第40話


 翌日、コウタはチャービルの家を目指した。幾度となく通ったその場所へは、迷うことなくたどり着けた。

 今にも朽ちおちそうな、心許ない階段を踏み締め上を目指す。最近はもう少し静かにのぼれていたような気がするが。これまでと同じようにのぼっているつもりでも、踏むたびキィキィとうるさく鳴った。

「おーい」

 路上から声がした。声の主を見る。コウタは、目を見開いた。声の主へ、叫ぶ。

「お久しぶりです!」

「久しぶり? お前に会ったこと、あるか? わからねぇな。忘れちまったかな。俺、けっこう顔覚えんの得意なんだけどな。おかしいなぁ。さすがに脳みそダメになりだしたか? んなことはお前にはどうでもいいな。忘れん坊の老いぼれがお前にひとついいこと教えてやるよ。その建物、すぐにってわけじゃねぇけど、取り壊されるらしいぞ。例の部屋のご加護もおしまいだ。諦めろ。その場所に頼らずに生きていけ」

 声の主は、スタコラと行ってしまいそうだった。

「待って、ください」

 大声を張り、手を伸ばす。

 ギィ、と足元から不吉な音が鳴った。

「にいちゃん。ヘーキか? その階段、にいちゃんくらいの体なら大丈夫だろうけどよ。いつ落ちるかわかんねぇから、気ぃつけろよな」

「あの!」

 港で、と言おうとした。けれど、気づいた。

 ――まだ、この人とは出会っていない。

「ごめんなさい、なんでもないです」

「ははは! 変なにいちゃんだなぁ。そんなに俺の顔に覚えがあるんか? 昔、俺に似たやつに世話にでもなったのか?」

「はい! それで、今度クッキーを渡す約束をして」

「おお、お前がクッキーか。クッキーって顔にゃ見えねぇけどな。それじゃあよ、今度俺にもクッキーくれよ。顔似てんだから、いいだろ?」

 コウタにはわかる。顔が似ているのではない。本人だ。

「わかりました! よく行く場所とか、ありますか?」

「港でよく働いてるよ」

 知っている。聞かなくてもわかる。けれど、本人から聞けたことに意味がある。これで、未来へと続いている道は平坦になった。

「じゃあ、そこに持っていきますね!」

「ははは! 配達してくれるんか。ありがとうな。んでもよ、港に持ってくると、アリンコが寄ってくるぞ?」

 アリンコ、か。それはつまり、腹を空かせた他の作業員のことだろう。

「アリンコさんの分も持っていきます!」

「おうよ! それじゃ、気ぃつけてな」

「はい! また!」

 背中が見えなくなるまで、ずっと見ていた。懐かしい姿が視界から消えると、再び上を見る。

 ふう、と大きく深呼吸をした。

 キィキィとリズムよく音を立てながら、五階を目指す。もう疲労を感じないほどに慣れたはずの、五階までの道のりで息切れをした。時計の針が逆さまに回ったことを、肺の動きで実感する。

 コンコンコココン、とノックをしてみた。返答はない。ドアノブに手をかける。鍵はかかっていないらしい。動きに滑らかさはないが、それは回せた。

「おじゃまします」

 そっと空間に声をかけ、靴を脱ぎ、中に入る。

 見覚えのある、女性らしさのかけらもない部屋。

 無機質な空間。

 照明のスイッチを押してみると、電気が点いた。

 部屋の中を見てみる。ところどころにこれまで見てきた光景とは異なる点があった。いうて、このタイミングでこの部屋には来ていないから、当たり前のことかもしれない。

 冷蔵庫の中には、製菓材料が詰まっていた。この光景には、覚えがある。

 近くに置いてあるゴミ袋には、幾度となく使ったバターの包み紙が見える。その下には、ポストに入れられていたらしい、郵便物やライフラインの明細書が、ガサガサと放られていた。

 何の気なしに、それに手を伸ばす。

 あの世界ではユズであったけれど、自分が本当はコウタであるように。チャービルとてあの世界での名前であると思った。こちらの世界で使っていた、本名はなんだろう。

 ほんの、興味だった。

「あれ……?」

 視界に飛び込んだのは、男っぽい名前だった。伸太郎、という名前は、どうにも彼女の印象と合わない。

 コウタの頭には、クエスチョンマークがいくつも浮かんだ。

 答えが見つからないまま、部屋の探索を続ける。

 チャービルと伸太郎をイコールで繋ぐものはないかと、本棚を見た。卒業アルバムなんかが置いてあれば良かったが、そんなものはなかった。家族やら、友だちとの写真もしかり。

 チャービルが作業をするときに使っていた机も見てみる。備え付けの引き出しを開けると、数冊のアルバムが顔を出した。

 瞬間、ぎゅっと拳を作った。隠しきれない喜びが、恥ずかしそうに顔を出したのだ。

 この様子は、チャービルに見られていたりするのだろうか。

 ふと気になって、コホン、と咳払いをした。これからは、罪悪感なく漁ってやろう。堂々としていた方が、じぃっと見られていたとしても嫌な感じがしないから。

 わずかに指が震えた。一思いに、それを開く。

「わぁ、綺麗!」

 そこには人の顔はなく、ただただ美しい世界が広がっていた。写真が趣味だったのだろうか。

「チャービル、すごいなぁ」

 あえて大きな声で言う。独り言で終わらないことを、願いながら。

 どんどんとめくり、すべての写真に目を通した。

 写真が好きとか、言ってくれればよかったのに。

 これ、私が撮ったの! なんて、見せびらかしていいのに。

 アルバムを引き出しに戻しながら、思考も未来へと戻っていった。それは、なかなか今に帰ってこない。

「そうだ、仕事もしなくちゃいけないんだった。何をすればいいのか、結局よくわかってないけど」

 ――同じ世界で、同じ空気を吸うことはできないのだと、伝える。

 ――ふわりと存在を感じた時。目には見えない心の声が聞こえた時。そんな時に、笑ってほしい。



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