第一章 深窓の令嬢にさようなら②



「今この場で、ヴィットーリアの名前も、ララサバルの家名も捨て、今後は一庶民しょみんのトリアとして生きていくことを宣言せんげんします」


 思い切り右手を振り抜いた格好かっこうでヴィットーリア、いや、心機一転しんきいってん、新しい名へと変更することを決めたトリアは、声高らかに告げる。

 が、さらに続けようとした言葉は、ルシアンによって妨害ぼうがいされることとなった。


 何の心構えもない状態で、かつ、ひょろひょろとしたルシアンがトリアの全身全霊ぜんしんぜんれい一撃いちげきに耐えられるはずもなく、体勢をくずして床に尻餅しりもちをつく。

 と考えていたのだが、どうやらルシアンはトリアの想像以上に軟弱なんじゃくだったらしい。


 くつと共に吹き飛ばされたルシアンは、言葉通りに空中を飛ぶ。受け身を取ることもなくすごい勢いでゴロゴロと床をころがっていく。靴が床に落ちてもなお、転がり続ける。


 あまりにもすごい勢いで転がっていくので、なぐったトリアも、そばにいたクローディアも両親も、そして観客たちも、ゴロゴロしていくルシアンの姿を無言で見守ってしまう。


 ようやく回転が止まったときには、きれいだった白い服はよれよれ、一分のすきもなく整えられていた金髪きんぱつはもしゃもしゃ。弱々しい仕草で上半身を起こしたそのほおには、くっきりと靴で殴られたあとが付いていた。肌が白いのでよく目立つ。


 しばらくの間、だれもが身じろぎ一つしない静寂せいじゃくが続く。


 何とも言えない微妙びみょうな空気がただよう中、ふっと小さな吐息といきが聞こえた気がした。それが笑い声だとトリアが認識にんしきするよりも早く、クローディアがルシアンへとけ寄る。


「ルシアン様! 大丈夫ですか、お怪我けがはございませんか!?」


 クローディアの金切り声を合図に、静かだった場にざわめきが広がっていく。棒立ちになって固まっていた両親も顔をさおめ、あわててルシアンへと走り寄っていく。


「ヴィットーリア! ルシアン王子に何てことを!」


 父が怒声どせいを上げる背後で、ララサバル夫人がまなじりをつり上げている。


「この十年間、わたしは彼からえず言葉による暴力ぼうりょくを受けていました。この程度ですべて水に流してあげようっていうんですから、むしろ生易なまやさしいぐらいです」


 はっきり口答えをしたトリアに、二人は目を丸くする。令嬢れいじょうとして分厚ぶあつねこかぶっていた頃だったら、「申し訳ございません、お父様」とふるえる声で謝っていただろう。


 だが、もう深窓しんそうの令嬢を演じていたヴィットーリアはいない。


 少しやり過ぎたかと思ったものの、見たところルシアンに大きな怪我はない。もしかしたらご自慢じまんの顔が二、三日れ上がるかもしれないが、そのぐらい許容範囲きょようはんいだろう。


 トリアは素足すあしで歩き出す。地面に力なく座り込むルシアンと、すぐそばで背中を支えるようにしゃがんでいるクローディアに近付くと、二人を見下ろす。


 転がり続けたせいか、どこかうつろな様子のルシアンと、いかりをあらわにしたクローディア。二人の顔にさっと恐怖きょうふの色が宿る。それも当然だろう。


 トリアの身長はゆうに百七十をえている。しゃがんだ状態でトリアに見下ろされれば、かなりの威圧感いあつかんを受けるはず。無表情のトリアならばなおのこと。


「最後だからきちんと訂正ていせいさせてもらう。まず、わたしはダンスは得意中の得意よ。下手へたくそなあなたに合わせていたせいで、わたしも下手くそになっていただけ」


 王子にはじをかかせないようにと、トリアが下手だということにされていた。


「それと、わたしが常に愛想あいそ笑いだったのは、あなたの話がいつもつまらなかったせい。わたしの話を聞こうとせず、会う度に自慢じまん話か他人の悪口ばかり」


 トリアが自分のことを話そうとすればいやな顔をして、楽しい話題を振ろうとすればちゃんと聞きもせず「くだらない」と一蹴いっしゅうされる。

 結果、口をつぐみ、無理に微笑ほほえんでいることしかできなくなった。


「わたしが自分の容姿ようしに気をつかっていない、ってところだけは素直すなおに認める。でも、逆にあなたは容姿に気を遣い過ぎでしょう。特に身長を気にし過ぎ」


 ルシアンの顔が一気に赤くなっていく。しかし、まだ言い返すほどの余裕はないらしい。


 トリアがとなりに並ぶことをルシアンは異様にきらっていた。それは一にも二にも、自身の身長が低いことを痛感させられるからだろう。見た目の不釣ふつり合いということだ。


 頑張がんばって靴と髪でっていたようだが、ルシアンは百六十五程度。トリアがヒールをけば、身長差はさらに大きくなる。だから、トリアにはかかとの高い靴を履くことがずっと許されていなかった。


「あなたが本当に気にするべきは内面、器の小ささの方よ」


 低身長であることを馬鹿ばかにするつもりは一切ない。無論、それを気にすることが悪いとも言わない。だが。


「身長を気にするひまがあったら、そのくさった性根しょうねを見直しなさい」


 中身がペラペラで、上辺うわべだけおきれいに取りつくろうところの方がよほど大きな欠点だ。


 憤怒ふんぬ羞恥しゅうちくちびるふるわせるルシアンから、クローディアへと視線を移す。目が合うと、クローディアはきっとまゆをつり上げ、毅然きぜんとした面持おももちで口を開く。


「……お姉様。ご自分の言動がいかに不敬であるかはおわかりですわよね? ルシアン様に暴言ぼうげんき、あろうことか暴力を振るうなど、許されることでは――」


「これが最後になるだろうから、姉として一つ忠告ちゅうこくしておく。その馬鹿ばか王子との婚約こんやく、すぐに取り消した方があなたのためよ」


 まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。出鼻をくじかれる形になったクローディアは「え?」と困惑こんわくの声をもらす。


「あなたはわたしのものを横取りするのが大好きよね。ただ、その『お下がり』だけは絶対におすすめできない」


「……お下がり?」


「ええ、姉の『お古』がよく見えていたんでしょうけど、その男はやめた方がいい」


「……お古」


 クローディアはおさない頃から、服もぬいぐるみも、本も、友人も家庭教師も、何でもかんでもトリアのものを欲しがり、うばい取ってきた。トリアに対するいやがらせ、そして自分の方がすぐれていると主張したかったのだろう。


 ルシアンのこともそうだ。十を過ぎた頃から、あからさまにルシアンとの距離きょりを縮めていった。いつも自分が婚約者のように振る舞っていた。


「あなたにはぴったりの相手よね。見た目だけじゃなく、中身もすごく釣り合いが取れているもの。でも、そいつと結婚けっこんしたら後々必ず後悔こうかいすることになる」


 妹のことが好きか嫌いかと問われれば、好きではない。それでも、最後の最後、姉としてちゃんと忠告しておきたかった。最後だからこそ。


 クローディアの顔がに変色する。忠告したつもりだったのだが、どうやらけなされたと思ったらしい。言い方を間違えた。だが、言い直したところでもう遅いだろう。


(とりあえず姉としてちゃんと忠告はした。これでよしとしよう)


 図星をされて顔をゆがめるルシアン。見下していた姉に馬鹿にされたと思い、わなわなと震えるクローディア。青や赤と、せわしなく顔色を変化させている両親。

 トリアは彼らが何か言うよりも早く、両手をこしに当ててあらためて宣言する。


「とにかく、わたしは本日よりただの一般人のトリアになります。あなた方とは今後一生会わない場所で、一人で生きていきます。どうぞお気になさらず」


「ま、待ちなさい! 一人で生きていくって、これからどうするつもりなんだ!?」


「わたしは騎士きしになります」


 あせる父とは対照的に、トリアはのんびりとした口調で答えを返す。


 生まれ持っての性質もあるのだろうが、それ以上に祖父そふ叔父おじ、他にも素晴すばらしい騎士の姿をずっと間近で見てきた影響えいきょうだろう。気付けば騎士にあこがれ、トリア自身も騎士になることが夢だった。

 しかし、父がそんなトリアの夢を認めることはなかった。


「騎士になるためにこんな国はとっとと出て、一人で好きに生きていきます」


 王国には数は少ないが女性の騎士もいる。ララサバル男爵家でも、過去に女性騎士を何人か輩出はいしゅつしてきた。


(性別は関係なく、頑張がんばれば王国で騎士になれる道もある。だけど)


 家と離縁りえんしたところで、王国内にとどまればララサバルの名前からはのがれられない。干渉かんしょうしてくるやからも多いはずだ。それならば、いっそ王国の外に出た方がいい。


 すぐに騎士として仕官できる場所は見つからないだろう。それならそれで、働きながら武術をきたえ、色々な国を見て回り、一人前の騎士になれるよう努力していけばいい。


 騎士として心から守りたい人を、場所を、国を、これから見つけていきたい。


 だから――好みに合わない靴も、深窓の令嬢の仮面も、もういらない。


 背負っていた重荷はすべて投げ捨てた。言うべきことは言って、やるべきことはやった。もうこんな場所に用はない。


 一度家に戻って、出ていく準備をしよう。家も国も、トリアの方から捨ててやる。


 脱ぎ捨てたままにしておくのは迷惑めいわくなので、飛んでいった靴を回収していこうと歩き出す。と、低い笑い声がひびいてくる。広間が静かな分、さして大きいわけではないのだが非常に目立っていた。


(この声、ついさっき聞こえた笑い声と同じ……)


 正直、笑い声と称していいのかもわからない。笑っているようでいて、笑っていない。嘲笑ちょうしょうや冷笑ともまた違う。玲瓏れいろうな響きの中に、どこか暗鬱あんうつさがにじんでいる。


 不可思議ふかしぎ声音こわねみちびかれ、トリアの視線が声のぬしへと引き寄せられていく。


 そして――低く美しい声の持ち主、一人の男性と視線がかちりと重なった。

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