第10話
テレサ・シンヴレスの、侍女殺害疑惑による逮捕。
そこから一転しての、近習頭ソーシャによる謀略の露見。
その突然の逆転失脚劇の中心人物たるテレサは、事件そのものの疑惑は晴れたものの、様々な憶測を呼んだ。
曰く、色香によって主君ルフを篭絡したがために勝ち取った無罪。
曰く、怪しげな魔術によって証人たちを洗脳した。近習頭殿を呪った。
曰く、やはり全ては彼女の掌上であり、侍女で怪しげな黒魔術の贄としただとか。
誰ぞが悔し紛れに、意図的に流した荒唐無稽な風聞。それらルフ派の隠助によって沙汰されなくなってようやく、テレサは再びの自由を許された。
もっともこれも制限付きであり、以前のように目付が日替わりで侍る。
ただし監視と言うよりは護衛がためだ。
今日の番は件の筒帽子である。
やはりディルという方の名が、彼個人を表すものであるらしい。
理智に傾倒する向きの少年で、険や陰はあるもの パオルやソーシャがごとき邪念や敵意、思考の硬直は感じさせない。言葉の端々から、一途に従兄を敬う気持ちだけが伝わってくる。
無論、その間に突然割って入ったテレサには懐く様子もないが、割り切れるだけの、そして、
「司教殿、もし文化、種族が異なる土地を制して治めるにあたり、その適役とは如何なる人材でしょうか」
「手っ取り早いのは旧権力者との戦に勝った将軍にそのまま治めさせることでしょうよ。威武は知られているから抑止力としては十分でしょうし、こちらとしても土地勘やその人種の気質は知れている……もちろん、軍閥化させずに手綱をとれる副官と、本人に行政能力があることが大前提」
「神の威徳ではなく?」
「主は、人を支配しない。宗教とは人々の生活や文化に根差すものであり、上に戴くべきものじゃない……本来はね」
貪欲に、知識を求める柔軟さは持ち合わせている。長じれば、ルフの良き輔弼となることだろう。
――さすがに回数をこなせば。
顔面を毛に覆われた獣人とて、目を見、言葉の調子を聞けば、個々の年齢、素養、気質をある程度は掴むことだけは出来るようになった。
彼との会話を経てそのことを実感しつつ、誘われた先は小高い丘である。
見晴らしの良い場所がある、ということでその案内に甘んじていたが、左右には無骨な岩肌があって眼下の視界を遮っているし、雑草が根深く背高く茂っている。
「では、ごゆっくり」
曰ありげな言葉、そして一礼と共にディルは去っていく。
その鬱蒼とした草の中咲く、白い野花を見つけて何となしに手を伸ばしかけた。
「その犬鬼灯は、毒だ。あんたと同じで犬も食わない」
「食べませんよ」
にべもなくそう返せば、苦笑の気配。
起き上がったは、白黒の髪と、九割九部人の姿を持つ若者だった。
「まったく、先生のせいで抜け出すにも一層苦労が要るようになった。俺の
「私の危機こそ、その『いざ』以外の何物でもないでしょ……それで、私はどちらと対すれば良いので?」
客分であり臣下か。
師であり飲み仲間か。
「今の貴方は、どちらなの」
そう問いかけるテレサとランでありルフの間で、白き花が揺らぐ。
「……どちらが偽り、とは考えたことはないよ。少なくとも、どちらが欠けても、俺は犬鬼灯の野に咲く可憐さも、毒気も知ることがなかっただろう。ルフが出来ぬことがためにランがいる。ランの手に余ることを、ルフが行う。それだけさ」
だから、茶目っけ混じりに右目を眇めて、ランの口調で
「先生も、なんかこう上手い具合に合わせてくれると助かる」
返したのは嘆息。何ともはや、厄介な御仁に見込まれたものだと。
「……では、あらためて問うておきましょうか」
とルフに対する口調でテレサは告げる。
「今回の一件で『例の男』の威勢も削げたことですし、貴方が領国内における本懐を遂げんとするならば、あのディル君で事足りる。もう二、三年ばかり、順当に修養を重ねれば、彼はそれだけの参謀になるでしょうよ。それでもなお、私を用いるというのであれば、それ以上のことを求めている……そう解釈して、よろしいのですか」
冷たい毒気を眼差しに込めて、そう問う。そこから目線を外すことなく、沈黙を自らに許さず、ルフは口を開いた。
「ソーシャがな、獄中で死んだよ」
思いがけぬ、前置きとともに、
「『誰ぞ』が持ち込んだ差し入れに含まれていた毒、それを含んで自死していた。番兵はそれが運び込まれた時も、吞んだ時も、見逃していたそうだ。奴の一族は一夜にして離散し、見つかった者はすでに死体だった」
そしてそれを追及する手立てはない。眉間に彫られた皺はそれゆえか。あるいは、心底より自分たちを貶めんとしたあの老近習の死を悼んでいるのか。
「あんたに覚悟を問われた時、俺にはまだ『敵』に対する甘さがあった。覚悟が足りていなかった。良く分かったよ」
そう言って背を伸び上がらせてより、灰狼は起った。
「もはや、待てぬ。俺はあの男を討つ。その増長を許したこの国の在り方を革める。獣の寄合所帯でしかない荘から、真の『人としての国』へと。そのためには、毒でも用いる……でなければ、何のために俺は二つの貌を与えられたのか――それこそ、あんたの言う主の御意志って奴だろうさ」
そう、静かだが確かな意志を、橙果色の底に落とし込みながら。
「それに、あんたにとっても悪い話じゃないはずだろ?」
「というと?」
「あんたはあの夜、不利となるのを承知で俺を逃がそうとした」
「……結局、悪手だったけどね」
「皮肉を言うなよ……でも、とっさに出たその行動こそが、可憐な純良さこそが、毒も棘もあるあんたの、根っこにある
白日、蒼天の下でそう誓う彼は大きなその手を差し出した。
以前、テレサを危地より救った時と同じく、年下のくせに大きな男の手だ。そしてその時とは違い、握り返すか否かの選択は、彼女自身に委ねられている。
「
テレサはしばし沈思し、異境の空を仰ぐ。
国のこと。友のこと。己が才のこと。司教としての栄達のこと。そして最後に主のことを。その御意志を問うがごとく、牙十字を握りしめながら、その上で胸を浮沈させる。
「それとも、出逢ったばかりの女にこんなことを打ち明ける俺は、先生基準じゃ『悪い殿様』か?」
イヤミな物言い、断る余地のない、一方的な空気づくりに辟易する。
「……けどその身勝手さに、初めて自分の運命に、主の御意志を感じた」
その悪態とは裏腹に、屈託なく、躊躇いなく、聖女はその手を取った。
――そんな彼女が、風評でも迷信でもなく、現実的な畏懼をもって内においては『北から来た白い魔女』、外においては『獣憑きの謀主』と呼ばれるのは、此れよりいま少し後のことである。
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