彼らの歩む道
夜間燈
竜の兄弟(1)
乗っていたバスが動き出す。彼はいつものように参考書を開いた。次の試験は満点ではないと、夕飯が抜きになってしまう。彼はしばらくそれを眺めていた。そして、降りるバス停にバスが近づく。彼はボタンに指を伸ばした。家に帰りたくない、と少しだけ思う。
しかし、彼は二度と家に帰ることはできなかった。
彼は高校二年生になったばかりだった。目付きは悪いが、言動に難はない。弓道を習っており、世界大会に出場した経験もある。どこにでもいる高校生ではないものの、見た目は少し柄の悪い高校生と変わらない。
彼はいつも帰りが遅かった。家に長い時間いたくもないため、学校の自習室で帰宅時刻寸前まで居座っている。家に帰れば、必ずと言っていいほど小言を言われた。目立つことはするな、試験では必ず満点を取れ、兄を見習え……小言の一つ一つを思い出し、彼はため息を呑み込んだ。
父も母も、厳格な「成績主義者」であった。試験の結果や通知簿でしか、彼を見ようとしないのだ。彼の兄が大手企業に就職したのもあり、最近は特に酷かった。九十九点以下は夕飯抜き、九十点未満は殴られる。
俗にいう教育虐待だったが、彼はそれが普通だと信じていた。
そんなわけで、彼は親が嫌いだった。親だけではない。成績でしか自分を見てくれない、この世界が嫌いだった。
彼は目を瞑る。疲れが溜まっているようで、このままでは寝てしまいそうだ。少しだけ参考書から目を離して、周りを見る。
夜七時のバスだったが、子連れもいれば、クラスメイト、疲れた顔のサラリーマンもいた。
誰も話したりはせず、バスは時刻通りに動いていた。
時々子供の泣き声が響いている。母親はその子供を焦りながら、しかし、優しくあやしていた。
羨ましいと、少しだけ彼は思った。子供のように、親に甘えられたらどれだけ良いだろうか。
「次は、吉津屋、吉津屋」
気の抜けた運転手の声が聞こえる。泣いていた子供はいつの間にか、母親の腕の中で眠っていた。
彼は少しだけ笑みを零す。少しその様子を眺めていたが、思い出したように彼は停車ボタンを押そうとした。その瞬間、男の怒声が響き渡る。
「おい、ぼタンからてぇハナせ!」
何を言っているのか分からず、彼は思わず手を引っ込めた。いつの間にか、何人かの青年が立ち上がっている。大学生くらいだと思われる青年たちだった。彼らはいずれも、黒いものを乗客や運転手に向けている。
近くの街灯に照らされ、その黒いものの正体を、彼は知った。
――銃だ。隣にいる男は、ボウガンを乗客に向けていた。
それを見てようやく、彼は言われたことを理解する。男は彼に、ボタンから手を離せと言ったのだ。
怒声で起きたのか、子供たちが弾けたように泣き叫び始めた。早く黙らせろという声が響き渡る。それによって、さらに子供が激しく泣き叫ぶ。母親は青ざめた顔で、子供たちを宥めていた。
「女は前来い! 男は後ろ行け! 早くしろ!」
彼は男たちを見た。ボウガンをこちらに向けている。青ざめた乗客たちは、一斉に移動を開始した。乗客は男らを除いて十人ほど。何がしたいのか、彼は男を少し見る。
今時、反社会的行動なんて流行らないではないか。
「おい運転手! 霞ヶ関だ!」
「霞ヶ関って……ここから一時間以上かかりますよ! それに、道が分かりませんよ!」
「知るか! 早くしろ!」
彼は男を見た。霞ヶ関といえば、国会議事堂がある。テロでも起こすつもりなのか。警察に連絡しようとしたが、スマホを触れば、何をされるか分からない。
「……あの、誰かがスマホでマップアプリを開いて、道案内してもらうしかないと思うんですけど……。俺がやりますから……」
彼は男たちに提案をする。男たちは少し考えると、彼を運転手のそばに立たせた。そして、ボウガンで脅し、スマホのアプリを開かせる。彼は震える手を押さえ、霞ヶ関の場所を検索する。
交番の近くを通るようなルートを探し、案内を開始させた。無機質な女の声が響き渡る。運転手は震える手でハンドルを動かした。
彼は運転手を見る。交番まで三十分ほどかかる。それまで、どうにか勘付かれないようにしなければ。
「……で、どれくらいかかんだよ」
「一時間ほどだそうです……」
彼は呟いた。
運転手は真っ青な顔でバスを動かしていた。かなり焦っているらしく、信号無視などをよくしていた。このままでは事故が起きてしまうのではないか、と彼は思った。心なしか、車体がよく揺れている。
高速道路に入ったが、このままでは危険な気がした。
運転手は彼を見た。そして、口を開く。
「本当に合っているんだろうな!」
「合ってますから! 前見てください! 前!」
おそらく、かなりの速度が出ていた。カーブ注意の看板が少し前にあったことを思い出す。
しかし、全てを思い出した時には、それは起こってしまっていた。
車体が大きく揺れた。乗客たちの悲鳴が聞こえる。伏せろと彼は叫んだ。自分が上にいるのか下にいるのかも分からない。
彼は知らなかったが、カーブを大きく外れたバスは、高速道路から真下の道路へと落下したのである。
木々の匂いがする、と彼は思った。次に感じたのは、動けないほどの激痛だった。特に足が痛い。骨が折れている、と彼は思った。彼は思わず目を開ける。
目の前に広がるのは、美しい森だった。木々は様々な緑色の葉を付けており、陽光が木漏れ日となって降り注ぐ。湿った苔は緑色の絨毯のように広がっていた。近くには沢のようなものがあり、透き通った水が音を立てて流れている。聞いたことのない鳥の囀りも聞こえた。
「どこだ……ここ……」
彼は思わず呟いた。
他の乗客たちも近くにおり、全員目を覚ましていた。男たちの持っていたボウガンなどは全て没収されている。彼は事態を理解しようと辺りを見た。その瞬間、怒声が響き渡る。
見れば、サラリーマンと見られる中年の男が、ハイジャック犯の一人の胸ぐらを掴んでいた。
「どうしてくれんだ! 今日は妻の誕生日で、遠くにいる娘も家に帰っていたんだ! だから……いつもよりも早めのバスに乗ったんだ! ケーキも買った!……なのに……何で、何で! そのケーキを届けられないんだよ!」
ハイジャック犯たちは顔を俯かせる。
彼らは知らなかったのだろう。テロを起こすということは、誰かの何気ない時間を、人生を壊すということを。
乗客も運転手も、どこにでもいるありふれた人間で、それぞれの「当たり前」を過ごしていた。
その「当たり前」を壊した罪は、たとえ死んだとしても、償うことはできない。
ハイジャック犯の一人が叫んだ。
「う、うるせえ! こうなることなんぞ知らなかったんだよ!」
「馬鹿野郎! 子供でも予想できた事態だろうが! このクズ野郎が!」
怒鳴り声で子供が泣き始め、サラリーマンはようやくハイジャック犯を離した。母親は震えながらも、子供を必死に宥めている。
「……誰か、スマホを開けませんか?」
母親の震えるような声に、彼はスマホを見つめた。大破はしていないようで、電源も付く。
「圏外になってる……」
彼は呟いた。それを聞いた乗客たちは、一斉に顔を青く染めた。
今時、車も通れぬほどの山道にでも行かない限りは、圏外になることなど無い。しかし、スマホは圏外を表示していた。
「とにかく、森から出ないことには……」
誰かの言葉に、全員が頷いた。しかし、怪我人が多すぎる。彼のように、足を折っている者が半分以上いた。
「……静かにしてください」
彼は突如として、乗客たちに指示をする。
その直後、鵞鳥のような鳴き声が響き渡った。
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