第三章 こんにちは、波乱の日々よ⑤



 宙に浮かんだ感覚はほんの数秒だった。


 すぐさまラウを背負ったトリアの体は地面、いな噴水ふんすいの水の中へと落ちていく。想像通りかなりの水深があったようで、三階から落ちても水底にぶつかることはなかった。


 まだ薬の影響えいきょうが完全には抜けていない体を引っ張り、水面へと泳いでいく。服が水を含んで重しとなっている上、細身とはいえ自分よりも体の大きな相手を引きずり上げるのはかなりの重労働だ。気を抜けばどんどん沈んでいく。


(……く、苦しい、体力が……っ! でも、ここであきらめることはできない!)


 全力を出し切って水面に浮上し、あらい息を整える間もなく噴水の外に向かって泳ぐ。

 どうにかこうにかラウと共に地面に転がったときには、さすがのトリアの息もかなり激しく乱れていた。くずれるように地面に倒れ込んでしまう。


「……君は無茶苦茶だな」


「はあ、はあ……ほ、め言葉として、受け取っておく……」


「褒めていない、むしろあきれている。行き当たりばったりで計画性がなさすぎるだろう」


「し、失礼な……はあ、噴水に飛び込むことは、ちゃんと、あらかじめ考えていた、もの」


 れた呼吸の合間に答えるトリアへと、盛大せいだいなため息がき出される。言うまでもなくそのぬしはラウだ。トリア同様、ラウもまた力なく地面に横たわっている。


 呼吸が幾分いくぶん落ち着いてくると、全身のあちこちから鈍痛どんつうを感じる。火傷やけどをしたのか、ほおや手がピリピリと痛む。視界のはしに見えるかみはあちこち焼け焦げていた。


(まあ、あの炎の中に入ってこの程度で済んだんだから、幸運よね)


 全力疾走しっそうした後のごとき疲労が全身をおそう。それでもいつまでもここで転がっているわけにはいかない。


 屋敷やしきはまだ燃えている。この勢いだと遅かれ早かれすべて焼けてくずれ落ちるだろう。トリアは休憩きゅうけいを欲する全身を叱咤しった激励げきれいし、地面からゆっくりと立ち上がる。


「さてと、このままカーキベリル侯爵こうしゃくのところになぐり込みね」


「……君は彼が関わっていると思っているのか?」


「あなただってわかっているでしょ。あ、むしろ、こうなることを見越してここに旅行に来たってこと?」


 無言をつらぬくラウの様子を見れば、答えは一目瞭然いちもくりょうぜんだ。


「あなたが本来の姿だとして弱々しい姿、みんなが影でよわよわ皇帝こうていと呼んでいるあの姿を演じていたのはでしょ。自分に害なす相手を手っ取り早くり上げるための」


「君はおそろしいほどに察しがいいな」


「こういうことだけね。貴族同士の腹のさぐり合いとかは大の苦手よ」


 戦闘せんとうや、それに類するような知略だけはすぐれているのもララサバル家の特徴とくちょうだった。猪突猛進ちょとつもうしんに見えつつも、戦闘に関するひらめきと予測が抜群ばつぐんなことが、長年最前線で戦いながら生きてこられた要因なのだろう。


(わたしにすぐよわよわ皇帝の姿を見せたのも、警戒心けいかいしんやわらげると同時に、少しでも長く帝国にとどめるための撒き餌だった、というのは考えすぎかしら?)


 帝国内であれこれ手を出していたトリアの性根しょうねを見越して、わざと弱い姿を見せた。トリアが弱いラウを見捨てられないと予測した上で、というのは深読みしすぎだろうか。だが、本来の彼ならば、そこまでの狡猾こうかつさも持っていそうだ。


「正直、生き返るとかはわたしの理解の範囲はんいがい。そもそも生き返るってどういう意味? 時間が巻き戻るとか?」


理屈りくつは俺自身にもわからない。死ねば元の状態、健康体に戻っている」


「ということは、死ぬときにっていた怪我けがは全部治るの?」


 首を縦に動かすラウに、トリアの中にあった疑問の答えがようやく出る。


「クローディアが付けた傷がなくなっていたのは、あの後死んだってことかしら?」


「そうだ、おの脳天のうてんたたき割られた。俺の手の傷がないことに気付いていたんだな」


「さっき言った通り、そういうことだけはするどいの。気配や殺気、とかにもね」


 ラウがいぶかしげな様子で口を開くよりも早く、彼を背にかばう位置へと移動する。


「不意打ちをねらっているんだとしたら、もう無理だからあきらめた方がいい」


 燃えさかる炎の熱が空気中をただよい、鼻を突きげたにおいが充満している。ばちばちと凶悪きょうあくな音が鳴りひびいている場には、トリアたち以外の人気はない。軍人や使用人たちはみな屋敷やしきの正面玄関げんかんへと集まっているのだろう。


 静寂せいじゃくを打ち破ったのは複数人の足音だ。顔半分を布でおおかくした男たちが、各々おのおの抜き身の剣を手にトリアたちへと近付いてくる。


(三人、いえ、四人ね。一人は大分距離きょりがある。監視かんし役かしら。気配から察するに、全員わたしよりも実力は下。ただし万全の状態なら、ね)


 しかも、今のトリアには愛用の剣もない。武器を持つ相手に素手すでは圧倒的に不利だ。

 一人ならば逃げることも考える状況だろう。が、その選択肢せんたくしは最初からない。


「……ねらいは俺だ。時間をかせぐから、君は一人で警護けいごの軍人たちがいる場所までげろ」


 どうにか上半身を起こしたものの、ラウが動ける様子はない。


 徐々に間合いを詰めてくる襲撃者しゅうげきしゃたちを油断なく見据みすえながら、視線だけ動かして周囲をうかがう。と、ちょうどいいものが足元に落ちているのに気が付いた。


 庭師の仕舞い忘れか、あるいは火事による爆風で飛ばされてきたのかもしれない。トリアは少し前方に落ちているもの、ほうきを右足の爪先つまさきり上げて両手でつかみ取る。


「何度も言っているように、わたしがあなたを置いて逃げるはずがないでしょ」


「どうしてそこまでして助けようとするんだ? 俺は別に死んでもいいんだ」


「わたしが助けたいから助ける、守りたいから守るのよ」


 はっと息をむ音が背後から聞こえてくる。


 トリアは邪魔じゃま穂先ほさきを太もも部分に当てて折る。そして、左肩を前にして横向きの姿勢となり、左手で箒の中央部分を、右手で根本を持って構える。


「ちなみにわたし、実は剣よりもやりの方が得意なの」


 持ち運びに適しているので普段は剣を使用しているが、トリアの得意武器は槍だ。リーチが長いため腕力わんりょくや体格でおとっていても、槍ならば立ち回り次第しだいでは大男でも叩きのめすことができる。複数人が相手のときも便利べんりだった。


(まあ、襲撃者たちに圧力をかけるため自信満々に宣言せんげんした反面、実のところ帝国に来てから槍は一度も手にしていないのよね)


 長く訓練をしていない状態で、なおかつ体の調子も良くない。だが。


(わたしは負けない、絶対に)


 最後の最後に勝敗を決するのは、意志の強さだとロイクは教えてくれた。意志が折れたら、いくら強くても勝つことはできない。逆に、意志が折れない限りは戦える。


 襲撃者たちが一斉いっせいに走ってくる。トリアは槍に見立てた箒を構えたまま、男たちが近付いてくるのをじっと待つ。


 剣を振りかざした男が攻撃こうげき圏内けんないに入ってきたと同時に、構えた箒を男に向かって大振りな動作で突き出す。男が左にけることを想定していたトリアは、素早く重心を落として男の足を箒で横になぎ払い、体勢を崩した相手の横っつらなぐる。気絶させる程度に威力いりょくおさえている。


「後ろに一人!」


 ラウの言葉に従い、箒を後ろに突き出す。振り返らずとも気配と音で男の位置はわかっていた。腹を箒で思い切り突かれた相手は、ぐえっと声を出して倒れていく。


 残りの一人は、トリアの攻撃範囲からのがれるために背後へと下がっていく。男の挙動きょどうすきなく観察しつつ攻め込む機会を狙っていると、周囲の空気が変化したような気がした。


「右に避けろ!」


 ラウの指示通り、考えるよりも先に危険を察知した体が動いていた。右横に飛び退く。直後、何かがつい先ほどまでトリアがいた場所を通り抜けていく。


 気付けば結んでいた髪の毛の先が、すぱっと切りかれていた。ぱらぱらと地面へ舞い散っていく。やいばのようなするどいもので切り裂かれた形跡けいせきがあった。


「……魔術ね」


 国境こっきょうから帝城に到着とうちゃくするまでの間、実際に魔術を目にする機会はあった。魔術は多種多様で有効な攻略方法をさぐるのが難しい、というのがトリアの結論だ。


 攻撃範囲内まで近付ければ、男が魔術を発動する前に倒せる自信がある。しかし、近付いている間に魔術を使われてしまえば、トリアの方が危険になる。


 一定の距離をたもったままにらみ合いが続く。相手がすぐに魔術を使ってくる気配はない。連発できるほどの腕がないのか、あるいはこちらの油断を誘っているのか。


 睨み合いの途中で、突然男が苦しみ出した。喉元のどもとを両手で押さえ、その場にひざからくずれ落ちる。まるで見えない何かに首をめられているかのように。


(え? 何? 一体どうなって……あ、これも魔術ね!)


 すぐ背後から、先ほど男が魔術を使ったときとはくらべものにならないほどの威圧いあつ感がただよっている。周囲を包む闇の気配が数倍濃くなり、炎の中にいたときよりも息苦しくなる。知らずトリアの全身に鳥肌が立っていた。


「――今だ」


 強張こわばっていた体を気合いで動かす。一気に間合いを詰め、苦しんでいる男の背後に回る。箒で背中を打ち付けた後、倒れ込んでいく男の首を腕で締め上げる。相手が完全に気を失ったことを確認してから、トリアは大きなため息と共に地面から立ち上がった。


 背筋せすじこおるほど強烈きょうれつな威圧感は、いつの間にか消えている。


「助力をありがとう」


「君には必要なかっただろうが、な。しかもまだ魔術が完全には使えない状況で、あんな中途ちゅうと半端はんぱなことしかできなかった」


「もしかして強い魔術師ではない、って言っていたのもうそ?」


「ああ、嘘を言ってすまない。それなりに魔術は使える。恐らく攻撃系の魔術に限定すれば、俺がこの国で一番だろう」


「落ち着いたらきちんと説明してもらうからね。それで、これもカーキベリル侯爵の手の者だと思う?」


「どうだろうな。やとぬしが誰であれ、全員金で雇われただけだろう」


 気付けば遠くにあったもう一人の気配は消えている。襲撃は失敗と判断し、この場から離脱りだつしたのだろう。

 立ち上がれる程度まで回復したらしいラウが、トリアの隣に並んで男たちを一瞥いちべつする。


「殴り込み、行く?」


魅力的みりょくてきではあるがやめておこう。私刑ではなく法でさばく必要がある」


「それを聞いて安心した」


 秘密裏に邪魔じゃまな人間をほうむるような人物ならば、傍にはいられない。


「次の旅行はもう少しおだやかな場所だと有りがたいかな」


「俺の傍にいれば、またこんなことに巻き込まれる。大体俺はいつわりの姿を演じ、君のことをだましていたんだ。それなのに君はまだ帝国に、俺の近くにいるつもりか?」


騎士きしになろうと思った時点で危険に巻き込まれるのは承知しょうちのこと。それに、あなたの本質をどうこう言えるほど、わたしたちはおたがいのことを知らないでしょ。あ、でも、あなたの方からわたしと婚約こんやく破棄はきをしたい、ってことなら考えるけど」


「……すぐに帝城に戻る手配をする。ギルの回復魔術ならば、君の傷や火傷やけども早く治るはずだ。とりあえず、すぐに応急処置をしておかないと」


 まだ完全には薬の効果が抜けていないのだろう。ふらふらとした足取りで進もうとするラウの手をつかんで止める。


「わたしは心配しなくても平気よ。むしろ一刻いっこくも早く手当てが必要なのはあなたの方でしょ。ここに座って待っていて、使用人を呼んでくるから」


 トリアも多少火傷やり傷はあるが、ラウはもっとひどい。火傷やしばられていた手足の擦過傷さっかしょう、薬の影響えいきょうもある。きちんと医師に診察しんさつしてもらわなければならない。


 使用人たちがいる場所へと向かおうとしたトリアの腕を、今度はラウが掴んだ。そして、繊細せんさい硝子ガラス細工ざいくさわるかのごとき仕草で、目をまたたいているトリアのほおへそっと手を伸ばす。


 れた手袋が優しく頬をでる感触かんしょくに、トリアの鼓動こどうが速くなっていく。こんな風に、まるで宝物をあつかうような手つきで他人に触られたことなどほぼないので、すごく落ち着かない気持ちになる。火傷とは違う熱で、頬が熱を持っていく気がした。


「君に傷が残る方が俺はいやだ。せっかくのきれいな髪も、俺のせいでぼろぼろに……」


「わ、わたしは全然大丈夫、まったく問題ないから、あの、手を離してもらえる?」


「俺の怪我けがはどうせ死ねば消える。君の場合はそうはいかないだろう」


 耳に入ってきた言葉に、自然とトリアの両手はラウの両頬をはさんでいた。びっくりして手を離す相手の顔をぐに見つめる。


「その言い方、やめて。死ねば元に戻るとか、生き返るからいいとか、そういう言い方わたしは好きじゃない」


 至近しきん距離にあるラウの顔には、動揺どうようと同時に戸惑とまどいがにじんでいる。


「死ぬのは当たり前じゃない。死んで生き返るなんて、普通じゃないでしょ。それに生き返るって簡単に言うけど、あなた自身に何か支障ししょうはないの?」


「……いや、特にない」


「本当に? のろいって言うからには、何かあるんじゃないの?」


 トリアの質問に対する答えはない。頬を挟む手に力を込め、らされそうになった視線を無理矢理合わせる。


「とにかく、死ぬなんて簡単に言わないで。今ここいるあなたは生きていて、わたしはたとえどんな理由があってもあなたに死んで欲しくない。生きていて欲しい」


 にっこりと笑えば、紫の目が大きく開かれ、信じられないといった様相で凝視ぎょうししてくる。


 これまで何度も視線が合っているはずなのに、このとき初めてトリアはラウと目が合ったような気がした。初めて、本当の意味で向き合えたように思える。


 騎士として自分が守るから、と続けようとした言葉は音にはならなかった。不意に伸ばされた手がトリアの肩を強く掴み、ぐいと引っ張ってくる。


 気付いたときには――トリアのくちびるにラウの唇が重ねられていた。


(…………え?)


 見開いた目に映るのは、至近距離で見つめてくる紫のひとみだ。長いまつげの一本一本まではっきりと見て取れるほどに近い。いな、もはや距離はないに等しい。


 口付けをしたまま、探るように眺めてくる瞳が妙に色っぽく、なまめかしい。トリアは頭が真っ白になって固まってしまう。対照的に、ラウには余裕すら感じられた。

 トリアの言動で顔色を赤や青に変え、ずかしがっていた姿がうそのようだ。


 突然触れた唇は、あっという間に離れていく。一瞬夢かと思った。けれど、離れる間際まぎわに感じた吐息といきが、わずかに残るげたすすの味が、そして冷えた手とは裏腹にあたたかな唇の感触かんしょくが、現実であったとうったえてくる。鼓動こどうが自然と早鐘はやがねを打ち始める。


 無意識だったのか、逃がさないとばかりに強く掴まれていた肩が痛い。その痛みが、より一層先ほどの行為、口付けの名残を強く感じさせる。


「使用人たちを呼んでくるから、その男たちを見ていてくれ」


 直前の出来事などすでに忘れたとばかりに、ラウはいつも通りの様子で歩き出す。背筋を伸ばして歩く後ろ姿からは、もう薬の影響は感じられない。


 何で、どうしてと、き上がってくる疑問は言葉にならない。頭の中が混乱状態だ。そのため、火傷や傷の痛みが多少和らいでいることに気付くことはできなかった。


 遠ざかっていく後ろ姿をただ見送ることしかできない。そんなトリアの耳元で、くすくすと笑う幼子おさなごの声が聞こえてくる。すぐ傍、耳に直接吹き込まれたかのようだ。


 はっとして周囲を見渡すが、子どもの姿などどこにもない。いるはずがなかった。


「……気のせい、だった?」


 明るく無邪気むじゃきで、けれど、幼子特有の残酷ざんこくさも感じさせる笑い声。気のせいと思うには、あまりにもはっきりと耳に残っていた。ひやりとしたものが背中を流れ落ちていく。


 燃え続けていた屋敷やしきがゆっくりと、轟音ごうおんを立てて崩れていく。その光景をながめながら、トリアは激しい動悸どうきかかえ、ただ一人混乱の只中ただなかへと置き去りにされていた。

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