生まれ変わったら

南サザ

生まれ変わったら

暗い室内。分厚いガラスを通して、青い光がぼんやりとあたりを照らしている。水槽の前に群がる人々は、黒い塊となって、目の前の光景をのぞきこむのに夢中だ。

「お父さん、みてみて!」

K氏の手を振り切った男の子は、さっそく群れの中に加わった。ガラスに両手を押し付け、顔も押し付けんばかりの勢いで、向こう側の世界を凝視している。


「危ないから、急に走り出すなよ」

そう声をかけたが、彼の心はもうすっかり奪われてしまっているようだ。


ため息をついた。


「お父さん、後ろで座ってるからな」

男の子は返事をしなかった。ひざを独特のリズムでかくかくと動かしながら、魚たちの動きを目で追うことしか頭にないらしい。


「ヒロシ!お父さん後ろで座ってるからな!」


ややあってから、息子は一瞬こちらに振り向いた。「はーい」と間延びした返事が返ってくる。やれやれ。

K氏は、壁際に並んだソファに腰かけ、また、ため息をついた。

朝から頭はガンガンし、体中にけだるい嫌な感覚がまとわりついていた。

しわを寄せながら眉間をつまむ。久しぶりの休みも、家族サービスという名の時間外労働に消えていた。とはいえ、これで少しの時間は、育児を任せきりの妻からの小言をもらわずにすむのだ。


ふと歓声が聞こえた。見上げると、目の前を大きな魚が横切っていく。

のっぺりとした平たい顔に、星を散りばめたような白い水玉模様、尾鰭を水を撫ぜるように左右に動かしながらダイナミックに泳いでいく。ジンベイザメだ。


ソファに体を深く預けて、ぼうっと泳ぐのを眺める。サメのくせに、プランクトンを食う温和な性格らしいと知っていても、大水槽を何食わぬ顔で泳ぐ様は、さながら海の王者のようだ。緩やかなカーブを描きながら、優雅に泳ぎ去っていく。


ジンベイザメを眺めながらK氏は思った。

なんとお気楽なやつだ。なんのしがらみもなく、ただゆったりと泳いでいるだけで生きていられるなんて、羨ましい生き物だ。俺たちはあくせく働いて、自分と家族を養うのにやっとだというのに、こいつは立派な家に、食事もついて、掃除もしなくていいときてる。のんびりと水の中をただ泳いで暮らせたら、なんと幸せなことだろう....ああジンベイザメに生まれ変わりたい。



フロアは薄暗く、水槽からの淡い光だけが包み込んでいる。人気の多さのせいか、肌に触れる空気は生暖かい。そのせいかK氏は少し眠くなってきていた。喧騒が遠ざかっていくと共に、意識がだんだん遠のいていく。うとうととする男の目の端には、目の前を横切っていく大きな影がうっすらと映っていた。



目覚めると、K氏は違和感に気づいた。

周りを銀色の魚が泳いでいる。こんなにも近くで魚を見れただろうか。息を吸い込む感覚も、肌に触れる感覚もいつもとなんだか違う。自分の体を見ようとしても、首を回せない。手を動かそうにも、手が短くて届かず、体を撫でることぐらいしかできない。

目と鼻の先をイワシの大群が横切って行く。自分は水槽の中にいるのか?

そう思ったK氏は、なんとか体を動かしてガラスの壁に近づいた。うすぼんやりと自分の姿が浮かび上がる。平たい口に、白い斑点模様の大きな体…なんということだ。自分はジンベイザメになっている!


これは夢なのではないか、そう思ったK氏は何度かガラスに頭をぶつけて、目を覚まそうと試みた。しかし彼が得たのは、鈍い音と頭の痛みだけだった。

どうやら本当に自分はジンベイザメになってしまったらしい。

K氏は混乱したが、おそるおそる辺りを泳ぎ回り始めた。広大だと思っていた水槽は、全長5メートルほどの巨大な体には、少し狭いと感じる。初めて一人暮らしした頃の、アパートの部屋を思い出した。


しばらくすると、水面をたたく音がした。浮き上がってみると飼育員が柄杓をもって待ち構えている。どうやら餌の時間らしい。目の前に餌が放り込まれるのだが、タイミングよく浮き上がって飲み込むのが難しい。放り込まれた餌を、水中に撒き散らしてしまった。やっとのことで、海水ごとオキアミを丸のみして濾しとる。なるほど便利な仕組みだ。食事を終えて下の方へ潜っていくと、水槽の底の方で、数名のダイバーが掃除をしているのが見えた。夢にまで見たワンルーム、食事と掃除付きの豪華な暮らしだ。ゆっくりと尾びれを動かし、水槽を一周しながらK氏は思った。思いがけずこんなことになったが、こうしてのんびり魚として暮らしていくのも悪くないのかもしれぬ。



幾日か経った。いや一週間、もっとかもしれない。もはやK氏には正確な時間の感覚がわからなくなっていた。K氏はジンベイザメとしての生活に慣れ、立ち泳ぎしながら器用に餌を飲み込めるほどになった。

しかし心中も最初とすっかりうって変わっていた。気楽な生活だと思っていたがとんでもない。ジンベイザメの暮らしはそんな甘いものではなかった。鳥のように自由に空を飛ぶように泳げる、と思ったら大間違いだった。ずっと水の中にいてようやく分かったことだが、水とは、人が思っているよりずっと粘り気の強い物質なのだ。顔に押し返してくる圧を感じながら、根気強く、ひれで水を掻きながら進まなければならぬ。まるでねっとりとした蜂蜜の中を泳ぐようである。常に泳ぎ続けなければいけないし、眠るときも泳ぎ続けなければいけないのでは、なおさらである。


この狭い空間を泳ぐのにも苦労した。この目はあまり視力がよくないらしい。視界はどことなくぼんやりしているし、色も不明瞭だ。そのせいで、水槽の壁にぶつからず泳ぐことを習得するまでに、幾度もガラスの壁にしたたかにぶつかり、痛い思いをした。


かといって人より優れた感覚にも辟易した。特に嗅覚である。他の魚が傷を負っているとすぐわかる。水槽のどこにいても生臭いにおいが吻に伝わってくるのだ。聴覚は嗅覚ほど鋭くはないが、低い音がよく聞こえるせいで、どこかの不届き者がガラスをガンガンする音がよく響いた。K氏は何度もやめてくれと叫びだしたくなった。


食事中でさえ、K氏は気を付けなければいけなかった。口が大きいせいで、時々周りの大きな魚も一緒に飲み込んでしまう。そうなったら大変だ。手でつかんで取り除くこともできぬ。げっぷをして吐き出すまで、のどが詰まる嫌な感覚に耐えなければならない。


代わり映えのしない景色の中をひたすら一周しながらK氏は考えた。気安く生まれ変わりたいなどと思うのではなかった。人間には人間の、魚には魚なりの苦労というものがあるのだ。そんなことも分からずに、自分はたいそう軽率であった。ああ、人間に戻りたい。もうこんな生活がたくさんだ。この狭い水槽の中を一生泳いで暮らすなどと考えられぬ。先ほどからずっと同じ景色の中をぐるぐるしている。どこもかしこも、ガラスに囲われている。ずっとこんな場所にいては気がおかしくなりそうだ。ああ、どうか、誰か助けてくれ!


「お父さん、お父さん!」


K氏はハッと目を覚ました。目の前に息子が立っていた。

「お父さん早く行こうよ!イルカショーが始まっちゃうよ!」

思わず自分の手を見た。見慣れた肌色の五本指。辺りを見渡せば、水槽越しに、魚たちを眺める人々で賑わっている。元の世界に戻れた!

「お父さんてば!」

我に返ったK氏は、慌てて立ち上がり息子の手を取った。

「すまんすまん。行こうか」

息子の手を引いて、大水槽の横を通り過ぎようとした。なんとなく水槽は直視できなかった。

あれは夢か、幻覚か、それとも…。

息子は水槽を振り返るとこう言った。

「お父さん、僕生まれ変わったら、あの大きなおさかなになりたいな」

K氏は苦笑した。

「そんなにいいものではないよ…」


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