死人に口なし 霊能探偵ホムラの事件簿
雨足怜
第1話死者は生者に関われない
無数の人が行きかう交差点にて。一人の少年が、その場に立ち尽くしていた。人ごみは明らかに邪魔な彼を避けることなく動き続け、一人の男が、少年へとぶつかり――その体を、すり抜けた。
周囲に存在する無数の人々には、少年の姿は見えてはいなかった。
なぜなら、少年は死んでいたから。
死んでなお、その魂は輪廻に戻ることも消滅することもなく。少年は幽霊としてこの世界を彷徨っていた。
死者は、生者に干渉できず。
生者は、死者に干渉できない。
短いようで長い旅の結果、少年が理解したのはその二つの事実だった。
そして、死んでなおこの世界にとどまっている者はよほど珍しいのか、少年は自分の同胞に会うことはなかった。
誰も自分のことが見えず、触れず、声も聞こえない。
少年もまた、この世に存在するあらゆるものに触れられず、動かせず、言葉も交わせず、当然ながらその存在を認識してもらうこともできなかった。
それなのに、少年はこの世界を、この世界に暮らす人々を視認し、その音を聞くことができた。嗅覚と触覚はないようだったが、それだけあれば十分だった。
けれど、観測されない事実は、長い時を経て少年の心に重くのしかかっていた。
死にながらに、死んでいる――そんなことを、少年は思った。誰にも見られていない自分は、果たしてこの場所に存在するのだろうか。
永遠にも等しい精神的な孤独は、そんな哲学めいたことを少年に考えさせる。
チカチカと、頭上にある電光掲示板が鮮やかなCMを流す。
常世に干渉できないならそれでいいのに、けれどこの世界を見るという形で観測していて、世界にわずかなりとも所属している実感のある少年は、ゆっくりと人の波を無視して歩き始めた。
正しくは、膝から下が存在しないまさしく幽霊と言った姿の少年は、ふわふわと浮きながら多くの人の体をすり抜け、雑踏の中を進んで、そして――
視界の中に、死装束を纏った少年以上に白い何かが、揺れた気がして。
「うお⁉」
そんな小さな驚きに満ちた声が、白の先から聞こえた。
降りしきる夏の日差しの中、真っ白な白衣を着て往来を闊歩していた変人と、少年は目を合わせた。
そう、少年とその男の目は、確かに合っていた。
まさか、僕の声が聞こえるの――少年はパクパクと口を動かして。
その声は、やはり音になることはなく、そして男の耳にだって、届かない。
「よ、よぉ、待ったか?」
少年の奥を見るような視線で男がぎこちなく笑う。片手を上げる男のどこかのっぺりとした言葉は、待ち合わせをしていた誰かを呼ぶもので。周囲の者が、男に異常者を見るような視線を向けて通り過ぎていく。
けれど純真な心を持った少年は、くるりと回るように背後を振り返る。そこには、当然のことながら男へと視線を向けて「遅いよ」などと返す人物の姿などなかった。
何せここは、往来のど真ん中。交差点の真ん中で待ち合わせをする馬鹿な存在などいるはずがなかった。
歩行者信号の独特な電子音が響き始める。
少年が、再び男の方へと視線を向けて。
そこには、脱兎のごとく駆けだした男の背中があった。白衣の裾をたなびかせて走る男の背中は、太陽の光を反射してまばゆく光っていた。
それは、少年の目には導きの光のように見えた。
まって、とそう口を動かして、少年は勢いよくその場から飛び出した。障害物を気にする必要のない少年幽霊と、白衣の男。追いかけっこの勝者など、もはや自明だった。
「はぁ、はぁ、はぁ……クソ、余計な汗をかいた」
たった、数十メートルやそこらの疾走で息切れして肩で息をする男が、ビルの外壁に手を尽きながら呼吸を整える。その周囲を、少年が興味深げに飛び回る。
体力ないねと、視線で訴える少年を、男は額ににじんだ汗を袖で乱雑に拭いながら、走ってないお前がふざけたことを考えてんじゃねぇ、とつぶやいた。
ぱぁ、と少年の顔が輝く。
げぇ、と失敗を悟った男の顔が引きつる。
僕のこと見えているんだよね、やっぱり声は聞こえないの――自分の声が周囲に広がっていく音が聞こえていない少年は、必死に口をパクパクと開閉する。そんな少年を、諦めの混じった暗い瞳で見つめながら、男がぽりぽりと片耳を小指でほじる。
耳から引っこ抜いた指に、ふっ、と息を吹きかける。
汚いなぁ、と飛び上がった少年がその攻撃を回避する。
チ、と舌打ち一つ。
波打った黒髪を乱雑にかきむしる男は、ドン、と灰色のコンクリート外壁に背中を預けて、両腕を組んだ。怒りを宿した三白眼が少年を睨みつける。どういうつもりだ――男が口を開く。
ぱくぱくと口を動かす少年幽霊。男が、眉間に青筋を浮かべる。
クソが、と小さくつぶやいた男が、白衣のポケットに両手を突き刺して歩き始める。その背中を、ふわふわと宙に浮かぶ少年が追う。
自分のことが見えるんだよね、と確認するように。少年は男の横を通り過ぎる人の顔からにょきっと自分の頭部を生やして見せたり、目の前で変顔を披露してみたり、男の腹部に手を突き刺してみたり、ぐるぐると男の周りをまわったりして男の反応を確かめる。
男が、ぴくぴくと眉を痙攣させる。
激怒一歩手前の状況にある男の心を、少年は理解できない。
自分を見てくれる人間の登場に歓喜する少年は、遠慮なく男の周りを飛び続けて、そして。
「だあああああ!目障りなんだよ!」
視界の中でちらちらとこれ見よがしに視線を送りながら宙を舞う少年の行為が限界に達した男が、往来の中で吠える。
少年は、ぽかんと口を開けたまま固まり、そして悲しそうに眉尻を下げた。せっかく出会えた、自分のことを見える男を怒らせてしまったと理解して。
また放浪の旅に出ることになるのかな――あきらめと共に、少年が小さくため息を吐くしぐさをした。
「ほう、よく吠える野良犬がいたもんだな?」
殺気だった声が、男と少年の耳に届く。男が、半透明の体をした、目の前で宙を漂う少年——そのさらに奥にいる刺青の男を、睨む。
現代の希少生物、長いモヒカンを天へと伸ばす男が、いきなり喧嘩を売って来た男にガンをつけていた。
「ああ?威勢がよかったのは最初だけかよ?玉のちいせぇ奴だな。いっそのこと俺がお前のお粗末な奴を踏みつぶしてやるよ。そうすれば少しはまともになるんじゃねぇか?」
ニヤニヤと笑いながら――けれどその瞳に猛烈な怒りを宿した刺青男が、白衣の男の肩をつかむ。頭一つ分ほど体格に差があり、さらにはボディービルダーとレフ板と言うほど体格に差がある白衣の男は、なすすべなく男に肩を抱かれたまま裏路地へと連れていかれた。
少年は、焦った。自分のせいで、自分のことが見える男がボロボロにされてしまうと、焦った。
申し訳なさと、何とかしたいという焦りと、自分は世界に干渉できないという無力感と、幼い心に宿る正義感が、ない交ぜになって少年の心の中で暴れて、そして。
いかなきゃ――何ができるかはわからなくても、男を危険な目に遭わせた自分が助けに行かなきゃと、そう覚悟を決めて少年は暗がりに飛び込んだ。
ぎゃ、ぐぺ、うを――多様な悲鳴が、少年の耳朶を揺らした。
時間がない、もう男はぼろ雑巾のようにされているかもしれない――絶望が少年の心を満たした。心を閉ざし、見えている自分を無視してしまう男の姿を、少年は幻視した。
自分を見てくれる者の喪失を、少年は心から嘆いた。
生者と、死者。互いを隔てる壁が、黒く塗りつぶされて立ちはだかったような気がした。
それでも、絶望に飲まれそうになりながらも、少年はどうか無事であってくれと、曲がり角の先へと身を躍らせて。
「チッ、来やがったのか。お前、生者は死者の為に煩わさるべからず、っつう偉大な言葉を知らんのか。邪魔だ。俺の心労になるからとっとと消えろ」
そこには、ボコボコに殴られて、尻を空に突き出すような体勢で地面に倒れる刺青男と。そんな男の尻に腰を下ろした白衣の男の姿があった。
指に挟まれていた煙草から紫煙が空へと立ち昇っていく。
不味そうに一服を終えた男が、ぐりぐりと男の刺青の上に煙草を押し当てる。
もう巻き込んでくれるんじゃねぇよ――状況的には喧嘩を売った側である男は、
そう刺青男に言い聞かせて、少年を無視するように歩き出した。
待ってよ――慌てたように空を飛んだ少年が、男の目の前に手を広げて立ちはだかる。少年を無視するように男は歩みを遅らせることなくすたすたと進んで、少年の体をすり抜けて広い通りへと歩いていく。
ひょっとしたら自分に触れるかも――そんな淡い期待は、ズタズタに引き裂かれた。
がっくりと肩を落とす少年をあざ笑うように、男が少年の顔に紫煙を吹きかける。
げほごほとむせ返るような動きをする――呼吸をしていない少年は煙草の煙に影響されず、においも感じないため振りだったが――少年を見て、男は腹を抱えて笑い出した。
くくく、と目じりに涙を浮かべて抱腹絶倒する男を見て、少年はいやそうに後ずさりする。少年は、仮面を脱ぎ捨てた男に対して非常に嫌な予感を抱いていた。悪魔のような存在にかかわってしまったという、予感。
考えてみれば、幽霊が見えるという時点で少年の目の前にいる男は異常だった。他の誰にも見ることができない死者を観測することのできる男――少年の脳裏をよぎったのは、死者たちを地獄へと突き落とす「鬼」で。
ふわふわと浮き上がった少年が、男の頭上をくるくると回る。
目の前の男の頭部には角が見えない。
顎に手を当てて不思議そうに首を傾げる少年を見て、お前こそ何してんだ、と男は小さくつぶやいた。
二人の視線が交錯する。
シッシ、と追い払うように手を振った男が、少年に背を向けて歩き出そうとする。
逡巡は、一瞬。男の動きで、彼が自分を地獄に連れていくために現れた人物ではないと判断した少年は、すがるように男へと手を伸ばして――やっぱりその手は、男の腕に触れることはかなわなかった。
そのまま勢い余った少年は、男の体を通り抜け、その腹部から男の進路上へと躍り出る。げぇ、と男がしかめ面で声を上げる。
上目遣いで懇願するように、少年は男を見つめる。
足を止めた男は何も言わない。ただじっと、その虚無のように暗い、漆黒の瞳が少年を見つめていた。
その色は、少年には本当の死の色に見えた。自分を、このおかしな状況から解き放ってくれる救世主だと、自分が真に「死ぬ」ことができるために必要な存在が目の前の男なのだと、少年はそう理解して。
「……ったく、死者からの依頼なんてお断りだぞ。そんな金にならんものをして何になるっつうんだ」
がりがりと黒髪を掻く男が、やっぱり追い払うように少年に手を振る。けれど、少年は動かない。
静寂が、その場に満ちて。
プルルル――鳴り響いたコール音を聞いて、男が少年の存在などなかったかのようにすがすがしい無視を決め込み、スマホを耳に押し当てた。
短い押し問答が行われて――男が電話の向こうの相手に一方的に威圧するように小言を続けていただけだったが――おもむろに視線を上げた男の目と、少年の目があった。
少年が不思議そうに首をかしげる。
男がにやりと頬を吊り上げる。赤い三日月のような唇が、少年にはひどく不気味なもののように思えた。
「……依頼を受けよう。すぐに向かう」
一方的に告げた男が、電話先から響く声をすっぱりと無視して電話を切る。
スマホを白衣のポケットに放り込んだ男は、仕事だ、と少年に告げた。
仕事――つぶやいた少年は、ここでようやく男に自分の言葉が聞こえていないという問題を理解して、わたわたと手足を動かし、言葉の表現を試みる。要は、パントマイムを行った。
自分を指さし、男を指さし、電話をする動作をして、歩くような体勢になる。
男は、少年の動きを理解することなく、ゲラゲラと笑い続けた。
うう、とうめく声が男の背後から響いた。それは、白衣をまとうひょろりとした男にぼこぼこにされた、刺青の男。
やべ、とつぶやいた男は、少年を置き去りにして走り出した。
「……ついてこい、詳細は道中で語ってやる」
一方的に告げた男の背中を追って、少年は飛び出した。
それが、男と少年の出会いと、コンビの始まりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます