第二章 はじめましての新生活④



 トリアが室内に足をみ入れると、他より数段高い壇上だんじょう椅子いすに座っていた皇帝こうてい、ラウがゆったりとした仕草で立ち上がった。鷹揚おうような足取りで近付いてくる。


「ようこそ、キールストラ帝国へ」


「おまねきいただきありがとうございます、皇帝陛下へいか


「他の人間がいても私に敬語は使わなくていい。君が出した条件については城の人間に周知させている」


 謁見えっけんの間はかなり広く、天井てんじょうも高い。大理石の床には真紅しんく絨毯じゅうたんかれ、南側にバルコニーが設けられている。開け放たれた窓からさわやかな風が吹き込んでいる。

 室内には臣下しんか数名と、護衛ごえいになっているだろう数人の軍人の姿がある。ギルバートはラウのななめ後ろの位置にひかえていた。


「君がなかなか帝城に到着とうちゃくしないから、すごく心配していた」


「ご心配をおかけして申し訳ご、いえ、心配をかけてごめんなさい」


「謝らなくていい。大切な婚約者こんやくしゃを心配するのは当然のことだろう」


 細められた紫の目に宿っているのは、砂糖のような甘さだけではない。そこには間違いなく甘さ以上の苦味と酸味さんみかくされている。


「キールストラ帝国では皇帝でも一夫一妻制が基本。一人の妻をずっと大事にする」


 王国でも一般人は一夫一妻性が基本だ。ただし、王族や貴族となれば話が違う。

 跡継あとつぎを残すため、地位が高い人間ほど側室や愛人を作る。


「だから、妻がいるのに外で愛人を作ったり、隠し子を作ったりは絶対にしない」


 父やララサバル夫人に関する情報はすべて帝国側には筒抜つつぬけらしい。


 現在のララサバル夫人は、父の長年の愛人だった。最低なことに、二人の関係はトリアの実母と結婚する前からのもので、結婚した後もずっと続いていた。


 二つ年の離れたクローディアは、いわゆる隠し子というやつだ。再婚する際に存在が明らかとなり、長年続けられていた不貞ふてい祖父そふ叔父おじ激怒げきどし、兄たちは絶句し、トリアは嫌悪けんおした。


 正直、大好きだった母の遺言ゆいごんがなければ、八歳にして家出していただろう。


(敵を知る上で、情報収集は基本中の基本だものね)


 ほこりが完全に出尽でつくすぐらい調査されているのだろう。何せ皇帝の婚約者だ。


「私は君だけを愛するつもりだ。安心して欲しい」


 見惚みほれてしまうほど完璧かんぺき微笑びしょうと、みつのごとき甘美な音色ねいろ

 間違いなく、普通のご令嬢れいじょうならばむねをときめかせて恋に落ちる場面だ。十人中九人は、今すぐに「結婚けっこんします!」と答えるかもしれない。


 しかし、トリアは例外、十人中の一人だった。


「あー、ええと、その……どうもありがとう?」


 言うべきことが見つからず、とりあえず礼を言ってみた。


(いや、だって、正直なところ、出会って換算かんさん一日も一緒に過ごしていない相手から愛をささやかれても、わたしとしてはただただ反応に困るんだもの)


 非の打ち所のない笑みが若干じゃっかんかげる。周囲の空気も幾分いくぶん下がった気がした。

 場の空気を変えるように、ごほんとわざとらしい咳払せきばらいが一つ放たれる。


「ところで、君が城に来るまでの経緯けいいは聞いている。謝罪と礼をねて、何か私にできることがあればと思うんだが」


「それでは、お言葉に甘えて一つお願いしても?」


「欲しいものがあるのならば、何でも遠慮えんりょなく言ってくれ」


「今からわたしがすることに、ただ一言『許す』と言ってもらえれば大丈夫よ」


 不思議ふしぎそうな顔のラウがうなずくのを見て、トリアは表情を引き締める。


 こしびていた剣をさやごと抜くと、左膝ひだりひざを立てた状態で床にひざまずく。息をむ周囲を気にせず、目線を下にして両手で剣を持ち、ラウへとささげる形で差し出す。


「わたし、トリアはこの場にて、我が剣を陛下に捧げることをちかいます」


 謁見の間がしんと静まり返る。


「この身をたてに、この身をやいばに、命をかけて忠誠ちゅうせいを誓い、御身おんみを必ずお守りすることをお約束いたします」


 うつむいていてもそそがれる数々の視線を感じることができる。そこに含まれているのは好意か、奇異か。あるいは警戒けいかいかもしれない。トリアはぴくりとも動かず、ただ剣を捧げた格好かっこうで言葉を待つ。


 数秒か、もしくは数分か。長い沈黙ちんもくを打ち破ったのは、苦笑をともなった嘆息たんそくだった。


「……許す」


 張り詰めていた空気がふっとやわらいでいく。


 正式な騎士の叙任式じょにんしきはもっと事細かく段取りがあり、決められた動作や口上がたくさん存在している。だが、帝国で王国と同じようにり行うのは不可能だろう。


 それに、これはあくまでも『仮』の宣誓せんせいだ。


 トリアは床から立ち上がり、剣を腰へと戻す。


「水を差すようで申し訳ないが、騎士の誓いまで立てる必要はないんじゃないか? 私としては君にずっと帝国にいて欲しいと思っている。だが、君はこの先帝国を出て行く可能性がある。むしろそうするつもりだろう?」


「正直に言うと、わたしはまだ今後のことは全然決められていないの。だから、正式な騎士の誓いはできない。仰々ぎょうぎょうしくやってみせたけど、あくまでも仮の誓いだと思って。でも、仮とはいえ、わたしは帝国にいる限りはあなたの騎士として行動する。わたしなりの決意、誠意を示したと思って欲しい」


 騎士として人生のすべてを捧げる相手に、ラウのことを選んだわけではない。そんなに簡単にただ一人の主人は選べない。


 だが、どんな形であれ、ラウはトリアに『騎士として生きる道』という選択肢せんたくしを最初に与えてくれた。そのことには心から感謝している。だから、それに見合うだけの働きはしていきたい。


「助けが必要なときは迷わず呼んで。あなたのことを必ず守るから」


「……守る? 君が、私を?」


「ええ、わたしはあなたの騎士だもの」


「君が騎士として振る舞うことを止めるつもりはない。だが、私のことは守らなくていい」


「それは、騎士としてのわたしは必要ないってこと?」


「違う、そういう意味ではない」


 ラウはゆっくりと首を横に振る。

 窓から一際ひときわ強い風が吹き込んで、美しい黒髪を乱していく。


 トリアはみずからのほお乱暴らんぼうでていく風に目を細め、吹き込んでくる先、バルコニーを横目に一瞥いちべつする。


「私の命は君の命よりもずっと軽い」


「逆じゃないの? 皇帝であるあなたの命の方が重いでしょ」


「いいや、君の命の方が大切だ。だから、私を守る必要はない」


「本当に?」


「ああ」


「あなたを守る必要はない?」


「そうだ」


「……これでも?」


 トリアの言葉に呼応して、ラウの頭へと一直線に飛来してくるものがあった。


 ――矢だ。


 バルコニーから飛んできた矢が、ラウのこめかみへとぐにせまっていく。


「ラウ!」


 ギルバートの悲鳴にも似た大声がひびき渡る。あともう少しで矢が突きさる――その直前で、トリアは右手で矢をつかみ取る。ぱしっと、矢を捕獲ほかくした音が発せられる。


 ラウか、もしくは他のだれかか、「は?」と間の抜けた声をもらした。


「このナイフ、ちょっと貸して」


 トリアは空いている左手で、近くにいた軍人が腰に付けていたナイフを取ると、バルコニーの方角に向かって思い切り投げる。窓を飛び出したナイフはバルコニーにいた相手、黒いローブをかぶり、手に弓を持った人物へと向かっていく。


 まさか矢を掴まれた挙げ句、ナイフを投げ返されるとは微塵みじんも考えていなかったのだろう。あわてた様子できびすを返した人物の左肩ひだりかたをナイフがかすめる。


 肩に怪我けがを負ったと思われる襲撃者しゅうげきしゃは、バルコニー近くにえた大木に飛び移り、あっという間にげ去っていく。


(逃げる判断が早い。土地かんのないわたしが追いかけようとしても無駄むだね)


 脇目も振らずに木を下りていく姿から、事前に逃走経路を確保していたことがわかる。


「すぐに追いかけて捕獲を! 警備人数を増やし、出入り口の監視かんしを強化するように!」


 ギルバートの指示を受け、軍人たちが緊迫きんぱくした様子で動き始める。


 先ほどナイフを借りた軍人に「これ、お願いしてもいい?」と掴んでいた矢を手渡すと、その顔は明らかに引きつっていた。ひとみには畏怖いふがありありと浮かんでいる。


 途端とたんに周囲がばたばたとさわがしくなっていく。

 あきれと驚愕きょうがくの表情を半々に浮かべたラウが、信じられないといった口調でたずねてくる。


「……トリア、君は飛んできた矢を取れる、のか?」


「うーん、時と場合によるかしら」


 今回は風に含まれるかすかな気配と殺気を感じ取り、矢が飛んでくることが予測できていた。完全に無防備むぼうびで何の準備もない状態だったら、取れる確率は八割ぐらいか。


「普通、時と場合によっても素手すでで矢は取れない。取れたらおかしい、ありえない」


「え? わたしの周りの人たちは矢ぐらい簡単に取れるよ」


 叔父おじや兄たちは百発百中で取る。


祖父そふなら目をつぶった状態でも取れるしね」


 目の前からだけでなく、あちこちからいくつものため息が吐き出される。感心や驚嘆きょうたん、そして畏敬いけいが入り混じっている。

 変わった様相をした王国の小娘、といった風に見ていた目が明らかに変化した。


「き、君の家、ララサバル男爵だんしゃくは超人の集まりか?」


「少し運動神経が高い程度で、別に超人ではないよ」


 魔術を使える方がよほど超人に思える。


「いやいや、少し運動神経が高い程度で矢が取れるはずがないだろう、絶対におかしい」


「きちんときたえれば、別にララサバル男爵家の人間じゃなくても取れるでしょ。実際、王国の騎士は取れる人間が多かったもの。普通よ、普通」


「普通……普通って、一体何だろう。だが、最強と名高い王立騎士団を支えるには、そのぐらいの芸当ができないとダメなのか、そうなのか……」


 ぶつぶつと小声でつぶやく様子は、余裕よゆう綽々しゃくしゃくな皇帝の姿とはほど遠い。


(危うく頭に矢が突きさるところだったから、さすがの皇帝も動揺どうようしているのかしら)


 声にも態度にも余裕があり、表面上は感情を見せても内面はいだ湖面のごとくるがない。そんな人物だと思っていた。が、皇帝も血の通った人間だということだろうか。


「と、とにかく、君に怪我は?」


「飛んできた矢を取ったぐらいで怪我はしないよ」


「……そ、そうか。いや、でも、やじりに毒がられていたかもしれない!」


 ラウはひてい定するトリアの両手を取ると、怪我がないか注意深く確認する。今日は手袋を着用していないらしい。れられるとやはり一瞬いっしゅん不思議ふしぎな感覚に包まれるが、それよりもラウに対する違和感いわかんの方が勝った。


(……あれ? 右手が……)


 ある程度の毒には耐性があるから大丈夫、という言葉を飲み込んだトリアの耳に、ギルバートの落ち着いた声音こわねが入り込んでくる。


「ラウ、落ち着いて。ここは『皇帝』のいるところだよ」


「! ああ。すまない、ギル」


 ラウの表情が瞬時しゅんじにきりっとしたものへと戻る。にぎっていたトリアの手を素早く離す。一分のすきもない皇帝の姿へと早変わりしていた。


「ギル、ここの処理は任せてもいいか? 私は彼女を部屋まで案内してくる」


「はい、お任せください。侍女じじょを呼んで案内させましょうか?」


「今後の話を彼女としたいから大丈夫だ」


「かしこまりました、皇帝陛下」


 ラウはトリアをうながして歩き始めた。護衛ごえいの軍人が前と後ろに二人ずつ付いてくる。

 りんと伸びた背中を追いかけながら、あえて明るい調子で呼びかける。


「これからよろしく、わたしのご主人様」


 一度ぴたりと止まった足が、一拍いっぱくの間を置いて再度動き出す。


「それとも、わたしも皇帝陛下と呼ぶべきかしら?」


 あの晩餐会ばんさんかいで「私のお嫁さん」とか「未来の妻」とか呼ばれた意趣いしゅ返しだった。


「……私のことはラウと呼んでくれ」


「わかった。よろしくね、ラウ」


 困ったように息をく後ろ姿からは、どこか人間味を感じさせる雰囲気ふんいきただよっていた。

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