第四章 二度目ましての婚約破棄①



 カーキベリル領から帝城に戻って早四日。


 トリアはここ数日の日課、ギルバートの回復魔術による治療ちりょうを中庭で受けていた。いつもは城の五階にある自室か居間で行っているのだが、


「本日はいい天気でとてもあたたかいですし、少し中庭に出てみましょうか」


 とギルバートが誘ってくれたからだ。ずっと部屋の中に閉じ込められて体がなまっていたトリアは、その提案を二つ返事で承諾しょうだくした。


 中庭の南側にもうけられた池の近く、木のかげになっていて直射日光の当たらない場所にギルバートが椅子いすを運んできてくれた。ぽかぽかとした陽気の中で木漏こもれ日をびていると、沈んでいた気持ちがまたたく間に晴れていく。やはりトリアは室内に閉じこもるよりも外で過ごす方が好きだ。


 時折甘い花の香りをまとったやわらかな風が吹き抜けていく。兵舎のある方角から吹いてくるそよ風には、訓練にいそしむ軍人たちの声が混じっていた。暑すぎることなく、体を動かすにはちょうどいい陽気だ。


「……この中で訓練したら、さぞ気持ちがいいだろうなあ」


 思わずもれてしまったつぶやきに、苦笑交じりの返事が戻ってくる。


火傷やけどがきちんと治るまで、訓練の一切が禁止されております」


「う、わかっていますよ。だけど、訓練だけじゃなく部屋から出るのも禁止って、ちょっと過保護かほごすぎると思いませんか?」


「それだけ陛下へいかはトリア様のことを心配なさっている、ということでしょう」


「気持ちはとてもがたいですが、うでや足を切られたとか骨が折れたとかじゃなく、手や顔を少し火傷した程度なんですよ。この程度なら放っておいてもいずれ治ります」


「火傷を甘く見てはいけません。肌に傷跡きずあとなどの後遺症こういしょうが残る可能性もあります」


「うーん、でも、わたしの場合は皮膚ひふの表面が赤くなっているだけで、本当に軽いものですし、水疱すいほうもできていませんし。ほら、炎症えんしょうも治まってきていますよね」


 むき出しだったほおや手にできた火傷は派手はでに赤くなっているが、痛みはもう全然ない。ギルバートの回復魔術の効果が出ているのだろう。


「回復魔術ってすごいですね。この調子なら一月もせずにきれいに完治しそうです」


「いえ、傷の治りが早いとすれば、それはトリア様自身の自己じこ治癒ちゆ能力が高いからだと思います。どうやら魔術耐性が高いトリア様には回復魔術もきにくいようでして、本来の効果の一割程度しか出ていない状態です」


「わたしには一割でも十分すぎる効果が出ていますよ。ギルバートさんが毎日丁寧ていねいに魔術をかけてくださっているからですね」


 かなりいそがしい中でトリアのために時間をいてくれている。そのことだけでも感謝してもしきれないと続ければ、まさかお礼を言われるとは微塵みじんも考えていなかったのだろう。ギルバートはきょかれてきょとんとした表情を浮かべていた。


 数秒の沈黙ちんもくの後、おだやかな微笑びしょうが優しい顔立ちにきざまれる。


「非常に恐縮きょうしゅくではありますが、ここは素直すなおに感謝の言葉を受け取らせていただきます」


「そうしてください。むしろ返却へんきゃくされるようでしたら、ギルバートさんが吹き飛ぶくらい全力で投げ返しますよ」


「ふふ、それは困りますね。私は回復魔術以外の魔術は使えません。大して運動神経も良くないので、トリア様には絶対にかなわないですから」


 吹き抜けていく暖かい風も合わさって、柔らかな空気が周囲を包み込んでいく。


 ここ最近ずっと訓練ができず、加えて部屋に閉じ込められていたこともあり、知らず苛々いらいらつのっていたらしい。トリアは椅子に座った状態で深呼吸を数回り返す。さわやかな空気をはいいっぱい取り込むと、まっていた苛立ちや不満が消えていく。


「現時点でもかなり快方に向かっているようでしたので、回復魔術の回数は減らしてもいいかもしれませんね。トリア様ご自身の治癒能力が高かったこと、何より火傷を負ってすぐに陛下が回復魔術を使ったのが良かったのでしょう。今後は火傷に効く薬を用意いたしますので、そちらで治療していきましょうか」


「……薬、ですか」


「苦い飲み薬などではありません。り薬と、あとは湯に入れる薬剤やくざいの二種類ですね」


 薬が苦手なわけではない。苦手と感じる以前に、薬を飲む機会がトリアにはほとんどなかった。


 ララサバル男爵だんしゃくの人間は身体しんたい能力にすぐれているだけでなく、体も丈夫じょうぶで病気になる機会もほぼない。ついでに生まれ持って毒物に対する耐性も強い。多少の毒ならば摂取せっしゅしても問題なかった。


「どのぐらいで訓練をしても大丈夫になりそうですか?」


「訓練……ええと、トリア様は本当に体を動かしたくて仕方がないのですね」


「はい、ものすごく!」


 トリア自身としては、今すぐに激しい訓練をしても全然問題ないと思っている。むしろこの瞬間しゅんかんに中庭を全力疾走しっそうしたいぐらいだ。加えて素振すぶりを三百回くらいしたい。可能ならば剣かやりで思い切り打ち合いもしたい。


 勢いよく首を縦に動かせば、ギルバートは微苦笑をこぼす。


「私からも陛下に訓練や外出について進言してみます。ただし最終的な判断は陛下がいたしますので、正確にいつとは申し上げにくいのですが」


 ラウとはカーキベリル領で顔を合わせたのを最後に、一度も対面できていない。


 火事の一件の後、トリアは一足先に数人の軍人と共に帝城まで戻された。一方でラウは火事の後処理やらカーキベリル侯爵こうしゃく身柄みがらの確保やらを行っていたらしく、昨夜ようやく城まで帰ってきたところだった。


(訓練と外出禁止についてとか、不死と夜の精霊せいれいについてとか、話したいことが沢山たくさんあるんだけどなあ。でも、昨夜さくやは寝室に戻ってこなかった。今日も朝からカーキベリル侯爵の処遇しょぐうに関する話し合いで忙しいみたいだし)


 話したいこと、聞きたいことが山ほどある。が、肝心かんじんの当人に会えないのではどうしようもない。

 しかも話したい、会いたいと思う一方で、話しにくい、会いにくいとも思ってしまう。


 理由は無論『あれ』のせいだ。


(……どうしてラウは急にあんなことをしたのかしら)


 訓練ができず、かつ、室内に閉じ込められているせいで余計なこと――あの口付けのことばかり無駄むだに考えてしまう。


 ラウがトリアに対して回復魔術を使ったのは、間違いなくあのときだ。事実、あの後からぴりぴりとした火傷の痛みがかなり緩和されていた。


(口付けすることによって回復魔術の効果が高くなる、とかだったらまだ理解でき……いやいや、理解できるはずがない!)


 トリアはかみみだれるのも構わず、ぶんぶんと頭を左右に動かす。


 相手にれるなどの接触せっしょくにより回復魔術の効果は大きくなるのか。帝城へと戻ってすぐ、火傷の治療をしてくれたギルバートにたずねてみた。


『いえ、触れていても触れていなくても、特に効果に違いはありませんね』


 何故そんな質問をするのか、と不思議ふしぎそうな顔をする相手に、トリアはあわてて「何でもありません!」と誤魔化ごまかした。


(無茶をしたわたしに対するいやがらせ、とか? あるいは、その、百歩ゆずって、えーと、好意、からとか……いや、ないない、絶対ありえない!)


 頬に集まった熱を吹き飛ばすように、再びぶんぶんと首を横に動かす。

 どう考えても愛情ゆえの行動ではない。それなら一体何故なぜなのか。


(いっそのこと、された直後に平手打ちでも一発放っていればよかったのかも)


 暴力ぼうりょくうったえるのは良くないと思うが、なぐる権利が間違いなくあったはずだ。思い切り一発殴って、首根っこをつかんで理由を問いただすべきだった。そうすればこんな風にいつまでもぐだぐだと悩んでいることもなかっただろう。


(……あのときはとにかくびっくりして、頭が真っ白になっていたからな)


 まさかいきなり口付けされるなんて、予想だにしていなかった。結果、おこることなどできず、ただ呆然ぼうぜんとすることしかできなかった。


(今さら殴るのはどうかと思うし、かといってなかったことにするのも……)


 自らの思考に没頭ぼっとうしていたため、突然頭をはげしく振り始めたトリアを心配そうな眼差まなざしで見つめるギルバートには気付かなかった。


 考えれば考えるほどくちびるに触れた感触かんしょく、口内に残ったすすの味、ラウのまとう香りが鮮明せんめいに思い出され、トリアは急いで頭から追いやる。頬は確実に赤くなっていた。


(あー、もう、体を動かせればこんなもやもやすぐに吹き飛ばせるのに!)


 何もかも、すべてじっとしているせいだ。

 気まずいとかそんなことを考えている場合ではない。ラウに早めに会って直談判じかだんぱんする必要がある。


可及的かきゅうてきすみやかにラウと話して、訓練できるように全力で頼み込んでみます!」


「ぜ、ぜひとも平和的に話し合ってくださいね」


「わかりました。これ以上ギルバートさんの回復魔術のお世話にならないよう、くれぐれも注意しますね」


「ほ、本当に穏便おんびんにお願いいたしますね。本来の陛下は性根の優しく、争いごとが苦手なお方です。トリア様が本気を出せば陛下が怪我をなさってしまいます」


「大丈夫ですよ、わたしは無駄むだ暴力ぼうりょくは振るいません」


 こぶしで語り合うのは最終手段だ。


(とはいえ、いずれラウとは手合わせしてみたいな。よわよわ皇帝はあくまでも演じていた姿。本来のラウは、魔術は言うまでもなく武術にもすぐれているはずだもの)


 初対面でラウに対してかなりきたえている、と感じたのはやはり気のせいではなかった。おそらくトリアと同等、いや、もっと強いかもしれない。


(どうやらラウは親しい相手、ギルバートさんにすらあの姿は見せていないのね)


 自分のことを「俺」と呼び、生死に頓着とんちゃくしない冷淡れいたんでどこか無気力ささえ宿すラウの姿を知るのは、現時点ではトリアだけということか。

 不死であること、そしてみずからの本質をかたくなにかくしているのは理由があるのだろう。


「そういえば火事の一件以降、トリア様と訓練をしたいと申し出ている軍人が増えております。訓練ができるようになった際は、可能な範囲はんいで手合わせをしていただければ助かります。私もトリア様の槍さばきをぜひ間近で見学させてもらえたらうれしいですね」


 ラウを助けるため、おそれず火事に飛び込んだことでトリアへの信用度は大分上がったらしい。無論意図した行動ではないが、周囲の人たちに信じてもらえるのはとても嬉しい。


 最初はただ王国から出て自由になるための手段だった。しかし、ここ最近は純粋じゅんすいにキールストラ帝国に興味きょうみいだき始めている。婚約者こんやくしゃという立場がなくなったとしても、帝国に住んで様々なことを学んでみたい、と思うほどに。


「手合わせする相手ができるのは非常に助かります。ただし見学してもらうほどの腕前ではありませんよ」


 トリア程度の腕でひけらかしていたら、叔父おじは元より祖父そふや兄たちにもおこられてしまう。王立騎士団に属する騎士きしたちの足元にも及ばない。


「ご謙遜けんそんを。武器を持った男三人を槍一本でたたきのめした、と聞いております」


「う、そんな尾ひれの付いた話が広まっているんですか……」


「ええ、私は知り合いから聞きました。陛下を、いえ、ラウを守ってくださったこと、全身全霊ぜんしんぜんれいでお礼を申し上げます」


「ラウを助けたのはわたしの意志ですから、お礼を言われることではありません」


「……トリア様は最初にお目にかかったときから、ゆがみのないぐな姿勢が変わりませんね。夜の長い帝国ではまぶしいぐらいです」


 ギルバートの目が、言葉通り眩しいものを直視したときのごとく細められる。一瞬いっしゅんだけ紫のひとみかげりをびていく。が、トリアが何か言うよりも早く、常の温厚おんこう微笑びしょうが口元に浮かべられた。


「実はトリア様に一つお願いしたいことがありまして」


 いな、いつもと同じように感じたみは、どこか固く強張こわばっている。


「あの……トリア様が母、セシリナと懇意こんいにしてくださっていることはとてもがたく思っております。ですが、できれば今後は、その、距離きょりを置いていただければ、と」


 何故なぜと問いかける前に、ギルバートが疑問の答えを口にする。


「母はカーキベリル侯爵こうしゃくとは旧知きゅうちの仲でして、父と結婚けっこんする前は彼との婚約話が持ち上がっておりました。ここ数年は疎遠そえんになってはいたようですが」


 今回カーキベリル侯爵がどんな処遇しょぐうを受けるのかはまだわからないが、皇帝の命をねらった相手と親しくしていた、というのは印象いんしょうとしては良くない。


 ――セシリナがラウのことをきらっているのは、もはや周知の事実だからこそ。


「私自身は母が今回の件に関わっているとは考えておりません。母は裏でこそこそと何事かをたくらむような卑劣ひれつな行為が嫌いな人間ですから。ですが、万が一にもトリア様に不都合ふつごうや危険があっては大変ですので、母とは――」


「この髪、セシリナ様に紹介しょうかいしてもらった理容師に整えてもらったんです」


 トリアはギルバートの言葉をさえぎり、みずからの髪に手を伸ばす。こしまであった髪は肩口かたぐち辺りまでばっさりと切り落としていた。


 突然話題を変えると、視線をやや足元に落としていたギルバートが顔を上げる。


「城に戻ってきてすぐ、セシリナ様がわざわざお見舞みまいに来てくださったんです。髪は自分で適当に切ろうと思っていましたが、ちゃんとした理容師に整えてもらうべきだっておっしゃって、昨夜きれいに切ってもらいました」


 特に思い入れがあって伸ばしていたわけではない。いて理由をげるとすれば、長い髪の方が深窓しんそう令嬢れいじょう相応ふさわしいから、と父に口うるさく言われていたせいだ。


 だからこそ、焼けてしまった部分をハサミで簡単に切ればいいか、程度に考えていた。その話をセシリナにすると、彼女は烈火れっかのごとく怒って理容師を手配してくれた。


 帝国一の腕前と人気を有し、半年は都合がつかない理容師だが、知り合いの貴族に頭を下げて予約をゆずっていただいたんですよ、と彼女の侍女じじょがこっそり教えてくれた。


「他人のために真剣に怒ってくれる人が、暗殺をくわだてるような悪い人間だとは思えません」


「母は危険ではない、と?」


「はい。あくまでもわたし個人の考えですよ。何よりギルバートさんの言う通り、セシリナ様はやるときは真正面から自分でやると思います。もちろん本気でラウを狙った場合は、騎士としてわたしが止めますよ。ふふ、ないとは思いますけどね」


 笑顔で答えれば、ふっとギルバートの唇から吐息といきがこぼれ落ちた。思い詰めていたような顔に落ち着きが戻っていく。


(それに、セシリナ様は二人だけになったとき、わたしに謝罪してくれた)


 カーキベリル侯爵が皇帝に反意をいだいていると、そんなうわさをセシリナは前から耳にしていたらしい。だが、余計なことを口にすれば逆に自分が疑われる立場になる。そう考え、ラウが新婚旅行を申し出たとき止めることができなかった、と。


 セシリナに裏があるとは思えない。――疑うべきは、別にいる。


「その髪型、トリア様にとてもよく似合っております」


 短く切りそろえたトリアの横髪に、ギルバートの細い指が伸びてくる。その手がトリアの左肩付近の髪に触れる直前で、重々しさを宿した低音がすぐ近くから発せられる。


「――ギル」


 名を呼ばれたギルバートの手が空中でぴたりと止まる。

 静かすぎる音色ねいろに振り返れば、そこには数日振りに目にする人物、ラウの姿があった。

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