みみなり Ⅰ

阿賀沢 周子

第1話 太一

 6月の夕暮れだというのにまだ暑かった。太一は、電車を降り駅舎を出た。足の裏に、舗道の熱を感じた。そのまま真っ直ぐ家路に着くと、ものの5分で自宅だった。『帰れば…』。

 駅前ロータリーの左手の商店街にある河合書房へ入った。欲しい本があるわけではない。家で妻の美耶がどうしているか想像がついたから、少しでも帰宅を先延ばしにしたかった。

 今朝、太一が起きてから会社へ行くまでの間、2階の美耶の寝室からは物音一つしなかった。


 半年前の結婚式後まもなく、美耶はめまいや耳鳴りがすると寝こむようになった。太一は心配でいくつかの病院を受診させて、様々な診療科で診てもらい検査をしたが、異常はないという結論が出た。

 さじを投げたわけではないが、両方の親とも話し合い、しばらくは静観しょうということになったのが4月のはじめごろだった。

 ある時、美耶はこう言った。『洗濯と掃除はいつものようにできたの。でも夕食の支度をしようとキッチンに立った途端、耳鳴りの大きいのが押し寄せてきて、揚げようと思って出したあった冷凍コロッケが、気がついたら解けてグズグズになっていたの』

 耳鳴りで一晩眠れなかったと一日起きてこなかった日もあった。その夜、帰宅すると一階は真っ暗で、キッチンは菓子パンや弁当屋の食べ残しでちらかっていた。

 太一は、この傾向がはっきりするにつれ、自分がやればいいのだ、と思うようにした。

 近頃は、仕事から帰って家に入ると、美耶はたいがいソファに横になっている。シンクには何がしかの食べ物の残骸や朝からの洗っていない食器の山があり、夕飯の支度と思しきものはない。

 太一は、いつか美耶も家事をできるようになるだろう、こんな状態いつまでも続くはずはない、と自分に言い聞かせながら、疲れていてもキッチンに立つようにしていた。


 昨日も太一が夕食を作った。何でもいいからパワーのわく手作りのものを食べたかったので、駅前のスーパーで買い物をして帰宅した。朝はトーストとインスタントコーヒー。昼間は暑くて食欲がなく、菓子パンとジュースしか口にしていなかったからだ。

 ソーメンと、梅干とおかかが乗った冷奴と、縞ホッケの開きと、だし巻き卵だ。帰宅後30分で作り終わった。ソーメンの薬味にはミョウガと小葱。付けダレは、つゆと胡麻ドレッシングを混ぜてみた。美耶は、おいしいおいしいと喜び、全部食べた。その様子を見ながら太一は我慢の限界が近づいているのを感じていた。


 30分後、なんとなく北海道内の温泉を紹介している雑誌を買い、河合書房を出て自宅へ向かう。玄関灯は点いていた。チャイムを鳴らしても返事がないのはいつものことだが、帰宅したことを知らせるために一応鳴らす。扉の鍵を開ける。

「ただいま。具合がわるいのか。飯は」

 ソファで寝ている美耶に、立て続けに呼び掛けるのもいつものルーティーンだが、最近は棒読みだ。顔は見られたくないから見ない。やはり食べ物の匂いはしていないので、食卓テーブルに雑誌を置き、上着を脱いでキッチンに入った。手を洗って、道々考えていたナポリタンを作り始める。

 料理をするのははまんざら嫌いではない。独り暮らしだった学生のときの自炊経験や飲食店でのアルバイトが今生きていた。冷蔵庫に何があるかも把握していた。いない間に食べていなけれべの話だが。美耶が起きて手伝い始めたのがうるさかった。

「寝ていていいよ」

 シンクに材料を並べていく。パルミジャーノレッジャーノは三年もので、自ら大丸で買ったものだ。コクの深さ、濃い香りが好きだった。パスタは。ケチャップとベーコン、玉ねぎを出す。

 冷やしていた麦茶がなくなりそうだ。『気を利かしてお茶ぐらい作っとけよ』と心のなかで毒づきながら茶葉のパックをケトルに放り込んで沸かす。

 できあがったナポリタンにチーズをすり下ろす。香りが食欲を誘う。

「後片付けは私がやるから」

 食べ終わると美耶が言う。

「休んだらいいよ。夜眠れないんだろ」

 美耶は太一の言葉に、嬉しそうでも悲しそうでもある表情でこくんとうなずいて洗面所へ歯を磨きに行った。『寝てれば…』太一はひと通りの洗い物をしてから一階の和室に入った。

 めまいがひどくなってからは同じベッドに寝ると、太一の動きでマットレスが揺れ、めまいが増長することがあるという。ダブルベッドの下に布団を敷いて寝ていたが、先月から太一は和室を寝室にしている。明日も早いから、朝すぐ出られるように背広や、靴下、ハンカチを出しておく。

 部屋へ入るとき、美耶が洗面所から「明日は起きられると思う」とかなんとか言っていたが、あてには出来ないし、したくもなかった。

 長い時間シャワーを浴びた。ぬるま湯に肩や背中を打たれていると昼の疲れが取れていく。いつか温泉へ行こうと雑誌を買ったわけではないが日帰りもいいかもなと考える。靴下とパンツを手で洗い、洗濯機で絞って干した。

 居間に戻ると、美耶はまだそこにいた。ソファで昼間使っていた枕や毛布を片付けている。

 太一は、黙ってテレビをつけニュース番組にした。冷蔵庫からビールを持ってきてソファに沈む。美耶は枕とタオルケットを抱え二階へ引き上げた。

『耳鳴りって嫌なものよ。わかる? ずーっと聴こえるの、頭の中で。聴いていると音がどんどん大きくなりやる気を奪うの。あんなものこの世になくたっていいのに』前に美耶がそう言って泣いていたことがあった。

 今なら僕にもわかりそうだ。美耶は僕の耳鳴りのようなものになりつつある。

 


 

     

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みみなり Ⅰ 阿賀沢 周子 @asoh

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