ひらがなとは何か
@yoshistar
ひらがなとは何か
―源氏物語から現代日本文における‟かな”の持つ意味を探る―
まえがき
日本語の顕著な独自性は、その表記法にあり漢字のほかにひらがなとカタカナという二つの仮名(かな)をもつことにあることに異論はないであろう。
いうまでもなくこの「仮名」は主として万葉仮名に端を発している漢字による仮名から派生したものであることはすでに動かぬ定説となっているであろう。こうした万葉仮名といった表記はおそらく朝鮮半島の知識階級、特に百済人の力が預かってあまりあるものがあるだろう。遣隋使や遣唐使など日本の知識人も当然関与はしていたであろうが、漢字などの文化に対する理解や文化度の高さは百済に及ぶべくもなかった。いづれにしてもこうして形成された「万葉仮名」からひとつには漢文の読み下しのための仮名としてのカタカナが発展してきたのは容易に想像がつく。それが漢文の付帯物から独立して漢字とカタカナによる日本語文が形成されてきたというのもまた歴史の常識である。そうであるなら、日本語表記としてはこれで完成したとしてもよかったはずである。それになぜひらがなというもう一つの表記が形成されていったのだろうか。その理由をはっきりさせたという話は聞かないが、その発達に和歌の隆盛がおおいに関係したであろうことはこれまた想像に難くない。カタカナが基本的に漢字の一部からなるのに対してひらがなは漢字のくずし文字から進化したものというのも、カタカナが漢文的な論理的で硬い表現に適しており、ひらがなが日本語の情緒的で抑揚に富んだ「うた」の表記に適しており、またそのように進化したものであろう。そこに男文字としてのカタカナと女文字としてのひらがなという性差が付加され平安朝においてそれぞれ独自の表記法として用いられてるようになり、それは明治時代から戦前にかけて続いている。それが戦後になって大きく変化しているのである。日本の戦後とはひらがなが名実ともに日本語の主体となった歴史でもありそれに伴いカタカナの役割も変化した時代であった。そのことは本文でも少し触れているように明治憲法(大日本帝国憲法)がカタカナ表記であり戦後の日本国憲法がひらがな表記となっていることに端的に現れているが、こうした歴史のなかでのひらがな、特に戦後におけるひらがなの扱い方を本エッセイで瞥見し、ひらがなとはなにか(それはまたカタカナについても考えることにもなる)ということについて考えるヒントを示したい。
源氏物語におけるひらがな
源氏物語とは平安時代を代表するような物語であり、今日まで読まれ続けている古典中の古典ともいうべき物語であり、女の女による女のための物語として書かれ、広く男を含む貴族社会に流布した物語である。その原文はひらがなを主体として漢字を一部に混ぜた表記方法をとっているが、著者の紫式部の原本は平安時代に失われ様々な筆写本が流布していき、鎌倉時代になって河内本と青表紙本という形で定本化された(真の定本とは河内本のみであり、青表紙本とは定家の私家版にすぎない(定家自身がなお不審のところがあるのを捨てきれなかったと述べていることから定家本人はそれを定本とはみなしていなかったのは明らかであり、そうした青表紙本も含めて校訂を行い定家の「不審」も極力解消しようとしたのが河内本ということができる)という見方もある、更に近年では青表紙本そのものが河内本ほどではないまでも2、3の先行本による校訂本であったともいわれているようだ)が、この二本ではその表記の扱い方に違いが見えるところもある。
その一例を掲げてみよう。(引用文中の「」は筆者が加えた)
※(河)は尾州家河内本、(青)は青表紙本系の大島本(「源氏物語大成」)
(河)このひめきみを・いまゝて「その人」と「ひと」のしりきこえぬ・もの
けなやうなり・ちゝみやにしらせきこえてむとおほしなりて・
御もきのこと「人」にあまねくのたませねど(以下略)
(青)このひめ君をいまゝて「よ人」も「その人」ともしりきこえぬも物けな
きやう也ちゝ宮にしらせきこえてむとおもほしなりて御もき
の事「人」にあまねくはの給はねと(以下略)
両テキストにおいて「」で囲った“人”についての表記について、(河)と(青)には基本的な考え方の相違がある。「その人」(紫の上)と「人」は両テキストとも同じであるが、世間一般の人とさす表現が尾州家河内本では「ひと」となっているのに対して青表紙本では「よ人」となっているのである。この違いはどういうこなのであろうか。一つの考えとしては、青表紙本(大島本)は漢字の「人」を中心に、それにひらがなを付け加えるという、漢文の読み下し文のスタイルになっているのに対して、河内本では「ひと」というひらがなで概念としてひと一般を表現し、源氏が指示などをする特定の人間集団について「人」と漢字で表記しているということである。
つまり(河)では、人間のカテゴリーとして大きな順に「ひと→人→その人」と明確に区別している。
それに対して(青)は人という漢字に「よ」や「その」を加えることでこうした(河)の区別を表現しており、より漢字を中心に置いた表現方法を採用しているのである。
これによって漢字の「人」は概念としての「ひと」も表現することになり、「よ人」と「人」の違いが分かりにくなっている。(「よ」を除いた「人」が貴族社会の世なのか、あるいは宮廷内の世なのか、或いは別のコミュニティなのか、更には広く都人一般の世なのか分かりずらい)
*概念としての「人」という表記は、例えば江戸時代の作家である西鶴においても次の引用のようにみられる。
「(略)是をおもふに、人はばけもの、世にない物はなし。」(「西鶴諸国ばなし」序文)
ここでも漢字の「人」とは、特定の人間ではなく、人間一般という概念を表している。
西鶴においてもひらがなによってそのことを表現しようとする志向はうかがえないようである。
**これを英語と単純に比較して表現すると、
「ひと≑a man 」
「人≑ the man」
「その人≑that man」
(「みをつくし」に「このひと」という表現があるが、これも「この」が「ひ
と」という普通名詞を修飾し、この表現においては文法的には「人」と「ひ
と」は同じということになるが、「ひと」のほうがより広い(多義的多元的
な)ニュアンスを含んでいる可能性が高いと思われる)
ということになる。つまり英語などの「冠詞」をもたない日本語において、
漢字とかなという表記でそれに類似したことを表そうとしていたと考えるこ
とができる。(そのほか同様な例として「人々」が女君の側近くに使える特定
の女房たちなど限定された集団を表現している等がある)
いるものなどがある。)
※こうした観点からすると「みやこ」と「宮こ」にもそれらに異なる意味が
込められている可能性があり、「みやこ」が都一般を意味し、「宮こ」は天皇が
住んでいる宮殿のある所というニュアンスが強いとも解釈できる。
このことが、源氏物語全般に亘ることなのか、さらにはどちらが本来の源氏物語本文の表記なのかは軽々に断言できないものであるが、この部分に関しては、(河)の表記が筆者の見込みどおりであるならば、こうしたひらがなに対する感性は、ひらがな(女文字)を主体とした物語の金字塔である源氏物語の原作者であった紫式部という希代の天才にこそふさわしものであると思われる。
※ここで言及した「漢字」と「ひらかな」の書き分けは、全てに亘って機械的(厳密な文法規則的)に行われているものではないことには注意しておきたい。
一例として「みをつくし」においては次のような例がある。
「入道后宮御位をまたあらため給へ」とあるあとには、「入道のみやにはいとおとおしく」と「宮」を「漢字」の次には「ひらかな」にしているが、同じ文脈中には
「兵部卿の宮もとしころの御心はえの」とあるあとでも「かの宮の御あたりには」「兵部卿宮のなかの君」とあり、「宮」で通している。(異体字は常用のものに改めた)
こうした違いが、単に筆記上あるいは「字面」上のことなのか(漢字が続く(あるいはひらがなが続く)のを避けると見える例「かむたちめ殿上人われもわれもと」)、または何か他の意味が込めら
れているものなのかは更なる検証が必要であろう。
※ちなみに、本エッセイにおいて「こころ」とひらがな表記をしているが、これは上に述べた漢字とひらかなについてのニュアンスの違いについて、「こころ」と「心」が、同じことの表裏である場合や、「こころ」の一部が「心」である場合、逆に「心」の一部が「こころ」である場合などがあることを意識し、より広くとらえる場合にひらがなを用いるようにしている。
※このような「こころ」と「心」を区別する感覚は、少なくとも明治以降にはあった。(漱石の小説の題名「こころ」がその有名な例である(漱石は「こころ」という表記によって、様々な人の様々な心という「ひとのこころ」というものを描くことがこの小説のテーマであることを示していたという見方も可能となる。こうした表記をとったことについては漱石が優秀な英文学者であったことも示唆的である。(実際に書かれた小説は「先生」と「わたし」との一種の同性愛の話(この同性愛が先生の自殺という形で「奥さん」を捨て去ること(見方によっては究極のサディズム、作者の側からすれば一種のサディスティックな倒錯ともいうべきもの。この倒錯者としての「先生」のいやらしさは、「奥さん」さらにはその「奥さん」に好意を含んだ関心を持ちつつあるように思える「わたし」への倒錯的サディズムを明治天皇の崩御などもっともらしい理由・理屈をつけて覆い隠し正当化しようとしていることにある。こうしたこともまたサディスティック倒錯心理の特徴であるとも考えられよう)によって完結するという悲喜劇(見方によっては喜劇ともなる。こうした漱石流の「ディバインコメディ(神の視点(「上から目線」)からみた、悲劇を生きる人間の喜劇(つまり人間が苦痛に苦しめば苦しむほど可笑しさ・うれしさを感じる一種のサディズム(それが漱石の内に秘められた狂気の源泉であり、その自覚こそが彼の苦悩とされるものの本質(他人をいたぶりたいという抑えがたい欲望とそのような欲望を捨てきれない自身に対する自責の念、さらにはそれを止揚しようとするサディスティックな倒錯への志向)であった)」)を描くことが漱石の終生に亘る創作テーマであり、いわゆる後期三部作以降に、より深刻さの度(救いようのない暗さの度合い(つまり絶望して朽ち果てることこそが人間の真実だというような主張))を増していった))を主軸としてその心を描くことが中心となっているが、わき役的な人々の心もそれなりに描かれており、なおかつ当初の意図として「様々な人」の「心」を描く短編集であった(つまり「書かれなかった「心」の物語がある」ということ)を最終的なタイトルに残したということになろう。)
※ただし、漱石「こころ」は同時に漢字「心」も本の表題として用いており、明瞭に区別していたわけではない)
このようなひらがな表記についての最近の例としては、講談社ブルーバックスシリーズ中の「「こころ」はいかにして生まれるのか」(櫻井 武)などがある。
こうした「かな」と「漢字」を区分する感覚は日本人特有の感覚であり、河内本を見る限り、こうした感覚は既に平安時代からあったということができることから、ひらがなの創成期(*)よりひらがなを用いた日本語表現がもつ本来的といってもいい特色の一つともなっていたということができよう。
(戦後においては、外国語を「かたかな」で表記することが一般的になったこともこのような感覚がなせる業であった。)
そう考えるならば、どちらが源氏物語本来の表記であったかは措くとしても、ここで示した青表紙本の本文は河内本の本文に示されていたこのような日本語の感覚(つまりは日本語に表されている日本人の感性)を台無しにしていたということもできよう。
(敢ていうならば、青表紙の本文は、漢文の読み下し文の発想が顕著であり、その意味では漢文中心主義(つまりは当時においての男文化でもあった)が端的に示されているということも可能であろう。(それは、とりもなおさず「女」の文化の世界に「男」の手が入ってきたこと(これは歴史的事実である。源氏物語をはじめ平安朝の「女流文学」を平氏台頭などの武家の時代になって以降伝えたのは「男」の文人・学者たちが中心となっていった(青表紙本の定家、河内本の親行の果たした役割は絶大である)、いわば「女」文化の「男」化が進展した)の証左ともみなされるものかもしれない)
このような漢字とかなを使い分ける感性は、むしろ戦後において顕著になったともいえるようである。少なくとも漢字・ひらがな・カタカナ更にはローマ字を混在されせる表記が一般化していくのは明治以来の伝統ではあるが、戦後において漢字の新字体化、旧仮名づかいから新仮名づかいへの変更といった大きな変化に加えて、こうした仮名表現が散見されるようになっているのである。
そうした例の一つとして、科学の通俗解説書などにおいて、生物学の対象としての人間を「ヒト」と表記することで「ひと」という表記に込められている普通名詞的で人文的なニュアンスを排除する一方で「人」という漢字表現がもつ社会的な個有性をも排除した、生物(動物)として人間の一般的な客体というニュアンスをもたせている(つまり「ひと」と「人」の中間概念を表している)ことを挙げることができる。
(同様なことはほかにも見ることができ、たとえば稲作のことを「コメづくり」と表記する場合の「コメ」が植物の種の一つで食物である「米」や「こめ」に含まれるより一般化された歴史的文化的ニュアンスの中間概念を表し、単なる「米」ではなく「こめ」としてのニュアンスも一定程度含んでいる‟主観的な客体”とでも言うべき「モノ」ものとしてのニュアンスを強めていることなどがある。)
こうした表記が一般的となるのは昭和戦後期以降のことであろう。
さらに最近でも次のような記述が見られる。
①「本書は“からだ”についての記した書物である。このからだという言葉には、体あるいは身体という漢字を当てはめることが多いが、旧い字体には軆、躰、體というものもある。体や身体の文字には肉体というニュアンスが強すぎる一方、古い3種の字体には精神の重みが加重されているような気がする。細胞が躍動し、血湧き、肉躍るからだ、ましてや生物の長い歴史の表象としてのからだ、となるとどちらの表記も一長一短で、ストンと腑に落ちてはこない。そんなわけで、筆者は漢字にとらわれず、平仮名書きを選んだ。」(山科正平「新しい人体の教科書 下」(講談社ブルーバックス)あとがき)
②「太陽は光だけではなくものも放出する。
(中略)太陽からは光だけではなく、毎秒数百キロメートルないしそれ以上
という、実に大変な速度で「物質」も放出されており、特に爆発的に大量の
「もの」が放出されると地球にも影響する。(以下略)」(花岡庸一郎「太陽
は地球と人類にどう影響を与えているか」(光文社新書))
※文中の傍点は原文のまま。「」は筆者が加えた。
*「物」と「もの」の意味するものの違いについてより厳密に表現している最近の
例として次のものがある。
「〔定義〕集合なる述語によって、われわれはいかなる物であれ、われわれの思
惟または直観の対象であり、十分に確定され、かつ互いに区別される物m(こ
れらの物はこの集合の要素と名づけられる)の、全体への総括N,Mを言うと
理解する。(『超限集合論』G.CANTOR著、功刀金二郎・村田全/訳・解
説、正田建次郎・吉田洋一/監修)
(…)普通に使われている定義はだいたい次のようなものです。
ものの集まりを集合という。ただし、あるものがこの集合に入るか、入ら
ないかは、はっきりと決まっているものとする。」(瀬山士郎「現代数学
はじめの一歩 集合と位相」講談社ブルーバックス)
ここでカントールの定義の訳文における「いかなる物」が著者がいう普通に疲れている定義中の「もの」であることが読み取れる。つまり「ひらがな」であることで
より一般化された「もの」となり、それをより厳密に具体化したのが「漢字」による「物」mであり、それに掛かる数学的な修辞句によりより端的に表現されている。
③「人がその子に、その孫に次の世代を託するように、宇治橋も一つの生命を
終えても、次の生命へ「こころ」を伝えているはずである。宇治橋に結ば
れた契は、この世に果されなくても、その「こころ」はいつか果たされる
ために、来るべき世に遺されてゆくに違いないのである。」
(秋山元秀「宇治橋-歴史と地理のかけはし―」(宇治文庫5)
※文中「」は筆者が加えた
④「古代人類と同じような石を使って石器づくりを試みると、古代人類の「こ
ころ」がわかります。」(三上章充「脳の教科書」※文中の「 」は原文のまま)
文中の「こころ」について著者が述べようとしていたことについては著者が引用文に続けて述べていること及び同書の図表1-26古代人の石器づくりの解説が示している。
「石器づくりには削られる石と削る石があります。削られる石は左手に、
削る石は右手に持って、右手の石を振り下ろします。振り下ろすときの
角度やスピードを一定に保つと、作業の効率が上がります。上手に削る
ためには左手の削られる石の位置や角度を微妙に調節して、振り下ろさ
れてくる石がちょうどよく当たるようにします。」
「この作業の中で、左手にこそつくられるべき石器のイメージがあり、右
手はひたすら振り下ろす作業を繰り返す。このような動作の中には、左
手、したがって右脳が空間イメージをつかさどる現在の役割分担との共
通点がみえる。また左脳と右脳のたくみな役割分担も確認できる。」
こうした右脳と左脳の連携を形成するものが「こころ」であり、それによ
って右手と左手を上手に使った作業ができるとしている。こうした「ここ
ろ」がこうした脳の活動によって形成されるものであることが科学的に実
証できるものであることがこころにカッコが付けられた理由であろう。
⑤「今回、試行錯誤しながらわたしがこだわり続けたのは、一言でいえば、
なぜ神話は語られなければならなかったのかということに尽きる。「人」
が「ひと」であるために、自分がここにあるために、わたしたちも、古代
の人びとも、直面する出来事や与えられた境遇に向き合わなくてはなら
ない。」(三浦佑之「古事記講義」あとがき)※文中「」は筆者が加えた
⑥「かれ(引用者注―ソクラテス)の死が示したのは、人間はひとつの道徳的原理に基づいて生きていけるだけでなく、その原則のためにひとが死を選ぶとき、それは他のひとびとがそれによって生きることができるような理念へとかたちを変えるということだ。」(ヘイドン・ホワイト著 岩崎 稔監訳「メタヒストリー」)※文中のアンダーラインは筆者(引用者)が加えた
この訳文における「ひと」とはある特定の人・人間ではなく普遍化した人間であることをひらがなによって表現している。続く「ひとびと」もある集団に属するのではない「ひと」が属する普遍化した人間集団というニュアンスであることをひらがな表記によって理解できる。また「かたち」というひらがな表記が物理的な特定の「形」ではなく抽象的な概念を表現している。
ちなみに原文の英語では以下のようである。
“His death showed not only that men can live by a moral principle but that ,when they die on behalf of it, they transform it into an ideal by which others can live.” (Hayden White ‘Metahistory’ p120)※アンダーラインは同上
この英文と訳文を対比すれば、「men」を「人間」、次の「they」を「ひと」、二つ目の「they」 を省略し、「others」を「ひとびと」としている。原文における英語のニュアンスを巧みに日本語に翻訳していることが判る。
⑦「この章では、第二次世界大戦後から現在までを、「グローバル化」の歴史
像として考えていきます。しばしば同時代史として扱われますが、激動する
〈いま〉と連動して解釈の仕方も流動的になり、歴史像としてつか難しさが
出てきます。しかし、「未来」に向けて「歴史総合」を学ぶためには〈いま〉
に直接つながる大変重要な時代です。」(「小川幸司編、成田龍一編 世界史
の考え方(岩波新書 シリーズ歴史総合を学ぶ①)」第5章前文より)
この文章では英語をカタカナで表現した「グローバル化」と漢字で表現した
「未来」に対して現在を「〈いま〉」とかっこ付きのひらがなとして表記する
ことで単なる「今」ではない、それまでの歴史を内包しかつ「今」に続く「未
来」をも内包している時点としてのニュアンス更には「グローバル」な空間
的な広がりをももつ多層構造を有することを表現しているであろう。そのた
めにひらがなを敢て選択したということを強調するためにかっこ〈 〉を付
けたものと思われる。
⑧「「食べる」こそ〈ある〉(スム)の最初の意味だったはずだが、やがで〈あ
る〉ことは「食べる」と「存在する」の両方を意味することとなった。(…)「存在する」の意味での〈ある〉は、極めて抽象的で、全ての特殊なあり方
を超越しているからである。また、あらゆる存在にあてはまるほど、きわめて通りのよいことばである。しかも極めて純度の高いことばなので、いかなる存在によっても限定されることはない。」(中央公論社版世界の名著33「ヴィーコ」『新しい学』〔六九三〕(清水純一・米山喜晟訳)*傍点は筆者が付けた。〈ある〉のルビとしてふられているスムは(スム)と表記した
ラテン語の(スム)の訳語として〈ある〉とかっこ付きのひらがなとした訳者の意図は明確である。後段のヴィーコの説明にある(スム)が持つ「抽象的」「超越的」なニュアンスをひらがなが見事に日本語として表現しており、その一般性という特色が活かされている。更にそうした〈ある〉のひらがなとしての機能をそれを「ことば」というひらがなで表現していることにも注目される。
⑨「(前略)オノマトペは、その語形・音声や非言語行為のアイコン性を駆使して、感覚イメージを写しとろうとすることばなのである。」(「言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか」(今井むつみ、秋田喜美)中公新書*傍点は筆者が付けた。
「ある言語では〇と△が同じことば(単語)で表現される場合に、別の言語では異なることばで区別されることは頻繁にある。」(同書p164)
広い意味をもつ言葉のニュアンスをひらがな「ことば」が伝えており、ひらがなの一般性がうかがえ二例目ではそれに(単語)を加えることで「ことば」のもつ一般性を限定しているのであるが、同書では上の二例のように「ことば」に対する漢字表現としては「言語」が用いられている。「言葉」とは和語の「ことば」を漢字であてたものであることを意識し、言語学の対象としての言葉という意味合いで「言語」という漢字を用いたのであろうと思われる。そういう意味からは同書における「ことば」と「言語」の関係は、数学の集合論で言われる「和集合」の関係(「ことば」∪「言語」)に近いというべきかもしれない。(同書では別の所で「言語とは音韻、文法、語彙のすべてにおいて複雑な構造を持っている巨大な記号の体系(P185)」と定義している。おそらく「ことば」はここでいわれる巨大な記号の体系とは少なくとも外形上はいえないものであるが故に区別されるのであろう。しかし「ことば」が内在的においてもそうなのかは疑問が残る。なんらかの記号的な体系があるからこそ「ことば」は「ことば」たりえているのではないか(そのことが言語的な意味を持たない単なる「音」的なものと「ことば」を区別する根本である)という考え方もあり、こうした観点からすればいわゆる「言語学」として体系化された「ことば」が「言語」といわれるということなのではないか。つまり「言語」は明確に定義されうるが「ことば」はそのひらがな表記の特性とあいまっていわば無定義語として用いられるという定義の面からみた本質的な違いがある。同書で述べられている言語の本質的特徴(P257)をもじれば『「言語」が「意図を持って発話され、発話は受け取り手によって解釈される」ことによって「ことば」となる』ということになろうか(この場合発話者と受取り手が同一人であることもあることに留意)。そのような「言語」と区別される「ことば」に込められているニュアンスとしては情緒的、詩的なもの、つまり文学的なものになるだろう。「美しことば、汚いことば」という言い方はあっても「美しい言語、汚い言語」という言い方は一般的にはしないゆえんである。そうしてみれば「言語」は「言語」として進化するのであって「ことば」が進化して「言語」になったのではないのである。「ことば」と「言語」が和集合であるとするゆえんである。さらに数学の概念を援用すれば二番目の引用文における表現「ことば(単語)」が「ことば」=「単語」でななく、「ことば」⊃「単語」(部分集合)ということを示そうとしたということになろう。(「古典基礎辞典」(大野晋)によれば「ことば」という和語は「コト(言)とハの複合語。ハには「葉」の字を当てるが、本来はそれ(コトー引用者注)だけで「単語」「言語」という意味をもっていた。コトが「言」と「事」を兼ねたので、それを区別したいということからコトにハを加えてコトバとコトノハが生じた。コトバという単語は、平安時代にはコトノハとの間に、意味に相違があった。コトバという語は『万葉集』にすでに使われているから、コトバのほうがコトノハよりも古いのだろうと思われる。」と解説しており、「ことば」が和語であって「言葉」はそれを漢字で万葉仮名的に当てたものであることが示されている。なおここで「コトバ」と「コトノハ」とカタカナ表記を用いているのもカタカナのもつニュアンスを活かした表現を採用している。更にこうした日本語の経緯から(「ことば」・「言葉」)対「言語」とは英語のword 対 language と類似している(特に「言語」は主としてlanguageの訳語として用いられている。対してwordをカタカナ表示した日本語としての「ワード」は単語の意味で用いられるが全く同じではないということに気づくことができる。(日本語のカタカナ語である「ワード」に対するカタカナ語として想起されるのは「グラマー」(文法)であってそれらがそれぞれ「ラングウェッジ」(言語)に含まれる部分集合なのである)が、その意味はwordという英語が持つ全てではなくむしろ「言葉」に近いものがある))
大野説に加えるなら、古代における「ことば」には「言霊(ことだま)」といわれるような呪術的な意味があり、信仰に対象でもあった。「ことば」におけるそのような「ことだま」的な意味合いは現代にまで影を落としているものであることは特に怪談などにおいては顕著であり、SNSなどにおける「ことばの暴力」にもそれは影を落としていることによってそれぞれが経験していることでもあろう。(こうしたSNS的ことばの暴力については、夙にことだま的な感性を色濃く有していた泉鏡花の作品において描写されていたものであった。こうしたことから、鏡花的にいうなら「ことば」には「観音力」とともに「鬼神力」があるということになる)このような意味合いは「言語」には基本的にはないものであって「ことば」に特有のものと言えるだろう。言語論だけでは「ことば」の本質に近づけないゆえんである。
(*)カタカナがもつニュアンスを示す更なる例として次の文がある。
①「「3・11」のフクシマで生と死の限界状況に立った消防士たち
は、(中略)決死の覚悟で制御不能になっている福島原発に向かっ
た(後略)」
(小川幸司「〈私たち〉の世界史へ」(令和版「岩波講座世界歴史1」))
ここでの「フクシマ」とは、「福島原発」が表現している具体的な
地名としての「福島」ではなく、その福島で発生した原発事故によっ
て生じた放射能汚染がもたらした個人的・社会的被害の意味あいを
含んだ地名となっており、さらには日本社会や歴史そのものをも激
変させたことをもそこに含んでいる。
②「平安京の概要を貴族のイエ、住人のイエ、王権と大内裏に分別し解剖
する(第一章)。
つぎに、平安京の〈住人〉を重点的・多角的に検討する(第二部)。
まず、平安京の住人の〈家〉(イエ)と隣人関係を考察する。住人は
〈家〉を所有し〈家で死ぬ〉、あるいは〈家で産む〉。(中略)
「平安時代の貴族のイエ(〈家〉)を寝殿造という。(中略)
「ところで、寝殿造のイエは「築地に囲まれた閉鎖的な領域」と想像さ
れるかもしれない。しかし、貴族のイエは意外に開放的である。
(中略)
「さて、「家」(いえ)の概念は多義的である。(以下略)」
(西山良平「都市平安京」)
ここで始めに「イエ」とカタカナで表記されていたものを次に「〈家〉(イ
エ)」と〈 〉でかこった漢字表記と( )でかこったカタカナ表記とし
てカタカナのニュアンスをもった漢字表記であることを示し、のちには
逆にイエ(〈家〉)と表記するなど、著者がイエというカタカナ表記で表
そうとしている意味合いを苦心して表現していることがうかがえる。い
ずれにしてもイエというカタカナ表記で、個別の建物を意味する「家」、
あるいはその家に居住するものたち(居住者等)の相互間および対外間
の多様で複雑な関係(歴史的な家族制度の変遷を含む)などソフト面の
ニュアンスが強調されることでより概念化したニュアンスを持ちうる
「いえ」でもない、これらの中間的な概念としての「イエ」(「家」を含
む「領域」としての土地及び施設群などのハードを含むものとしての「イ
エ」)であることが明確に示されていると思われる。
最後に引用した「家」(いえ)という表現が( )内をひらがなにする
ことで「多義的である」ことをニュアンスとしても示している。このよ
うなところにもひらがなとカタカナの特性が端的に表現されている。
③「先の話型の相関図は、異界と現世との交通、〈神〉とそれを祀る〈人〉
との関係を原型としたものであるだが、物語について考えるとき、その
〈境界〉性がもっとも重要である。それを物語(モノガタリ)の「モノ」
と通底させて考えることができる。(…)光り輝く物語主人公たちの美し
さは「変化のもの」の象徴であり、『源氏物語』の光源氏もまたこの系譜
にある。その始源は異界の〈神〉なのではあるが、むしろ〈神〉と〈人〉
との境界領域にある〈モノ〉化した位相にこそ注目したい。」(高橋 亨「源
氏物語の詩学」)
ここにおいても「物」―「モノ」―「もの」との使い分けが見て取れる。
このような「モノ」について著者の高橋氏は更に次のように述べている。
「(…)日本の古代・中世における「物語」の語義は、「モノ+カタリ」と
いう語構成において成立したことがある。カタリがナラティブに対応し、
「モノ」という接頭語には、直接的に霊魂(鬼)という意味を認めないに
せよ、正統に対する異端、あやしげな語りといった意味が潜在しており、
(…)」(同上)
これらの「モノ」が表現しようとしているニュアンスはカタカナのもつ
“中間性”によっているとみなすことができる。
これらの例が漢字とひらがなの‟中間的”なニュアンスをもたせること
ができるカタカナの特性を活かした表記となっていることを理解
できるだろう。(こうしたカタカナがもつ‟中間的特性”は特に戦後
に形成されたものであり、このカタカナ表記の特性は英語などの
外国語をカタカナで表記することが一般的になり、このカタカナ語
が広く使われることに伴って形成されたものであろう)
※カタカナについては、谷崎が「文章読本」の中で指摘した強調のニュ
アンスの機能が現代でも商品説明などに用いられていることも忘れる
べきではないだろう。
洗剤の商品説明で用いられている「ベタつき」「ふちウラ」などと
いった表記ではカタカナによって特にベタベタした状態、掃除がい
きどどかないウラ側を強調させる効果を狙っており、当該商品がそ
れらに効果があることを強調してもいるのである。更にそれらのカ
タカナがひらがなとともに用いられることでより強調の度合いが
強められていることも注目される。ここには男文字としてのカタカ
ナのニュアンス(力強さのニュアンスであり、例に引いた商品説明
では「ガンコ」で強力な汚れというニュアンス、さらには暴力性や
攻撃性、敵対性といったニュアンスが強調される)も込められてい
るのである。
こうした例からも日本語においてカタカナ・ひらがなという表記に
は平安朝以来現代に至るまでの歴史的に重層化したニュアンスが
継続してあることことが伺える。
このような現代における日本語の感性には、その源流として尾州家河内本に見られる漢字とひらがなの感覚が息づいているということができるであろう。
※理系・文系にかかわらず現代文において漢字とかなの使い分けを意識していること
が伺えることには、特に戦後において英語教育が深く浸透し(戦前においては英語
を知っていることだけで知的エリートの証しであったが、戦後には義務教育から英
語を学習することになり、全ての日本人が英語を使いこなせなくとも英語の初歩は
知っている状況となった)、定冠詞や不定冠詞といった英文法への知見が知識の基
礎にしっかりとあるということが大きな理由であろうと考えられる。
特に②の文章では、「物質」と「もの」を使い分けている点が注目される。
ここからは、具体的な「物」と一般的抽象的な「もの」を意図して使い分けている
ことが示されている。(このことは著者があえて「もの」と傍点をつけて強調し
ているところからも伺える)
③でも、漢字の「心」ではなくひらがなの「こころ」を用いた著者の意図する
ものは、やはりひらがながもつ抽象化により単なる「心」ではない、より広く
深い「こころ」というものを表現しようとしたということができるであろう。
このことから、「ひらがな」に対する感覚というものが、戦後の英語教育の普及な
どにより大きく変わり、理系のみならず文系にも浸透してきていることが伺える。
逆にいえば、こうした英語や英文法などについて全く知ることのなかった平安時
代に、かな文字を確立させながらひらがなによる文学表現を成熟させていく段階
でこのようなひらかなにたいする感覚を体得していたとするならば、そこには驚
くべき感性の鋭さが伺えるということになる。
(このことに、和歌が大きな役割を果たしたということは十分に考えられる。
日本語の形成に果たした和歌の役割の大きさがこうしたことからも窺われる)
(*)「ひらがなの創成」とは、「ひらがなの形成」とともに生成されたものであ
る。
「ひらがなの形成」とは具体的にどういうことかいえば、もともと「かな(仮
名)」とは日本語の音を表記するためにそれまでに使用していた漢字に代るも
のとして形成されていったものであるということである。
周知のように「カタカナ」は漢字(真名)の一部をそのまま「カナ(仮名)」
として用いており、漢文の読み下し用に添添え書きとして用いられたりしなが
ら、今昔物語といった説話集や平家物語(屋代本)などの軍記物(これらは、
全てといっていいくらいに、男の僧侶や公家などの知識人によってものされて
いるようである)に用いられ、漢字が「男文字」とされるなかで、やがて実質
的に「男文字」となっていったのである。
平安朝初期においては女が和歌に「カタカナ」を用いることもあったようで
ある。(高橋 亨「源氏物語の詩学)そうした風習も古今集や土佐日記、竹取
物語などを経て平安中期になってものされた蜻蛉日記、枕草紙や源氏物語など
の女房文学においては全くみられなくなり、女たちが用いる表記は基本的に
「ひらがな」であることが一般となったとみられる。
*仮名文字がその成り立ちから男文字、女文字とされることが定着していったこ
とはあきらかであるが、文字の形態がカタカナが角張っていてゴツイものであ
り、ひらがなが曲線的でやわらかいということが当時においてそれぞれ「男性
的なもの」「女性的なもの」を表象していたことも預かっていた、少なくとも
概してそれぞれの「性」に親和的であったともいえるだろう。後述するように
そうしたことは長く戦前まで続いていたとみなしうるものであった。
※ 新潮社版日本古典集成「宇治拾遺物語」(大島建彦校注)の解説でも次のよう
に述べている。
「(…)いうまでもなく、『今昔物語集』というのは(…)漢字片仮名交じり文
という一般の記録の表記に従って、漢文訓読文にもとづく男性の実用の文体を
守っている。(…)しかし、『宇治拾遺物語集』の場合には、(…)表記や文
体の上でも、平仮名中心の和文脈にやわらげられて、平安朝の物語の文体に近
づいており、『今昔物語集』とは著しく異なっている。」
・ちなみに続群書類従刊行会による群書類従・続群書類従で合戦部に収録され
ている軍記物では、漢文を本文とするもの27本、カタカナを本文とするも
の86本、ひらがなを本文とするもの72本となっており(前半と後半で仮
名を異にするものなどは除く)漢文とカタカナのものが6割を占めている。
このことにどれだけの意味があるかは措くとしても、それぞれの作者の好み
や教養に加えて誰に何をどう伝えたいのかということによって表記が選択さ
れている可能性はあるだろう。「カタカナ」が男文字であっても、歴史的に
みて男が書く全ての文書が一律に漢字・カタカナ文となった訳ではないこと
ははっきりしている。その文物がどういう意図で書かれたものかということ
を推し量ることが肝要であり、それをさぐるよすがの一つとして表記がある
ということになろう。
そうした経緯の中で、明治以降から戦前までは法律、公文書、さらには教科書など
は基本的に「カタカナ」で表記されることとなった。
つまり「カタカナ」とは歴史的経緯からしていわば漢字の一種として漢文を訓読す
るために、漢文と一体として用いられてきたものであり、漢文を正式文書とする男
社会における正式な「カナ」即ち「男文字」であり続けた。それが明治になって国
家による「改革」の一環として、いわば公的な文書で表向きに使用する仮名として
「カタカナ」が用いられることになったのであった。
(こうしたことが変化したのは、戦後になってからである。この変化にはアメリカ
型の、一種のフェミニズムを含意していた男女平等感が多分に影響していたので
はなかったかとも思われる。戦後、保守的な評論家などが「日本国憲法」を異様
なまでに嫌悪し、かつての「大日本帝国憲法」を称揚したのは、今では否定され
ている日本国憲法押し付け論(日本国憲法が占領期にGHQに押し付けられたも
のとする論)ということだけではなく、憲法が「カタカナ」から「ひらがな」表
記になったことへの、“生理的な違和感”もあったのではなかろうか。
彼らは「カタカナ」によって表記された憲法に生まれた時から慣れ親しんでい
たのであり、そうした幼少期より親しんでいた「カタカナ」文化というものを否
定されたような感覚に、おそらく囚われていたものと思う。このような「カタ
ナ」に対する一種の郷愁は、今となっては全く過去のもので、理解に苦しむもの
だろう)
これに対して「ひらがな」とは漢字を崩した文字が原型であることから、そもそ
もが漢字の応用であったのである。つまり「万葉仮名」とういう漢字で表記され
ていた「仮名」そのものをもっと簡単に読み書きできるようにしたのが「ひらが
な」であったと考えられる。
こうしたことが、「和歌」をひらがなで表記される、ひとつの理由であったろう
し、漢字や漢文の理解が低い女・こどものための文字とされたゆえんであった。
このことについては、高橋 亨「源氏物語の詩学」で、「真名(漢字)」「草
仮名」「かな」について整理して論じている。そこで高橋氏は「うつほ物語」
を引いて物語の中で俊蔭の母の和歌が「おんな手」(ひらかな)のみならず
「草」「片仮名」「葦手」といわれた表記でも書かれていたことを指摘してい
る。
つまり和歌の表記も様々な表記が行われていたのであり、そうした中で最終的
にひらがなで表記することになった。そこに「ひらがなの形成」と「創成」の
歴史があったということになるであろう。
同書においては、「平安中期のかな文芸の成立は、漢詩や漢文伝や漢文日記
との関連で、まずは書くこことして位置づけられる。書くことの中で語りの
声を現前する方法は、漢字表記では達成されなかった何を「かな」表現によ
り可能にしたのか。文字による表現が内在する声を問うべきなのであり、そ
れは「書」としての文字のリズムとも密接に関わっていると思われる。」と
して論を進め、「かな文字による歌や和文の表現が達成されたあとでも、他
方で、男手・真名とよばれた漢字が、主として公的な記録の世界では主流で
あったこと、和漢混淆の表現が現代まで続く日本文化の特性である(…)」
そして「かな文字の成立によって語るように書くことが飛躍的に自由度を増
したとはいえ、それはあくまでも書かれた語りの問題であって、口頭表現が
そのまま文字化されたわけではない。平安朝において、かな文字は主として
歌や男女の手紙や物語などの私的な表現文芸としての美的な洗練度を増た。
(…)かな文字は感性的な表現に適し、論理的ないし政治的な表現は、漢語や
漢詩に担われるという言語生活が続いて、その複線的な多重構造がポリフォ
ニーの詩学というべきものを生成してきた。」としている。
(明治期に新聞や小説などがひらがなで表記されたのは、女・こどもでも読めるよう
にということであったといわれる)
つまり、もととも「ひらがな」とは高橋氏が指摘していたようにあくまで漢字(万葉仮名)とは別のものとして用いられていたのであった。
それが、平安中期ごろになると、女房による文芸が大いに進行し、そうした女房た
ちが「女文字」とされていた「ひらがな」を用い、それを進化させていったのであ
る。
そのことによって、「カタカナ」と異なり、独自の表記としての「ひらがな」が成
立していったと考えられるのである。
これが「ひらがなの創成」ということの意味することなのである。
こうした「ひらがな」への感性は、あったとしてもごく限られた範囲のものでしか
なかったが、戦後の国語改革により「ひらがな」表記を基本としすることになった
ことに伴い、「ひらがな」と「カタカナ」の役割が決定的に変わったのであった。
(これは日本語表記の歴史において「ひらがな・カタカナ」の創始に次ぐような一
大革命であったといいうる)
その結果として、おそらく紫式部によって達成された独自の日本語としての「ひら
がな」の機能が現代になって再生したということができるであろう。
(谷崎潤一郎の「鍵」という小説は「男文字」である「カタカナ」による夫の日記
と「女文字」である「ひらがな」による妻の日記を交互に登場させるかたちで複眼
的な「夫婦」の小説となっているが、その小説が夫の「カタカナ」による日記にはじまり、夫の死後「ひらがな」による妻の独白で終わっているというのも、こうした仮名の歴史を踏まえてみると、象徴的なものを感じさせる。
(「鍵」のあとの作品「瘋癲老人」日記のおいても同様に老人の日記はカタカナで
綴られ、作品の最後は老人の死後の記事がひらがなによって綴られている)
戦前までの「カタカナ」文化(「カタカナ」によって表現されてきた「男文化」(男尊女卑的な男中心の文化(それこそが明治以降の「近代的知性」がその根底に本質的に持っていたものでもあった)))の敗北的な終焉と新たな「ひらがな」の時代(必ずしもアプリオリ―に「ばら色」ではなく、新世代が築いていかなければならないもの)がそこに寓意されているとみてとることができるからでる。)
こうした旧世代の後における現代では、もはやかつての「男文字」「女文字」とい
う区別は全く消え失せて、全く新しい「ひらがな」「カタカナ」の時代となったの
である。
更に谷崎は「文章読本」(昭和九年刊行)のなかで、日本語独特の表記法に触れながら次のように述べている。
「近頃は、よく漢語をわざと片仮名で書いて、たとへば「憤慨」を「フンガイ」と書いて、一種の効果を挙げることが流行りますが、あれなぞが、矢張私の云ふ字面を考慮することに当たります。(中略)われわれの国では、「机」、「つくゑ」、「ツクヱ」と、三通りに書けます。」(一部の漢字などを現行のものに改めた)
そして漢字にひらがなを交ぜることによって、ひらがなそのものの優美さとともに、文章の字面にやさしみが生じることなどを述べている。
このようなひらがなの字面としての美しさを極限まで表現したのが「春琴抄」であったことは、すぐにわかるが、それに加えて源氏物語などの古文の表記(「、」や「。」を極端に省略し、かつ段落を区切ることも最小限にしている)を現代文として試みていた。
こうしたひらがな文の「字面」の美しさや効果については、「文章読本」で述べられているとおりであるが、こうしたことに加えて、以上に述べてきたとおり平安時代の源氏物語によって試みられていたひらがな表記の特性が「定家」によって一旦消滅させられた形となったものが、源氏物語から千年の時を経た戦後になって、そうと意識せずに復活し進化したということになるのである。
※以上に述べてきたことどもは、源氏物語に端を発すると思われる日本語におけるひらがなとカタカナに対する日本人の感性、とりわけ戦後において散見されるようになった「かな」に対する感性の進化についての、筆者の私見を思いつくままに述べたエッセイであり、日本語のかな表記についての体系なり文法なりをもくろんだものではない。はっきり言ってわれわれの時代はそのような体系、つまり戦後において進化が散見される「かな表現」について大陸系の文化(古代における遣唐使によりもたらされたものや百済をメインとする朝鮮半島の文化や近世・近代におけるいわゆる西洋文化など)及び日本列島の風土(温帯的な気候による豊かな水と森林地帯、一方で地震や火山などの災害多発地帯、それらによって形成さる豊かな景観など)の中におけるその形成と変遷を系譜化しそのことによってそこに脈々と受け継がれているであろう日本的感性の淵源を探り、もって日本人とは何かの本質を洞察し、その結果として人間の存在性の根源に迫るという体系を知らないのである。のみならずそこに致る方法をすら未だつかめきれないでいる状況なのだ。こうしたことからこのエッセイは日本語の表記に内在する感性のいくつかを瞥見したにすぎないものである、ということを注記しておく。
ひらがなとは何か @yoshistar
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ひらがなとは何かの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
くすり屋さんのさんよろず相談日記最新/@kondourika
★3 エッセイ・ノンフィクション 連載中 65話
人は不可解、世は奇っ怪最新/尾崎ふみ緒
★0 エッセイ・ノンフィクション 連載中 6話
中日ドラゴンズへの独り言最新/浅倉 茉白
★0 エッセイ・ノンフィクション 連載中 22話
こんなところで悪かったね新作/山谷麻也
★0 エッセイ・ノンフィクション 連載中 1話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます