逃走ふたたび(2)

 坂をくだりきって最初に目についたのは、植木屋さんの看板だった。

 看板には『黒谷植木店』と書かれている。生け垣に囲まれた平屋の日本家屋で、庭先には軽トラックが停まっていた。

 祈るような気持ちで、中をのぞくと……猫車にブロックを乗せて運んでいるおじいさんと目が合った。作業着姿で、長靴をはいている。


「あっ……あの。あのっ」


 声がかすれる。よろよろと歩み出たぼくのかっこうと、血まみれになったはだしの足を見て、おじいさんは目を丸くした。


「なんだね。どうしたね、君」

「た、助けて……。助けて、ください。電話を……警察に、電話……」

「ち、ちょっと待ちなさい。飛雄とびお! 飛雄、こっちに来い! ……お嬢さん、とにかく、そんなとこにいちゃいかん。中に入りなさい。……ああ、こりゃあひどいな……はだしでここまで歩いてきたのかね?」


 おじいさんの力強い手で肩を抱かれて、ぼくの身体から、ふっと力が抜けた。


 飛雄というのは、この家に同居しているおじいさんの息子だった。四十代くらいの、柔和そうな男の人だ。

 ぼくは玄関近くの和室に通された。どこにでもある石油ストーブが、魔法の宝物みたいに思える。

 飛雄さんはタライにぬるま湯をはり、ボロボロになったぼくの足を洗ってくれた。突き刺さっていた小石やトゲを、ピンセットでていねいに抜いていく。もちろん、それ自体はありがたかったけど……。


「あ、あの、警察。ぼく……誘拐されて、ずっとつかまってたんです。それで、やっと逃げてきて……」

「うん、わかっているよ。大丈夫。親父が今、電話しているからね。とにかく落ち着いて」


 これ、大丈夫なのかな。ぼくの危機感、ちゃんと伝わってる?

 治療してもらってる間も、なんだか気が気でない。

 ぼくのいる部屋からは、掃き出し窓を通じて庭のようすが見える。

 そこでは、携帯電話を耳に当てたさっきのおじいさんが、電話のむこうにペコペコ頭をさげていた。一応、通報はしてくれてるみたいだ。それでちょっと、安心した。


 きれいになったぼくの足を消毒し、軟膏を塗ってから、包帯でぐるぐる巻きにする。介護職だけあって、飛雄さんは手なれていた。


「これでよし、と。なにか温かいものでも飲むかい。ココアでも作ろうか」

「あっ。お……お願いします」


 それどころではない気もしていたけど、冷えきった体はココアの誘惑に耐えられなかった。

 飛雄さんがほほえんで、部屋を出ていく。

 掃き出し窓に目を戻すと、庭先に、黒塗りのワゴン車が横づけするところだった。……あれは。


 鴻介さんの車だ。


 頭の中に警報が鳴りひびいた。

 廊下に飛びだすと、飛雄さんが待ちかまえていた。玄関には行けない。反対側に走りだそうとしたけれど、すぐ追いつかれて、後ろから抱きすくめられた。

 軽々と持ち上げられる。


「あああッ! はなせ! はなせぇぇッ!」


 ぼくは両手両足を振りまわして暴れた。廊下にかかっていた額が引っかかって落ちる。

 ガラガラと玄関が開き、黒コートを着こんだ鴻介さんが、おじいさんを従え入ってきた。


「ああ……よかった。安心しましたよ。幸児ゆきじさん、どうもお手間をおかけしました」

「いやあ、なんの、なんの。若旦那のお役に立てたなら幸いですわい」

「はは。いい加減、若旦那はやめてくださいよ。呉服屋じゃないんですから」


 談笑しながら、近づいてくる。

 ぼくの胸の中に、泥のような絶望が満たされていった。

 鴻介さんは羽交締はがいじめにされているぼくの目の前に立つと、メガネの奥の切れ長の目を細めて笑う。


「さて。そろそろ帰ろうか、志筑くん」

「い……いやだ」

「ここで粘ったところで無駄だよ。幸児さんは通報していない。したがって、警察が来ることもない……。たとえ通報できていたところで、顔なじみの駐在さんに一言、誤報でしたと言ってもらえば済む話ではあるけどね」

「み、みんな……ぐるなんだな。あんたたち、みんな」

「ぐる、という表現はどうかと思うが……少なくとも、この初鳥ういとり集落に残った七戸のお宅はみな、うちの事情をある程度了解してくださっているよ。その紫の着物・・・・・・を着た女は、神代家うちのお嫁さんだとね」

「ふ……ふざけるな。来るな。来るなよッ!」

「しーっ。大きな声を出すものじゃない。近所迷惑だろう」

「いやだ! 助けて! 誰か、助けてッ!!」


 ぼくは叫んで、暴れた。

 鴻介さんはふう、とため息をついて肩を落とすと、ぼくをなぐった。


 和室の畳にたたきつけられる。

 なぐられたのは肩だ。にぶい痛み。手をついて立ちあがろうとしたところで、思いっきり腹を蹴られた。

 ぼくは転がって、押し入れの戸にぶつかった。


「ふーっ……勘違いしないでくれ。僕もね。こんなことは、したく、ないんだ、よ」


 話しながら、何度も蹴りつけてくる。顔を踏まれる。

 頭をかばって丸くなったぼくのすぐそばにしゃがみこんで、鴻介さんは顔を寄せてきた。


「わかるかい。大切なのは助けあいだ。経緯はどうあれ、君はいまや大切な役割をになう、共同体の一員だ。家族なんだよ。家族には家族のルールがある……時には、それが外のルールと違っていることもあるというだけだ」

「かぞ、く……なんて……くそくらえ……だッ」

「そんな反抗は無意味だよ、志筑くん。人は家で生まれ、家で生き、家で死ぬ。どこへも行けはしないし、その家の家族以外の何者にもなれはしない。あるのは、ちゃんと自分の役割を果たせる家族か、果たせない家族かという違いだけだ」


 それがあんたの理屈か。

 だとしたら、ぼくとは絶対にわかりあえない。

 この男に、ほんの少しでも親しみを感じた瞬間があったことを、ぼくは心の底から嫌悪した。


 そのときだった。


 ピーン……ポーン……。


 ドアのチャイムが鳴った。三人の男たちが顔を見合わせる。空気が張りつめた。


 ばんばんばんばん。


「あの~! ちょっと、すいませ~ん! 誰かいませんか~!?」


 誰かが玄関の引き戸を無遠慮にたたきながら、大きな声で呼びかけている。

 ぼくは、その声を知っていた。

 あの、ポニーテールの女の子。新上あらかみのバス停と、夢の回廊の中で見かけた、ふたり組の片割れだった。

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