渾沌回廊(3)
「っ……」
階段の下は、なおいっそう暗かった。
ぼくは手探りであたりを触りながら、どうにか身を起こす。
頭をぶつけなかったのは幸運だったけど、背中と腰が激しく痛んだ。
障子を破って現れた女が、追ってくる気配はしない。それでも、いつまでもじっとしている気にはなれなかった。砂壁に手をついて、歩きだす。
と、廊下の奥のつき当たりに、明かりが見えた。
揺らめくオレンジ色。火だ。
ぼくは光に誘われる虫みたいに、ふらふらとそちらへ歩を進め──途中で固まった。
つき当たりは襖が開け放されていて、畳の座敷が見える。
光の源は、黒っぽくすすけた陶器の
さっきとは別の女だ。確信はないけど、そう感じた。
女は、炭火の燃える
問題は──その顔が、金網の上にべったり伏せて置かれていることだった。
すぐ下では火が燃えている。熱くないわけがない。眠れるはずがない。
たぶん──死んでいる。
──戦前、火鉢を使っていて、一酸化炭素中毒で亡くなった花嫁がいたらしい。
──以来、その座敷で火はご法度なんだ。
鴻介さんの言葉がよみがえる。
ぼくはメイズさんを呼ぼうとしたけれど、舌がのどにはりついてしまって、声が出なかった。
この先には進めない。だけど、階段を戻っても──さっきの女がいる。
ぼくが迷いながら、階段のほうを見やった、そのとき。
火鉢のほうから、衣擦れの音がした。
振りかえると、女が火鉢からずり落ちていた。
趣味の悪い紫の浴衣が、畳に投げ出されている。そこからこぼれ出た、カギ爪みたいに曲がった指が、スローモーションみたいに動いて……畳の縁にかかった。
ぼくは後ずさろうとして足をもつれさせ、その場に尻餅をついた。立ちあがれない。這って階段まで進む。その後ろから、ずっ……ずっ……と、布のすべる音が近づいてくる。思ったよりも早い。
ぼくは階段にたどり着き、そこにしがみついた。
階段には
暗闇に、白い服と顔が浮きあがっている。また、女だ。ブラウスを着て、長い髪を垂らし、階段のすぐそばでひざを抱えている。
ぼくと目が合った瞬間、ブラウスの女のあごが、胸のあたりまでだらんと下がった。真っ暗なほら穴みたいな口から、ざらざらざらとおはじきがあふれ出した。
ぼくは叫んだ。その声は、どうしたって人間の言葉にならなかった。
背後から伸びてきた手が、ぼくの頭をつかんだ。水分が飛んで、かさかさにかわいた手。すぐ耳もとで、ひゅうひゅうと風の吹くような音がした。
さ……む……い。さむ、い……。
言葉の意味を認識した瞬間、ぼくの意識はすとんと落ちた。
目を覚ましても、ぼくはまだ夢の中にいた。あの大正ロマンの部屋で、ソファに寝かされていたんだ。すぐ横では、スツールに腰かけたメイズさんがティーカップをかたむけている。
胸に手をやると、まだ心臓がばくばくしている。
「い……今の……」
「大丈夫よ。つながりを使って、私がここまで引きもどしたから」
「あ……あんなのがいるなんて、聞いてない。……知ってて行かせたの!?」
「……そうね。ごめんなさい。実際に見てもらってから説明したほうがいいと考えていたのだけれど、失敗だったみたい。あなたが、あんなに驚くなんて思わなかったの」
「う……」
こんなふうに、素直に謝られると……文句も言いづらい。
「それで……なんだったの、あの女」
「あら。本当はわかっているんでしょう? あなたが今いる座敷牢の、先住者たちよ」
「……これまでに死んだ……お嫁さんたちの……幽霊?」
「幽霊、というほど上等なものではないかもしれないわね。せいぜい命の残り
メイズさんはティーカップをソーサーに戻すと、まっすぐにぼくを見あげた。
「さて、どうしようかしら。私とつながっているかぎり、死人たちがあなたに危害を加えることはできないけれど……オノゴロ童子の心臓にたどり着くには、どうしても、あれらがいる場所を通りぬけていくしかないわ。心の準備ができないようなら、今日はもうやめておく?」
「いや……。行くよ」
かぶりを振って、ぼくは立ちあがった。
死んだ花嫁たちの姿を見たことで、かえってぼくの心は決まっていた。
絶対に出てやる。逃げだしてやる、こんなところ。そのためなら、別のおばけの力を借りることも、本物の化物屋敷を踏破することも、なんでもない。
ぼくはふたたび、部屋のとびらを開けて──そのまましばらく、固まった。
目の前に、上へと伸びる階段がある。
代わりに、さっきあった左右に伸びる廊下はきれいさっぱり消えていた。
呆然とするぼくの背中に、メイズさんが声をかける。
「この檻のモデルは、
さっきの決意がかすんでしまうような、底の知れない不安を感じながら──それでもぼくは、一歩を踏みだした。
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