第四章 二度目ましての婚約破棄③



 ノエリッシュ王国にも風呂ふろはあった。


 各国の最先端さいせんたんの技術を取り入れ、できる限り手間をはぶいて湯浴ゆあみできるようにしていたが、それでもつど大量の水を運び、また、大量のまきで火を起こす必要があった。湯浴みするだけで一仕事だ。


「帝国では浴場に魔術が用いられていて、大量の水も薪も必要としない構造になっているでしょ。もちろん労力もほぼいらない。わたしはものすごく感動したの」


「……ああ、そうか」


「この仕組みは王国でも広がるべきだと思う。いえ、むしろ広げるべき。王国側はもっと魔術を積極的に取り入れてもいいと思わない?」


「王国の人間は魔術に対して懐疑的かいぎてきかつ嫌悪感けんおかんいだいている。加えて、帝国そのものをきらっている人間も多い。たとえ便利べんりでも、帝国の魔術を素直すなおに受け入れはしないだろう」


「便利なんだから、気にせず受け入れればいいのにね」


だれも彼もが君のように大雑把おおざっぱ、いや、失礼、おおらかにはなれないということだろう」


「今、すごく気になる言い間違えがあったような……」


「おおらかな君が気にすることじゃないさ」


 無言で見つめ合うこと数秒。先にを上げたのはラウの方だった。


「そもそも何故なぜ俺は君と一緒に風呂に入っているんだろうな」


「わたしが一緒に入りたいって言ったからよ。安い褒美ほうびでしょ?」


「……俺には高い褒美よりも、色んな意味で痛手に感じられるが」


 ラウが濡れた前髪まえがみをかき上げる。はあと、重いため息の音が水音と混じり合い、室内に反響はんきょうして消えていく。


 現在いる場所は帝城の五階にある浴場だ。皇帝こうていが使用するためだけに作られた浴場は、滞在たいざいし始めてからはトリアも利用させてもらっている。


 白い大理石でおおわれた浴場は、寝室の二倍ほどの広さがある。中央部分には複数人が余裕でかれる丸い浴槽よくそうが設置され、あたたかなお湯でなみなみと満たされていた。火傷やけどや切り傷によくくらしい薬剤やくざいが入れられた湯は、やや緑をびた白色にまっている。


 水の流れる音がえず浴場を包み込んでおり、立ちのぼる湯気によって視界は白くかすんでいる。魔術にうといトリアには説明してもらっても理解できなかったのだが、適度に水を発生させながら循環じゅんかんする魔術と、水を温めて保温する魔術が使用されているらしい。魔霊石まれいせきという特殊とくしゅな石が原動力として使われているようだ。


(このお風呂があるだけで、帝国に住んでいる価値があるな)


 薬剤に含まれる薬草と石鹸せっけんの香りが鼻腔びこう刺激しげきする。気分が良くなってきてついつい鼻歌が出てしまう。ふんふんと調子はずれな鼻歌をきざんでいると、これみよがしに重苦しい長嘆息ちょうたんそくがラウの薄いくちびるからき出された。


「君はこの状況に対して、本当に何も思わないのか?」


「え? おたがい服を着ているし、別に気にすることはないでしょ」


 通常よりは薄手ではあるものの、トリアもラウもきっちりと服を着ている。れてもけることのない素材で作られた湯浴み着だ。火事の際、服を着たまま泉に飛び込んだのと大して変わりはしない。


 肩まで湯に浸かったトリアの前で、ラウは浴槽内に作られた段差にこしかけ、腹の辺りまで湯に入っている。


「いや、気にするべきだろう。むしろ頼むから気にしてくれ」


「大雑把でおおらかなわたしは、細かいことは気にしないの」


「……はあ。それで、わざわざ二人きりで湯浴みをする理由は?」


薬湯やくとうに入ればあなたの火傷や傷の治療ちりょうになるからね」


 こうでもしないと治療をしないでしょ、と続ければラウが片眉かたまゆを上げる。


「どうしてそんなに俺の傷を気にするんだ」


「気にして当然よ、むしろ気にしないあなたの方がおかしいの」


「君の気持ちはありがたいが、この程度ていど怪我けがはどうでもいい」


「あのね、少しでもありがたいと思うのなら今後はちゃんと治療して。わたしはだれかが、特に大切な相手が怪我をしているのは嫌なの」


「たい、せつ……俺が?」


「ええ、そうじゃなきゃあの火事の中に飛び込むはずがないでしょ」


 主人として、友人として、あるいは他にも大切の意味合いは色々ある。正直に言えば、トリア自身にもその大切につながる想いがどんなものなのかはまだわからない。


 ラウの整った顔にかすかな狼狽ろうばいが浮かぶ。


「……大切だと、そんな言葉をもらえる人間じゃ、ない」


 ぼそぼそと消え入りそうなか細い声が耳に届く。


 皇帝の『私』でも、よわよわ皇帝の『僕』でも、そして『俺』でもない。

 ラウという人間の本質がほんの一瞬いっしゅんだけ垣間かいま見えた気がした。


 ごほんとわざとらしい咳払せきばらいをしたラウは、乱暴らんぼうに元の話へと戻る。


「それで、他にも一緒に湯浴みする理由があるんだろう?」


「ここなら周囲に聞かれるとまずい話が遠慮えんりょなくできるから」


 浴場は声が反響はんきょうしやすいが、小声で話せば常に流れる水音にかき消される。外から聞き耳を立てられても詳細しょうさいは聞こえないはずだ。


「では、寝室でも良かったんじゃないか?」


「ええ。でも、いそがしい誰かさんは寝室に戻って来そうになかったでしょ」


「……はあ」


 湯の中を移動してラウのとなりに座ると、あからさまに距離きょりを取られる。一歩近付けば、同じく一歩離れていく。紫のひとみは絶対にトリアの方を見ようとはしなかった。


 このままではすぐに出て行ってしまいそうな気配を感じ取り、トリアは覚悟かくごを決めて『あれ』を話題に出すため重い口を開く。


「わたし、初めてだったの」


 トリアが真剣な声を出せば、ようやくちらりとだがラウの視線が向けられる。しかし、トリアの顔以外は視界に入れないよう細心の注意が払われている。


「何が?」


「……口付け。あなたにされたのが初めて」


 げほっと、ラウが大きくき込む。何度も咳き込みながら、視線を左右にせわしなく動かしている。動揺どうようしていることは明らかだ。


 じっと見つめるトリアに対して、ようやくせきが収まったらしいラウは口元を手で隠して横を向く。ほお若干じゃっかん赤く見えるのは、湯浴みで体温が上がっているせいだろうか。


「あー、ええと、その……ルシアン王子とは?」


「ダンスで手をにぎった程度ね。というか、最低最悪な気分になるから、変な想像はしないでくれる?」


 自分では見えないが、おそらくものすごい形相ぎょうそうをしていたのだろう。


「申し訳ございませんでした」


 ラウが間髪かんはつれずに、平身低頭して謝った。


「それで、どうして突然あんなことをしたの?」


「……回復魔術を効きやすくするために必要だった」


「はい、うそ接触せっしょく有無うむは関係ないって、そうギルバートさんが言っていたもの」


 沈黙ちんもくが続く。湯船からもくもくと立ち上る湯気が静かな場に広がっていく。


「……わかった。ただしたかったからしただけ、初心うぶな女をもてあそんでやろうってことね」


「違う! そうじゃなくて、ええと、その……」


 否定ひていするものの先は続かず、ラウは視線をらしたまま口を閉ざしてしまう。


 トリアは両手で湯をすくうと、だまり込んだ相手の顔に容赦ようしゃなくお湯をぶっかけてやった。最初に出会ったとき、グラスの水を顔面にぶちまけてやったように。

 トリアはびしょ濡れの顔で目をまたたくラウに、にっこりとみを返す。


いやがらせでしたんじゃないってことだけは何となくわかった。大雑把なわたしは、今回だけ水に流してあげる。でも、次に同じことをしたらピンヒールのくつほおなぐっちゃうかもしれないから、くれぐれも気をつけてね」


「ああ、わかった。次があれば許可を取る」


「殴った方がいい?」


「すまない、冗談じょうだんだ」


 数秒顔を見合わせ、どちらともなく笑みをこぼす。おたがいの間にあったもやもやした空気がようやくなくなった気がした。


「一段落ついたところで真面目まじめな話をしてもいい? カーキベリル侯爵こうしゃくの裏にいる人間がだれなのか、大方の予想はついているの? あ、首謀者しゅぼうしゃがいることはわかっているからね」


「君にかくし事をするのは困難こんなんだな。いや、まだだ。数人にしぼられてはいるが」


「首謀者は帝城に常駐じょうちゅうし、かつ、あなたと親しい人間ね。そしておそらくカーキベリル侯爵に協力していたその人物が、これまで実行された暗殺未遂みすいをすべて裏であやつっていた張本人」


「……どうしてそう思うんだ?」


「計画性が高すぎる。どの暗殺未遂も行き当たりばったりの犯行じゃない」


 例えば王国での晩餐会ばんさんかい。ラウは本来参加する予定はなく、気まぐれによってまぎれ込んでいた。だが、襲撃者しゅうげきしゃたちは給仕きゅうじ格好かっこうをし、あらかじめ晩餐会に侵入しんにゅうしていた。ラウの行動を予測している。すなわち親しい人間が関与していると推測できる。


 次に矢で狙われた件。こちらも当日トリアが帝城に到着とうちゃくしたのは偶然ぐうぜんだったが、完璧な頃合いで襲撃された。しかも襲撃者は警備けいび厳重げんじゅう謁見えっけんの間まで近付いた上、その後つかまることなくげおおせている。詳細しょうさいな警備体制を前もって知っていたとしか思えない。


 加えてカーキベリル領での火事。一部の限られた人間しか、あの日あの場所にラウが滞在たいざいしていたことは知らない。しかも、あの炎の勢いから見て、いかに火の周りを早くするか計画した上で、綿密めんみつに準備されていたことは明白だった。


 他にも、軍人たちからこれまで起きた暗殺未遂について話を聞いてみたが、すべてこと細かな計画の上で実行された犯行だと思われる。


(すべてに共通するのが、神経質すぎるほどの計画性の高さ。同一人物の気配を感じる)


 ――間違いなくラウの身近な人間、親族や重鎮じゅうちん、親しい人物の中に首謀者がいる。


 トリアが持論を述べると、濡れたひたいに手を当てたラウが小さく頭を振る。


「俺の最大の誤算ごさんは、君が想像のななめ上をいくほど男前で、加えて想像をはるかに超えて聡明そうめいだったことか」


 称賛しょうさんされているのか非難されているのか、微妙びみょうな感じだ。


「君の予想はおそらく当たっている。だが、外では絶対に口にしないで欲しい。首謀者は狡猾こうかつな上に警戒心けいかいしんが強いと考えられる。自分が疑われていると察すれば、恐らくすべての証拠しょうこ、ものも人もみずからに不利となるものは全部隠滅いんめつするだろう」


「わたしにも手伝えることはない? あなたの騎士きしとしてできることがあれば何でもする。火傷ももう十分治ったと思うし」


「では、一つ君に頼んでも?」


「ええ、何でもどうぞ」


「最低でもあと三日は部屋で大人おとなしく過ごしていて欲しい」


 期待とは大きく反する答えに、思わず半目になってしまう。にらむトリアのことなど意にかいさず、ラウは黒髪から水をしたたらせながら言葉を続ける。


「それ以降は部屋を出ても、訓練をしても構わない。どうやら体力が有り余っているようだから、一人でないのならば城の外に出てもいい」


「え!? 城の外に出てもいいの?」


「ああ。遠出はやめて欲しいが、帝都を回るぐらいならばいいだろう」


「すごくうれしい! ありがとう!」


 ぱっと、満面のみがこぼれ落ちる。嬉しすぎて聞こうと思っていたことがすべて吹き飛んでしまった。


 トリアの顔を見たラウはふいっと視線をらしてしまう。耳の先がほんのり赤く見えたのは、長く湯に浸かっている影響えいきょうだろう。


「君の行動を制限したいわけではない。だが、くれぐれも身辺には注意してくれ。君に危険がおよぶと考えると、何をするにしても俺は落ち着かないんだ」


 端整たんせいな横顔に浮かぶ紫の瞳には、新月の夜よりも暗い、よどんだ光がにじんでいる。


「自分の命はどうでもいい。だが、君の命だけは絶対に失えない」


 嬉しいと感じていた気持ちが一気にしぼんでいく。

 自分の命よりもトリアの命の方が大切だ。聞く人間によってはうっとりするような甘美な言葉かもしれない。しかし、トリアにとってはまったく違う。その逆だ。


 トリアはラウとの距離を詰めると、いつかのように濡れた手でラウの頬をはさみ、強制的に自分の方へと視線を向けさせる。


「その手の言葉に対して、わたしが前に何て言ったか覚えている?」


「……ああ、忘れるはずがない」


「それならよかった。じゃあ、次に同じようなことを言ったら、大雑把なわたしはあなたの頬を思い切り左右に引っ張るつもりだから覚悟かくごしておいてね」


「君は俺の失言をずっと引っ張るな。わかった、注意しよう」


 深くうなずく相手に満足し、トリアはラウの頬から手を離す。そのまま距離を取ろうとしたのだが、今度はラウの手がトリアの頬にれてくる。


 ゴツゴツと角張った手はトリアの頬をゆっくりと撫で、徐々じょじょに下がっていく。濡れた首筋を優しくで下ろし、鎖骨さこつ、肩へと触れてくる。トリアの形を確かめるようなその動きに、ぞわっと、背筋せすじから全身に言いようのない感覚が広がっていく。


「君と出会い、君を婚約者として選んだことが、俺に与えられた最大の幸運だった」


 滴をらす前髪の奥で、熱を帯びた瞳が刺すような強さをともなって向けられる。濡れた髪と肌、ぴたりと貼り付いた服、湯によって体温が上がり紅潮こうちょうした頬など、ラウからものすごい色気が立ち上っていることに今さらになって気付く。


 途端とたん、直視するのが急にずかしくなってしまった。


「わ、わたしちょっとのぼせてきたみたいだから、先に出る!」


 トリアはどうにかこうにか平静をよそおいつつ、しかし、かなりあわてふためきながら早足で浴場の外へと飛び出した。

 脱衣場だついじょうで一人になると、思わず頭をかかえてその場に座り込んでしまう。


 ルシアンに触れられたときは、ただただ嫌悪感けんおかんしか抱かなかった。訓練で異性に組みかれるような場面があっても、特に何も感じなかった。


 だが、ラウのあの目で見られると、あの手に触れられると、どうしてか不思議ふしぎ羞恥心しゅうちしんと同時に別の感情もき上がってくる。体の奥底から高熱がにじみ出てくるようだ。


 闇の魔力の影響えいきょうを受けているせい、ではないだろう。明らかに違う感覚だ。


「……わたし、もしかして、ラウのこと……いや、そんなはずない、ない!」


 トリアはに染まった頬から完全に熱が失われるまで、しばらくの間床にうずくまっていることしかできなかった。

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