第四章 二度目ましての婚約破棄②



怪我けがが治るまでの間、彼女を部屋から出さないようにと伝えていたはずだが」


 浮かべている眼差まなざし同様、薄いくちびるから放たれる声にも冷淡れいたんさがにじんでいる。


 椅子いすから立ち上がったトリアは名を呼ぼうとして、けれど、こちらを見ようとしない相手に開いた口を閉じる。ラウの登場により、周囲はぴりぴりとした空気で満たされていく。


 相変わらず見る者を一瞬いっしゅんき付ける美貌びぼうを有しているが、よくよく見れば常とは違った。美しさに変化はないものの、明らかにき出るかがやきがそこなわれている。


 理由は明白だ。青みをびた黒髪くろかみつやを失い、陶磁器とうじきを思わせるはだにはあちこちトリアと同じ、いな、さらにひどい火傷やけどが散在している。表から見える部分は赤くなっているだけだが、おそらく浮腫むくみができてしまっているところがいくつもあるだろう。


 どう見てもちゃんと治療ちりょうをしていない。トリアのまゆが深く寄っていく。自身のことをないがしろにし、トリアのことばかり心配されてもうれしいとは思えない。


「申し訳ございません、陛下へいか。ずっと部屋の中では精神的に悪影響あくえいきょうかと思いまして、私の判断にてトリア様を中庭におさそいいたしました」


「どんなことであれ、勝手な判断は必要ない。すべては皇帝こうていである私が決める」


「はい、陛下のご命令の通りに」


「カーキベリル侯爵こうしゃくと彼の親族、および側近数名が間もなく帝城まで移送される予定だ。準備を頼む」


「かしこまりました、すぐに」


 トリアに軽く頭を下げてから、ギルバートは足早に城へと去っていく。


「部屋まで送ろう」


「……どうも」


 半歩先を進む背中に続き、トリアも歩き出す。護衛ごえいの軍人たちがその後に続く。


(うーん、どうにも気軽に話しかけられない雰囲気ふんいきよね)


 本当は口から出したい言葉は大量にある。だが、周囲に流れる重苦しい沈黙ちんもくが口を開くことを押しとどめる。


(それに、どうしてもあのことが頭をよぎってぎくしゃくするというか)


 また鮮明せんめいに思い出してしまいそうになって、トリアは急いで記憶きおくふたをする。


(と、とにかく、あのことは後回しにしよう。まずは訓練について話してみないと)


 どう話しかけようか迷っていると、ラウが前を向いたまま声をかけてくる。


「……その髪、切ったんだな」


「え? ええ、毛先が焼けていた上に、魔術で切られちゃった部分もあったから」


 そうか、と続いた低くくぐもった声には覇気はきがない。どこか不満そうな、納得できないといった様子の後ろ姿に、トリアは首をかたむける。


「この髪型が似合っていない?」


「そういうわけじゃない。短い髪も君に似合っている、と思うが」


「じゃあ、髪の長い令嬢れいじょうじゃないと婚約者こんやくしゃとして相応ふさわしくないとか?」


「そんなわけがないだろう」


 ラウは足を止めて振り返る。すまなそうに眉を落とす顔を見て、ようやくトリアはラウの心情を察することができた。


「もしかして、自分のせいでわたしの髪が短くなったとか考えている? それで、わたしに対して顔向けできない、心苦しいと思っているとか?」


 答えは戻ってこない。それでも、わずかに下がった視線を見れば一目瞭然いちもくりょうぜんだった。


(わたしの髪なんて、皇帝にとってはどうでもいい、些細ささいなことのはずなのに)


 ラウがずっと気にかけてくれたことが、素直すなおうれしいと思った。

 トリアはラウの正面に歩み寄ると、にっとくちびるはしり上げる。


「わたしはこの髪型、すごく気に入っているの。あなたをなぐさめるため、この場を取りつくろうためのうそじゃないからね」


 長い髪もきらいではなかったが、今の方が断然頭が軽くて動きやすい。それに、ルシアンからことあるごとに「品のない髪だ」と言われていた最悪の記憶きおくも切り落とせた気がする。


 これから髪が伸びていく過程かていでは、いやな記憶ではなく楽しい記憶を、後悔こうかいのない道を進んだことをしっかりときざんでいきたい。


「だが、せっかく炎のようにきれいだった髪が……」


「髪はまた伸びる。あなたを助ける代償だいしょうがこの程度なら、かなり安いものでしょ?」


「君は時々驚くほどに豪胆ごうたんだな。あれこれ思い悩んでいる私が脆弱ぜいじゃくに感じられるほどに」


 小さくみを浮かべたラウの雰囲気ふんいきは、幾分いくぶんやわらかなものになっている。


(色々聞きたいのは山々だけど、軍人がいる状況では聞ける内容に限りがある)


 ラウの一人称は「私」になっている。ここにいるのは皇帝の彼だ。

 トリアが本当に話をしたいのは本来のラウ、「俺」と自分のことを呼んでいる彼だった。


 歩みを再開したラウの隣に並び、軍人たちに聞かれても差しさわりのない質問をする。


「カーキベリル領での一件は片が付いたの?」


「大体は。爵位しゃくいと土地は没収ぼっしゅう、ベラルガと息子むすこ及び側近数名には極刑きょっけいが言い渡される可能性が高い。他の家族や、今回の件に関わっていない側近は国外追放の予定だ。しばらくは当人と周りの人間へ厳しい事情聴取ちょうしゅが続けられることになっている」


「彼に協力していたかもしれない人物がいるってことね」


おそらく。まだそうと決まったわけではないが」


 言葉をにごしているが、十中八九カーキベリル侯爵と共謀きょうぼうしていた人間がいるのだろう。


(火事はあらかじめ計画していたのかもしれない。だけど、ラウが来ることは領主ですら知らなかったはず。いえ、実は知っていたのかも)


 表向きは大袈裟おおげさに驚いてみせていたが、カーキベリル侯爵はラウの訪問をあらかじめ周知していた。だからこそあの絶好の機会で火事を起こせたと考えるべきだろう。


(だとしたら、ラウがカーキベリル領に行くことを知っていた人間の中に、今回の件に協力した人間がいるってことね)


 黙々もくもくと考えていたトリアの耳に、つんざくような悲鳴にも似た声が飛び込んでくる。


「――陛下! お願いいたします、今一度お考え直しを!」


 聞き覚えのある声だ。背後を振り返れば、すこし離れた位置にカーキベリル侯爵の息子の姿があった。両脇を二人の軍人に押さえられながらも、必死の形相ぎょうそうで話し続ける。恐らく帝城への移送途中で、偶然ぐうぜんラウの姿を見付けたのだろう。


われらカーキベリル侯爵家は、代々の皇帝陛下にずっとおつかえしてまいりました。あなた様の父、前皇帝からも厚い信頼を寄せていただいていたことはご存じでしょう」


 ちらりと見たラウの横顔はいかりもにくしみもない、感情の抜け落ちた無表情だった。紫のひとみにはぞっとするほどえた光がにじんでいる。この姿だけ見れば、身内が死んでも涙一つ流さない冷静沈着れいせいちんちゃく冷酷れいこくな鉄仮面、といううわさに同意してしまう。


「父が陛下を殺そうとするはずがありません! 長年皇族こうぞくくしてまいりました我が一族を信じてください!」


 これは策略さくりゃくだ、だれかが自分たちカーキベリル侯爵家をおとしいれようとしている、と悲壮ひそう感に満ちた声音こわねが必死に無実をうったえる。声音は興奮しているが、顔色はさおだ。父親同様、彼もまたラウの魔力に悪影響あくえいきょうを受けているのだろう。


 背後には二人の女性の姿がある。カーキベリル侯爵夫人と娘だろう。血の気の一切ない青白い顔からは生気が失われ、うつろな目がぼんやりとどこか遠くに向けられている。


 夫人たちは拘束こうそくされていないが、する必要がないことは一目見ただけでわかる。彼女たちの体調がすぐれない理由は、ラウが傍にいるからではないだろう。


「ヴィンセント・ハイリッシュ」


 ラウが突如とつじょだれかの名前を口にすると、青年の顔が瞬時しゅんじ強張こわばっていく。


「知っている名前だろう?」


「い、いえ、聞いたこともございません」


「ヴィンセントはユニメル領に店を持つ薬師くすしだ。違法ギリギリの薬を作ることで、裏の世界では有名らしい。そう、例えば一定時間魔術を使えなくさせる薬、とかな」


 ラウが言葉を重ねるごとに、青年の顔には大粒の冷や汗が浮かぶ。血走った目がぎょろぎょろと左右にれ動く。まるで目の前に隠された最善のげ道を探すかのごとく。


「ユニメルの領主に協力してもらい、ヴィンセントの顧客こきゃく情報を調査してもらった。表向きのものだけでなく、懇切こんせつ丁寧ていねいかくしてあった裏の顧客も。そこにはカーキベリル侯爵の名がっていたらしい」


馬鹿ばかな、あり得ない! 薬は足が付かないよう、ならず者に金を渡して準備させたんだ。カーキベリルの名があるはずが……っ!?」


 一気に血の気が引いていく。自分が墓穴ぼけつったことに気が付いたのだろう。


「ああ、確かにヴィンセントの顧客情報にカーキベリルの名はなかったな。だが、お前が薬を用意させた男はすでにユニメルの領主が身柄を確保し、金でやとわれていたことを聞き出してある」


「そ、それだけでは、確たる証拠しょうこには……」


「私がカーキベリル領を訪問する一週間ほど前、ベラルガが使用人に命じて灯油を大量に買い込み、本邸ほんていに運び込んでいたことが明らかになっている。こちらの販売元にはカーキベリル侯爵の名前がしっかりと残されていた。さて、一冬でも到底とうてい使い切れないほどの量の灯油は、一体どこに消えたんだ? 別邸に運び込み、火事の数時間前に屋敷やしき全体にばらまいたんじゃないのか?」


 青白くまり、ふるえるくちびるからはすでに何の言い訳も出てこない。

 せわしなく揺れ動いていたカーキベリル侯爵の息子の目が、ふとトリアへと向けられる。


「トリア様! あなた様からもどうか陛下へとお口添えをお願いいたします!」


 青年は深い水底に引きずり込まれる直前で、ただ一つ見付けた浮き具にすがりつくような声をしぼり出す。


「僕とトリア様の仲ではありませんか、どうぞお慈悲じひを!」


 いや、あなたとわたしの間にはどんな仲もありませんけど、とトリアが冷静な突っ込みを返す前に、瞬時に横から移動したラウが青年の首を右手でめ上げていた。


「言葉にはくれぐれも注意しろ。ふざけたことを言うようならば、今この場でお前の首をへし折ってやってもいいんだぞ」


 隠すことなく放たれる殺気に、向けられる張本人だけでなくトリアや軍人たちまでも固まってしまう。が、ぼんやりと見ている場合ではない。

 トリアは慌ててラウの横に並び、ぎりぎりと締め上げている腕に手を伸ばす。


「ラウ、それ以上やると本当に死んでしまう」


 ふっとラウの腕から力が抜ける。首を解放され、青年が地面へとくずれ落ちた。苦しげに何度もき込む相手を見下ろし、トリアはにこりと微笑びしょうをこぼす。


「わたし、あなたを見ていると世界中で一番きらいな男のことを思い出すんです。もし次にお目にかかる機会がありましたら、その男と勘違かんちがいして背負い投げに加えて関節技かんせつわざも決めた挙げ句、頸動脈けいどうみゃくに絞め技を食らわせるかもしれないので注意してくださいね」


 トリアにとって世界中で一番大嫌いな男は、言うまでもなくルシアンだ。


 冗談じょうだんではなく本気の気配を感じ取ったのだろう。咳き込む相手の顔が強張っていく。顔色は紙のように、いな、紙よりもさらに真っ白になっていた。


「あ、一つ伝え忘れていましたが、夕食に呼んでいただいた際にあなたが付けていたネクタイピン、とても素敵すてきでした」


「……は?」


「では、もう二度とお目にかかることはありませんね。さようなら」


 トリアは帝城に向かって歩き出す。カーキベリル侯爵の息子たちを連れていくよう指示を出してから、ラウが足早にトリアのとなりに並ぶ。


「君には礼を言わなければならない。ユニメルの領主が協力してくれたのは、君が今回の件に巻き込まれたと知ったからだ。君のためなら、とこころよく調査を引き受けてくれた」


 ユニメル領で人身売買を解決したことが、今回良い方向に働いたのだろう。


「お礼を言われるようなことはしていないけど、あなたの役に立ったんだったらよかった。あの場にいたカーキベリル侯爵夫人と娘は、今回の一件に関わっているの?」


「二人は一切関与していないようだ。だが、無罪放免というわけにはいかない。国外追放の処分でもかなり優しい方だろう」


 ラウの表情が一瞬だけくもるが、すぐに皇帝らしい顔に戻ってしまう。


 カーキベリル侯爵と息子は厳罰げんばつを与えられて当然だ。しかし、何も知らなかった二人にまで罪を問うのはきびしい気もする。知らないことも罪になる、家族だから連帯れんたい責任だ、と言われてしまえばそれまでだが。


 うーんと小さくうなり声を上げながら歩いていると、ラウが突如とつじょ紙を差し出してくる。白い封筒ふうとうに入った手紙のようだ。

 トリアが怪訝けげん眼差まなざしで足を止めると、ラウもまた歩みを止めて目の前に立つ。


「君あての手紙だ。城に届いたものを私が預かっていた」


「手紙? 誰から……あ、ロイク叔父おじさん!」


 見覚えのあるミミズ文字に、自然とトリアの口から明るい声が出る。凶悪犯きょうあくはんのごとき強面こわもての顔がロイクにとって第一の短所だとしたら、第二はのたうち回るミミズのような文字しか書けないことだろう。お前の字は読みにくい、とよく祖父そふから叱咤しったされていた。


 差し出された手紙を受け取り、しかし、ふうが切られていないことに首をかしげる。


「あれ? 中身を確認していないの?」


 王国からの手紙だ。当然、検閲けんえつされると思っていた。


「君を帝国にさそったのは私自身だ。個人的な領域りょういきには無闇むやみに立ち入るつもりはない」


 一見するとトリアを尊重そんちょうしてくれているようだ。反面、どこか線引きされている気配がある。自分はこれ以上み込まない、だから、君も必要以上に踏み込むな、と。


 トリアはビリビリと乱暴らんぼうに封を破ると、一枚だけ入っていた便せんに目を通す。そして、十秒もしない間にラウへと便せんを差し出した。


「はい、読んでみて」


「は? いや、私が読む意味はないかと」


「いいから、いいから。はい、声に出して読んでみて」


 ラウは渋々しぶしぶといった様子ながらも便せんを受け取る。目を通した直後に眉根まゆねを寄せたのは、間違いなく書かれている文字がきたなかったせいだ。


「元気か? 元気だ。またな……って、まさかこれだけか?」


「見ての通り、ロイク叔父さんは字が下手へたで手紙を書くのも苦手だから、必要最低限のことしか書かないのよね」


「必要最低限というか、これはもう必要最低限以下だろう」


「叔父さんは小難しいことが大嫌だいきらいなの。でも、大らかで明るい人だから、ラウも会えば気に入ると思う」


「……それはどうだろうな」


 内心をうかがわせないつぶやきを一つ放ち、ラウは城に向かって歩き出す。返された手紙を上着のポケットに仕舞い込んだトリアもまた歩みを再開させる。


「ねえ、それはそうと、ちゃんと火傷やけどとかの治療ちりょうはしているの?」


「ああ、問題ない。最低限の治療は受けている。それに、どうせ――」


 トリアが無言でにらむと、ラウは続く言葉を飲み込んだ。

 どうせいずれすべて治る。すなわち、どうせ次に死んで生き返れば元通りになる、と言おうとしたのだろう。


(自分自身の怪我けがや生死にまったく興味がない、って感じね)


 死んでも生き返る。それがどんなものなのか、想像すらできない。


 だが、死んで生き返ることをり返していれば、ラウのように生死に頓着とんちゃくしないようになってしまうのかもしれない。死んだって問題ない。どうせ生き返るんだから、と。


(わたしはそういう考え方、すごくいや。どうせ生き返るからいいだろう、なんて生き方は絶対に好きになれない。なりたくない)


 騎士きしは相手の命を守るのが使命だ。大切な人を、愛する人を守るために戦う。


 ――生きていて欲しいから、笑っていて欲しいから、命懸いのちがけで相手を守る。それがトリアの目指す理想の騎士の姿だ。


 七歳の頃に見た光景を思い出す。民を守るため懸命けんめいに戦っていた騎士たちの姿を思い浮かべると、胸の中にあたたかな灯火ともしびが宿る気がした。


(そもそも死ぬときには痛みがあるはず。死に慣れるなんて、どう考えてもおかしい)


 トリアはラウの目前に回り込み、彼の歩みを強制的に止める。


「ところで、火事のときわたしは騎士としてあなたのことを守ったでしょ?」


「ああ」


「自分で言うのもなんだけど、褒美ほうびを要求しても問題ないほどの働きをしたと思うの」


「その通りだ。遠慮えんりょなく褒美を要求してもらって構わない。用意できる範囲はんいならば、欲しいものを何でも頼んでくれ」


「大丈夫。わたしが欲しい褒美にはお金は一切かからないよ」


 明らかに何事かを企んでにこにこと微笑むトリアの眼前で、ラウは不審ふしんそうな表情を浮かべていた。

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