治外法権
霜月このは
治外法権
夜明け前、鼻腔を震わせながら雑音を立てる横顔を、眺めていた。
酔い潰れてアルコール臭のする呼気、一日中帽子の下にいた頭髪はボサボサで、かつてはイケメンだとか言われていたらしいそのお顔には、今は暗闇の中でもわかるほど皺が刻まれていて。
ほんの数時間前までカッコよくギターを弾いて歌っていた彼だけど、こうしてみれば、ただの中年のおじさんで。
睡眠不足と心労を抱えたその人は、わたしにとっては、ただの大事な友人だった。
昨夜、音楽仲間である彼と、ライブのあとの打ち上げでたくさんお酒を飲んで、酔って。
まだまだ飲み足りないと言って、共通の友人の家に
後には、お酒が進むにつれて涙脆くなった彼と、そんな彼を慰めて話を聞いていた、お酒の強いわたしだけが、残された。
日頃の心労からひとしきり泣いた後の彼は、消え入りそうな声で、わたしの名前を呼ぶ。ステージネームじゃないほうの、本名のほうで。そんなの、初めてのことで。
呼ばれてつい、そばに寄れば、差し出した手を握られて。わたしの腕ごと強く胸に抱いて、そのまま眠りに落ちた。そのせいでわたしは身動きを取れず、一睡もしないままだ。
だけど、ぜんぶがつらいという彼の、苦しみを受け止める一助になれるなら、そんなことは全然苦にはならない。
たとえ彼が、ほんの1ヶ月前まで片想いをしていた、わたしの想い人であったとしても。
*
ん、と小さく呻きながら、もぞもぞと動く、その愛しい物体は、大きな体を小さく丸める。それはまるで胎児のようで。
思わず可愛いなどと思ってしまったその瞬間に、それはわたしの上に着地した。腕に強くつかまったまま、私の胸に顔を埋める。
定位置を決めたとばかりに、また寝息を立て始めた。
……さすがにこれは、どうみてもアウトだろう。
わたしが彼に告白して、あえなく玉砕してから約1ヶ月。
わたしにはもう、他に恋人がいた。
恋人は、わたしが彼にずっと片想いをしていたことを知っていて、まだ想いを忘れられずにいたわたしに、それでもいいと言ってくれた稀有な存在だ。
だけど、いくらなんでも。
会えない週末の夜に、自分の彼女がこんなことをしているなんて知ったら、どんなに悲しむだろう。いや、それとも怒るだろうか。
まだその辺りのことはわからないけれど、それを考えてもまだなお、わたしはなされるがままになっていた。
…………このまま、時が止まればいいのに。
そんな不届きなことを思ってしまったわたしには、当然、罰が待っていた。
その瞬間、彼は目をぱちりと開き、ハッと起き上がり、混乱したように呟く。
「え…………寝てた…………?」
「はい。とてもよく。…………今、4時です」
そんな受け答えをする。
「びっくりしたでしょ。…………気にすることないですよ」
さっきまで添い寝していた場所をキョロキョロ見渡して、まるで何も覚えていないというような様子で。それはわたしを
だから何も言われないうちに、先回りしてフォローをする。
「たまには甘えるのも、大事ですから。さすがにここでのことは、誰にも言わないし」
ごめん、という言葉だけは、もう聞きたくなかったから。
「…………吸いに行きます?」
「…………うん」
そうして、空気を変えようと外へ出た。そのつもりだった。
薄着で来ていたから、まだ暗い外の世界は肌寒かった。
わたしのタバコを一本分けて、火もつけてあげる。以前もここで、彼のラッキーストライクを2人で吸ったことを思い出す。
きっと彼は気づいていない。
好きな男が変わるたびにタバコの銘柄を変えてばかりのわたしが、まだラキストを吸っていることも、その意味も。
「これ、ずいぶん軽い感じするね」
「そうでもなかったけどな…………あ、でもラキストよりは軽かったね」
友達にもらった、普段とは別のタバコを試しながら、そんな感想を言い合う。
路上で吸いながらまだフラフラしているその背中を、トンと叩いて引き寄せる。危ない。車に轢かれでもしたら困る。
携帯灰皿をシェアして使うたびに、近づく距離に、わたしは気づかないフリをする。
「まだフワフワですね。寝起きだから?」
「…………そうなのかなぁ」
そう言うとわざとらしく、彼はゆらゆら歩きをして見せる。その動きを見ていると、昨夜まだ眠る前に、酔った勢いでたくさん抱きつかれたことをふと思い出す。
そのせいで、愚かなわたしは。
「…………寒いです」
そんな、ことを口走ってしまう。
彼の脇腹を突きながら。
「寒いね」
言うが早いか、彼はわたしの背中を抱いてくれる。
本当に、どうしようもない。昨日の名残で、身体接触をすることのハードルがすっかり下がってしまったのか。
だけど、暖かくて、くせになってしまいそうで。
すごく、こわかったから。
「ああ、まだ酔ってるでしょ」
「そうかも」
そう言って笑い合った。
そうして、なかったことになるはずだった。
部屋に戻ると、冷たい空気の世界から一転して、幸せな暖かさに包まれる。
さっきまで一緒に寝ていた大きなふわふわのクッションが、わたしたちにはすごく魅力的に見えて。
結局2人とも、そこにもたれかかる。
さっきまでと、同じ体勢で。
吐息がかかるほどの至近距離で、こちらを向いた彼と目が合って笑い合った。
「どうしよう」
「何がですか」
「この状況」
「どうしようもないですね」
はぁ、とため息をつかれる。
顔に手を当てて考え込むようにしながら。
だけど、もう片方の手はわたしの腕に触れていた。
「さすがに怒られますかね」
「そりゃ、まずいよね」
そう言いながらも彼は、距離をとる様子はない。そして、わたしも。
「ここは治外法権だから。法は及ばない……」
彼は、そんな言葉まで吐き出す始末で。
「そうですね。…………倫理もないかも」
わたしだって、同罪で。
くだらない言葉のやりとりは、そこまででよかった。
熱い手のひら。指先をそっと触れさせると、長い指に絡め取られる。
ギタリストのくせにろくに手入れもしていない手。
カサカサの皮膚に伸びた爪、だけどそれはただ、温かくて。
それだけで、わたしの心をしっかりと絡め取るには充分だった。
指と指の間でいたずらを繰り返す。
こちらが手のひらを撫でれば、あちらは指先を爪で弄ぶ。
きゅ、と握ってみれば、その倍の力で握り返されて。
強く握られたその手は、震えていた。
…………神様、どうか。
今だけ、この瞬間だけでいいから、見逃してください、と。そんなこと祈りながら。
わたしは、絡めたままのその手の甲に、そっと口付けたのだった。
治外法権 霜月このは @konoha_nov
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