第一章 深窓の令嬢にさようなら①



「ヴィットーリア・ララサバル、君との婚約こんやく破棄はきする!」


 豪華ごうか絢爛けんらんなシャンデリアがいくつも飾られた天井てんじょうに、高らかな音色ねいろ反響はんきょうする。


 左手をこしに当て、右手の人差し指を突きつけてくる相手。自身の婚約者、いや、元婚約者と言うべきか。とにかく突然婚約破棄を言い渡してきた人物、ルシアン・ノエリッシュ第二王子に、ヴィットーリアはぱちりと大きなまばたきをする。


 え間なく鳴りひびいていた楽団の音楽が止まる。うそ見栄みえり固められた貴族たちの談笑だんしょうも途切れ、にぎやかだった広間に静寂せいじゃくがもたらされる。


 即興劇そっきょうげき鑑賞かんしょうするかのごとく、いつの間にかヴィットーリアとルシアンをかこむように観客の輪が出来上がっていた。


 ヴィットーリアは口元を手でおおいかくすと、ふるえる声を懸命けんめいき出す。


「で、ですが、あの、わたしたちの婚約は、十年も前に結ばれたものです」


 どうして今になって、と続いた声はかすれている。


「我々の婚約は大きな間違いだった。そう、破棄するのが遅すぎたぐらいだ」


 ルシアンは右手でご自慢じまん金髪きんぱつをかき上げる。気障きざったらしい大袈裟おおげさな仕草は、周囲にいる妙齢みょうれいの女性たちからうっとりとした息を吐き出させる。


 シミ一つない顔は端麗たんれいで、目尻めじりの下がった蒼穹色そうきゅういろひとみで見つめられるだけでルシアンのとりこになってしまう、とよく女性たちは口にしている。だが、ヴィットーリアにはまったくわからない。下から見上げられるせいだろうか。


 金の装飾そうしょくがふんだんに付けられた白の正装姿は、よく言えば華奢きゃしゃ、悪く言えば軟弱なんじゃくだが、にじみ出る気品が悪い部分を覆い隠している。高価な指輪や腕輪にはめ込まれた大振りの宝石が、一際ひときわ美しい金色のきらめきを放つ。ノエリッシュ王国において金色を身に付けられるのは王族のみ。禁色きんじきというわけではないが、暗黙あんもくの了解となっている。


 見た目だけで言えば、ルシアンはだれもがうらや完璧かんぺきな王子だろう。


 片やこの即興劇における登場人物の一人、主役級の役割を与えられているはずのヴィットーリアは、濃いブラウンでいろどられた飾り気のないドレスを着ている。装飾品は小さな宝石が付いた首飾り一つ。長い髪はきつく束ねて後頭部で丸くい上げている。


「大きなあやまちを正した今、僕にとって最愛の女性、クローディア・ララサバルとの婚約を発表する。我々は半年後に結婚けっこんすることが決まっている」


 劇が始まってからずっとルシアンの背後にいた人物、レースをふんだんに使った桃色のドレスに、美しい生花で髪を飾ったクローディアがルシアンのとなりに並ぶ。白いほおは髪を飾るバラと同じ色にまり、瞳は熱っぽくうるんでいた。


 微笑ほほえみ合う二人の姿は、まさに物語に出てくる完璧かんぺきな恋人同士といった様相だ。


 二歳下の妹、十六歳になるクローディアは細身で小柄こがら、小動物を彷彿ほうふつとさせる愛らしさを有している。波打つつややかな赤紫色の髪、煌めく大きな緑色の瞳。可愛かわいらしい容姿の中にもどこか色気がただよっているのは、ふっくらとした厚いくちびると、口の右側にある黒いインクを一滴落としたようなホクロのせいだろうか。


 クローディアは姉に対する申し訳なさと、愛する相手との幸せをつかんだ喜びをみしめる複雑な表情でヴィットーリアへと視線をそそぐ。


「ごめんなさい、ヴィットーリアお姉様」


「クローディア、あなた、どうして……?」


「だって、わたくしたちはもうずっと前から深く愛し合っているんですもの」


 クローディアがそっとルシアンのうでれると、ルシアンは甘く溶けるような眼差まなざしをクローディアへと向ける。二人だけの世界に、ヴィットーリアの入る隙間すきまなど皆無かいむだった。


「君との関係は解消されるが、我が王家と騎士きしの名家である君の家、ララサバル男爵だんしゃくとの良好な関係、いや、より強固となるつながりは今後も続いていく。何も心配はいらない」


 ぎゅっと手で押さえた口元から、飲み込めなかった嗚咽おえつがいくつもこぼれ落ちていく。自分を落ち着かせるため静かに息を吐き、視線を足元に落とした。


 うつむいた視界にスカートのすそからのぞ靴先くつさきが入り込んでくる。装飾のないベージュ色の靴は、かかとの部分が低い、いや、高さがほぼない靴だった。ドレス姿のときはもちろん、普段ふだんから平らな靴しかけなかった。履かせてもらえなかった。


「突然の発表でみなを驚かせてしまったことは、心からおびしよう。だが、婚約破棄にいたったのは他でもないヴィットーリア、君に原因があることはわかっているだろう?」


 俯いたままのヴィットーリアへと、いつものごとく嫌味いやみが投げつけられる。


「僕という第二王子の婚約者でありながら、容姿ようしには気をつかわない、ダンスは下手へた面白おもしろい話題の一つも出せず、いつも下手な愛想あいそ笑いばかりする。優しく心の広い僕はずっと君をかばい、成長を見守り続けていた。だが、さすがの僕にも我慢がまんの限界があるんだよ」


 ふうっと、これみよがしにため息が吐き出される。


「妹のクローディアは君とは違い、とても素晴すばらしい女性だ! もっと早く僕はクローディアを選ぶべきだった! ああ、そうだ、なんて無駄むだな時間を使っていたんだ!」


 熱のこもったルシアンの声に、クローディアのずかしげな吐息といきが重なる。


 誰かが始めた拍手はくしゅに別の拍手が加わり、歓声かんせいが周囲を包み込む。

 素晴らしい劇が閉幕へいまくし、総立ちで盛大せいだいな拍手喝采かっさいを贈る人々の中、ヴィットーリアだけが一人取り残されていた。困惑こんわくあきれを押し隠し、冷静に事態の推移すいいを見守る。


(……わたしは、ここでどうするのが正しいのかしら)


 突然の婚約破棄に悲しみ、さめざめと涙を流すべきか。それとも、婚約破棄など認めないと、毅然きぜんとした態度をつらぬくべきか。あるいは、はじをかかされたと顔をめ、この場から走り去るべきか。


深窓しんそう令嬢れいじょうならば、どう行動するのが正しいんだろう)


 最善の行動を考えるヴィットーリアの耳に、悪意に満ちた言葉が突きさってくる。


「そもそも、僕と君とでは何もかもり合いが取れていなかった。そう、中身も見た目もすべてが不釣り合い。天と地ほどの違いがあったということだ!」


 よどみのない自信満々な演説が続く。この場の主役はルシアンで、相手役はクローディア。ヴィットーリアはただの添え物に過ぎない。


「ルシアン王子、この度は誠におめでとうございます!」


「ありがとう、ララサバル夫人。僕はもっと早くに、あなたの助言を聞き入れて婚約者をクローディアに変えるべきだったよ」


 顔を見なくてもその甲高かんだかい声だけで、ララサバル夫人が化粧けしょうりたくった顔に勝ちほこったみを浮かべている光景が鮮明せんめいに想像できる。


 彼女があらかじめこの婚約破棄、そして新たな婚約について知っていたのならば、当然今夜の晩餐会ばんさんかい主催者しゅさいしゃ、ララサバル男爵家の当主も同じ。何も知らなかったのはヴィットーリアだけということだろう。


 顔を上げてララサバル男爵である父の姿を探す。ひたいからやや頭髪とうはつが薄くなり、顔やお腹に贅肉ぜいにくをたくさん付けた父は、満足そうな表情でクローディアたちを見ている。


 ふと、その視線がヴィットーリアに向けられる。


 第二王子の心を射止いとめられなかったことへの失望と呆れ。何年っても騎士にあこがれをいだき続け、完璧な令嬢とはほど遠いむすめに心底愛想がきた、という眼差しを見た瞬間しゅんかん、ヴィットーリアの中で何かがこわれる音が大きく鳴り響く。


 堪忍袋かんにんぶくろや理性の糸が切れた音、あるいはかぶり続けていた仮面が壊れた音のような。


(――いいえ、違う。これは『わたし』をずっとしばり付けていたくさりが切れる音!)


 気付けば、手が離れた口から大きな笑い声が発せられていた。

 明るく清々すがすがしい、楽しそうな声が広間を包み込んでいく。


 本当はずっと笑い出したかった。ルシアンが婚約破棄を言い渡したときから、表面上はどうにか神妙しんみょうな様子をよそおっていたものの、内心では諸手もろてげて大喜びしていた。

 しんと静まり返った場に、ヴィットーリアの笑い声だけが響き渡る。


「ヴィ、ヴィットーリア? 君は急に何をしているんだ?」


 警戒けいかい困惑こんわくをにじませるルシアンの声に、ヴィットーリアは笑い声を止める。そして、顔を強張こわばらせているルシアンへと一歩、また一歩、ぐに近付いていく。

 あと一歩踏み出せばぶつかるという距離で足を止め、ルシアンを笑顔で見下ろす。


「婚約破棄の申し出、つつしんでお受けいたしますわ、ルシアン王子」


 にこやかに、落ち着いた声音こわねで話すヴィットーリアに安心したのか、ルシアンがかたの力を抜く。


「最初に申し上げておきますが、わたしは基本的には暴力ぼうりょく反対です。意味もなく、理不尽りふじんに暴力を振るうことは許されないと思っていますし、代々騎士を輩出はいしゅつしている家の人間として力は正しく使うべきだと考えています」


「僕も暴力には反対だが、何故そんな話をする必要が――」


「ですが、世の中には正当防衛せいとうぼうえいという言葉がありますし、ときには自分や大切な相手を守るために力が必要になることもあります」


 ルシアンの疑問の声をさえぎったヴィットーリアは、浮かべていた笑みを消し去る。


 ヴィットーリアの顔は愛らしいと称される妹とは正反対。りんとした顔立ちにするど眼差まなざしで、無表情だと怖いと言われることもあった。


 だから、できる限り微笑むようにしていた。

 けれど、それももう終わりだ。


「これは暴力じゃない。わたし自身を守るための正当防衛よ」


 ずっと頑張ってきた。合わない靴を無理矢理履かされて、靴ずれが起きても、まめがつぶれて血が流れても、それでも必死に頑張って『深窓の令嬢』の道を歩き続けてきた。


(ルシアンとの婚約は破棄したかったから正直願ってもないことだけど、どうせまた別の新しい婚約者を父が選ぶ。ただ結婚相手が変わるだけ)


 そんなのはもう我慢がまんできない。


 迷うことなく右の靴をぐ。突然おかしな行動を取り始めたヴィットーリアに、ルシアンだけでなく周囲からも当惑とうわくの声が上がる。周りの様子など気にせず、左の靴も脱いで左右の靴を右手に持った。


 裸足はだしで床に立つ。ひんやりとした感触かんしょく心地ここちいい。

 裸足の足ならばどんな靴でも履ける。好きな靴を履いて、好きなところに歩いていける。


 どこへでも、どこまでも、自由に。


 ついでに結い上げていた髪を乱暴らんぼうに振りほどく。炎のようにで気品がない、とルシアンから揶揄やゆされていた髪だが、ヴィットーリア自身はきらいじゃない。


 素足すあしで床をしっかりとみ締め、ルシアンをにらみつける。そして、奥歯をみ、息を深く吸い、素早く上げた右手に渾身こんしんの力を込めてにぎった靴ごと振り下ろす。


 自称じしょう、世界で一番美しいらしいルシアンの顔に向かって。


「わたしはずっと、こんな靴じゃなくてヒールの高い靴を履きたかったのよ!」


 ばっちーんと、派手はで打撃音だげきおんが広間全体にひびき渡った。

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