第12話 月下美人
彼にしてみれば、女神かと思った。
「あの……大丈夫?」
恐る恐るといった感じで声をかけてきた彼女は月明かりに照らされ、非現実的な美しさを湛えていた。地面に横たわりながら、思わず見惚れそうになる。同じ学校の制服。顔も知っている。校内で何度か見かけたことがある——というか、中学も同じだった。名前は三船巴。目を引く容姿で、多くのファンがいる。もちろん自分は話したことなどない。
その彼女が、なぜ。もしこれが少年漫画や大衆小説なら、主人公とヒロインの出会いになるのだろう。そんな下らないことを考えさせるほど現実離れした邂逅だった。
「——っう」
すぐには声が出ない。情けない。口の中で血と砂が混じる。本音を言えば、今すぐどこかに行ってほしかった。彼女は優しさや同情から気にかけてくれたのだろう。それも、勇気を振り絞って。それらはしかし、無力すぎる。それで自分の境遇が変わることはありえない。
彼は上体を起こし、その場に座り込む。
「大丈夫」
やっとそれだけ言葉が出た。何の根拠もなく、何の意味も持たない単語。だけど、放っておいてほしくて。その一心で絞り出した。
「でも、ケガしてるよね?」
「……大丈夫だから、どっか行って」
一言だけでは伝わらなかった。今度ははっきり要請を口にする。しかし。
「誰かにやられたんなら、警察とか——」
「どっか行けって言ってんだろァ!」
怒鳴ったつもりが声が裏返ってしまい、迫力は四散する。彼女は怯えて立ち去るどころか、唖然とした後、困惑している。
どこまでもクソだ。自分への嫌悪感が煮えたぎり、同時に敵意も芽生えていく。目の前の女子。整った容姿は可憐と形容するに相応しく、明らかに住む世界が違う。どうせこいつも俺を見下しているんだろう。吐き気がする。薄っぺらい正義感を満たすためだけに心配そうにしている。違うか? いいや違うわけがない。
「ねえ、パンツ見せてよ」
何の脈絡もない要求。ほら、変態がパンツを見せろと言ってるんだ。早くどっか行けよ。
「は? パンツ? 暗くてあんまり見えないよね?」
そういう問題かよ。
「いいから見せて。無理なら早く帰れよブス」
少女は。自分を心配してくれた優しい少女は、哀しい眼をしていた。
「あなた、最低ね」
憐憫の眼差し。その表情に、彼は魅入ってしまう。
「——かわいそう」
彼女は鞄から何かを取り出し、前方に放り投げた。それはふわっと短く宙を泳ぎ、彼の顔面に着地する。これは——。
「それあげる。そこの水道で傷口洗ったほうがいいよ」
ハンカチ? いや、ハンドタオルか。今までに嗅いだことのない、自分には縁のない芳しい匂いがした。
「ちょっとしか使ってないし、そんな汚くないから。濡れたままよりいいでしょ」
「————」
言葉が出ない。優しさには慣れていないから。何と言えばいいのか、分からない。
「じゃあね」
そう言って、彼女は背を向けた。行ってしまう。彼は一瞬、そう思った。……行ってしまう? 早く立ち去ってほしかったんだから、それでよかったはずだ。俺は何を考えている? 本当は行ってほしくなかったとか? もっと構ってほしかったとか? 寂しさを覚えてしまったとか? まさか。
「ははは!」
誰もいない公園で、彼は悲しく嗤う。声を上げて笑ったのなんて、いつぶりだろう。
さようなら女神さま。また来世で会いましょう。俺はもうすぐこの世を去る。だから。
だから、彼は死に場所を探していた。
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