みみなり Ⅱ

阿賀沢 周子

第2話 美耶


 6月の夕暮れだというのに、室内にはまだ暑さが残っていた。美耶は、ソファに起き上がり壁時計を見あげる。夫の太一が帰ってくるまで後30分しかない。

 まだ耳鳴りがしていた。両耳というより頭の芯からキーンという金属音がしていた。

 キッチンに立って、夕食の支度をしようと思ったが、炊飯器から釜を出す時、手が滑って床に落としてしまった。転がる釜のゴロゴロという音を聞いただけで気持ちが萎えてしまった。

「夕べは、耳鳴りのせいで全然眠れなかったから」

 独りごちる。

 美耶は再びソファに横になった。昼間、私は眠ったのだろうか。熟睡感はなく、頭が重くて気持ちが晴れない。

 テレビでも観ようとリモコンを探すと、ソファの背もたれに潜り込んでいた。引っ張っても抜けない。


 チャイムが鳴った。太一が帰宅したのだ。迎えに出る気力もなく、居間の扉を見て待ち受けた。

「ただいま。具合わるいのか。飯は」

「ごめん、太一。夕べも耳鳴りでほとんど寝ていないものだから、今日、昼少しでも眠ろうとしたの。でも一睡もできなくて。夕食の支度もまだなの」

 太一はなにも言わず、上着を脱いでキッチンに立った。ワイシャツの袖をまくり、手を洗って、大鍋に湯を沸かす。

「腹は空いているのか」

 美耶はソファから頭だけ出して太一を見る。

「なんでもいいよ。何作るの」

 太一は返事をしてくれない。冷蔵庫から野菜やらなにやら出している。

 湯が沸くまでの間に、臭いでにんにくと玉ねぎをみじん切りにしているのがわかる。フライパンで炒める音がする。続けてまな板を使い何かを切っているようだ。それをフライパンに入れて再び炒めている。

ケチャップを入れたのか、音が静まり良いにおいが漂う。かき混ぜたようだ。

 匂いに釣られて、美耶はゆっくり起き上がり食卓へ近づく。皺だらけの木綿のワンピースを引っ張って体裁を整える。大きな音でお腹が鳴った。食卓に皿を並べ始めた。

「ねていていいよ」

 太一が手を降ったので、食卓の椅子に腰掛けて、調理の様子を見ているしかなかった。テーブルに温泉の雑誌があった。『買ってきたんだ、連れてってくれるのかな? 耳鳴りにも良さそう』

 太一は沸いた鍋に、塩とパスタを入れる。

9分タイマーを掛け、ふたをして、フライパンの方のガスを止めた。

 食卓に、冷蔵庫からチーズとタバスコと、麦茶を出して置く。麦茶が残り少ないのを見て、ケトルに麦茶のパックを入れて湯を沸かす。無駄のない動きに魅せられる。

 タイマーが鳴った.フライパンのスイッチを再び入れ、手早くゆで湯をお玉いっぱいフライパンに入れかき混ぜる。パスタの湯を切り全部をフライパンに入れて撹拌し、パスタトングで皿へ盛り椅子に腰かけた。

 太一が帰ってきてからこの間30分くらいだろうか。

美耶は、太一の手さばきをうっとりと見つめていた。

「耳鳴りがなかったら、太一にこんなことさせないのに。疲れているのにごめんね」

 太一は誰にともなく、手を合わせ、戴きますといって食べ始めた。

「家の親ともいつも話しているの。太一さんは大事にしてくれているって」

 美耶は結婚当初から耳鳴りやめまいで家事ができないことが多かった。いくつかの病院を受診したが、どこでも異常がないと言われていた。親は心配して、評判が良い医師がいる、と聴くと美耶を連れていったものだ。最近は『太一さんに申し訳がない』というばかりで手をこまねいていた。

「おいしいわ」

 食べている最中ケトルが鳴り、太一は素早く立ってガスを止める。美耶と話すでもなく黙々と食べ続ける。

 美耶はナポリタンを全部たいらげた。

「後片付けはわたしがやるから」

『温泉の話もしたいし』美耶は両手をテーブルについて立ちあがろうとした。

「休んだらいいよ。夜眠れないんだろ」

 太一は、返事を待たず、皿を片付け、朝や昼の食器と一緒に洗い始める。嬉しい言葉だったが仕方なく洗面所へはいり、歯を磨き始めた。

「明日は起きられると思う」

歯ブラシを口から出して太一に向かっていうが、声がもごもごしてしまう。

「いいって」

 太一の口調はいたって物静かだ。美耶は独身の頃は、そこに惹かれたのだったが、今はかえってさみしさを感じる。

「でも、起きられるかも」

 太一は黙って、背広の上着を手にし、居間の横の和室へ入ってしまった。

 太一が、なにも言わず浴室へ行ってシャワーを浴び始めたので、美耶の頭の中の温泉も朝起きも消えてしまった。居間のソファの昼間使っていた枕や、タオルケットを手に取るが、太一の寡黙さそっけなさが気になって手でもんでいるだけだった。。

 明日こそちゃんとしよう、と思うが耳鳴りのことを考えると、耳鳴りはやはり聞こえている。太一が帰ってきてから、今の今まで感じなかったような気がするが、消えるはずがない。こんなに長い間苦しめられているのに。

 太一が浴室から出る音がした。パンパンと布を振る音がする。『きっと下着を洗濯したんだわ。昼に自分の分と一緒に洗うと言ってるのに』

 タオルで頭を拭きながら居間に入ってきた。美耶を見るでもなくリモコンを探し出し、テレビをつけた。

 キッチンへ戻って冷蔵庫からビールを出してきて、ソファにどっしりと座る。そばでタオルケットをたたんでいても、一緒に飲むかとは言ってくれない。

 することがなくなると二階へ引き上げるしかなくなった。タオルケットと枕を抱えて、ゆっくりと二階へ上がった。


     

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