第二章 はじめましての新生活⑤



 案内されたのは帝城の最上階、五階の南向きに位置する部屋だ。


 城の五階は丸々皇帝こうていの私室として使用されているらしい。五階に通じる階段では数人の軍人がすきのない警備けいびを行っていた。高階層なので外からの侵入しんにゅうの可能性もほぼない。


(うん、警備は完璧かんぺきね)


 部屋の内装ないそうよりも、つい警備の方が気になってしまう。

 南向きに位置する部屋には、ソファーやテーブルが並べられ、数は少ないが高価そうな絵画や壺といった調度品が置かれている。居間として使用している場所なのだろう。


「では、我々は戻ります。何かあればお呼びください」


 護衛ごえいに付いてきてくれた軍人たちは、きびきびとした動きで去っていった。

 二人だけになると、室内が静寂せいじゃくで満たされていく。


(何か話しかけた方がいいかな)


 聞きたいことなら山ほどある。どうしようか考えていると、ラウがぎくしゃくとした様子で動き出す。


「お、お茶を用意するから、君はそこのソファーで座っていてくれ」


「それなら、わたしが用意するよ」


「い、いや、大丈夫! ぼ……ごほん、私はお茶を入れるのは得意なんだ」


 得意と言う割には、茶器をあつかう手つきはかなりあやうい。がちゃがちゃと食器同士がぶつかり合う音が、静かなせいで異様に大きく聞こえた。

 何故かがちがちに緊張している様子のラウを不思議ふしぎに思いながら、トリアはとなりに並ぶ。


「やっぱりわたしが用意するから、あなたが座って待っていて」


 あちこちこぼしながら茶葉を入れている手にれて止めると、びくりとラウの全身がれる。激しい反応にびっくりして、思わず一歩後ろに後退してしまった。

 後ろに下げた右靴みぎくつのかかとが、なめらかな絨毯じゅうたんの毛ですべる。


(まずい、靴が!)


 トリアの体は後方へとかたむいていく。


「――危ないっ!」


 トリアの右腕をラウがとっさにつかむ。強い力で引っ張られ、後ろに倒れることはけられたのだが、今度は前のめりに大きくかたむいていく。


(このままだと床に……!)


 なすすべもなく前方からくずれ落ちた体は、しかし、想像していたような痛みは一切ない。やわらかな感触かんしょくに包まれる。ふわりと、おだやかな夜を思わせる香りが鼻に届いた。


 自らの下にいる相手を見る。どうやらラウが下敷したじきになってくれたらしい。


「……怪我けがはない、かな?」


「ええ、大丈夫よ。ありがとう。あなたは平気?」


「ぜ、全然問題ない。けど、ええと、その」


 しどろもどろな口調で視線を彷徨さまよわせる。口にしないだけで本当はどこか痛めたのかもしれない。急いでラウの様子を観察する。


 むねの辺りに馬乗りになっている状態のため、トリアの左右の手の平はちょうどラウの大胸筋だいきょうきんれている。洋服越しでもかなりきたえていることがわかる。その胸の下で心臓しんぞうが大きく拍動はくどうしているのが伝わってくる。


 明らかに速い心臓の動きに顔を上げると、ほおを赤くめた相手と視線が重なる。

 ずかしそうに口元に手を当て、白い頬を紅潮こうちょうさせる姿は、まるで――。


「……照れている?」


 トリアの指摘に、宝石のごとき目がこぼれんばかりに開かれる。


「! て、照れているって、まさか、いや……!」


「じゃあ、どうしてそんなに顔が赤いの?」


「そ、それは、その、ええと」


 頬に手を伸ばすと、想像通りの熱が伝わってくる。トリアの手が触れると、ますますラウの顔が赤みをびていく。

 一瞬いっしゅんきつけられる美しさの代わりに、愛らしさがこれでもかと増量されていた。


 箱入りのご令嬢れいじょうなら、今の状況ではラウのような反応をするのが正しい。だが、トリアは体術の訓練で異性との組み手には慣れっこだ。今さら男に馬乗りになった程度では何の感情もいてこない。


 こういう部分が、いつまでっても深窓しんそうの令嬢になれない理由だったのだろう。


「ひょっとすると、本来のあなたはこっち?」


「違う! そんなことは、僕は……あ!」


「……僕?」


 ラウの一人称は『私』だったはずだ。

 手を引き戻したトリアが復唱すると、ラウの顔から急速に熱が失われていった。


 うろうろと紫のひとみが落ち着きなく動く。りんとした皇帝の雰囲気ふんいきは一切ない。むしろ今のラウはどこか頼りなげに見えた。


 無言でじっと見つめるトリアに、ラウの口から重くて長いため息がき出される。


「……とりあえず、その、ええと、離れてもらえるかな?」


「あなたには聞きたいことがたくさんあるの。答えてもらえる?」


 きたえているトリアは一般的な女性よりも体重が重い。下敷きにされればかなり苦しいはずだ。申し訳ないと思うが、うんとうなずいてくれるまでは上から退くつもりはなかった。


(ルシアンのときみたいに当たりさわりなく角を立てず、ただ無意味に過ごすんじゃなくて、対等な立場でおたがいのことを知る努力をしてみたい)


 ここに、恋や愛はない。この先も芽生めばえるとは到底とうてい思えない。


 でも、いつか婚約こんやく破棄はきをする、されるときが来ても、無意味な時間を過ごしていたとは思いたくなかった。

 ただ流され続け、惰性だせいで生きていくことはもうしたくない。


(それに、わたしはこの人の騎士きしになるって決めたんだもの)


 婚約者としても、そして騎士としても、ちゃんと相手と向き合ってみたい。


「……わかった」


 ラウが頷くのを確認し、トリアは彼の上から離れる。あわてた様子で上半身を起こした相手に手を貸そうとしたが、ラウは素早く立ち上がると後ろに大きく飛び退いてしまう。

 トリアとラウの間には、不自然なほど広すぎる空間が作られる。


 ラウは乱れたかみやマントを整え、自身を落ち着かせるように深呼吸をする。その顔には神妙しんみょう面持おももちが浮かんでいる。


「もし君の聞きたいことが国に関することならば、申し訳ないが僕には答えられない」


「国のことなんて聞かないよ。わたしが知りたいのはあなたのこと」


「……僕の、こと?」


「ええ。だって、あなたはわたしのことを色々調査して知っているかもしれない。でも、わたしはあなたのことをほとんど何も知らない。不公平じゃない?」


 不公平、と目を丸くしたラウがぽつりと呟く。


「まず、わたしを婚約者に選んだ本当の理由を教えてくれない?」


「そ、れは、あのとき言ったように、君が必要だからで」


「ええ、わたしが必要な理由があるんでしょ? あなたは馬鹿ばかじゃない。恋で頭がお花畑になっているとも思えない。ということは、ちゃんとした理由があるってこと」


「……君はやはりすごく聡明そうめいだな。そういうところは本当に好ましいと思うよ」


「ありがとう。それで、理由を教えてくれるの?」


 ラウはかたの力を抜き、観念かんねんしたといった表情で口を開く。


「これから話すことは、決して外部にもらさないと約束してもらえるかな?」


 もちろんだと答えると、ラウはソファーに座るよううながし、自身も目の前にこしを下ろす。


「君を婚約者に選んだ理由を話すには、最初に僕自身のことを話す必要がある。君の想像通り、本来の僕は普段の皇帝の姿とはほど遠い。気が弱くて優柔ゆうじゅう不断ふだん、人前だとどうしてもおどおどしてしまう部分があるんだ」


 細く整ったまゆが下がると、皇帝としての威厳いげん欠片かけらもなくなる。十九歳という年相応の青年の顔になる。

 烈火れっかのごとき美貌びぼうが、一転してはかなげな美貌へと変化していく。


「だが、それでは到底とうてい皇帝にはなれない。国民や臣下しんかたちだけでなく、他国の人間にも下に見られてしまう」


 王国は彼の即位直後、ただ若いというだけであなどっていた。あのとき王国側がラウの本質を知っていたら、おそらくもっと苛烈かれつな行動を起こしていただろう。


「ギルや親しい貴族、重鎮じゅうちんは本来の僕を知っている。皇帝であり続けるためには、皇帝として相応ふさわしい言動を演じ続けるべき。そう彼らに助言されたんだ」


 皇帝は国そのものだ。弱々しい人間だったら、それは国にとって最大の弱点となる。ノエリッシュ王国だけでなく、他国はその弱点を絶対に見逃みのがさない。


 戦争の引き金になる可能性すらある。


「外では完璧かんぺきに演じられていると思う。でも、信頼できる身内の中だと気がゆるんでしまうのと、ええと、正直に言うと僕は女性と接するのに慣れていなくて、二人きりだと緊張きんちょうしてしまって……。どうにか皇帝の姿を演じようとした。が、結果はご覧の通りだ」


「あなたの立場的に、女性と二人きりになる機会なんていっぱいあったんじゃないの?」


「そこは、その……後からちゃんと話すが、それが君を選んだ理由に関わってくる」


 トリアの視線の先で苦笑がこぼれ落ちる。


「本来、皇帝の座は兄が引きぐはずだったんだ。僕は皇帝に相応しくない。だから、一部の貴族や臣下たちからはきらわれている」


「あなたが度々たびたび命をねらわれているのは、そのせい?」


「ああ。特に前皇帝、父をしたっていた臣下たちにはにくまれているんだろうな」


 父親殺しの冷酷れいこく無慈悲むじひな皇帝。そのうわさが関係しているのかもしれない。


「確かにエジンティア辺境領へんきょうりょうとユニメル領の領主りょうしゅたちは、あなたのことをあまり、いえ、大分好いてはいなかったかもね」


「彼らは父の腹心だった。だから、それぞれの領地で起きている騒動そうどう解決のために軍の派遣はけん打診だしんしたんだが断られ、君を巻き込む事態にまで発展してしまった。すべて僕自身がいたらないせいだ」


 ラウはトリアに向けていた顔をらす。紫の瞳がどこか遠くを見つめる。


「王国の晩餐会ばんさんかいらえた襲撃者しゅうげきしゃたちからは、何か情報は得られなかったの?」


「あれはただ金でやとわれただけの人間で、雇いぬしに関する情報など持っていなかった」


 命を狙われる機会が多い割には、単独たんどくで晩餐会に参加していたり、先ほどの謁見えっけんの間での警備けいびが少なかったりと、気になる部分もある。


(本人が魔術師だから、危険は自分で回避かいひできるってことなのかな。あの矢も、わたしが取らなくても魔術でどうにかできたのかしら)


 目の前にいる相手を上から下までじっとながめてみる。背筋せすじ若干じゃっかん丸まり、眉尻まゆじりは下がり、目は落ち着きなく動いている。


 皇帝としての威厳いげん皆無かいむとなっている今の姿は、もはや儚いを通り越して――。


(……正直言って、ものすごく弱々しいなあ)


 この状態では、間違いなく帝国にとっての弱点にしかならない。


(どう考えても、父親を殺せるような人間には思えない)


 諸々もろもろの噂、父親殺しだとか鉄仮面だとかは、おそらく他国へ冷酷れいこくな皇帝としてのラウを印象いんしょうづけるために流されたうそだろう。国をげての印象操作そうさだ。


「父のことがなかったとしても、僕は多くの人から嫌われているんだ。大抵たいていの人は僕がすぐそばにいるだけで気分が悪くなる」


「それは、あなたが皇帝だから傍にいると心が休まらない、っていう意味?」


「違う。そのままの意味だ」


 理解できずにいるトリアへ、さらに意味不明な言葉の数々が投げられる。


「君を婚約者に選んだのは、君は僕が近付いてもさけんだり失神したりせず、かつ手をれてもいたり痙攣けいれんしたりしなかったからだ」

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