6・髪と回顧
第22話
目覚めるたび、チャービルの部屋へ行った。
依頼されるのはほとんどが家事であったし、一通りの家事はミントたちの家で覚えていたのでそつなくこなせた。問題があるのはクッキー作りくらいだ。
時折チャービルが暇を持て余して、クッキー作りを教えがてら他愛のない話をしてくる。それはユズにとっても、いい息抜きだった。
「どうしてクッキーが好きなの?」
「好きに理由っているの?」
「いや、いらない、と思う。けど、なんかあるなら知りたいなって、思った」
バターを練るのもこなれてきた。こうして自分の成長を感じられることは、心の余裕であり、栄養だ。
「私はね、タルトの土台にこだわりがあってね」
「タ……タルト?」
「そ。タルトのクッキー部分。あれがすっごく美味しいお店があるんだ。それで、それを超えたいって思って、クッキーにのめり込んだんだ」
「タルト、かぁ」
「タルトに人生狂わせられたから、タルト嫌いになった?」
「ううん。好きだよ。今でもミントと一緒に食べたあの味、覚えてるし。味がないゼリーがキラキラしてたな、とかも」
「味がないゼリー? ナパージュのことかな」
「わかんない。でも、お菓子に詳しいチャービルが言うなら、きっとそれだね。そのナパなんとかがミントの口に入っていくの、綺麗だなって思ってさ」
「ふーん。そうなんだ。ねぇ……ユズって、ミントのこと、好き?」
クッキーからミントへと舵が切られた。突然のことに驚き、力加減が狂う。タイミング悪く、割ろうとしていた卵が器のなかにぐちゃぐちゃになって落ちた。黄身は崩れ、殻の雨が降っている。
これではチャービルがお気に召すクッキーを焼けそうにない。
「ごめん。貴重な卵を」
「いいよ。そのまま作って」
「だけど……。この前、白身が入ったらサクホロにならないって言ってたじゃないか」
「いいのいいの! 今日のクッキーはユズの味ってことにするから。それに、気になるミントちゃんのことを話題にした私のせい? だし」
このまま作り上げた味を〝自分の味〟にされることに不満はあるが、不都合はない。せめて殻は全て取り除かなければ。ひとつひとつ丁寧に、摘んで取る、を繰り返す。
「いくつかミントへのお土産にするといいよ」
「チャービルがいいって言うなら、そうしようかな」
「ぜひぜひ。ねぇ、ユズ。いつか……」
「ん?」
「いつかお別れの時が来たらさ、クッキー作って、食べて、思い出してよ。ユズがそうしてくれたら、私たち、すごく嬉しい」
「え、なに急にしんみりしてんの?」
「いや、だって……。ユズには鍵が、あるからさ」
最後の一欠片が取れた。よしっ、と小さく喜びを吐き出す。
「鍵っていうけど、それ、何? ぼく、よくわかってないんだよね」
「知らなくていいよ。別に」
チャービルは前髪をいじり始めた。だいぶ伸びてきたそれは、いじりがいがあるらしい。ひたすらにくるくるとねじる。根元までねじると、目尻がはっきり見えた。そこはほんのりと、潤んでいるように見えた。
「髪、伸びたね」
「うん。そう言うユズだって、伸びたよね」
「ああ、まぁ」
「ミントに切ってもらえば?」
「いくらかな」
「ふふふ。そうだなぁ、クッキーで相殺、とか?」
「ミントの技術料、安すぎ」
「えぇ、そうかなぁ?」
「チャービルの髪の毛を見れば、ミントの腕が確かだってこと、わかるよ」
沈黙が降りると、生地を練る音がよく響く。粉を振るうサラサラという音も。それらはゆったりとすぎる時を、優しく彩った。
ミントへのお土産のクッキーは、たったの三枚。それでもミントは飛んで跳ねて喜んだ。早速齧り付くと、「おいひー」と至福の顔。
「そうだ、ぼくの髪の毛を切って欲しいんだけど。その……このクッキーと引きかえっていうか、なんていうか」
もぐもぐと頬張り続けるミントに伝えると、「いいよ、いいよー」と快諾。
しかし、それはクッキーで麻痺した言葉だった。
いざ鋏を手に取ると、ミントの顔には困惑の色が広がっていく。
「なんかやだ」
「なにそれ。さっきは『いいよー』って言ってくれたじゃん」
「だ、だって、美味しかったから、つい……。あのね、あたし、ユズキに髪の毛を切らせてって言ったら、『なんか嫌だ』って逃げられちゃってさ。まあ、そのあと切らせてもらえはしたんだけど。それでね、あたし、『なんか嫌だ』っていうの。なんかわかるなって思ったの。髪の毛を切るとかさ、そういうのって、知らない人にやってほしいっていうか。常連さんとかになってさ、『いつもこの人に切ってもらうんだ』とかはいいの。だけどさ、そこそこ知ってる人とか。そういう人の髪の毛ってさ、切る方は緊張するし、切られる方もドキドキするよね。みんながみんなってわけじゃないけどさ、ほら。人によっては、関係が近いからこそオーダーできないことって、あるじゃん? 本当はもう少し短い方が、とか、長い方が、とか。軽い方が、重い方が、とか。それでさ、いつもは普通にコミュニケーションとれるのに、切る切られるの関係になったら、なんか急に、触れられる距離にいるけど、たしかに関係を隔てる扉ができるの。ハサミを持っている方が、その扉の鍵を持ってる。チョキン、って切ったらさ、髪と一緒に、関係にまでハサミを入れちゃうことがある。それって、怖いなって思う。だから――」
ミントの唇が尖った。
「ぼくは丸坊主にされても文句言わない。ユズだけど、ユズキじゃない。ミントが思う、ぼくに似合う髪型にしてくれない? ミントがどうしてもイヤって言うなら、無理にとは言わないけど」
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