闇。


 闇だ。


 闇の中、ぼくは生まれる前の胎児のように、ひざを抱えていた。少し寒い。箱の中みたいに四角く、きゅうくつだ。ぼくはいっそう小さく、丸くなる。


 四角い壁のむこうから、男女の言いあらそう声が聞こえた。


 ああ──またか。

 いやだな。


 ぼくは耳をふさいで、声を意識から追いだそうとした。ベッドの中でいつもそうしていたように、嵐が通りすぎるのを待とうとした。

 声はなかなか消えなかった。

 ぼくはますますいやな気持になった。意識を逃がす。ここじゃないどこかへ。深い深い意識の底へ。渾沌の闇の中へ。


 いや。

 だめだ。


 この中に救いはない。ぼくはもう、そのことを知ってしまっていた。この箱はぼくを守る壁じゃなくて、閉じこめる檻だ。この闇はぼくを優しく包んでくれる母の胎内じゃなく、ぼくをしゃぶり尽くそうとしている毒虫の棲家すみかだ。

 ぼくは怖くなった。

 ここから出たい。

 壁のむこうに、助けを求めたい──ああ、でも、そこにいるのは父さんと母さんだ。鴻介さんと初鳥ういとり集落の人々だ。メイズさんとオノゴロ童子だ。

 声を出せば、見つかってしまう。助けを求めたら、弱みを知られてしまう。彼らはぼくを逃がさないし助けてもくれない。彼らに見つかって、もっと痛い思いや苦しい思いをするくらいなら……このまま、闇の中で息絶えるほうがマシかもしれない。

 ぼくはひとりだ。どこへも行けない。

 あきらめ。

 あきらめだ。

 人生は、あきらめどころが肝心で──きっと、今がそのときなんだ。


 ──よせ。まだ危な……。

 ──してッ。ひばり。ひばりが……。


 まだ、声がする。ぼくの名前を呼んでいる。

 いやだ。放っといてくれ。ぼくはもう……どこへも行きたくない。誰とも、話したくない。ムダながんばりなんて、したくない。


 がらがらがら。

 なにかを崩す音。

 はぁはぁ、息を切らす声。洟をすする音。

 誰かが泣いている。意外と──近い。

 もう無理だあきらめろと、別の誰かが叫んでいる。泣き声が怒鳴りかえす。


 ──私の。

 ──私のせいで、ひばりが死んじゃう。

 ──悪いのは私。死ねばよかったのは、私。

 ──あの子、私の友達になってくれたんだよ。会えてよかったねって、言ってくれたの。それなのに……私の身代わりで死ぬなんて、絶対おかしい。だからッ。

 ──あきらめろなんて、言わないで!


 ああ、リアだ。

 リアが泣いてる。

 ぼくがこうなったことで、リアもずっと苦しんでたんだな。鴻介さんやメイズさんがリアについて言ったことは全部、ぼくの不満をリアに向けるためのウソだった。あんなやつらにまどわされて、ちょっとでもリアを疑ったこと……謝らなくちゃ。


 リア。

 いいよ、そんなに泣かなくても。


 そう伝えたいのに、声が出なかった。はじめて息苦しさを自覚する。今のぼくには、ひと声ぶんの空気しか残っていないみたいだ。黙って、じっとしていたほうが、長生きできるのかもしれない。

 それでも、ぼくは呼びたかった。彼女の名前を。


「リ……ア。リア」


 それだけ言って、息が切れた。頭が痛い。気が遠くなる。

 壁のむこうがうるさい。なにか言っているけど、がらがらいう音にまぎれてしまって、もうちっとも聞きとれない。


 がたがたがた。

 ぎい。


 だしぬけに、闇が割れた。細くさしこんだ光がみるみる広がって、その光の中。

 すす・・と泥で顔も服も真っ黒にした神代リアが、こっちをのぞきこんでいた。

 ぼくは手を伸ばして、リアに触れた。リアがぼくを包みこんだ。

 リアはやわらかで、温かく、塩からい水でぬれていた。ぼくはその中に沈みこむように、ふたたび深い眠りに落ちた。

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