた。



 それはまるで鳥が最初から羽ばたき方を知ってるように、リンゴが木から落ち、昇った朝日が東から西へ、まるで人の歩みのように雲が流れていき、遠き日を見るように海に浮かぶ手漕ぎボートの上から、地平線に半分沈む巨大な満月を見て、暗い星々の間を流れる光の線に新たな命の躍動を感じ、明かりのない教室の片隅に置き忘れた時間を、制服に着替えたままの彼女を、振り向いたその顔を、僕は触れようとして記憶の中で手がすり抜けた。



 今でも夢に見る。窓が開いた病室、静かになる心電図の音、そしてその機械に繋がれた横になる彼女の姿。カーテンで仕切られたその場所はどこか悪いものを隠すように、見せないように必死に何かを隠しているようだった。


 あの頃の僕にとってはそれが普通なことなんだと思っていた。



 僕の知る世界がまだ小さくて、世の中の善悪も判らない、右も左も理解でず、誰かの後をついていくことしかできない僕にとって、触れ合うことが多かった彼女との時間が唯一の当たり前だった。



 そんな当然だと思っていたことが、心電図が鳴り続ける午後、海底の潜水艦に一人取り残された男の最後を記すかのように突如として変わってしまった。



 駆けつける看護師の女性と担当医の先生が慌ただしく話しながら彼女の周りを取り囲み、彼女の胸に手を当てると、白衣を着た先生のひっ迫した声が病室中に響いて大気を震わした。優しい大人たちが豹変したように荒い口調で飛び交う意味の理解できない呪文のような言葉を聞いて、僕はただ目の前で起こっている事実を視界でしか受け取ることができなかった。



 それが心配蘇生だったことは後から知ったけど、お母さんとお見舞いに来た僕は手に持った一輪の花を持って、映画ラストシーンを演じることを忘れた子役のようにその場に立ち尽くし、ぎゅっと握った花の茎が指の力で無意識で曲げていることに気づかず、大人の焦りと緊張した表情に、表示されることのないカウントダウンを肌で感じ、僕は彼女の近くに行こうと走り出した。



 母が僕を捕まえようと手を伸ばして腕を掴んだ。

 僕はその手を振り払い、花を持っていることを忘れ、靴を脱げていることに気づかず、転ぶことさえためらないで一心不乱に、大粒の涙を両瞳から落として、まるで小さな怪物が叫ぶように、彼女の手を胸元に両手で力強く引き寄せて握った。



 息で曇った透明なマスクを着けて、目をうっすらと開ける彼女の瞳に映った僕は、その時、何を口にしたのか覚えていないけど、言い終わった僕の頬を伝う涙を彼女が指の甲で優しく撫でて、弱弱しい笑みで僕に笑いかけたのを覚えている。



 僕は彼女の大きな手を僕は小さな指で握り締めて、まだ何か必死に伝えようとしたけど、幼かった僕には思ったことを口で伝えるのは難しくて、つたない言葉で綴った思いは口からこぼれるたびに消えていき、記憶することさえ難しかった。だけど、思いだけは、その時の思いだけは今でも覚えている。



 僕は彼女のことが、どうしようもなく、たとえ世界のすべてが敵に回ったとしても、彼女によって宇宙が終焉を迎え、世界が滅びる未来だとしても、最後のその時、瞼を閉じるわずかな一瞬一秒、人生のゴールテープを駆け抜けた先に、誰が何と言おうと好きだった。



 それが幼い恋心だと言うことはわかっているけど、誤りなんて認めない、認められるわけがない。だって運命なんて言う言葉は物語の演出の表現のためにある言葉じゃない。何回も、何百回も、何万回も、数えきれないほど繰り返してきた命の営みの先に、彼女と僕が出会ったのは偶然という遊戯のダイスが振られ、この時代、この場所に生まれることを選んだ僕たちの選択だ。その銀河の海に針を落とすような偶然からつかみ取った僕と彼女の運命は手が結びつくたびに必然的に、言葉を交わすたびに胸の中に小さな星を宿し、それを小瓶の中いっぱいに貯めて輝いていた。



 僕の心臓は彼女が笑うたびに胎動し、彼女に触れるたびに鼓動を忘れ、瞳が合うたびにきゅうっと締め付けられ、彼女と言葉を交わすたびに撃ち抜かれたそのハートは瞳を閉じるほど光輝いた。



 だけど僕とは対照的に心電図の音が潮が引くように消えていく。満月は海を彩ることなく海水のなくなった海底を露出さるように、そのもう戻ることのない波は停止音と共に僕の手から彼女の皮膚の感覚が抜け落ちて、浮かび上がることのない希望をゆっくりと星の海底へ沈めた。

 その瞬間、僕の色づいていた瞳のファインダーが白と黒だけの2色に変わった。

 


 机にある写真立てに映るのは、小学校に上がり立ての僕と、20歳を迎えた優子さん。彼女の誕生日を病院のベットで祝った時のものだ。薄ピンク色のパジャマ姿の優子さんに、抱きかかえられるように座る僕は、背後から頭に加わる柔らかな感触に恥ずかしくて目を伏せていた。それは今ではモノクロに見える。

 高校生になった僕は彼女と歳が近くなるほど、もし、ここに彼女がいたらどうなっていたか想像する。



 もう会えないのに、小学生の時からずっと置かれた写真立てを毎日のように見ていると小さかったあの頃に比べて自分も随分と大きくなったと感じる。今なら彼女の隣に立っても不自然には見えないだろう。それどころかもう一歩踏みだせるかもしれない。だけど、それは叶うことはない。



 僕は今でもずっと彼女に片思いを続けている。こんな伝えられない気持ちを抱えて、今日も窓の外に映る飛行機雲が線を引く空を見ながら、他人事のように授業を受ける。板書を書き写そうと手に持った鉛筆は、ノートに文字を書かず指の中で手持ち無沙汰に空をなぞり、ぼんやりと僕の思考を表すかのように浮いている。

 教室には同じ学生服を着た生徒が机に向かって授業を受けて、不自然であることを当たり前と受け止めて授業を受けている。

 いつもと変わらない毎日、いつも繰り返している日常。それが当たり前だと大人たちはいうけど、僕はそんな日常が退屈で呼吸するたびに息が苦しくなる。

 あの日、あの時、あの頃のままで、僕の時間は前に進むことを拒んでいるように、遠いあの日を今のように思い返し、今日も僕は彼女の姿をどこかに探し視線を彷徨さまよわせる。きっと瞳に映らない、そんな彼女に僕は視線を送り続けた。

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