第一章 深窓の令嬢にさようなら③



 最初に目を奪われたのは、大胸筋だいきょうきん上腕二頭筋じょうわんにとうきんだ。


 一目で上質とわかる衣服にかくされてしまっているが、ルシアンのように派手はで無駄むだ装飾そうしょくがない分、布越しでもきたえられていることがうかがえる。


 身長も高く、トリアが相手を若干じゃっかん見上げる形になっている。無駄な肉のないすらりとした体躯たいくは、手足が長く均整きんせいが取れている。


 重なったひとみの色は濃い紫。ほおを流れ落ちるかみは青みを帯びた黒。若干あごが細くとがっているが、高い鼻梁びりょうすずしげな目元、えがく薄いくちびるは圧倒的な美貌びぼうを形作っている。

 としの頃は二十前後か。


(……だれだろう)


 ルシアンがきれいにみがかれて整えられた宝石ならば、長身の美丈夫びじょうふり出されたままの自然な姿で、硬質こうしつかがやきを有する原石だろう。誰もが思わず目を奪われるほど美しいが、顔立ちが整い過ぎているせいか、あるいは瞳の奥に宿る怜悧れいりきらめきのせいか、冷ややかさもあわせ持っている。


 鍛えている者同士だからこそわかるぴんと張り詰めた威圧感いあつかんが、男からかすかにただよっている。身が引き締まる空気は、トリアとっては心地ここちよく感じられた。


(もし次が、いいえ、今度こそ誰かを本当の意味で好きになれるのならば、自分よりも心も体も強い人がいい)


 顔が良ければさらにいいが、人間は顔じゃないとルシアンでいやというほど痛感させられている。使い古された言葉かもしれないが、重要なのは中身だ。


 相手をよくよく観察すると、面差おもざしはどこかノエリッシュ王国の人間とは違うりの深さがある。身につけている衣服とマントも、王国の製品とは若干違う雰囲気ふんいきがあった。


(外国の人? どこかの貴族の賓客ひんかくかしら)


 男の切れ長の眼差まなざしがトリアから背後、いまだ座り込んだままのルシアンとそばにいるクローディアへと向けられる。


「失礼。とても面白おもしろい出し物だったので、つい笑いが」


 馬鹿ばかにされたことを感じ取ったのだろう。ルシアンが口を開きかけ、しかしすぐさまくちびるを固く結ぶ。大きく見開かれた目があからさまにらされる。


 相手が誰なのか理解し、軽率けいそつに言い返すことはできないと判断した様子だった。となりにいるクローディアも、両親も、そして周囲を取り囲む貴族たちも、全員が全員のどの奥になまりめ込まれたかのごとく口を閉ざしている。

 何故か、顔色が急激きゅうげきに青ざめ、具合の悪そうな様子を見せる人間が増えていく。


 静まり返った広間には、重苦しい緊張感きんちょうかんただよっていた。


(……そんなに重要な人物ってこと? 他国の王族か皇族こうぞくとか?)


 男はあわみを浮かべたまま、何かを見極めるように周囲を緩慢かんまんな動きで見渡す。


「外遊の終わりに、ちょうど男爵だんしゃく主催しゅさい晩餐会ばんさんかいが開かれると聞き、後学と消閑しょうかんのために隠れて参加させてもらったが。存外に面白いものが見られた」


「……お見苦しいところをお見せして、申し訳ございません」


 トリアは男に向かって丁寧ていねいに頭を下げる。


さわぎの元凶げんきょうは消えますので、どうぞゆっくりと晩餐会を楽しんでください」


 相手が誰であろうと関係ない。トリアはもうこの国を出ていくのだから。


 靴に手を伸ばそうとするトリアの動きを制し、黒い手袋でおおわれた長い指が代わりに拾い上げる。そして、トリアに向かってうやうやしい仕草で靴を差し出してくる。


「どうぞ。君の新しい門出に幸あらんことを」


 ふわりと、香水とはまた違う香りが男から漂ってくる。夜露よつゆれた瑞々みずみずしい草のにおい。漆黒しっこくの夜の空気を感じさせる香りだった。


「ありがとうございます」


 相手の真意はわからない。ただの親切だろう、と軽く流しておく。


 靴を受け取ろうとしたとき、男の指先にトリアの手がれる。上等な革の手袋で覆われているのに、不思議ふしぎと冷えた指先の感触かんしょくが伝わってきた。同時に、一瞬いっしゅんだけ静電気のようなむずがゆい感触が全身に走る。


 しかし、違和感いわかんはすぐに消えていく。トリアは気のせいだと結論付け、再度男に礼を言って靴を受け取り、この場を離れようとした。


 が、何故かトリアの右手首を、男が素早すばやつかんでいた。強くはない。簡単に振り払える程度の拘束こうそくだが、トリアの手から靴が再び床へと落ちていった。


「あの、手を離していただけますか?」


 じゃないと、実力行使で振り払いますよ、という言葉は喉の奥に留めておく。


「……君は、平気なのか?」


「は? 何を言っているかわかりませんが、今すぐに手を離さないと――」


 抗議こうぎの言葉を続けようとしたトリアは、男の背後、観客の輪から離れた位置であやしい動きをしている人間に気付く。続く言葉を途中で止め、不審ふしんな行動をしている人物をじっと観察する。


 白いシャツに黒のベスト、黒のスラックス。格好かっこうだけ見れば給仕きゅうじ以外の何者でもない。しかし、素早すばやふところから取り出したものを見れば、給仕ではないことは一目瞭然いちもくりょうぜんだ。


 背を向けている貴族たちは元より、トリアを見つめている男も気付いていない。

 トリアは一瞬たりとも悩むことなく、行動を開始する。


「――そこから動かないで」


 男が何か言う前に、掴まれている右の手のひらを大きく開く。そして、手首を回して手のひらを下に向け、一歩相手に向かって踏み込みながら、自分のひじを相手の肘の外側に寄せる形で手を振り払った。男の手は簡単に離れていく。


 トリアはすぐそばのテーブル上にあったサルヴァ、銀製のトレイを手に取る。男の後頭部をおおう形でかかげれば、何かが勢いよくぶつかって金属音が鳴りひびく。


 男の後頭部をねらったものは短刀だ。トリアは小さく息をき、手にしたサルヴァを水平に思い切り投げた。貴族の合間を高速で通り過ぎたサルヴァは、驚愕きょうがくで目をむく相手、短刀を投げた給仕の首へと一直線にぶつかっていく。


 サルヴァは男の首に直撃ちょくげきした。くぐもった声をもらして不審者ふしんしゃが地面に転がると、傍にいた数人の給仕が明らかな敵意を持ってトリアをにらんでくる。


 貴族の女性から甲高かんだかい悲鳴が上がる。それを合図に、給仕の姿をした不審者たちが一斉いっせいにトリアへ、いなおそらくトリアの背後にいる男に向かって突進してくる。


(残りは三人。四人も不審者に侵入しんにゅうされるなんて、どんな警備けいび体制をいたんだか)


 両親に心の中で毒づきながら、トリアは一歩右足をみ出そうとした。けれど、踏み出す前にドレスに手を伸ばす。そして、足首辺りまで入っていたスリット部分を一気に引きいた。


 ぎょっとした様子で周囲の人々が瞠目どうもくする。周囲の反応を無視して、太腿ふとももまでドレスを一気に引き裂いたトリアは、裸足はだしの足で床を勢いよくって前方に飛び出す。


「ちょっと肩を貸して」


 長身の男の肩に左手を置く。再び言いようのない不快ふかいな感覚に包まれるが、突っ込んでくる相手に意識を向ければすぐさま消えてしまう。


 トリアは男の肩を支点に、向かってくる不審者、最も体格のいい相手へと右足で回し蹴りを放つ。ドレスがひるがえって、むき出しの太腿があらわになっても気にしない。


 ただ一箇所いっかしょだけを狙った一撃いちげきは、思惑おもわく通りかかとが相手のこめかみへと炸裂さくれつする。無手でおそってきた不審者は、脳震盪のうしんとうを起こしたようだ。その場にくずれ落ちていく。


 息を吐く間もなく、男の肩から手を離したトリアは、先ほどサルヴァを取ったテーブルから今度はナイフとフォークを拝借はいしゃくする。両手に持ったナイフとフォークを十字の形に重ねながら振り返れば、不審者の一人が男の背中へと剣を振り下ろすところだった。


(間違いない。狙われているのはこの黒髪くろかみの男性だ)


 シャンデリアのかがやきをはじいて振り下ろされる一撃を、トリアはナイフとフォークで受け止める。不協和音が響き渡る。


 力比ちからくらべをするつもりは毛頭なかった。一撃をふせげればそれで十分。


 トリアが素早く両手を引き戻せば、押し合うつもりだった相手の体勢が崩れる。その一瞬の隙を見逃みのがすことなく、ナイフを男の肩に向かって投げる。ける男の動きを予測していたトリアは、右手のフォークを男の太腿、太い血管がある場所をけて突き立てた。


 一際ひときわ大きな悲鳴が放たれる。が、それを気に留めているひもはない。最後の一人、同じ年頃とおぼしき同性の不審者が、トリアを狙って短刀で攻撃してくる。


 相手がそれなりの使い手であることは一目瞭然いちもくりょうぜんだ。しかし。


(――この程度では、わたしの敵にはなれない)


 突き出された短刀を左に避け、細い腕を掴む。手首をひねり上げて短刀を落とし、足払いをかけて背中から地面に押し倒す。そして、あばれる相手の頭と腕一本を両足ではさんで締め上げる。頸動脈けいどうみゃくを一気に締めれば、抵抗ていこうはすぐに収まった。


 立ち上がってドレスのすそを払う。異様なほど周囲が静まり返っていることにようやく気付いた。突然の騒動そうどうに対する混乱と恐怖きょうふ、だけが原因ではないことは明らかだ。


 トリアの姿は、もはや令嬢れいじょうとは程遠い。きわどい位置まではだ露出ろしゅつさせたドレス、ボサボサに乱れた髪の毛。化粧けしょうは自分では見えないがひどいことになっているのだろう。


「ヴィットーリア、おま、お前というむすめは、何とはじさらしな……!」


 激昂げきこうした父が乱暴らんぼうな足取りで近付いてくる。その顔はで、血管が浮き出ているのが離れた場所からでも容易よういにわかる。


(父にとって『これ』は恥さらしな行為なわけね)


 決定的なまでに、トリアは父と、いや、今のララサバル男爵家とは相容れない。


 トリアにとって、先の行動も今の姿も恥じるものではない。誰かを守るために行動する。それは本来のララサバル男爵家の人間としても、また騎士きしを目指す人間としても当然の行いだった。


 右手を振り上げた父がトリアまであと一歩というところで、かばうかのごとく黒髪の男が間に割り込んできた。突然の侵入者に父の足は止まり、トリアも相手を見やる。


 少し高い位置にある紫の瞳が、ぐにトリアへとそそがれる。美しい輝きの中には、先ほど聞いた笑い声同様、どこか暗鬱あんうつな光がまたたいているように感じられた。


 男はマントをはずすと、丁寧ていねいな仕草でトリアの肩からかけてくれる。むき出しの肩や二の腕に、なめらかな感触かんしょくが伝わってくる。黒地にひかえめな銀の刺繍ししゅうほどこされたマントは、明らかに最上級の代物だ。


「心から礼を言わせてもらう。君は私の命の恩人だ」


 低く落ち着いた声音こわねには、耳にした人間を骨抜きにする甘い熱が宿っている。骨張った手がトリアの両手をこわれ物のように優しくにぎりしめてくる。


 男の手がトリアに触れると、わずかな違和感の後、ひんやりとした冷たさが手から全身へと広がっていく。手袋をしていてもなお、男の手が冷たすぎるせいだろう。

 掴まれた手から男に視線を戻すと、相手の口元に深いみがきざまれる。


 普通の、正しい深窓しんそうの令嬢ならばほおめて、恋の始まりとなるファンファーレを聞き、視界いっぱいのときめきの花を見て、うっとりとした表情を彼に返すのだろう。


 だが、トリアはもう深窓の令嬢ではない。急に親密に接してくる相手に警戒心けいかいしんが高まる。周囲を素早く見渡して脱出だっしゅつ経路を確認してしまう。


「いえ、礼には及びません。あの、そろそろわたしはここを去りたいので――」


「……ああ、やはり、君は耐性があるようだ。君しかいない」


 男がトリアの手を握ったまま優雅ゆうがひざを折る。トリアに対してひざまずき、かつ、深く頭を下げた男の姿に、大勢の息をむ音が発せられる。


「美しく気高く、そして力強い炎の女神のごとき姫君、トリア嬢。どうかこの私、ラウ・ランメルト・キールストラと結婚けっこんして欲しい」


 顔を上げた男、隣国りんごくの若き皇帝こうていは優美な微笑びしょうを浮かべた口を、トリアの手の甲へとゆっくりと落とした。

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