第27話
今度は少し強かったのか、それともオーバーなリアクションをとっているだけなのか。チャービルは「いてて」とうめきながら、頭をさする。
「いや、手が出るとかそういうんじゃなくて」
フン、とミントの荒い鼻息。
じとりとした目が、チャービルをとらえる。
チャービルは両手を合わせてペコペコと頭を下げると、ユズに優しく問う。
「じゃなくて、なに?」
「あ、いや、その……。ぼくはその、ユズキさんではないから。ぼくにもし、その人を重ねられていたらって考えると、ちょっと怖いなって。違くなって当たり前っていうか、同じはずはないって思うんだ。でも、ミントがぼくにその人を重ねるのなら、できるだけその人と同じでありたいっていうか、なんていうか。でも、上手くできるはずがなくて、だけど――」
「ミントを幻滅させたくないんだ」
チャービルが微笑みながら言った。
「幻滅、か。うん。そうかもしれない」
「自分という存在で、夢を見ていてほしい、みたいな」
「うん。そう思う。それがミントの心の栄養になるのならって」
ミントの顔を見ると、唇が少し尖っていた。
何か不満を抱いているけれど、吐き出さずに飲み込む気らしい。
「そっか、そっか」
空になった食器を手に、チャービルが立ち上がった。大地を感じるのはいいとして、けれど床に直に座るのは体に負担があったらしい。
いてて、痺れた、とぼそり呟きながら、キッチンへ向かう。
ミントは皿に残っていたものをガツガツと口に押し込んで、すっくと立ち上がった。口いっぱいに食べ物が詰まっているからか、何をつぶやくでもないけれど、どこかロボットのような歩き方を見るに、彼女とて足が痺れたりしているみたいだ。
キッチンからは水が流れる音がする。音の幕の向こうには、ふたりの会話のかけらがある。
ユズはふたりの会話の邪魔をしたくはないからと、食事のスピードを落とした。
温度が空気に近づいていくそれは、美味しいけれども、どこかベタついているような気がした。
帰ると、家にタイムがいた。
最新刊らしい週刊誌をパラパラとめくっている。
チャービルのところで働きだしたり、クッキーを焼いたり。ここのところずっと、変化の波の中にいた。
その影響だろうか。変わらない、かつて見た世界を見ると、なんだかとても安心する。
「タイム、久しぶり。タイムもご飯、誘えばよかったね」
「んー。別にいいよ」
「そう? ねぇ、それ、最新刊?」
「んー。たぶん」
「たぶん?」
行動はいつも通りだけれど、表情には疲れが見えた。タイムの手元を覗き込む。ユズが知っているブルマジの続きがそこにある。
「最新っぽいけど……これ、何話?」
「んー」
これっぽっちもハッキリとしない返答。
ユズは首を傾げた。何かがおかしい。
「こーら、タイム。自分の部屋で眠りなさいよね。ほらほら、しっしっ」
ミントが手をひらひらと振った。タイムはゴニョゴニョと何かを呟いて、とぼとぼと部屋へ消えていった。
「どうしたのかな。調子悪いのかな」
「……ミツバのところに行ってるから、だよ」
「んー? ミツバのところに一緒に行ったことあるけど。その時は普通だったよ」
「その時と今は、違うから」
ミントの顔に、陰がおちた。
自分にはわからない、教えてもらえない何かが動いている。ユズは心の殻を、少しだけ厚くした。
日々を積み重ねて、ただ生きているつもりだった。
運命に導かれて身を置くこととなったこの世界で、多くのことを受け入れた。当初抱いていた困惑は、今ではかわいい思い出のカケラとなりつつある。
戻りたい、と思ったことはあるが、今はもう、このままでいいと思えていた。これはこれで幸せであるから。
だが、ここ最近、皆の顔にちらりと闇色を見るたびに、ユズは不安に囚われるようになった。
自分の意思とは異なる方向へと、時計の針が動き始めているような気がした。
問うたところでのらりくらりとかわされてしまうから、その色が未来にどのような影響をもたらすのかは、さっぱりわからない。
「ねぇ、チャービル」
「んー?」
「チャービルって、どんな仕事をしているの? それって、ぼくには出来ないこと?」
チャービルの動きが、ぴたりと止まった。
言葉を探しているらしい。伏せた目、視線が地を這う。
「ユズには鍵があるんだから。いつかのための仕事をしていればそれでいいんだよ」
「ねぇ、鍵がなんだかちゃんと教えてくれないくせに、鍵があるんだからっていうのは、なんかこう……ずるいよ」
「そうだね。そうかも」
チャービルはそっと立ち上がると、ゆっくりとユズに向かって歩き出した。触れられる距離まで近づくと、頭をポンポンと撫でる。
――姉ちゃんにこんなことされたこと、あるな。遠い遠い、昔のことだけれど。
「ユズにもあるんじゃないかな? 相手がどれだけ知りたがっても、どうしても言えなかったことって。後になって、言ってもよかったって思うこともあるかもしれない。でも、今。今はそれが出来ないの。どうしても」
「うん。ある。そんなこと、ある」
「わかってくれる?」
「ずるいとか言って、ごめん」
「うん」
「でも――」
「わかってる。話せる時が来たら、ちゃんと話すから。私からかどうかは、わからないけど。誰かが、ちゃんと」
不思議な感覚だった。思考がふわふわと浮いた気がした。
「じゃ、仕事に戻るね。ユズはクッキー、焼いておいて」
「ああ、うん」
クッキーを焼くのは、なかなか贅沢な仕事だ。
クッキーなんて、やっぱり焼けているのを買った方が安い気がする。サクホロなクッキーは高いけど、それでも。
冷蔵庫からバターを取り出し、必要な分だけ常温に戻す。紙についている部分もしっかりとこそげ落として使う。ほぐし、砂糖や卵黄、小麦粉と混ぜた後だって、ボールにどうしても残ってしまう油分を除いた全てをオーブンシートの上に移動させた。
体に作業や味が染み込んでいく。
ゆったりと過ぎる時は、いつだってバターの香りがする。
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