グレーゾーン

日暮

グレーゾーン

 ピンポーン。

 ………………………………………。

 ピン、ポーン。

 



 重い体を布団からようやく引き剥がし、玄関ドアに向かう。

 チャイムの音の主には心当たりがあった。

 ドアスコープを覗くと、そこには全身真っ黒いローブに包まれた人影があった。俯いているため、顔は見えない。

 それを確認し、ドアを開けると、人影が顔を上げる。

 そこにあったのは人の顔ではなく、ガイコツだった。

 まるで骨格のお手本のようなガイコツだ。本物のガイコツなんて見たことは無いけど。

 目の位置にある黒々とした眼窩の奥には、なぜかわずかな光が爛々と隠されていた。

 ガイコツは一例し、名刺を差し出してきた。黒い生地に金の文字。何語かわからない。もしかしたらこの世の文字ですらないのかもしれない。

 ボーッとした頭でそれを受け取ると、驚いたことに、こちらにもわかる言語で喋り出した。喋った。

 ………喋れるんだ。

「この度は死神による出張自殺幇助サービスのご利用ありがとうございます。私、この度の死を担当させて頂くーーーーーーでございます。呼び方はご自由にどうぞ」

「………じゃあ………とりあえず死神さん、でいいすか?名前、よく聞き取れなかったし、名刺も読めないんで………」

「どうぞどうぞ。皆さんそう仰ります」

 笑顔など形作れないはずの頭蓋骨が、この時、なぜだか少しだけ笑ったのがわかった気がした。

 背骨が少しだけひやりとした。

 冬から春へ移行する気配が感じられる時期。ドアの外の淡い青空には薄い雲がたくさん流れていた。午前中、十一時十五分。

 そこにいたのは絵に描いたような死神だった。

 

 とりあえず部屋に上がってもらうことにした。そして半ばゴミ屋敷と化した我が家の、貴重な居住可能スペースでお茶することになった。

 なぜかと言うと、死神さんが「ではさっそく………と言いたい所ですが、その前に、お茶でも一杯飲みたいですね」と遠回しに、いや直接的に催促してきたからだ。

 まさか死神にお茶をねだられるとは。

「この緑茶おいしいですね………私、先週まで仕事の都合で海外におりまして、日本に来るのは久しぶりだったのです。こうして緑茶を飲むと、日本の味が沁みますね」

「はあ………」

 ローブに包まれた部分は見えないが、顔と、湯呑みを持つ手の部分は間違いなく骨だ。まごうことなき骨だ。

 よくお茶が飲めるものだ。

「骨にしか見えないのに、どうしてお茶が飲めるのかと問いたげな顔ですね」

 バレてた。

「実は、我々も完全に人体の骨格と同じ構造をしている訳ではないのです。ローブの下には我々独自の消化器官を持っています」

「え、そうなんすか」

「そうなのです」

 緑茶をすする死神さん。

 ………………。

 カポーン。

 存在しないはずのししおどしの音が脳内で響いた。

 ………なんだこの時間。

 興味深い話だけど、正直今はそんなことはどうでもいい。

「あの、それで、その、これからのことなんですけど」

 ふと、死神さんがこちらを無言で見返してきた。

 眼窩の奥の光に射すくめられる。また少し、体の芯がひやりとした。

「ええ、もちろん心得ております。お客様のため、安楽な死をお与えすることを約束致します」

 

「ところでその前に、もしよろしければ業務改善のため、アンケートにお答え頂いてもよろしいですか?口頭でけっこうですから」

 そう言うと、ローブの中からメモ帳とペンらしきものを取り出す死神さん。死神も客商売の世の中だもんな、と妙な納得をしてしまう。

「当サービスを知ったきっかけは何でしょう?」

「動画サイトの広告でちょくちょく出てきて………」

 ふむふむとペンを走らせる死神さん。

「よく視聴される動画は?」

「え………それも言わなきゃいけないんですか」

「いえ、関連の高い動画の傾向を知りたかったもので………抵抗がおありなら結構です」

 そして、死神さんはふとペンを止め、こちらを見つめてきた。

「次に、持病の有無について伺っても?特に精神疾患の有無を教えて欲しいのですが」

 少しためらったが、もう今さら死神相手に隠すことでもないと思い直す。

「うつ病と診断されてて………。少し前から精神科に通ってます」

「なるほど。………少し前から、というのは具体的にはいつ頃から?」

「半年くらい前からです」

 死神さんはそうですかと呟くと、首をひねりつつメモ帳から顔を上げる。困っている様子だ。

「我々の規定としまして、精神疾患持ちのお客様にはまず三年以上の治療をおすすめしております」

「えっ?ダメなんですか?」

「いえ、治療歴が三年に満たない場合も必ずお断りする訳ではないのですが………まだ半年しか通院歴のない方への当サービスは推奨できませんね」

 その言葉に、唇を噛み、床に視線を落とす。乾いた唇から血の味がした。

「ご存じでしょうが、我々にも守秘義務がありまして、死後のことについて詳しくは申し上げられません。しかし、当サービスを利用した方々の中にはーーー魂になってから悔やむ方も多いことは申しておかなくてはなりません」

「………………」

「特にお客様はお若いようですから、これからの生き方次第ではーーー」

 聞いたのはそこまでだった。

 黙って席を立ち、もう煩わしくさえなくなったゴミの山をかきわけ、隣の部屋の万年床に潜り込む。

 なんであんなことを。死神のくせに。失礼だった。早く戻らなきゃ。まだ頑張らなきゃ。でも。

 頭を掠めた数々の思考も、周りにあるのと同じ、ゴミの山にしか過ぎなかった。いつからこうなってしまったのか、もう覚えてすらいなかった。

 

 いつの間にか眠っていたらしい。閉めたままのカーテンの隙間から差し込んでいた光が消え、部屋は暗闇に閉ざされている。もう夜なのだろう。

 重い体を布団から引き剥がし、部屋のライトをつける。



 

 

「起きましたか」

 

 

 リアルに腰を抜かしたのはこれが初めてだった。

「な、ななな」

「七?ラッキーセブンですか。縁起がよろしくていいですね」

「な、なんでまだいるんですか!?」

 しかも明かりもつけずにだ。黒いローブと同化して全く気付かなかった。ほんとに死ぬかと思うぐらい驚いた。

「それはまだいますよ」

 しかし、死神さんは何気ない調子で微笑んで言うのだった。いや、微笑んだように見えたのは、錯覚なのかもしれないが。

「私はお客様のためにここに来たのですから」

 死神さんはそう答えるとキッチンの方に向かっていった。

 

 数十分後、目の前のテーブルには、ほかほかの白米と目玉焼きとみそ汁とが並んでいた。

 二人分の。

「さあ、どうぞ」

 死神さんに促されるまま箸を手に取るが、正直食欲がない。むしろここ最近ろくに食事を摂っていなかったせいで、せっかくの食卓の匂いも吐き気を催してしまう。

「すみません………食べれないかもしれません」

「そうですか。ええ、構いませんよ。私が勝手にやったことですから」

 死神さんは二人分の食事をひょいひょいとつまんでいく。せっかく作ってもらったのに申し訳ない………。

 すると。

 ポン、ポンと頭を撫でられた。

「先ほどはすみませんでした。………あんなことを言われては堪え切れないほど頑張ってきたのですね」

「え、あ………こっちこそ、すいません。無視していなくなって」

「構いませんよ」

 テーブルの向こうから骨の手を伸ばし、優しく撫でてくれる手の感触。誰かの声。

 

 ………こんなのは初めてだ。

 ただ呆然と、その感触を受け止めていた。

 

 ソファーに座ると、死神さんも隣に座ってきた。食べた後のお皿を洗い終わったらしい。

「さて、先ほどのお話の続きをしてもよろしいでしょうか?」

「………」

 そう言われると気が重くなってしまう。さっきの死神さんの言葉を思い出し、頭が少しだけ痛んだ。

「………まだ死ぬな、ってことっすか?」

「それはお客様次第ですが………」

「………他の人に相談した時もそう言われて」

 一度だけ、自殺を考える人向けの相談ダイヤルにかけてみたことがある。

 でも………申し訳ないが、死を思い止まらせるものにはならなかった。相手は話を聞いてくれはした。その上で優しく止めてくれた。

 なのに。

「何を言われても………全部、ガラスの向こうの言葉みたいで………。誰に何を言われてもムダな気がして。こっちまで届かないみたいな………」

 つらい。むなしい。くるしい。

 まるで………。

「まるで世界に一人取り残されたように………ですか?」

「………はい………」

 心を読まれたみたいだ。死神さんには読心能力でもあるのだろうか。

 ちらりと窺うと、死神さんは少し笑ったようだった。

「心が読める訳ではありませんよ。まあ、あなたは気持ちが表情に出やすいようですから、それもありますが………。そうではなく、死の淵に近付いている方々はそう感じるものなのです」

「………そうなんですか?」

「ええ。命とはそういうものですから」

 ………………。

 命………。

「孤独は命の宿命です。どれだけ周りに他の命があっても、肉体という強固な壁に阻まれ、本当の意味での魂の繋がりなどは得られない」

「………………」

「生きている間に得た繋がりは気慰みにはなるでしょうが、生命の本性は孤独であることに変わりはありません」

「………………」

「そして普段は忘れていても、その本性を強烈に意識せざるを得ない時が必ずやってくるものです」

「………………」

「皮肉なことに、生の対となる、死という形で」

「………………」

「あなたが今味わっているもの、それこそが命に与えられた本当の姿なのです」

「………………」

「………。先ほども申し上げた通り、私からはお客様に何も強いることはできません。全てはあなたの意思次第です」

 考えがまとまらない。しばらくまともに使っていなかった頭が疼くように痛む。そんなこと言われても。今さら、そんなこと問われても。

 だって、死のうと思って、誰にも迷惑をかけずに、苦しまずに、死ねると思って………。

 俯いていると、しばらくして死神さんが優しく声をかけてくれた。

「迷うようなら、今はまだやめた方がいいでしょう」

「………………」

「ただし、当社のHPにも書いてあったでしょうが………」

「………このサービスを頼めるのは、一生で一度きり、ですよね」

「はい。今回を逃せばもう機会はありません。死神による安全で安楽な死が与えられるチャンスは、この一度きりです」

 死神さんがそう言い終わると同時に、頭の上に優しい感触を覚えた。また頭を撫でてくれているらしい。

「………あの、なんでこうやってくれるんすか?」

「先ほど申し上げた通り、私はお客様のためにやってきたのですから。こうされると心が動いた様子でしたでしょう」

「………」

「スキンシップとは最も直接的に働きかける魂の気慰めです。生命の素晴らしい発明です。………まあ私は死神なのですが」

 いたずらっぽく言う死神さんの姿に、何か込み上げそうになった。

 ああ、そうか、死神さんは、俺のためにわざわざ人間の流儀に合わせてくれてるんだ。

 優しい人なんだ。

 ………まあ死神なんだけど。

 思わずふっと笑ってしまった。と同時に、涙が目からこぼれ落ちる。

 死神さんが首を傾げて不思議そうにする。が、俺にも不思議だった。まさか泣いてしまうなんて。

 慌てて袖で拭って涙を止めようとする。

 すると。

 抱きしめられた。死神さんに。

 ぎゅうっと。

 ………………???

「涙が溢れる時はですね、そのままにしておいてよいのですよ」

 死神さんのまとうローブの奥には、人間の肉の感触とは何か違う別の、独特の質感があって、それが余計に抱きしめられていることを実感させてーーー。

 俺は溢れる涙もつい、そのままにしてしまうのだった。

 


 ようやく落ち着いてきた頃、死神さんからそっと離れた。その頃にはもう、一つの決意をしていた。

「死神さん」

「はい?」

「………安楽死、お願いします」

 一瞬、一瞬だけ空気が張り詰めると、すぐに死神さんが口を開いた。

「本当によろしいのですか?」

「はい」

「お客様はまだお若いのですから、これから先も寿命まで生きれば、想像もしなかった救いを得られるやもしれませんよ」

「いいんです。………想像もしなかった救いなら、もう得ましたから」

 首を傾げる死神さんに微笑みかける。長らく使っていなかった頬の筋肉が引き攣りそうだった。

「………失礼ですが、人間のご親族やお知り合いは?」

「いません。家族とは縁を切ったも同然だし、友達も恋人もいないので」

「そうですか………」

「………これまでの人生、いいことなんて一つもありませんでした。ただひたすら空っぽで、辛くて………。ずっと得体の知れない不安と劣等感があって。この世界に居場所なんて無いと思ってました」

「………………」

「でも、これまで生きてきてよかった。あなたに会えたから」

 そう。よかった。こんな優しい死神さんに会えたんだから。よかった。

 ………本当に。

 だから、いい。もう、いいよな。心底からそう思えた。

 この幸せを胸に死ねるなら、悪くない。

「死神さん」

「はい」

 

 

「俺を看取ってくれるのが、あなたでよかった」

 

 

 敷きっぱなしの万年床を、それでもせめてもの死に準備というか、まあ少しだけ掃除をして、横になる。

 こうして布団の上で苦痛も無く死ねる。大した死に様じゃないか。そう考えて少し笑えた。自然に。

「お客様。最期に、これだけは伝えたいことがございます」

「なんですか?」

「死後のことについて、詳しくは申し上げられません。申し上げられませんが………、しかし、天国はあります。天国と呼ばれる場所はあります」

「え、そうなんですか」

「ええ。そこは安らかな場所です。そこに辿り着いた魂は、永遠の安息が約束されます。生者ならば安息に伴う退屈もありますが、天国にはそれすらありません。あらゆる痛苦からの、真の解放です」

「へー………」

「あなたはもう、苦しまなくて良いのです」

「………ありがとうございます」

 胸の奥が震える。最後まで、俺のためにそう言ってくれるのか。

 思えば、本当は、ずっとこうされたかった。誰かに優しい言葉をかけてもらって。抱きしめてもらって。

 叶ってよかった。

 もう、未練なんて無い。きっと。

「それでは、お見送りさせて頂きます」

 死神さんが俺の背丈ほどもありそうな大きい鎌を取り出す。あれで痛みも無く、魂を肉体から刈り取ってくれるらしい。

 ああ。

 もうこれで本当に終わりか。

 走馬灯も見えない。ただひたすら暗くて虚しい人生だったんだから当たり前か。

「お疲れ様でございました。よく頑張られましたね。これからは、どうか永遠に安らかに」

 

 最期の最後に、ようやく俺は気付いた。

 わざわざこのサービスを頼んだのは苦痛無く死ぬためだけではない。

 せめて死ぬ時ぐらい、誰かと一緒にいたかったからだと。

 

 

 

 

 





 

「ちーっす。休憩中ですか?」

「見りゃわかるだろ。喫煙所でヤニ吸ってんだから」

「ははは。そっすね。俺、ノルマ達成しましたよ」

「お。よかったじゃん」

「先輩のアドバイスのおかげです。寂しい人生を送ってる人間を狙って、優しくしつつ、さり気なく死を促す」

「だろ?一応、人間界の規定に引っかからないように、一度は考え直すように言っとけよ」

「はい、ちゃんと言ってますよ。これまでの所、問題にもなってませんし」

「やっぱ狙うなら孤独だったり追い詰められてるやつよな」

「先輩はすごいっすよね。あんなにたくさんの魂を集めてきてて」

「まあな。そのやり方でコツ掴めばけっこういけるもんよ」

「はーあ。人間達はいいっすよねえ。いずれ死んで穏やかに過ごせるんすから。俺達はずっと働き通しですよ。なのに早く死にたがったり永遠に生きたがったり。慎ましく生きて寿命通りくたばれっての」

「まあなー。まあ人間にも色々あんだろ」

「贅沢ですよー。そのせいでこうやって俺達が駆り出されるんすから」

「そうなー。まあ最近は人手も増えてちっとは楽になったな」

「まあそうですねー」

「お疲れ様です」

「お、お疲れ。どうだった?成果出ただろ」

「そうですね。………でも、あの、先輩、この方法、本当にいいんでしょうか?」

「ん?」

「今日の方は若い方でしたし、説得して生き長らえさせた方が良かったんじゃないかって」

「バカ、お前な、こっちは向こうが望んでるから出向いてやってんだぞ」

「はあ………」

「孤独な奴らってのはな、俺が教えてやったような優しい対応を求めてるんだよ。相手が望むものもちゃんと与えてんのに、何が悪い?それでその対価としてこっちは魂をもらってノルマも達成できんだよ。お互いさまだろ」

「それは………でも………」

「さ、もう休憩は終わりだ。次の仕事行くぞ」

 

 

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グレーゾーン 日暮 @higure_012

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