第一章 深窓の令嬢にさようなら⑤



 広間に血のにおいが広がっていく。甘ったるい香水や様々な料理のにおいに混じってなお、生々しい血の香りは強烈きょうれつな存在感を放っている。


 あまりにも静かなせいで、ぽたぽたとしたたり落ちる血の音が聞こえてきそうだ。本来であればトリアの脇腹わきばらから落ちるはずだったもの。代わりに、つい先程までトリアの手をにぎりしめていた手からこぼれ落ちていく。


 クローディアが突き出したナイフのを、ラウの右手が握りしめている。次々あふれ出た血は刃を伝い、クローディアの持つつかまで流れ落ちていく。


「……っ! あ、わ、わたくし、そ、そんな、そんなつもりじゃ……!」


 自らの手に付いた大量の血に、クローディアの顔がさおに変化していく。柄をつかんでいた力がゆるむと同時に、全身からも力が抜け落ちて床に尻餅しりもちをつく。


 あわててむすめけ寄るララサバル夫人の姿を横目に、トリアはテーブルに置いてあった白いクロスを取る。そして、いまだ握りしめたままだった手からナイフを慎重しんちょうに離し、手袋を注意深くがせた。傷口をクロスで強く押さえ、きつくしばり上げる。


「医者を呼んで、早く! あなたは急いで消毒薬しょうどくやく包帯ほうたいをここに!」


 近くにいた二人の給仕きゅうじに強い口調で声をかける。目の前で起きた突然の凶行きょうこうに固まっていた給仕たちははっと意識を取り戻し、即座そくざに広間の外へと走り出す。


「傷口を心臓しんぞうよりも上に。もう片方の手で傷口をしっかり押さえて止血して」


「この程度、どうせすぐに治る」


 痛みがあるはずなのに、目の前にいる相手はまゆ一つ動かさない。


「すぐに治るか治らないか、傷が浅いか深いかも関係ない。傷付いた相手を放っておくことは、わたしの流儀りゅうぎに反するだけ」


「わかった。夫として未来の妻の意見を素直すなおに受け入れよう」


「わたしはあなたの妻にはならない。でも、かばってくれたことに対しては礼を言う」


 手袋をはめていたおかげか、さいわい傷は深くはない。何針かう必要があるかもしれないが、神経に損傷そんしょうはないだろう。


「……助けてくれてありがとう」


 やや声が固くなってしまったが、頭を下げ、誠意せいいを持って礼を言う。


 何故か不自然な沈黙ちんもくが流れる。顔を上げると紫のひとみが丸くなっていて、だが、すぐに元の冷静な皇帝こうていの姿に戻ってしまう。


「私はみずからの妻、いや、妻になって欲しい女性を守っただけだ」


「だから、わたしはあなたの妻にはならない、絶対に」


 いつの間にか敬語が抜け落ちてしまっていたが、ラウが気にしていない様子なのでそのままの口調で話す。正直、敬語は無論のこと、令嬢れいじょうらしく話すのも苦手だった。


 給仕と共に大急ぎで駆けつけてきた医師にラウの手当てをたくし、トリアは床に座り込んでいるクローディアへと近付く。


「クローディア、えんを切る前にもう一つだけ言っておく」


 力なくうつむいていたクローディアが、ゆっくりと顔を上げる。


「もし本当にお祖父じい様やお兄様たちに認められたいのならば、今のあなたでは絶対に無理。いえ、今だけじゃなく、この先もずっと無理ね」


「……わたくしが、お姉様のように強くないから?」


 いつもの威勢いせいの良さは皆無だ。弱々しい、の鳴くような声が戻ってくる。


「いいえ、強さは関係ない。自分のことしか考えず、そのためならば他人を傷付けても構わないと考える人間は、ララサバル男爵だんしゃくの人間には相応ふさわしくないからよ」


 すぐ近くにいる父に対しての言葉でもあった。


「話の途中で悪いが、一つ言わせてもらいたいことがある。私は身内には優しい。当然、未来の妻となる女性の家族ならば、私の身内になるだろう」


 トリアのとなりに並んだラウは、クローディアへ、そして愛娘まなむすめかこむ両親へと話しかける。背後であわてている医師の様子を見れば、手当ての途中であることは明白だ。


(この人、何でこんなに怪我けがに対して無頓着むとんちゃくなのかしら……)


 怪訝けげん眼差まなざしを向けるトリアには気付かず、ラウはかすかにくちびるり上げる。


「私が暗殺者あんさつしゃねらわれる身であり、そのためにこの場にいた者を危険にさらしたことは謝罪しよう。が、給仕に化けた襲撃者しゅうげきしゃ易々やすやす侵入しんにゅうされ、加えてこのようなさわぎが起きるとは、失礼ながらこの晩餐会ばんさんかい警備けいびは穴だらけのようだ」


 言葉はおだやかだった。声をあららげることもなく、表情にもいかりの色はない。


「晩餐会の主催者しゅさいしゃ、また、警備に関わる責任者はたしてどの家の人間だろうか?」


 ララサバル男爵家主催だということはわかっているだろうに、わかっていない振りをする。それはおだやかすぎる態度と合わさって、恐怖心きょうふしんをあおる。

 圧倒的なまでの圧力に最初にくっしたのは、予想通りというべきか、ルシアンだった。


「ぼ、僕は一切関係ない! ヴィットーリアはもちろん、クローディアとの婚約こんやくもなかったことにする! 王家とララサバル男爵家は無関係だ!」


 保身に走ったルシアンに、両親の顔にも、クローディアの顔にも絶望がにじむ。両親や妹のことは好きではないが、ルシアンはそれ以上に大嫌だいきらいだと改めて痛感した。


 ぶつぶつと何事かを言い続けているルシアンを無視し、ラウはやわらかな声音こわねで言う。


「もう一度言おう。私は、身内には優しい」


「ヴィットーリア! 皇帝こうてい陛下へいかからの結婚けっこんの申し出、つつしんでお受けしなさい!」


 ララサバル男爵家の不手際ふてぎわによって、ノエリッシュ王国とキールストラ帝国の間で外交問題が発生するかもしれない。そう考えた父は、迷わず娘を差し出すことを選んだ。

 トリアの口から大きなため息がき出された。


「ということらしいが、君はどうしたい?」


 外堀そとぼりめながらも、表向きはあくまでもトリアの意思を尊重しようとする相手に、もう一度大きなため息をこれみよがしにこぼす。


 家がどうなろうが、王国がどうなろうが、もうトリアにとってはどうでもいい。むしろ両親に関しては、地位も権力もすべて剥奪はくだつされればいいとすら思う。

 だから、考えるまでもなく答えは最初から決まっている。


「わかりました。結婚の申し出を謹んで、かつ、全身全霊ぜんしんぜんれいでお断りいたします」


 まさかの返答に、両親は口が半開きのまぬけな顔をする。周囲の観客たちも唖然あぜんとした面持おももちを浮かべている。そこは受けるところだろう、という声が聞こえてきそうだ。


 ただ一人、ラウだけが面白おもしろそうな顔をしていた。うっすらと口のみをのせる姿から、トリアの答えなど最初からわかっていたのだとうかがえる。


「断る理由を聞いてもいいだろうか?」


「理由は三つ。一つめ、わたしはあなたのことを、あなたはわたしのことを何も知らない。こんな状態で結婚しろと言われても、はいと答えられるはずがありません」


「その通りだ。では、今すぐに結婚しろとは言わない。しばらくは私の婚約者という形で、おたがいのことを知っていくのはどうだろうか?」


 嫌です、と答える代わりに、トリアは先を続ける。


「二つめ、わたしはただのトリアです。家も国も一切関係ない。今さら家のために結婚しろとか、国同士のいざこざを起こさないために結婚しろとか言われても、受け入れられるはずがありません」


「当然の答えだ。しかし、私が欲しいのは君だけだ。無関係な家にも、無関係な国にも、帝国に来たら二度と手出しをさせるつもりはない。帝国内では君の自由を保障ほしょうする」


 ラウは口端くちはに浮かべた微笑びしょう酷薄こくはくなものへ変化させると、「そういえば一つ言い忘れていた」とトリアの両親と妹を見ながら何気ない口調で続ける。


「たとえ身内であろうとも、私の大切なものを傷つける相手には容赦ようしゃするつもりはない」


 呆然ぼうぜんとしていた両親の顔から、ありとあらゆる色が抜け落ちていく。


「三つめ、先に宣言せんげんした通り、わたしは騎士きしになりたいんです。皇帝の婚約者をしているひまは一切ありません」


「騎士……騎士か。では、こうしよう。君には私の婚約者けん騎士になってもらいたい」


 突拍子とっぴょうしもない申し出に、トリアは「はあ?」と思わず声を出してしまう。


「失礼ながら、帝国には騎士という概念がいねんはないのでは?」


「確かにが国には騎士という存在はいない。だが、いないだけであって、いてはいけないというわけではない。知っての通り、私は命を狙われることが多い。君のように強い存在がそばにいてくれれば安心できる」


 騎士になって欲しい、という言葉に一切の魅力みりょくを感じないと言えばうそになる。しかし、騎士の立場にはもれなく婚約がくっついてくる。一長一短、いや、短所の方が大きいか。


「……わたしなんていなくとも、帝国には優秀ゆうしゅうな軍人がたくさんいらっしゃるでしょうし、そもそもあなた自身がお強いのでは?」


 質問に対する答えは、底の見えないつややかな微笑ほほえみだけだった。


「もし仮に我々が結婚しなかった場合でも、帝国で騎士として働いていた、という事実は君にとって確かな実績となる。帝国内での軍事についても知ることができ、決して不利益にはならないだろう」


 何をどう言っても、相手に引く気がないことはよくわかった。トリアがここで延々えんえんと「嫌です」と言い続けても、ラウは絶対に「わかった」と首を縦には振らない。


 どうやらトリアが折れる以外に、円満に収束させられるすべはないらしい。


 この婚約を受け入れても悪いことばかりではない。結婚しない限り、いつでも破棄することができる。事実、トリアは婚約破棄されたばかりだ。


 ――しかも、堂々とキールストラ帝国に足をみ入れることができる。


「……わかりました。少しの間、帝国でお世話になります」


 だれからともなく、深い安堵あんぞの息が吐き出される。


「これから末長くよろしく、私のお嫁さん」


 甘くねっとりとした、けれど、どこか陰鬱いんうつひびきが込められた声と眼差まなざしが向けられる。


「……婚約の条件を三つ出します。一つめ、わたしは今後あなたに敬語は一切使わない」


「構わない。私も夫婦間で堅苦かたくるしいのは好みじゃない」


「二つめ、あなたがわたしの意思をげる言動をした場合、すぐに婚約は破棄する」


「ああ、君の条件はすべて受け入れる」


 ラウはあっさりと条件をむ。一方的な主張の数々に、怒って結婚の申し出を取り下げてくれないだろうか、とも思ったのだが、そう簡単にはいかないらしい。


「最後に、わたしのことはトリアと呼んで。お嫁さんとか、未来の妻とか、それはわたしのことじゃない」


 トリアはかたからかけていたマントをかずし、近くのテーブル上に置く。


「――わたしはトリアよ」


 破れたドレスを着て、かみをボサボサに乱し、化粧けしょうくずれなど気にしない。


 深窓しんそう令嬢れいじょうに別れを告げた今の自分が、本当の自分、トリアだ。


「すべて君の言う通りに、トリア」


 ラウは満足そうな笑みを一つこぼし、もう一度うやうやしい仕草で令嬢とはほど遠いトリアの前でひざまずいた。

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