9・ハト
第32話
タイムの態度が、どこか他人行儀になった。
きっかけが「バーカバーカ」であるのは間違いない。
ユズにはあの時自分が何をしてしまったのかが、さっぱりわからなかった。
「タイム、ごめんね」
理由がわからないまま、ただ謝った。けれど、状況は変わらない。
謝罪というものは、罪を認識してからするものだ。自分には、罪の意識が欠落している。だから、言葉は空を切るばかりで、相手の心に届かないのだ。
そう考え、記憶を辿り、その時の互いの心に入り込もうと努力をしたが、どうしても答えに辿り着くことができない。
話しかけることを躊躇した。
そんなユズの気持ちが伝染したのか、話しかけられることもない。
手に入れたらしい最新刊を「読むか?」と差し出されることも、「読ませて」と瞳を輝かせることもない。
壁は向こう側を隠す。
チャービルの部屋へ仕事をしに行くと、珍しくなかなか部屋に入れてもらえなかった。
コンコンコンでも、コンコンコココンでも反応がない。仕方ないので、玄関の前で少し待つ。
風がほんのりとあたたかい。自然の熱ではない。空調機械の排熱が、世界を揺蕩っている。
ドアノブが回り、人が出てきた。チャービル、と声をかけようとしたが、すぐに口をつぐんだ。
知らない女性だった。表情は凍てついて硬い。身なりから老いを感じる。六十代か? いや、疲れ果てて老いて見えるだけの五十代、のような気がしなくもない。
一瞬、目が合った。
ぺこりと頭を下げる。相手の反応はない。もわりとした空気がまとわりついた。それは、彼女が放つ、やつれた優しさだった。細い、傷ついた糸一本で繋ぎ止められた、限界ギリギリの。
女性の背中を見送ると、ユズは再びコンコンコココン、と扉を叩いた。
少し待つと、チャービルが顔を出した。
「あ、ユズ。ごめんね。ちょっと、来客」
「こっちこそごめん。知らなくて、めっちゃドア叩いちゃった」
「ううん。気にしないで。教えてなかったのに配慮してだなんて、そんな無理言わないし」
いつものように、部屋に足を踏み入れる。ふとした違和感。歩みを止めて、ぐるりと見た。
「チャービル、なんか、もの減った?」
「あ、あぁ、うん。片付けしてる」
「そんな片付けがいるような家じゃないっていうか。こういう作業こそ、ぼくに任せてくれたらいいのに。大変じゃなかった?」
「うん。へーき」
まずは掃除をしようとした。変に綺麗な場所が多い。チャービルが片付けをしたからだろうか。
キッチンに入ると、ここでも物が減っていた。クッキーを焼くのに必需品だろう、オーブンまでもがなくなっていた。
掃除を後回しにして、部屋の中の異変を全て探ろうとした。
足の裏に、硬い何かを踏んだ感触。つまみ上げて見てみると、それは何かが割れた破片だった。靴下を履いていたし、そっと探るように歩いていたから怪我をしなかっただけだろう。鋭利な部分もある。
「チャービル、引越しでもするの?」
「ん?」
「オーブンも、ないから」
「ああ、それ、ね。ちょっと調子が悪くなっちゃって。だから、詳しい知り合いに診てもらってるの」
「そっか……。部品交換とか必要だったら厄介だね。ちゃんと、直るといいね」
「うん。あ、そうそう。だから、しばらくクッキー、焼かなくていいから。でも」
チャービルが、そっぽを向いた。話の途中だというのに。これまで、視線をそこまで逃したことなどなかったのに。
「クッキーの焼き方、忘れないでね」
「なんだ、そんなことか」
「そんなこと?」
「いや、なんか『もう忘れて』とでも言われそうな雰囲気だったから。身構えちゃった」
「あはは。ごめんごめん」
「それじゃ、クッキー以外の仕事、やるね」
「うん。今日もよろしくね。ユズ」
帰宅して、驚いた。ミントの髪は、緑一色になっていた。
切ろうとすれば刃こぼれすると言っていた、不思議な髪。
その髪の赤い部分をどうやって無くしたかといえば、彼女の能力を何かに使ったのだということくらい、容易に想像できた。
何に使ったのかは、問わない。自分が知っていいことならばきっと、ミントの方からベラベラと喋ると思った。それに、ここ最近の関係の歪みを考えれば、余計な口出しでしかないだろうとも思った。ミントとの関係まで、揺らいだら嫌だ。だから、髪の毛の話題、それ自体を避けた。
「タイム。ミツバのところに行ってくるね」
「ああ」
ふたりの会話の様子を見れば、すぐにわかる。目に見えてヒビが入っている。
タイムはユズにだけではなく、バーカバーカの一件の時には居なかったミントに対しても、そっけない対応をするようになっていた。
タイムからその理由を聞くことができないのはもちろんのこと、ミントもまた「なんでもないよ」と笑うばかり。
――何が起きているんだろう。
モヤモヤとした感情は、逃走欲へと変わり始める。
居心地が良かったから、こんな運命だっていいと思えた。
居心地が悪くなったら、違う小道を探したくなる。
それが、都合がいいことだとわかっていてもだ。
「ミント、ぼくもミツバのところに行きたい」
「え?」
「だめ、かな?」
ミントの目が泳いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます