深きダンジョンの奥底より

ディメンションキャット

1人目

1話 逃亡

 ほの暗い洞窟の中。


 壁面に自生するコケが照らす化け物に俺は思わず後ずさりしそうになる。


 牛の頭、人ならざる膨張を見せる筋肉の鎧、その巨大な体よりも大きな戦斧。 言わずもがな、俺を狙っている化け物はAランクモンスターであるミノタウロスだった。


 絶望的な状況に、俺は舌打ちをする。 勝ち目が無いんじゃない。 生きて帰ることさえ不可能に近い。


 だが、決して目は逸らせない。 Cランクの俺だが目を離した瞬間に、自分が死ぬことぐらいは理解していた。


 ぱらぱら──と、岩の破片がミノタウロスの歩く振動で降ってきた。


 俺がそれに気を取られた刹那、奴が引き摺っていた戦斧が視界から消える。 急ぎ後ずさった足に何かぶつかる。


「──っ!!」


 あ、危なかった……たまたま、後ろにつまずいたから良かったものの、そうじゃなければ……。


 俺の動体視力を遥かに凌ぐ速度で振り下ろされた戦斧は、仰向けに転がる俺の股ギリギリを掠める形で地を割った。


 深く地面に刺さった斧をミノタウロスは軽々と引き抜き、再び俺との距離をじりじりと詰める。


 一方、俺は死の恐怖に腰が抜けてしまった。 立つこともままならず、腕を使って、後ろへ、後ろへ体を運ぶが距離は縮まり続ける。


 自分でも情けなくて、それでも死の恐怖で体は勝手に動く。 そんな哀れな俺を見て、ミノタウロスの顔は意地悪い笑みに歪んだ。




 こんなはずじゃなかった。


 俺は無理をしないスタイルで定評のある冒険者で、Cランクなりにスライム討伐という簡単な依頼を受けたはずだった。

 スライムを五匹、倒すだけ。 そんな依頼だが、俺は念入りにパーティーも組んだ。戦士、魔導師、僧侶が一人ずつ、しかも全員がBランク。


 報酬も美味くないのに集まってくれた心優しい彼らは


───全員死んだ。


 唐突にパーティーの後ろから出現したミノタウロス。 誰よりも早く気付いた戦士の彼は、俺を庇って吹っ飛ばされた。


 突如、宙を舞う彼と彼が撒き散らした血に誰もが唖然とした。 が、モンスターは待ってくれない。次に後ろに居た僧侶の首が転がる。


 愚かな俺はそれでも状況を理解していなかったが、魔導師の彼女は気を取り戻した。


「逃げて!」


 彼女は自分が敵うはずも無いことを理解していただろう。それなのに、俺を逃がす為に魔法を唱え始めた。しかし詠唱の隙は大きい。 戦士が居ないからこそ俺が時間を稼がなければならなかったのに、俺は彼女の叫びに従う脳しか残っていなかった。


 彼女は、壁に叩きつけられた。凄まじい勢いで迫った戦斧はいとも簡単に彼女を潰す。


 命を賭して出来た唯一の隙、ミノタウロスが彼女に気を取られているあいだに、俺は背を向けて全力で逃げた。




 その結果がこのザマだ。


 結局、仲間が命を張って創り出した機会も俺は無駄にして、死にかけている。


 牙を剥き出しに嗤うミノタウロスは、まだ俺を殺そうとしない。反撃もせず逃げ回る俺に対して、狩りから遊びへと切り替えたのだろう。ゆっくりと俺を追い詰めて、いたぶるつもりだ。


 昔、どこかで聞いた話だ。 ミノタウロスは獲物をねぐらに連れて帰り、弄ぶらしい。 例えば四肢をもいだ状態で、他のモンスターの群れに投げ込む。 例えばその仲間を喰らわせる。 例えば他の冒険者をおびき寄せる為のエサにする。などなど、様々な恐ろしい噂がこれでもかという程ある。


 俺は自分の未来を想像して嘆き、それよりも強く絶望を覚えた。


 嫌だ。 死にたくない、こんな筈じゃなかった。


 絶望が産む必死の嘆きが心を支配する。


 でも、第三者はこう言うだろう。


 冒険者とはそういうものなのだ。命懸けの職種、元からわかっていたことだろう? まともな死に方はしないって。 嫌ならもっと生き方があっただろうに、馬鹿なやつだな。


 もっと生き方があった? そんな訳が無いだろう。

 俺に出来ることなんて無かった。 何をやっても俺はダメだ、生きる為には命を懸けるこの仕事しか俺にはできなかった。 俺が差し出せるものなんて命しか無かったんだ。


 気付けば俺の拳は、前方の敵に向いていた。


「くそおぉぉぉ!!」


 尻をついたまま、半分ヤケクソになった俺は奴の目をめがけて砂を投げる。 どうせ死ぬという諦めが死に際に勇気を与えた。 実際のところ、こんなもの奴には微々たるダメージにもならないだろうが、最後の抵抗という名の嫌がらせにはうってつけだ。


 ミノタウロスは歩みを止めて、大きな手で目を擦る。


「はははははははは! 喰らえ! 砂バロイ! 砂ラーン!」


 ミノタウロスが俺のちょっとした反撃に鬱陶しそうにした。それだけで俺は満足した。 俺は調子に乗って砂を投げ続ける。


「砂ガテノ! 砂パータロル!」


 かつては英雄、今は武神として尊敬されているSランク冒険者の名を唱えながら、俺は砂を投げ続ける。


 気休めかもしれないが、心做こころなしか良く効いてる気がする。


「砂ナユン! 砂ジョテール! 砂……あっ」


 だが、直ぐに攻勢の時間は終わった。


 砂を握ろうとした手がスカッと地面を掠め、一気に血の気が引いていく。俺が覚えている英雄の名が尽きるのと同時に、手元の砂も尽きた。


 ミノタウロスはこめかみを──まぁ、牛のこめかみが何処かは分からないが──ぴくぴくと震えさせながら、先程までの狩りを楽しむ目とは天と地ほど違う明確な怒りを込めた眼力で俺を萎縮させる。


「すみませんっしたぁ!!!」


 俺は反射的に謝って、背を向けた。そのまま全速力でダッシュ!


 奴に砂が効いてしまったことで生への諦めを忘れてしまった俺は絶望を忘れ、駆ける。駆け続ける。その先に何があるかを知らぬままに。



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