あなた、タバコはお止めになったら?

仲瀬 充

あなた、タバコはお止めになったら?

タバコの箱を捨てたことがきっかけで数億の資産を得ることになった男がいる。

その男の人生を記録するように私はある女性に頼まれた。

その女性から聞き取った話をもとに小説ふうにまとめたのが以下の物語である。

小説ともルポルタージュともつかないつたないものになってしまったけれど。


◇◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


山田和幸は時々両親の墓参りに出かける。

高台にある墓に向かう前ふもとの小店でカップ酒とタバコを買う。

カップ酒は酒好きだった父に供えるためだ。

その日も山田は買ったばかりのタバコの箱の封を切り店先で一服していた。

すると80歳前後と思われる上品な老婆が近寄ってきた。

「あなた、タバコはお止めになったら? 体に毒ですよ」

山田はちょっと驚いた顔をしたが喫いかけのタバコをもみ消した。

「分かりました。ご忠告ありがとうございます」

そして1本抜き出しただけのタバコの箱を軽く握りつぶしてゴミ箱に捨てた。


数週間後、山田が小店でカップ酒を買って出るとこの前の老婆がいた。

「おや、また会いましたね」

「だって私のうちはそこなんですもの」

老婆は小店の真向かいの家を指さした。

「近藤美幸」と表札が出ている。

「そこは近藤病院の院長宅じゃないんですか?」

「ええ、父はとっくに亡くなりましたけど。あなたもこの近くにお住まい?」

「いえ、両親の墓がこのすぐ上の高台にあるんで時々こっちに出て来るんです」

「そうなの。立ち話もなんですからちょっとお寄りにならない?」


家と言うより邸宅と言ったほうがふさわしい立派な家に山田は招き入れられた。

「この前は私、余計なお世話を申し上げて。あなたがタバコをお喫いになるのを何度かお見かけしていたものですからね」

「いえいえ、声をかけてもらってありがたかったです。おふくろに叱られたような気がして、お蔭でタバコを止める決心がつきました」

「よかったわ。あなたが知り合いの人に似てて他人ごととは思えなかったんですの」

「そうだったんですか」

「これからお墓参りでしたわね、お引止めしてしまって。またいつでもお寄りになって」

それ以来、墓参りの時山田は時々近藤美幸みゆき老嬢の家に寄るようになった。

しかし、1年半ほど経つと山田はぱったり寄りつかなくなった。


さらに3か月ほど経ったある日、美幸老嬢は久しぶりに山田を見かけた。

山田は小店の前の灰皿スタンドでタバコを喫っていた。

「山田さん、またタバコを始めたの?」

美幸老嬢は険しい顔で言った。

「もうどうだっていいんです……」

山田は泣き出しそうな顔になりタバコを歯で噛みしめた。

美幸老嬢はとりあえず山田の腕を引いて家に入れた。

山田が老嬢に促されて語ったのは以下のような内容だったという。


・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


※山田和幸による述懐

私は高校卒業後、地元の県警の事務員として採用された。

20代半ばで結婚したところまでは何も問題はなかった。

しかし子供ができなかったこともあって中年になると妻との仲がぎくしゃくしだした。

家にいても面白くない日曜日は両親の墓参りに出かけることにした。

小店でタバコとカップ酒を買って高台にある墓に行く。

墓の水鉢に酒を半分注いで墓の中の親父と酒を酌み交わしたり、街並みを見おろしながらタバコを喫ったりして時を過ごす。

月に1、2度のそんな墓参りの際、高台のふもとの小店の前で声をかけられた。

店の近辺で何度か見かけたことのある老婆だった。

「あなた、タバコはお止めになったら? 体に毒ですよ」

その時私は59歳だったが母に叱られた子供のような気持ちになり、以前から健康のために禁煙を考えていたこともあって老婆の忠告に従った。

一方、妻は私以上に外出が増え、夕食の用意もせず同窓会などに出かけて帰りが夜中になることもあった。

私は妻の浮気を疑ったりもして夫婦仲はいよいよ険悪になった。


翌年、定年退職の年度に入った。

40年余りの現役生活がまもなく終わる。

するとどういうわけか私は変にそわそわし出した。

このまま何事もなく終わるはずはない。

平々凡々と勤め上げた反動なのか、そんな得体のしれない不安に襲われ出した。

年が明けて2月も末になり、事務室内の私の送別会が設けられた。

不安が的中した。

事件が起こったのでなく、私が事件を起こしてしまった。

泥酔しての帰り道、立ち寄ったコンビニでウイスキーの小瓶をポケットに入れた。

店を出て店員に呼び止められたが抵抗したためパトカーがやって来た。

新聞に私の名前が載り、あとひと月で円満退職のはずが諭旨ゆし免職になり依願退職した。

妻は待ってましたとばかりに離婚を求めた。


・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


「それから数か月はバタバタしました。持ち家も退職金も妻に渡して私は家賃の安いアパートに移りました」

アパートの場所を聞くと美幸老嬢は言った。

「ここからそんなに離れておりませんね」

「不思議なんです。墓参りの途中であのみすぼらしいアパートの側を通るたび、将来自分が住むことになる予感がしていました」

山田が越したのは背面が山肌になっていて昼間でも暗い古いアパートだった。

「山肌が崩れて土砂に埋もれてしまえばいい、雨のひどい夜はそんなことばかり考えてしまいます」

「まああなた、自暴自棄になってはいけませんよ」

「私には破滅願望みたいなものがあるんです。事故や事件に巻き込まれて否応なく翻弄されるのを期待するような。結局自分で事件を起こしてそうなりましたが」


山田はふっと自嘲気味の笑いを漏らした。

「近藤さんはお名前どおり美しくて幸福な人生だったのでしょうね」

「私も年齢相応に色々ありましたよ。でも何でそんなことおっしゃるの?」

「名はたいを表すと言いますが近藤さんと違って私は平和や幸福とは縁がなかったものですから」

「あなた、お名前は何とおっしゃるの?」

「和幸といいます」

美幸老嬢はものがのどに詰まったような顔をした。

「それはご両親が姓名判断をしてお付けになったの?」

「いえ、両親には子供がいなかったので私は養子なんです」

美幸老嬢は山田の退出を促すように自分から立ち上がって言った。

「今後何かお困りになることがあったら遠慮なく訪ねていらっしゃい」

山田が玄関を出ると老嬢はすぐにアメリカの兄に電話をした。

案の定、老嬢が産んだ子が貰われた先は山田という姓だった。


・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


※近藤美幸の回想

東京の大学に入って暫くした頃、大学内で県人会の集まりがあった。

その会で私は酒井和男という同級生に一目ぼれした。

彼は工学部、私は医学部で出身高校も違ったけれど私たちはすぐに恋仲になった。

若気の至りというのか、付き合い始めてほどなく彼の子をお腹に宿した。

彼が身寄りのない苦学生だったので私の両親は激怒した。

それでも私は堕胎の勧めには頑として抵抗した。

困り果てた両親は私たちの仲を裂くために私をアメリカのロサンゼルスに留学させた。

当時、ロスの医科大学に通っていた兄のもとに私は預けられた。

ロスで産んだ子供には私と酒井の名前を一字ずつ取って和幸と名付けた。

しかしその子はすぐに両親に取り上げられ、その後の消息は知らされなかった。

その後、私も兄と同じ医科大学を出て内科医になり、以来ずっとロスで過ごした。


アメリカ生活がちょうど50年目になる年、日本の大学に通っていた頃の友人が訪ねて来てくれたことがあった。

その時同窓生名簿を見せてくれたのだが、酒井和男は2年前に67歳で亡くなっていた。

友人は私が酒井和男と交際していたことを知っていたので詳細を教えてくれた。

酒井夫妻は息子夫婦とその一人娘の計5人でドライブをしていて事故に遭い、娘を残して4人とも亡くなった。

酒井にとっては孫娘に当たる酒井沙希は当時3歳で、児童養護施設に引き取られたという。

私はすぐにその施設に国際電話をかけ、それ以降毎月匿名で沙希に送金を続けた。

私の実家は、親の死後、近藤病院を継いだ弟が住んでいた。

その弟が自分の家を建てたのを機に私は去年60年ぶりに帰国して空いた実家に住むことにした。


帰国すると私は酒井沙希がいる施設を訪ねた。

沙希は涙を流してこれまでの恩義に感謝してくれた。

沙希は中学3年生で成績がよく、将来は私と同じく医者になりたいと言う。

それを聞いた私は彼女が高校に入学すると私が所有するマンションに入居させた。

現在高校2年の沙希は心置きなく勉強に専念している。

帰国して沙希に会ったのと前後して、私は家の前の小店に時々立ち寄る60歳前後の男に目がとまった。

店先でタバコを喫うその男は、顔つきがかつての恋人酒井和男にどことなく似ているように見えた。


・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


山田が憔悴した様子で2か月ぶりに美幸宅にやってきた。

「色々お世話になりましたので、今日は一緒にお酒を飲んでいただこうと思いまして」

山田はウイスキーの小瓶をテーブルの上に置いた。

美幸老嬢が氷や水を用意すると山田がぽつりと言った。

「これ、高いんです」

ごく普通の銘柄のウイスキーでしかも小瓶だから高いはずはない。

「そうなんですの?」

「ええ、このウイスキーのお蔭で諭旨免職になって退職金がだいぶ減額されました。これは私が万引きしたのと同じものです」

冗談にしては痛々しい。

「あなた、顔色もよくないし、今日はどうなすったの?」

ただならぬ雰囲気を感じた老嬢が問いただすと最後のお別れに来たとのことだった。

離婚に際して殆どの財産を妻に渡したため、もう食べていくあても気力もないと言う。


確かに、60を過ぎた人間が頭を下げて職を探すのは気が滅入るだろうと美幸老嬢も思う。

「いいお仕事がありますよ。私が所有するマンションで住み込みの管理人をやってくださいな」

恐縮して断ろうとする山田に美幸老嬢は条件を付けた。

「あなたに足長おじさんになっていただきたいのです」

山田は意味が分からずに首をかしげた。

「マンションに酒井沙希という高校2年生の女の子が住んでいます。交通事故で祖父母と両親を一度に亡くした交通遺児です。私は彼女が5歳の時から毎月送金をしていますの。彼女はいまだに私のことをアメリカに住んでいる見ず知らずの親切なおばあさんだと思っています」

「え? 近藤さんはアメリカにいたんですか?」

「一昨年60年ぶりにこちらに帰ってきました。最期は日本で迎えようと思って」

「そうだったんですか」

「さっきのお話の続きですけど、私からの依頼ということでこれからはあなたが直接彼女に生活費を渡してください。そして時々私に彼女の近況報告をして下さい。それが管理人として雇う条件です」

山田は深々と頭を下げた。

「赤の他人で犯罪者の私にまで救いの手を差し伸べていただき、お礼の言葉もありません」


老嬢宅を辞する時、山田は遠慮がちに言った。

「立ち入ったことをお聞きしますが、近藤さんはどうしてそこまで酒井沙希という子の面倒を見ているのですか?」

「彼女は私の初恋の人のお孫さんなのですよ」

山田を送り出した後、美幸老嬢は複雑な気分だった。

2年前に帰国して会った時に話したので、酒井沙希は自分のことは全て知っている。

そのこともそして山田が自分の子であることも老嬢は山田に明かさなかった。


美幸老嬢の所有する賃貸マンションは街の中心部に近いところにある。

山田は月に一度、管理人室に酒井沙希を呼んで生活費を手渡した。

その報告は美幸老嬢が予約する街なかのレストランで行うことが多い。

食事をしながら山田は酒井沙希の近況を報告し、スマホで撮った彼女の写真を見せたりした。


たまには山田の行きつけの店にも行きたいと言うので、山田は美幸老嬢を居酒屋に連れて行った。

老嬢は大衆向けの居酒屋は初めてらしく、珍しがってメニュー表を見た。

いくつかの一品料理を注文しようとした時、二人連れの外国人客が店主ともめだした。

どうやら最初に出された付き出しの代金を取るのはおかしいと怒っているようだ。

英語が分からない店主が困っているのを見かねて美幸老嬢が間に入った。

日本人とは思えない発音だった。

外国人客が納得して店を出ると、店主が山田のテーブルにやってきた。

「助かったよ、山田ちゃん。こちらお姉さん?」

いやいやと山田が首を振ると、美幸老嬢がにっこり笑った。

「山田の母です。いつも息子がお世話になっております」

山田はもちろん冗談だとしか思わなかった。


1年余りが経過し、酒井沙希が高校を卒業して地元の大学に入学した頃、山田を美幸老嬢が訪ねて来た。

「私はもう80を過ぎましたから先のことをお話しておいたほうといいと思いましてね。私にもしものことがあっても沙希ちゃんが大学を卒業して医者になるまでは援助を続けてほしいんですの。そのためにこのマンションの全ての権利をあなたに譲渡します」

山田は驚いてしまった。

1等地に建つこのマンションの資産価値は億の単位になる。

それに毎月入る賃貸料も相当な額に上るはずだ。

「とんでもないことです。生きる希望をなくしていた私を救っていただいただけでもありがたいのにそんなわけにはいきません」

「あなたに最初に声を掛けた時のように、人の忠告は素直に聞くものですよ。あなたがあの時『うるさいな、婆さん』とでも言ってたら私たちはそれきりの関係で終わったはずでしょう? そしてね、まだ話の続きがあります」

山田は居住まいを正した。

「年齢順に言えばお迎えが来るのは私の次にあなたということになりますわね。その時はマンションを沙希ちゃんに譲ってあげてください。そうすれば彼女が将来、開業する時の助けになるでしょう」

酒井沙希への橋渡しだと理解して山田は申し出を受け入れることにした。

美幸老嬢ももう思い残すことはないと思った。

初恋の相手である酒井和男が、酒井沙希、山田和幸、この二人を私に引き合わせてくれたのだろう、そして、あの人との子供からあの人の孫娘へと世代をこえて私の資産が受け継がれていくならこんなに嬉しいことはないと。


◇◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


以上が山田和幸氏にまつわる物語である。

書き終えた今、私は改めて思う。

私への援助といい、独身を貫き通したことといい、美幸おばさまは私の祖父酒井和男を深く深く愛していたのだと。

私はパソコンに入力した物語をプリントアウトしておばさまのお宅に持参した。

「沙希ちゃん、ありがとう。後でゆっくり読ませてもらうわ。私のことを知らないふりして山田さんと毎月会うのは大変だったわね」

私は山田さんの顔を思い浮かべて思わずふきだした。

「どうしたの?」

「すみません、初めて会った時のことを思い出しちゃって。山田さん、すごく真面目な顔で『今日から私が君の足長おじさんです』って言ったんです」

「それがおかしいの?」

「だって山田さん、ずんぐりむっくりで足が短かかったんですもの」


私は笑いをおさめて言った。

「その原稿ですけど、パソコンのデータは削除しました。おばさまはどうなさるんですか?」

「私の大事な秘密の物語だもの、お墓の中に持って行くわ」

そう言うと美幸おばさまは原稿を胸に抱いてフフッと少女のように笑った。

そのいたずらっぽい笑いで私は自分が書いた物語の意味を悟った。

悲しいことではあるけれど、おばさまも山田さんもいずれ亡くなる日が来る。

おばさまは天国で私が書いた物語を山田さんに読ませて驚かせるつもりなのだ。

そして、現世のしがらみのない世界で私の祖父も交えて親子3人の対面を果たした時、おばさまの初恋は完結するのだろう。

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あなた、タバコはお止めになったら? 仲瀬 充 @imutake73

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