第2話 純白の地底湖

 魔力――それは、迷宮の出現とともに色濃く姿を見せた万能エネルギー。森羅万象しんらばんしょうの創造に深くかかわり、世界の根幹を成す存在だと考えられている摩訶不思議。操れれば空想を現実にしてしまえる、とんでもない代物だ。ゆえに、強力であり、危険でもある。凶器になり得るのは言わずもがな、あまりに濃度が高ければ猛毒と変わりなかった。


 八千代の身体をむしばむのは、人類が観測した最大値〝5420〟の魔力濃度を大幅に上回るもの。文字化けしているため、正確な数値は不明であるものの、1万を優に超えていることは確実という十二分に死を予感させるレベル。

 


 ところが、扉の先には、絶望的なまでの〝神秘の極み〟があった――。



 人々が目撃したのは、四方八方へと広がりしであった。重々しい湿気を伴った暖かな風、仄かに漂う硫黄の香り、立ち昇る湯気……これらをかんがみるに、温泉らしい。もちろん、ただの湯水ではないようで、桁外れの魔力が籠っているのか、神聖なる純白の煌めきを放っていた。八千代が浴びた魔力は余波に過ぎなかったのだろう。なにより驚くべきは、厳めしい水音を奏でている無数に形成された滝。延々と続いていると錯覚するほど、まるで果てしないのだ。


 なお、八千代は地底湖の始点、その真上に浮いている岩の土台に立っていた。扉だけがあって、先ほどの廊下に繋がっているとは到底思えない構造である。もっとも、空間的な異常自体、迷宮において珍しくない。数あるわけではないものの、多くの探索者に遭遇する機会はあると言えよう。



:すげぇ……

:なんて言えばいいんだろ……言葉が出ない

@レヴィン教授:もはや数値が完全に表示されなくなっているだと?

:うおおおおおおお! 最高過ぎ! こんなのあるんだ!

:あ~いいですねぇ

:うはすっご! え、魔物は?

:↑落ち着け

 

 コメント欄が視聴者たちの感動に埋め尽くされていく。そんな中、

 

「――ごふっ!」


 突如として、八千代が吐血した。咄嗟に手で抑えるが、受け止めきれず、合間からポタポタと赤が落ちる。かと思えば、充血した目を見開き、片膝を突く。そして、頭を抱えながら喉が締め付けられたような悲鳴を上げ始めた。


@菜の花ちゃんねる!:八千代ちゃん⁉

:あ、これヤバそう

@イーサン・ギブソン:おいおいおい、まさか魔力浸食が重症化しているのか⁉

:こんな急激に悪化するもん⁉

:濃度が高過ぎるんだ。本来なら一刻も早く離れた方がいいんだが……

:本人にそのつもりは微塵もないだろうな

 

 事実、逃げずに鋭い眼光を地底湖へと叩き付けていた。ただし、どこかぼんやりとしていて、瞳孔が大きく開いている。しかも、震えすらなくて、苦悶の声が段々と小さくなっていくのだ。否、出せなくなっているのだろう。素人目からも、危険な状態だ。

 


 それでも――ハッと顔を上げ、折れたナイフを振った。



 すると、甲高い音が鳴って、相棒が砕け散る。勘に従っての行動だったらしく、八千代の顔に浮かんでいるのは、困惑であった。なにが起きたのか把握できていないに違いない。だが、視聴者たちは見た。不意に現れた存在が攻撃した瞬間を、常識から逸脱した化け物の姿を……。


@イーサン・ギブソン:ははは、冗談キツいぜ……! まさかとは思うが、深層の主ってのはみんなこんなものなのか? 本当に、参ったな


 探索者の頂点、イーサン・ギブソンをも恐怖させるのは、不可解な魔物だった。



 それは、白く、透き通った触手だった。胴が太く、先細っていて、下手なビルよりも巨大。真珠のように滑らかな表面はぬらりとした光沢を放ち、うねる度に、水気のある音を振り撒く。――そんなものが見渡す限り、うごめいていた。どこまでも、どこにでも、それはいるのだ。

 


 目撃者一同、悲鳴する。

 

:わ……ぁ

:んだこりゃ⁉

:キーパー、SANチェックいいですか⁉

:この地底湖が魔物、ってこと……?

:ああ、なんと神々しくて、絶望的なのか……涙が出てきた

@菜の花ちゃんねる!:逃げて!


 しかし、人々の切望虚しく、八千代は全く動かない。一点だけを見詰める姿は、もはや死体であった。


 スルリ、スルリ。


 触手に太腿、腹、頭の順で巻き付かれていく。にもかかわらず、焦点はまだ、合っていない。敵を敵と、認識していないのだろう。抵抗もなしに、あるいは力ない動きのために軽々と持ち上げられ、足を浮島から離されていく。


 誰もが確信した。

 


:終わったな、今度こそ

 


 コメント欄に悲観が満ちるとともに、制止の声が流れる。無論、届くはずはなく、ましてや魔物に言葉が通じたためしは一切ない。相手は言わば、凶暴な人喰いの獣。元より、相容れない関係なのである。


 結末は決まっていた。


 ◇


 沈む、沈む、温かな水に包まれて白一色の世界を沈んでいく。


 呼吸ができず、もがき苦しみながらも、八千代は疑問を抱いた。


 ――どうして殺意がない? どうして私は生きている?


 身体を締め付けないで、緩やかな移動速度を心がけるという妙に丁寧な扱いをしてくる触手。異常な濃度を誇る魔力水――魔力が溶けた水――に浸かってもなお、無事でいられる現状。どちらも摩訶不思議ゆえに、理解するのは難しい。


 ただ、分かることもある。成り行きに身を任せるしかない、ということだ。されるがまま引きずり込まれていき……やがて、地に足が着く。途端、八千代を掴んでいた触手は溶けて消えた。



「――」



 酸素はすでに尽き、あとは溺れるのみ。ところが、八千代は抗おうともせず、唖然としていた。目線が向けられているのは、足元。真っ白に濁った水によって、一見すると、なにもない。だが、彼女は確かに見付けたのだ。

 

 端的に言えば――底に人影が横たわっていた。


 ピクリともしない。また、人という確証もない。地底湖はまともな生物が生きていられる環境とは違い、魔物の世界だ。たとえ人がいようと、それは恐らく、化け物の一種である。


 だからと言って、無視を決める八千代ではない。彼女の好奇心は、絶えず沸いている。


「ぐっ……あ」


 苦痛にさいなまれる身体を押して、手を伸ばす。すると、指先が硬い物に触れた。なぞっていけば、薄長い物体だった。八千代の身長半分はあるだろうか。更に、上へと確かめていき、辿り着いた最上部は丸みを帯びており、紐が2本流れに乗っていた。意を決して、おもむろに掴んでみる。手の平に、随分と馴染んだ。

 

 八千代は悟る。


 ――人影に刀が刺さってるんだ。


 好奇心が全てを決める少女の中に、ほんの少しの逡巡しゅんじゅんさえなし。ぶつけるは、残りの命全て。文字通りの全身全霊である。

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