第33話
じっと時を待つ。
ミントの口角が、ゆっくりと上がっていく。
「いいよ。そろそろ連れてきてって、言われてたし」
「やった!」
「タイム。ユズと一緒に行ってくるね。だから、その……ちょっと話、しない?」
緊張感を纏った声だった。
仲違いしているとわかっているだろうに、わざわざ話をしないかと提案するミント。
心のどこか、浅いところで、〝もうここには居られない〟のだと、ユズは思う。
自分たちが拠点にできる場所は限られている。
きっと、ミツバとのやりとりというのも、そんな話なのだ。
たぶん、自分はもうすぐ追い出されて、その先はどこで生きていくかっていう、そういう話なのだ。
妄想の風船は、なかなか割れない。
ただ大きく、薄く、脆く、育つばかり。
もう二度と、タイムに声をかけられない可能性。それがユズに、言葉を吐かせた。
「タイム、行ってくるね!」
相手の声が聞けなくてもいい。ただ、自分が〝何も言わずにここを出た〟と後悔したくなくて、大きく明るい声を出した。
エゴだ。自分のことだけを考えた、欲。
少しだけ、ほんの少しだけ、怒られたかった。
――お前のエゴで話しかけるんじゃねぇよ。
とでも言われたかった。
ささやかな夢が、現実へと変わることはない。
久しぶりに、鏡のような何かを通った。
とぷん、と揺らめく。体に、その波紋に触れた感覚が伝わることはない。
――いつかユズがあっちに戻ったら……二度と通れなくなる扉だよ。
タイムの声が、記憶の引き出しから飛び出した。
ぼーっとしたせいだろう、視界がぼやける。
幾度も瞬きをして、真夜中の闇のような色が動く方を向きながら、ピントを合わせる。
ミツバが、穏やかに微笑んだ。
「やぁ、ユズ。色々な思い出を作ったようだね」
「あ、はい。けっこう楽しく過ごしてます」
「それは良かった」
「あ、あの!」
「ごめんね。今日は先に、ミントとふたりで話をしてもいいかな?」
「はい。すみません。約束したわけでもないのに、ついてきちゃって」
「ううん。それは別にかまわない。そろそろ呼ぼうと思っていたし、その時はミントと一緒に来て欲しかったから。ちょっと予定が早まっただけ。あっちの部屋で待ってて。飲み物とか、お菓子とか。ちょっとだけど、置いてあるから。好きに飲んだり食べたりしながら、待っててくれる?」
「わかりました。じゃあ、ミント。また、あとでね」
「うん。……じゃあね」
指示された部屋に入り、扉を閉める。
途中、隙間から見えたミントの顔は、笑っていた。けれど、目尻から頬に雫が落ち、胸は感情が溢れた時のように、暴発したエネルギーを強引に押さえつけるように、わずかに痙攣していた。
手を、振るべきだったか?
いいや、そんな交際中のカップルのような行為は不要だろう。
膨らみかける後悔を、さまざまな言い訳で誤魔化す。
落ち着きたくて、部屋に用意されていたドリンクボトルに口をつけた。
「あ……」
この世界に来た時に、はじめて飲んだフルーツティー。出会いの記憶が噴き出してくる。あの時は、ドリンクボトルに口をつけることを躊躇したくせに、今は――。
感傷的になる。少しも心は落ち着かない。こうなったらやけ食いしてやる! フルーツティーと共に置かれていたお菓子に手を伸ばす。別に食べたいと思わなかったからだろう、ここへきてから口にすることがなかった煎餅はバリバリとうるさい。音は骨に響き、頭を揺らす。カラフルなグミの粒をつまむ。こういうの、ミントが好きそう。質素な暮らしをしているせいか、食べているところを見たことはないけれど。実は、ミツバの家に来るたびに食べていたりして。もぐもぐと頬張るミントの顔を想像すると、涙が溢れて止まらなくなった。クッキーに手を伸ばす。自分が焼いたものと同じ形をしていたから、てっきり焼いて置いてきたものをチャービルがミツバに差し入れたのだと思った。しかし、それは似て非なるものだった。おそらくは、チャービル自身が焼いたもの。
チャービルが、あのオーブンで、最後に?
異変を感じ取り、体が震えた。
気づいた時には、ここに引きずり込まれていた。帰る術がないからと、諦めて生きてきた。突然の出来事だった。今を受け入れるしかなかった。自分の意思など関係なかった。恐怖に囚われ続けている暇などなかった。
これから、何かが起きる。
何かが起きるだろうことだけがわかっている。自分の意思が尊重されることは絶望的だろう何かが。
その渦にのみ込まれるまでの間、その渦にのみ込まれないと確信に至るまでの間は、ただ、恐怖に纏わりつかれるほかない。
言葉にならない声をあげた。
膝が落ちた。
頭を抱え、うずくまった。
倒してしまったドリンクボトル。
とくとくとこぼれていくフルーツティーが、水たまりを作る。幼児のように泣きじゃくる男が、甘い水面に雫を垂らした。
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