第一章 深窓の令嬢にさようなら④



 冷えたくちびる生温なまあたたかい吐息といきを手の甲に感じた瞬間しゅんかん。トリアは思わず、


「――うぎゃあっ!」


 と明らかに令嬢れいじょう、いや、女性としてちょっとどうかという悲鳴ひめいを上げてしまった。


「……うぎゃあ?」


「し、失礼いたしました。けん、お、いえいえ、つい驚きで悲鳴が」


 嫌悪感けんおかん、という言葉をあわてて飲み込む。ひざまずいたまま小首をかしげる相手に、トリアは飛び出しそうになる右足をおさえつつ、懸命けんめいみを返す。


(……やっぱり、ただの一般人が皇帝こうていり飛ばすのは大問題よね)


 ここは盛大せいだいにときめく場面なのかもしれない。しかし、美丈夫びじょうふとはいえよく知らない相手に突然手の甲へと口付けられたら、トリアは全力で振りほどいて距離きょりかせぎたくなる。

 なけなしの理性を総動員し、どうにか悲鳴を上げるだけにとどめたことをめて欲しい。


 若き皇帝は鷹揚おうような動作で立ち上がる。その手はいまだトリアの手をにぎっていた。


(落ち着け、わたし、ここはまず深呼吸よ……ふう。えーと、この人が二年前に皇帝の座にいたラウ、か。なるほど、それで)


 相手が皇帝ならば、ルシアンの態度にも納得がいく。いくらこの国の第二王子でも、隣国りんごくの皇帝に対して横暴おうぼうな言動は取れない。


 滅多めったに社交の場に出してもらえないトリアが目にするのは初めてだったが、おそらく両親やクローディアは見たことがあったのだろう。いな、この場にいるトリア以外の全員が、彼のことを知っていた。


「君にとって、決して悪い申し出ではないだろう。私はあそこにいる青二才よりは地位も経験もある。言うまでもなく金銭的な面でもおとることはない」


 足元のありを見るような眼差まなざしで、皇帝はこの国の王子を射抜いぬく。ルシアンの顔が再びまっていく。その体はぷるぷると小刻こきざみにふるえていた。


 トリアが生まれ育ったノエリッシュ王国は、領土りょうどはやや小さいが、大陸内で重要な位置に存在している。どの国も貿易ぼうえきを行う上で必ず王国を通る、と言われているほどだ。


 商業がさかんで、王国で手に入らないものはない、と豪語ごうごされるほど各国の品々が集まる貿易拠点きょてんとして成り立っている。王国だけで産出される作物や鉱石こうせきすぐれた工芸品も数多い。ルシアンがいくつも身に付けている宝石、『金鉱石きんこうせき』もその一つだ。


 ただし、豊かで恵まれた国だと言われる反面、国境こっきょうかいしている国が非常に多く、過去から現在にかけて領土争いが数多く起きている。


 広大な領土を有するキールストラ帝国は、王国の西側に位置する。高い山々にかこまれ、深い森が数多く存在する帝国は、他国に比べて日照時間がかなり短い。そのため「夜の精霊せいれいの国」と呼ばれている。


 王国と帝国は現状では良好な関係をきずいている。だが、長年争っていた過去があった。ゆえに表向きは友好的に振る舞いつつも、常に相手の腹をさぐり合う状態が続いている。


「不自由な生活は絶対にさせない。私にできることならば、君のために何でもしよう」


 皇帝とルシアンは共に十九歳。同じ年齢ねんれいのはずだ。しかし、明らかに両者の間には大きな壁が存在している。


「ですが、わたしは先ほど第二王子から婚約こんやく破棄はきされたばかりで」


「破棄したのだから何の問題もないだろう。私ならば、あの見かけ以上に中身の小さいぼんくらなんかよりも、君の価値を正しく判断できる」


 ぼんくら呼ばわりされたルシアンの顔は、もはや常の美しさはき消え、トリアがなぐった傷跡きずあとも合わさってみにくゆがんでいる。広間のどこからか、失笑しっしょうがもれ聞こえてくる。


「第二王子の妻よりも皇帝の妻、皇妃こうひの方が魅力的みりょくてきじゃないか?」


 ラウが軽く首を傾げると、シャンデリアのかがやきでつやめく黒髪くろかみれ動く。どこか挑発ちょうはつするような音色ねいろ眼差まなざしは、ルシアンだけでなくクローディアの顔も赤黒くめていく。


 トリアは無言でつかまれたうではずそうとする。が、今度は易々やすやすとは外せない。痛みを与えないように配慮はいりょしつつも、げられない程度の強さでにぎられている。


「何が目的ですか?」


「目的? さて、どういう意味だろうか?」


「あなたはわたしのことをヴィットーリア・ララサバルではなく、トリアと呼びました。先の馬鹿ばかみたいな顛末てんまつもすべてご存じでしょう」


 おくすることなく、対等な立場で話そうとするトリアに、ラウのまゆがかすかに上がる。


「わたしはもうララサバル男爵だんしゃくとは無関係。ただの一般人、いえ、そこの馬鹿王子に対する不敬罪ふけいざい暴行罪ぼうこうざい拘束こうそくされる可能性すらある人間です」


 ふっと、ラウの口から吐息といきがもれる。楽しげに口角が上がる。


「わたしと結婚けっこんしたところで何一つとして利がない」


 ララサバル男爵家の令嬢のままだったとしても、利益は一つもない。

 ゆるんだほおを引き締めたラウは、あごに片手を当ててふむと大きくうなずく。


素晴すばらしい、君は私の想像以上だ。自分の頭でちゃんと考えるかしこい女性は、尊敬にあたいする。強いだけでなく、状況を把握はあくし、考える聡明そうめいさもあわせ持つ。こんなにも素晴らしい女性の本質に気付かないとは、ここには頭のからっぽなおろか者しかいないらしい」


 ラウがぐるりと周囲を見渡せば、広間にいる人間のほとんどがぐっと押しだまる。その中でも両親の顔はもはや原型がわからないほど変色し、いびつに変形している。


「わたしの質問に答えてもらえますか?」


「そうだな、君は一目惚ひとめぼれを信じるか?」


「信じません。先に断っておきますが、運命とか前世とかもくそくらえ、ですね」


「命の恩人だから、でもダメか? 自分のために戦う姿に心打たれた、とかは?」


「どちらもダメですね。そんなもので自分の妻、帝国の皇妃となる人間を選ぶんでしたら、わたしにとってはあそこにいるぼんくらと同じです」


 目の前からはっきりとした笑い声が放たれる。口元に手を当てて笑う姿は、耳にしていた数々のうわさとは程遠い。


(……実の父親を殺して皇帝の座を簒奪さんだつした親殺し、首を切り離しても死なない首なし皇帝、身内が死んでも涙一つ流さない冷静沈着れいせいちんちゃく冷酷れいこくな鉄仮面、あとは不老不死の死に戻り皇帝、だったかしら)


 王国内での若き皇帝に対する心証は非常に悪い。彼が即位して間もない頃、青二才とあなどり、国交に関して王国にとって有利な調停を結ぼうとした。しかし、返りちにあって多大な損害そんがいこうむる結果になった件が、きっと大きく関係しているのだろう。


 噂を噂のまま信じるつもりはない。トリア自身が妹によって流された悪意のある噂に長年苦しめられてきたのだから。やれ裏ではか弱い妹をいじめているとか、やれ実際は乱暴らんぼうでわがままで性格が悪いとか。


「はは、手厳てきびしいな。わかった、本当の理由を言おう」


 ラウはみを消すと、息を一つ吐き、重々しい口調で話し出す。


「私には君が必要だから。君でなければ私の妻にはなれないから。それが理由だ」


 まったくもって意味不明だった。

 問い返そうとしたトリアの行動をさえぎるように、ラウは「それに」と低い声で続ける。


「君にも私が必要だろう?」


 トリアの内心をのぞき込むかのごとく、紫の目が細められる。


「私の妻となれば、そこのぼんくらに対する諸々もろもろの罪など気軽に糾弾きゅうだんできなくなるだろう。逆に長年君へ行ってきたいやがらせに対し、帝国が王国をうったえることもできる。手っ取り早く王国を出ることができ、かつ、生活の基盤きばんも手に入る」


 開く途中だった口を固く引き結ぶ。トリアは両目を閉じた。そして、力強く開くと、もはや作り慣れた愛想あいそ笑いを浮かべ、突然の求婚に対する答えをつむぐ。


「皇帝陛下へいか、大変失礼ながら、この度の求婚は――」


「そうだ、子どもは何人欲しい?」


「……は?」


 愛想笑いがぴしりと固まる。


「ああ、すまない。その前にまずは結婚式けっこんしきだな。国に戻ったら、すぐに盛大せいだいな結婚式をげよう。子作りはそのあとだ」


 ぞわっと、握られた手から全身へと鳥肌が広がっていく。


「私は最低でも三人、できれば五人は欲しいと思っているんだが」


「…………」


世継よつぎの問題は早々に解消すべきだろう。計画的に、早い段階から行っていかないと」


 ラウは一人で楽しそうに話し続ける。対するトリアは微笑ほほえんだまま、相手に気付かれないように右足をゆっくりと上げる。


「最初は男の子、いや、女の子でもいいな。君に似れば、とても活発で明るい子になるだろう。ああ、今から楽しみだ」


 いくら絶世の美貌びぼうの持ちぬしでも、人として許容できないことはある。


 振り上げた右足のかかとを、容赦ようしゃなく相手の左足の甲へと振り下ろす。トリアは素足すあしで、ラウは革靴かわぐついているため威力いりょくはほぼない。


 だが、面食らった様子の相手にすきが生まれる。ラウが手の力をゆるめる瞬間しゅんかん見計みはからって、両手の拘束こうそくを振りほどく。そばにあるテーブルからグラスを素早く取り、中に入っていた水を皇帝陛下の顔に向かってぶっかけた。


 息をむ音に混じって、水が床へとしたたり落ちていく音がひびく。皇帝陛下になんてことを、と誰かがつぶやく声が聞こえてくる。


 トリアは勢いよく頭を下げる。


「ご無礼ぶれいを失礼いたしました。ですが、陛下は頭をやすべきかと思いましたので」


 顔を上げたトリアの前で、水をかけられたラウは呆然ぼうぜんとした面持おももちをしている。


「出会ったばかりで婚約もしていない、未婚みこんの女性に対して子作り云々うんぬんの話をなさるのは、たとえ皇帝陛下であろうとも、一人の人間として最低だとわたしは思います」


 黒髪から水が滴り落ち、ほおを伝っていく姿はどこかなまめかしい。水をかぶってなお、美貌びぼうおとろえるどころかより一層いっそうつややかさを増し、色気すらただよっている。


(顔のいい人はすごく得だな……って、そんなことを考えている場合じゃなかった)


 第二王子に暴言と暴行を加えた挙句あげく、隣国の皇帝にまで口と手を出してしまった。


(つい頭に血がのぼって、体が動いちゃったな。これは王国だけじゃなく、帝国からも指名手配される事態になりそう)


 冷静に考える前に、反射的はんしゃてきに体が動いてしまう。表面上はずっとねこを被って、おしとやかな令嬢を演じてきた反動かもしれない。だが、間違ったことをしたとは思わない。


 しばしの重い沈黙ちんもくを破ったのは、低くおだやかな声だった。


「ああ、その通りだ。君の言うことが正しい」


 トリアは驚いてラウを見る。そこには想像していたようないかりやさげすみはない。むしろ落ち着いた表情が浮かんでいた。

 だれもが仰天ぎょうてんする中、ラウは当たり前のようにトリアへと謝罪する。


「あまりにもうれしくて、つい先走ってしまった。不快な思いをさせたのならば謝ろう」


 一国の頂点に立つ男が、ただの小娘の言動に頭を下げて謝る。もはや驚嘆きょうたんを通り越して、呆然ぼうぜんとしてしまった。この場にいる全員が目をまばたいている。


 ぽかんと口を開けるトリアの前で、ラウは水を吸った前髪をかき上げると、色気が何割増しにもなった顔に笑みをきざむ。そして、何故かもう一度トリアの両手を握ってくる。


「許して欲しい。君と結婚し、幸せな家庭を作りたいという気持ちが強すぎたようだ」


 まったく心が動かなかった、といえばうそになるだろう。ちょっと、ほんのちょっとだがぐらっとしてしまった。相手に真摯しんしで誠実な部分を感じたからだ。


 とはいえ、トリアに結婚する意思などない。

 もう一度拒絶きょぜつしようとした瞬間。低く、どろどろとした、怨嗟えんさに満ちた声が響き渡る。


「……何でよ」


 声のぬしはクローディアだった。ふらふらと立ち上がったクローディアは、ギラギラとした目でトリアをにらみつける。一歩、また一歩、覚束おぼつかない足取りで近付いてくる。


「どうしていつもあんたの方が認められるのよ! お兄様たちもお祖父じい様も、叔父おじ様だってあんたばっかり可愛かわいがって! わたくしのことなんて全然見てくれなかったのに!」


 悲鳴のような声が放たれる。ここでようやく、トリアは妹の真意に気付いた。


(クローディアが本当に欲しかったのは、兄や祖父そふ、叔父からの愛情と関心だったのね)


 近くのテーブルにあったナイフを乱暴らんぼうに掴むと、クローディアは一直線にトリアに向かって走ってくる。その目は血走り、もはや冷静な思考は残っていない。


 トリアにとっては逆上した妹の攻撃こうげきけ、無力化することは容易たやすい。


 だが、一つだけ誤算ごさんがあった。


 危機ききに対して反射的はんしゃてきに動こうとした体が、意思とは無関係に引き戻される。そこでようやく、ラウに手を掴まれたままだったことを思い出した。


(まずい、この体勢だと……!)


 クローディアはもはやすぐそばまで来ている。腕を振り払っても遅い。かといって今トリアが動けば、間違いなくラウがナイフでされる。


 迷ったのはほんの一瞬、トリアは痛みと衝撃しょうげきそなえて奥歯をみ締める。


(刺されるとしたら右の脇腹。肝臓かんぞうけて、上手うま筋肉きんにく損傷そんしょうおさえられれば)


 武器はテーブルナイフ。刃渡りは短く、切っ先もするどがれたものではない。か弱い妹の腕力わんりょくで、走って勢いがついた分を加味してもそれほど深くは刺さらないだろう。


 こんな男に関わらずとっとと撤退てったいしていれば、余計な事態に巻き込まれずに済んだのに。

 うらみと苛立いらだちを含めた視線をラウに向ければ、面白おもしろそうに口角を上げる姿があった。


 その表情に疑問をいだくよりも早く、クローディアがナイフを突き出し――しかし、トリアの右脇腹に到達する前に、ラウの手がナイフの刃を躊躇ちゅうちょなく握りしめていた。

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