メイズさん対オノゴロ童子(1)

『そのまま──まっすぐ四歩。一、二、三、四……いいわ。とっても上手。右の襖、中に死人がいるわ。押し入れから飛び出してくるけれど、動揺してはだめ。走れば、十二歩で振りきれる──』


 襖を開けると、座敷の奥に木戸が見えた。座敷を横切り、木戸に近づいたところで、押し入れの戸をなぎ倒しながら女が現れる。紫の浴衣を着た、骨と皮みたいにやせた女。ぼくは無視して木戸を開け、走りだす。


 廊下を駆けぬける。十二歩。


『左のガラス戸。入って、まっすぐ八歩。右に一歩。走って十歩。階段をおりて──』


 廊下の左にあった掃き出し窓を抜ける。また同じような、板張りの廊下だ。八歩直進。それから右に一歩ずれたところで、さっきまでぼくのいた場所に、上からなにかが落ちてきた。女だ。目もくれずに駆ける。階段へ。


 ぼくはメイズさんの声と、左手につながった魂の緒に、自分のすべてをあずけていた。

 なにも考えない。感じない。目も耳も開いてはいるけれど、そこに入ってくる情報をいちいち検討したりしない。意味をはかったりもしない。

 そうすると迷いが消え、迷いによってロスしていた時間が消える。メイズさんの声とぼくの動きが、ぴったり噛みあってひとつになる。とても精緻せいちに組みつけられた歯車のように。


 ぼくは大正の廊下を駆け、昭和の階段を踏みこえ、平成のリビングや、令和のガレージをくぐり抜けた。

 そこには多くの女たちがいた。

 障子戸の女。

 火鉢の女。

 おはじきを吐く女。

 鏡の女。

 ヘビのような女。

 やせた女。太った女。

 く女。わらう女。木偶のように動かない女。


 ぼくは女たちに同情も、共感もしなかった。ただの障害物とみなせば、いちいち足が止まることはない。ぼくの心は固まった鉛のように、女たちの視線を跳ねかえした。


 ぼくは思った。

 これが、メイズさんの見ている世界なんだ。

 すべては数字と方角ベクトルでできていた。

 視界が赤く染まる。そこに、過去と未来と現在がすべて重なって見えた。ぼくが右に曲がる未来と左に曲がる未来とまっすぐ進む未来がいまは同時に存在していて、すべては太極たいきょくのもと、星辰せいしんのそして八卦はっけ八門はちもん九星きゅうせいの影響下にあった。

 ケンシンソンカンゴンコン

 キュウセイショウケイキョウカイ

 天蓬テンホウ天芮テンダイ天冲テンチュウ天輔テンホ天禽テンキン天心テンシン天柱テンチュウ天任テンニン天英テンエイ──。


 知らない言葉が目の中で渦をまく。

 なんだ? ぼくは、いったいなにを考えてるんだ?


 違和感と疑問を押さえつける。思考はいらない。疑いもいらない。

 メイズさんの──言うとおり。

 この渾沌を制することができるのは、メイズさんのことわりだけだ。


 気づけばぼくは、よく見慣れた格子の前に立っていた。

 格子のむこうは、畳敷きの座敷。壁の一部が床の間みたいにえぐれていて、祭壇が組んである。

 祭壇の上には──箱。

 オノゴロ童子の箱。


『さあ……行きなさい。ヒバリ』


 ぼくは格子の戸をそっと押しあけ、座敷に踏みこんだ。カギはかかっていなかった。

 左手首の刻印、メイズさんとのつながりを、箱の表面へ、そっと押しあてる。

 じわりと手首が熱を持った。そっと持ちあげると、アザの形をなぞるように皮膚ひふが裂け、血が流れでていた。しるしが箱の表面に転写されている。


 次の瞬間。

 箱が激しく揺れはじめた。


 精緻せいちに組みあわされていた木片がぼろぼろと外れていく。箱が崩れ、その中に赤い糸で固定されていた黒い石が転がり落ちた。そこから、闇があふれだす。

 一瞬にして、視界が闇に塗りつぶされた。

 闇の中を、なにかが駆けめぐる。黒いなにか。真っ赤ななにか。ふたつは激しくぶつかり、からみあい、互いに食らいつく。

 相手をねじふせたのは──赤だった。


 クス……クスクス……キャッハハハハハァァ!!


 メイズさんの哄笑こうしょうが闇に響いた。

 強い揺れ。立っていられない。ぼくは、畳の上に転倒する。

 そこで目が覚めた。

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