完全犯罪の限界
森本 晃次
第1話 血染めのナイフ
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年1月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。
最近、マンションというと、昔ほどの建設ラッシュでもなくなったような気がするのに、工事中のところは結構多いと思っていると、
「老朽化による改修工事」
というのが、多いのだという。
実際に、新築マンションを建てるといっても、もうたくさん建っていて、土地も余っていないというところが、都心に行くほど多くなっていて、しかも、
「そこから、文化遺産に繋がるような遺跡が出た」
などというと、マンション建設などといっていられなくなるだろう。
さらに、今は新築マンションを建てたとしても、果たして、
「それだけの需要があるのかどうか?」
ということが問題であっただろう。
実際に最近、駅前に建ったという新築マンションのウワサを聴いてみたが、
「まだ、半分も埋まっていない」
という話だった。
確かに、駅から近く、都心部からの通勤圏内としては、十分なベッドタウンではあるが、実際には、そこまで需要があるとは思えないのであった。
マンション購入というと、
「分譲か、賃貸によって、かなり違ってくる」
と言えるだろう。
分譲ともなると、少なくとも、
「転勤がない会社」
に勤めていることが、最低条件であろう。
転勤があるとしても、
「通勤圏内」
ということで、シャレではないが、
「県内」
ということになるのであろう。
そういう意味では、マンションの建設ラッシュというのは、少し落ち着いているのではないだろうか?
しかも、人によって違うかも知れないが、マンションというと、どうしても、いろいろな問題が起こるものであり、たとえば、
「騒音問題」
隣人であったり、上の階の家族に、小さな子供がいたり、新婚の若夫婦などで、常識のない連中がいると、溜まったものではないという人もいるだろう。
子供がドタバタ走り回っている部屋など、当たり前のようにいる。昔であれば、親が叱りつけるのだろうが、最近の親は、
「育児放棄」
といってもいいように、子供を叱ろうともしない。
それを思うと、
「最近の親はロクなやつがいない。だから、子供がロクな人間にならないんだ」
と思わされるのだろう。
さらに、隣が新婚夫婦の場合、友達を連れてきて、夜中にどんちゃん騒ぎをするようなやつもいる。
まわり近所のことが一切頭に入っていないのか、入っているとすれば、
「文句言われたら、どうしよう?」
と思うだろう。
少なくとも、
「自分たちは新参者で、まわりの人たちは先輩なのだ」
というような、リスペクトする気持ちが少しでもあれば、こんなどんちゃん騒ぎなどあるわけはない。
それだけ、
「自分たちさえよければそれでいいんだ」
ということになる。
まわりを気にしないような連中であったり、子供を叱らない親であったり、
「どっちもどっち」
の同罪であり、
「有罪確定」
というところであろう。
ただ、どうせ管理会社に苦情を言っても、何もしようとしないのが、管理会社というもので、近所のベテラン夫婦が、
「文句は昔からいい続けているんですけどね」
と言いながら。
「何もしようとしない管理会社に何度もイライラさせられたんだけど、最近でも、管理会社の連中は、皆、ロクな死に方はしないと思って諦めてますよ」
と、苦笑いをした。
「なかなか言いますね?」
と聞くと、
「いやいや、本当のことですよ。少なくとも、仕事放棄ですからね。こっちが払っている家賃で飯を食っている輩なんで、それくらいのこと、当たり前ですよね」
と、ニコニコしながら言っていた。
「腹の底がどうなっているのか見てみたい」
と思ったが、少なくとも、
「この人たちは、怒らせると怖いのかも知れないな」
と思うのだった。
ただ、
「人に迷惑を掛ける行為をして、それを悪いことだと思わない」
これほどの罪深いことはない。
これに関しては、その度合いなどというのは、関係のないことであろう。
マンションの部屋の隣で、どんちゃん騒ぎをするというもの、困ったものだ。
隣の人が何をしている人なのか分からない場合がある。
「仕事場が遠い人だったり、人によっては、早朝の4時出勤の人もいるかも知れない。または、
「息子が受験生」
という場合だってあるだろう。
それだけに、
「息子が受験生で、勉強がなかなか捗らない」
といって、管理会社に文句の一つもいいたくなるだろう。家族思いの人、家族思いでなくても、普通に母親だったりすれば、自分のことでないことの方が、必死になるというものである。
管理会社の方に、
「本当に苦情だと思って聞いてくれているんだろうか?」
という思いを母親が抱けば、
「もう、あんな連中、あてになるわけはない」
ということが証明されたかのような気持ちになってしまうのは、必然のことである。
実際に、管理会社が、本当にそこまで必死になってくれるとは、こちらも思っていない。しかし、せめて、
「マニュアル通りに、形式的でもいいから注意をしてくれれば、少しは、管理会社を信じてやろう」
という気持ちにだってなるだろう。
しかし、あいつらは、トラブルを嫌って、苦情を言ってきた人には、
「ええ、お気持ちは分かります。こちらの方からも話をしておきましょう」
という、
「いい顔」
をするだろう。
しかし、実際には何もしない。
最初から、する気などないのだ。
口では、
「お気持ちは分かります」
といっておいて、クレーマーに対して安心させておいて、心の中では、
「この面倒臭いクレーマーめ」
としか思っていない。
人間というのは、心のこもっていない言葉であっても、セリフがよければ、
「感情がこもっている」
と思うものだ。
「そういっておけばいい」
ということで、事なきを得たつもりでいる。
「どうせ言ったかどうかわかりゃしないんだ。言って聞くようなやつだったら、最初からやらないし、管理人から何かを言われても、下手をすれば、マンション内の誰かがチクったということで、クレームを言った人が疑われるかも知れない。いや、疑われるというわけではないか。疑われるも何よりも、本当のことなんだから」
ということになるに違いない。
そんなことを考えると、
「自分のところに、ブーメランで戻ってくるものさ。これこそ、因果応報というものなんだろうな」
ということなのであろう。
しかし、文句を言った人間にも、形式的なことしかしようとしない管理人にもきっと分からないことは多いだろう。
そのうちにクレーマーも冷静になってくると、
「管理人、これは言ってないな」
ということになり、管理会社の連中を信じられなくなる。
若夫婦であったり、子供がいる家でも、きっと、自分たちが放っておいたことを後悔することがそのうちに必ず起こるに違いない。
そんなことを、クレームを最初に言った人は感じることであろう。
自分たちが、ある程度慣れてきて、音を出さなくなると、他で似たような夫婦が越してきて、今度はやつらが、クレーマーになる。
「問題を起こす方は、起こされるということに関して分からないものだ」
ということであり、何も考えずに、本能だけで怒ったりするものであろう。
そんなマンションも、賃貸であれば、
「いつでも引っ越せばいい」
ということで、
「安心だ」
と思っている人がいるかも知れないが、そうもいかない。
なぜかというと、
「引っ越したところが、もっとひどいところなのかも知れない」
と思うと、
「迂闊に引っ越せない」
とも考えるからだ。
しかし、もっと言えば、
「今はきついかも知れないが、すぐに隣は引っ越すかも知れないし、逆に引っ越してきたところで今はいいかも知れないが、数日後くらいに、また誰か引っ越してきて、さらにうるさくなるかも知れない」
ということだってないとは限らないだろう。
つまり、
「動いても動かなくても、同じということだってあるのだから、果たしてどっちがいいかなどということは、結論から見ても何が正しいのか分からないのだから、動く動かないという判断は、あてになるものではない」
と言えるのではないだろうか?
「じゃあ、動くのと動かないのは、どちらがいいのだろうか?」
と、考える。
普通考えられることとすれば、
「もし、その思いが外れたとして、どちらの方が後悔が大きいのか?」
ということを思った時を考えるのだろうが、外れたと思った時、もし、やって外れたのだとすれば、その時に、同時に、
「やらなくて外れたということを想像できるのか?」
ということを考えた時、
「それができるくらいなら、余計な気を遣ったりしない」
と、その時に気づくに違いない。
それを思うと、
「まるで、右手で何かをしている時、左手でも別のことができるというような感覚ではないか?」
ということを感じたり、
「まるで昔の聖徳太子のように、一度に十人の話を聴き分けることができる」
などという伝説にもならないたわごとを考えているようなものである。
実際にそれができるくらいだったら、
「もはや、人間ではない」
といってもいいだろう。
だから、何かの答えを、歴史として未来に求める時、
「歴史が答えを出してくれる」
とよく言われるが、
「本当にそうなのだろうか?」
と疑ってみたくなる。
まず最初に思うのは、
「それが、過去の命題の答えだと、誰が教えてくれるというのか?」
ということである。
そもそも、その答えが何なのかということが分からないから、どうすればいいのかと聞いているのに、その答えを歴史が出してくれたとして、これがその答えだと教えてくれる人がいなかったり、人間として、
「その時がくれば分かる」
という能力のようなものが備わっているというのであれば分かるのだが、そうでもないのに、何を言っているのかということである。
では、
「死んだら分かる」
ということなのだろうか?
これだって、死んで生き返った人がいるわけではないので、これこそ、本末転倒な話である。
それを思うと、
「何が正しいのか?」
という根本的な話になってくるのである。
そもそも、人間ごときが、
「未来のことを知る」
というのが、無理なように、
「過去の答えを未来に求める」
というのも、元々無理難題なのではないかと思うのだ。
「だから、人生は面白い」
という人がいるが、本当にそうなのだろうか?
逆に面白いなどということではなく、
「知ってしまうから、却って怖い」
という発想になるのではないかと、思うのだった。
確かに、将来のことが見えているのと見えていないのでは、
「見える方がいいに決まっている」
という人もいるが、一概には言えない。
分かっていることで、却って自分に制限を掛けてしまい、何もできなくなってしまうこともあるだろう。
本来であれば、
「将来の夢や生きがい」
というものすべてが見えてしまうと、正直、やる気なるものは失せてしまうといっても過言ではないだろう。
それを思うと、
「将来を知る」
というのも、怖いといえるだろう。
人が、ある程度の年齢、つまり、中年以降になってくると、
「若い頃に戻りたい」
といっている人がいる。
実際に、若い時に戻れればいいと思っている人がたくさんいるだろう。
しかし、若い頃に戻ったからといってどうするというのだろうか?
戻れるとしても、
「途中まで歩んできた自分のある一点」
に戻ることになるだろう。
しかし、その一点というもの戻る時、
「今の意識さえ持って戻れれば、未来が分かっているだけに、二度と同じ過ちを犯さないはずだ」
と思っているのではないだろうか?
要するに、
「過去にやった間違いを犯さなければ、幸せになれる」
ということを言いたいのだろうが、そんな単純なものなのだろうか?
過去に戻って、やり直すとして、自分の中で、
「どこの何が間違っていた」
ということを自覚しているのだろうか?
もし、分かっていたとして、
「今度は間違いないように行こう」
と思ったとして、
「間違えないようにするにはどうすればいいのか?」
ということが分かっているのだろうか?
分かっていないのであれば、結局過去に戻ってやり直す機会を得たとしても、結果、また同じことを繰り返すに違いないのだ。
つまり、
「人生というのは、そんなに甘いものではない」
ということを考えれば、
「過去に戻ってやり直せない」
というのは、
「結局、やり直そうと思って、何度やったとしても、結果は同じ。未来を変えることなんかできないんだ」
ということになる。
それこそが、真の意味での、
「タイムパラドックス」
なのではないか?
と感じるのであった。
「どうして、過去に戻りたくないか? 今がいいのか?」
ということは、確かに、
「過去に戻って、やり直すとするならば、いくらでもやり直しができる」
という考え方が、甘いということではあるが、それよりも、
「今自分が考えていることが、果たして過去に戻った際に、同じ考えでいられるか?」
ということである。
経験をしているといっても、まわりの環境が違うのだ。もし、同じ環境だとするのであれば、きっとその考えを同い年の友達にしたとしても、
「そんなの、年寄りの考えだ」
といって笑われるか、笑われるくらいならいいもので、まわりから、
「変なやつと思われる」
ということで、相手にされず、
「村八分」
にされてしまうことは、分かり切ったことであろう。
それを考えると、
「過去に戻るということは、まわりの環境だけでなく、考え方まで変えないといけないということであり、過去と言える世界ではありえない」
ということになるのではないだろうか?
だから、逆に言えば、
「今というのが、過去からの積み重ねだということの証明なのではないだろうか?」
ということになる。
「今の意識を持っていれば、過去に戻って、もう一度やり直せば、うまくいく」
という人がいる。
本当にそうなのであろうか?
過去というものが、積み重なって未来ができているということを分かっていないと、
「過去をやり直すということは、どの時代に戻るのかは分からないが、その時代から、今まで生きてきた人生をすべて分かっていてこその今だという理解がいるのではないだろうか?」
ということが分かっているとして、
「じゃあ、過去に戻って、今まで生きてきた人生の、数十年を、ちゃんと把握して理解できているのか?」
ということになるのだ。
というのも、
「ここまで生きてきた人生で、本当に失敗ばかりで、いいことが一つもなかった」
というのであれば、
「これ以上、落ちることはない」
というわけなので、先だけを見ていればいいのだが、今までに、自分の選択が正しかったりしたことが、無数にあったはずだ。
本人が理解していないのだとすれば、過去に戻るなど論外であり、もし理解していたとして。もし、もう一度過去からやり直した場合、正しい判断をもう一度できるだろうか?
というのも、それ以前の問題だからである。
過去に戻って、やり直すということは、
「今までと違った正しい人生をやり直す」
というつもりでいくわけで、少なくとも、
「違う人生」
を歩むのだ。
まったく違う人生では何が起こるか分からない。だとすると、これまでの、
「正しかった選択」
というのは、御破算であり、まったく未知の人生を再度歩むことにある。
知っているはずの人生が、まったく知らない世界になるのだ。
ということになると、やり直しという意味では、まったく意味をなさないことになる。
それでも、やり直したいのか?
ということになるのだった。
ほとんどの人が、そういうことを考えずに、ただ単に、
「あの時に戻ってやり直したい」
というのを平気で口にしているが、それが夢の世界であり、あり得ないことだということを理解し、さらに、
「どうしてあり得ないことなのか?」
ということを、どこまで真剣に考えることができるか?
それが大いなる問題なのかも知れない。
そんな未来を知ることのできないマンションにおいて、
「嫌だったら、引っ越せばいい」
というのは、本当に無責任な言い方で、
「自分が引っ越した時に、隣も引っ越しをするかも知れない」
さらに、
「引っ越した先で、もし誰も隣人がおらず、よかったよかったと思っていると、すぐに隣に誰か引っ越してきて、その人の騒音がさらにうるさいかも知れない」
ということは、今のところに住んでいて、
「隣人が引っ越した後も、誰かが引っ越してくる可能性があり、うるさくしないとはいえない」
ということも十分考えられるということで、そうなると、まったく予想がつかないということになるのである。
だから、そう簡単に身動きはできないということだ。
となると、
「隣人だけのことを考えると、賃貸も分譲も関係ない」
ということだ。
しかし、
「家賃を払う」
ということであればどうだろう?
こちらもいろいろと考えられる。
分譲に住んでいると、大体が、
「30年ローン
などと言って、
「サラリーマン生活をしていると、そのほとんどを払い続けなければいけない」
ということになる。
しかし、逆を考えると、
「賃貸の家賃だって、毎月払うことになるではないか?」
ともいえる。
だとすれば、どっちが高いのか?
ということであり、一概には言えないだろうが、
「ローンを払っている方が安い」
ということになる。
もちろん、ローンの組み方になるのだろうが、例えば、ボーナス時期というのは、少し高いなどということになれば、当然値段が違うということになるのも、当然のことである。
確かにそうなのだが、
「分譲というのは、最初に入った時から、基本的に老朽化していき、ローンを払い終わった瞬間、気が付けば、築30年というのは、当然のこと」
ということである。
もちろん、途中で、
「老朽化に伴う改修」
ということはあるだろうが、部屋の内部を改修するわけではないので、基本的には、部屋内部は、築年数とイコールになるだろう。
しかし、賃貸は自由であり、
「古くなってきたから、新築マンションに移りたい」
と思えば、それほど難しいことではない。
ローンの場合は、基本的に、すべて払い終わらないと退去もできないということで、
「ローンを払うために、ローンを作る」
という、本末転倒なことになってしまうだろう。
だから、金銭的なことで考えれば、分譲の方がいいのかも知れないが、フットワークということで考えれば、賃貸の方がいいということになる。
好き嫌いの問題などもあるだろうが、基本的には、
「賃貸の方がいいかな?」
と総合的に考えて賃貸を選ぶ人が多いような気がする。
それだけ、
「世の中、何が起こるか分からない」
ということになるのであろう。
実際に、今回の事件が発生したマンションも、賃貸マンションで、立地条件もかなりよく、しかも、新築マンションということで、家賃もそれなりであった。
しいて言えば、マンションの前に線路があったり、ちょっといけば、高速道路が通っていたりと、
「ちょっとした騒音は、目をつぶるしかないか?」
というところであった。
これもその人の性格によるのだろうが、
「どうしてもやむを得ない騒音に関しては許せるが、人が騒いだりするようなモラル違反に繋がるものは、絶対に許せない」
と思っている人がいるだろう。
いわゆる、
「勧善懲悪」
という考えからくるもので、
「人のことを考えず、自分の勝手な都合で騒音を出すというやつは、
「完全な悪である」
と決めつけるということである。
「善意の人間が、どうして、一部の悪人から、迫害を受けなければいけないのか?」
という一種の図式である。
もちろん、
「悪」
というものが、すべて騒音に凝縮されるものではないが、
「そもそも、騒音すら自分で制御できなくて、しかもそのことを自覚もできていない人間に、善悪の判断などということができるのだろうか?」
ということであり、やつらの頭の中にある優先順位は、
「善悪の見極め」
というよりも、
「いかに楽に自分の都合のいい生き方ができるか?」
ということが最優先だとするならば、判断どころの問題ではないということになるのだろう。
だから、やつらに、
「善悪の判断などできるはずなどない」
ということである、
普通は善悪の判断を意識してするものではなく、身体にしみこんだ遺伝子であったり、本能に近いもので、そのことを把握するということであろうか。
それを考えると、
「世の中には、そういういい加減なやつが多いということになるのであろう」
ということであった。
いい加減なやつが多い中で、そんなやつほど、
「自分の権利を、これ見よがしに主張することであろう」
ということだ。
そんなやつらほど、普段から、必死になって自分の中にあるはずのない、善の部分を探そうとしているわけなので、主張したい権利を探すことができず、
「飢えている」
といってもいいかも知れない。
だから、本当にちょっとした権利の欠片のようなものが見つかったりすれば、それを、手の平を広げたくらいの大きさに、はち切れんばかりの大きさにしてしまうと、
「この時とばかりに、権利を主張しまくる」
ということになる。
「権利を主張するには、その裏にある義務を遂行してから言えることだ」
という、当たり前のことがまったく思いつかないのだ。
そんな奴らは、
「義務」
という言葉は知っていても、権利ばかり主張するわけなので、言葉の意味も分かっていないだろう。
それだけに、
「権利を主張するなら、義務を遂行してからだ」
という、
「当然の理論」
が頭の中にあるはずなどない。
「ある意味、言葉は知っていても、意味を理解しようとしない」
という典型的な理由になるのであろう。
ここの、
「Kコート」
というマンションは、実に立地としては、素晴らしいところに建っているが、少々お家賃が、
「高くてもしょうがない」
と言われる、賃貸マンションであった。
この2年くらいの間に、新築マンションということで、華々しくデビューしたのだった。
他のマンションの集合ポストに、チラシとして、アルバイトが、
「ポスティング」
をしていたようだ。
ポスティングというのは、地域だけを決めて、チラシの束を持って走り回り、基本的に、見えているポストに、どんどん放り込んでいくというものだったのだ。
昔の場合はそれなりに効果もあったのかも知れないが、今はネットを見れば、嫌でも広告は目に飛び込んでくるというもので、ポスティングというのも、かなり減っただろう。
特に、最近ではポストに、
「押し売り勧誘お断り」
という文字を貼り付けている人も多く、
「ポスティングも、同類」
ということなのだろう。
以前は、ポスティングなどで、たった一日の間にポストを開けると、チラシばかりが、数十枚放り込まれていることも多い。ポストを開けた瞬間、バラバラと下に落ちたのを拾った経験がない人はいないといってもいいだろう。
下手をすると、その中に、
「重要な郵便が入っていて、それを見逃したまま捨ててしまうということがないとは言えない」
ということになってしまう。
そんな集合ポストの中に、タオルにくるまれた異物が入っていることを、いつものようにポストを開けた人が発見した。
いつものように仕事から帰ってきて、
「ただのルーティン」
というだけで、
「どうせ何も入っていないだろう」
と思いながら、ポストを開けると、そこに異物が入っていたというわけだ。
さすがに、それをそのまま見逃すことはできず、
「何だ、これは?」
ということで触ってみると、ごつごつした、固いものだった。
そして何となくではあるが、そこにあるものが何であるかということが漠然と分かってくると、思わず、
「うわっ」
と声を上げてしまった。
その声が思ったよりエントランスに響いているので、思わず、まわりをキョロキョロと見渡してしまった。まるで、
「盗人のようではないか?」
と感じるほどだった。
しかし、まわりを見て誰もいないとホッとした時、本当に、
「盗人になったかのようだ」
と思うほどの安心感だったが、
「ああ、よかった」
と思ったのは、むしろこれからすることを誰にも見られることはないと感じたからだった。
手の上に乗っているタオルを、少しずつ捲っていくと、どんどん嫌な臭いを感じるようになったからだ。
「何だ、この臭いは?」
と、予想はつくのだが、実際に嗅いだことのないこの悪臭に、正直参ってしまうと感じるほどだったのだ。
「鉄分を含んだこの臭い」
というものを感じた時、一緒に感じたのは、湿気だった。
まるで、雨も降っていないのに、
「絶えずまわりすべてが結露しているのではないか?」
と思うような状態に、
「こんな分かりやすいと思うが、想像もしたくない」
と感じられる悪臭が手の上に乗っていることが、とにかく最悪だったのだ。
手をどけるわけにはいかない。
落っことしでもすれば、音は乾いた金属音とともに、今までいないと思っているまわりに、
「一瞬にして人だかりができてしまう」
という想像というか、
「妄想」
に駆られてしまうのが怖かったのだ。
あくまでも、まわりを気にしながら、少し座り込んで、床にタオルを置き、まるで、リンゴの皮でも剥いていくかのように、ゆっくりとタオルを剥いていくと、そこに現れたのは、果たして想像通りの、
「血染めのナイフ」
だったのだ。
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