第一章 森の村『グリーン・ノーム』 2
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時間は二ヵ月程前に遡る。
この世界には二つの月によって照らされている。
人間界を照らす光の月。
そして魔界を照らす闇の月。
それら二つの世界の境界をまたいでいるのは『次元橋』と呼ばれるものだった。つまり、人間界と魔界の分断している光のカーテンの裂け目。それが世界各地にある『次元橋』だった。
橋のあるいくつかの場所では、それぞれ人間の代表達と魔族の代表達が集まり、互いの政治的交渉を行っていた。
この次元橋には、巨大な塔が建てられている。
その最上階が、政治的交渉の場だった。
人間側の代表は、王都の騎士団長であるヴァルドガルト。
魔族側の代表は、竜を眷属とした悪魔ベドラムだった。
「お前らの幾つかの領土を、私達、魔族に返してくれれば、私の王都への侵略計画を白紙に戻すとする」
会議の席で、ベドラムは真っ黒なドレスを翻し、ふんぞり返っていた。
そして地図に指先を伸ばして、彼女が欲しがる領地を指し示していく。
「本来なら、この場で貴様を斬り倒したい処だ……。だが、こちらは不利だ。貴様の配下のドラゴン共がこの建物の外に待機しているとなってはな」
もうすぐ五十路に差し掛かろうとする騎士は、魔王に対して一切怯む顔をしなかった。騎士団長ヴァルドガルトの隣には、付き人の一人として、時間魔法使いであるフリースもいた。
ベドラムは鼻を鳴らす。
「後悔する事になるぞ。お前らの王都を我らの牙と爪、そして炎で破壊し尽くすのは簡単だからな。そして、私を斬り倒してどうする? 私が敵対しているのはお前ら人間共だけじゃないのだぞ。その意味が分からない筈は無いだろ?」
そう言いながら、ベドラムは脚を組み長い紫の髪を弄り始める。
「ああ。分かっているさ。お前とお前の部下共が、他の力のある悪魔を牽制している事くらいはな」
「…………。配下でも部下でもなく、ドラゴン達は私の「家族」だ。二度と間違えないで欲しい」
ベドラムは、腹立たしく騎士団長を睨んでいた。
「…………。悪かった。だが、お前の指し示す領土にも、多くの人々が生活を営んでいる。その人々の生活や独自に築いた文明を壊して、お前達の領土にするわけにはいかない。仮に私がお前の意見を承諾したとしても、人々の殆どは認めないだろう」
騎士団長は一歩も引かなかった。
「それなら数年くらいは待ってやるさ。その地に住む人間共は別の地に移り住めばいい。だが、それに承諾出来ないなら。分かっているな? 騎士団長。数か月後には、侵略の手筈を整える。どれだけの血が流れるか。一番、穏便に考える事だな」
ベドラムは魔族らしく、残酷そうに口元を歪めた。
ヴァルドガルトは唸る。
今、この場でこの女を倒せば丸く収まるのではないか?
だが、竜の魔王を倒したとしても、彼女の家族であるドラゴン達の報復が始まるだろう。そもそも、ベドラムは強大な魔力を持つ魔族だ。剣技にも優れていると聞く。果たして、自分達の戦力で勝てるものなのか…………。
「分かった。契約にはサインをしよう。五年程、待ってくれないか? お前が指し示す土地の者達を離れさせる。それで互いに“平和的な交渉”といこうではないか」
そう言い、騎士団長は契約書に血判でサインをした。
ベドラムは契約書を懐にしまう。
「そうか。私も無用な血を流さずに済み、嬉しいよ。本当は私も家族達も、破壊と征服の欲に飢えている。ドラゴンという種族の本能というものは、やっかいだな……。しかし、双方、刃を収める事が出来るのなら、それは良い事だろう。ついでに私達は、他の魔族から、お前らを守ってやろう」
そう言って、ベドラムは和平の場である塔を去ろうとしていた。
ふと、ベドラムは振り返らずに脚を止める。
「お前ら人間は脆い。仮に私と私の家族を滅ぼしたとしても。ジュスティスの“正義の行使”とリベルタスの“自由への計画”の前では、立ち向かえないだろうな。せいぜい、弱い種族として生まれた事を呪うといい」
そう言って、竜の女王は部屋を出ていった。
頭を抱えている老年の騎士団長を見て、フリースは小さく溜め息を付く。
「なあ。わたしは国王から、領土を守るようにサインしろと言われている……」
「心中察するよ。でも、竜の魔王ベドラムの言っている事が正しいよ。指定された土地は、元々、魔族が住んでいたのを、人間達が奪ったんだから」
「なあ、時間魔法使いの友人よ……。わたしは、国王から命令されているんだ。魔族などとは絶対に分かり合えない。だから、交渉の余地など必要ない。この次元橋の塔で、魔族の女の首を斬り落とせ、と」
「ほんと。嫌な上司だな。国王は。ワガママだよ。自分の権威を示す事ばかり考えているよ。私は幼い頃のあの男も知っている、昔から自分勝手だよ。色々な立場の都合なんて聞いちゃくれない」
「なあ、フリース。お前は、一体、どっちの味方なのか? 人間なのか? 本当は魔族の味方なのか? お前は、私が子供の頃から、まるで容姿が変わっていない。お前は本当に人間なのか?」
「私は人間だよ。ただ、そうだね。百年も、二百年も生きていると、色々と視野が広くなる。物事はそんな単純じゃないって考えるようになるんだ」
騎士団長は、項垂れながら、時間魔導士と一緒に、塔を出ていった。
結局、騎士団も魔導兵団も、束になっても、ドラゴンの軍団には敵わないだろう。
だが、国王の命令は絶対だった。
やがて、一か月半後に先手を打ってヴァルトガルトは騎士団を率いて、ベドラムの住まう空中要塞の城を襲撃した。ただ、その返り討ちと報復として王都が焼かれた。それだけだった。
その事実をフリースは知っている為に、ロゼッタを説き伏せるしかない。
ロゼッタはいずれ強力な魔法使いになるだろう。
だが、政治的交渉は絶対的に苦手だ。
それに、ロゼッタはまだまだ若い。
世の中の矛盾な道理のおかしさを理解する事が出来ない。
フリースは考える。
竜の魔王である、ベドラムともう一度、和解の交渉が出来ないか、と。
…………そして、時間は今に巻き戻る。
和解の交渉は出来ずに、王都が燃やされてしまった。
†
王都がドラゴンの軍勢に襲撃されて、十日後の事だった。
再び次元橋にある塔で、一人の人間と一人の悪魔が語り合っていた。
人間の代表はフリース。
魔族の代表はベドラム。
豪奢なテーブルと椅子が置かれ、二人はゆっくりとくつろいでいた。
「薔薇の紅茶を持ってきたよ。いい茶葉。味は?」
フリースは気さくに、魔王に話しかける。
「ああ、これはいい。我々、魔族には茶葉の農園が無い。人間に滅んで貰っては非常に困る」
そう言いながら、女王は紅茶を口にする。
「世の中が善と悪に分断された分かりやすい物語だったら、どんなに良かった事だろうな。だが現実は違う。人間同士にも色々な事情があるのだな」
ベドラムは憂うような表情で言う。
「ええ。だから王都や王都が管理する街や村では、勇者が魔王を対峙する分かりやすい物語が流行るの」
フリースは飄々とした態度だった。
「お前らは我々を魔族と一括りにしているが、それは良くないな。ドラゴン、オーガ、ミノタウロス、コカトリス、スフィンクス、アンデッド……。どの種族も事情が違う。正直、私はお前ら人間よりも、ジュスの計画の方がよほど恐ろしい」
正義や倫理を標榜する魔王、ジュスティス。
この男の正義や道徳観は、他の者達から見れば、悪意に満ち満ちており、ベドラムと人間側、当面の共通の敵でもあった。
「ジュスティスに気を付けろ。奴は私とお前ら人間、双方の破滅を願っている。そちらの方が優先事項になるだろうな。奴の計画が完成したら、我々はどちらも終わりだ」
ベドラムは、深刻な表情を浮かべていた。
フリースも頷く。
もし『倫理の魔王』の計画が動き出せば、王都は終わりだろう。
『倫理の魔王』は人間も魔族も“実験道具”としか思っていない。
そして、竜の軍団に何一つとして太刀打ち出来ない王都の戦力を考えれば、ジュスという邪悪が動き出せば、王都は完全に彼の“実験場”と変わるだろう。
「いいか。フリース。人間共がな。私に憎しみを向けているのはいいんだ。私とお前らが争い続ける事によって、互いに消耗していく半面、ジュスとリベルの目論見を潰せる。我々の戦力は強化されていくからな。……もし、我々の戦争が終われば、平和ボケした人間共へつけ入る為に、連中の陰謀や工作が始まる。それが本当に面倒だ」
ベドラムは忌々しそうに言う。
「騎士団長や、王都のおとぎ話を信じている連中には、それが分からないんだよね。私の
「王女様は元気か?」
「うん。元気いっぱいに君の事を憎んでいる。この前も絶対に殺してやりたいって喚いていた。そして武芸にも励んでいるよ」
そう言いながら、フリースは紅茶と一緒にクッキーを口にする。
「そうか。顔を見たいな。とても期待しているよ。魔法使いとしても、優秀なんだろう?」
ベドラムはまるで、微笑ましそうに笑う。
「本当に優秀だよ。最強の水の魔法使いになれるかもしれない、この前、水族館を作り出す事に成功した。海の生き物の召喚魔法まで使えるようになった。君の脅威になるといいね」
「励んでいるんだな。素晴らしい事だ」
ベドラムはチョコレート菓子を無造作に口にする。
ブランデーが入っている為にほろ苦い。
この場では、人間と魔族の穏やかな時間が確かにあった。
そして、二人共、嫌な予感を感じ取っていた。
二者間の戦争が続けば、得をするのは、別の勢力になる。
ベドラムとフリースの計画は、空中要塞と王都の結託だった。
長い時間は掛かるだろうが、人間側に戦力となる者達が何名も現れなければならない。ドラゴン達の力では、別の魔王を止められない。他の魔王達は極めて狡猾で、その全貌が分からないからだ。
何年掛けてでも、人間側から『勇者』と呼べるようなお伽話の人物を生み出す事にあった。その為に、ベドラムは人間達から憎まれ役として買って出る事を自ら望んだ。
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